何故か、滅茶苦茶早く起きてしまった。 しかも春だというのに眠気は綺麗さっぱりどこかに飛んでいったようで、布団に包まってみても全く瞼が重くならない。 この状況で無理矢理二度寝をする気にもなれず、とりあえずは起床することにした。 「うわ、まだ七時前だ」 こんな時間に目が覚めたのは何年ぶりだろうか。 普段自分がどれだけ自堕落に生きているかを再確認し、今日くらいは健康に過ごしてみようかと思う。 ということで、まずはさっさと着替え。いつも通り適当に箪笥から選び取り、洗濯機に着た物と各種タオルを投げ入れて回す。 終わるまで約一時間、その間に朝食をぱぱっと作って胃に入れる。余裕があるので普段より少しだけ豪華なメニューだ。 ……まあ、豪華といっても元々大した物は作れないわけで、傍目にはあまり違いがないように見えるだろうけど。 使った皿を洗い、水がある程度切れるまでは置いておく。次は食後の歯磨きと洗顔。 水音を立てながら、ばしゃばしゃとべたついた顔を念入りに洗い、先ほど取り替えたばかりのタオルで拭く。 これですっきり、清々しい気持ちになり、その勢いで散歩にでも出ようかと考えた。 「折角星宮さんに案内してもらったんだしね」 神社までの道程は、もうしっかりと記憶している。 とはいえ割とアバウトに目指しても行けそうな感じなので、ちょっとふらふらしてってもいいかもしれない。 何しろ開店予定時間までは二時間半以上もある。これから洗濯物を干していっても、往復するだけなら確実に間に合うはず。 まあ、いざとなったら遅らせればいい。四月になって星宮さんもまた学校通いを始めたから、さすがに開店直後には来ないだろう。 「と、じゃあ自転車の準備をしないと」 二年ほど前に便利だからと買った折り畳み式自転車を庭の方から運び出し、組み立てる。 冬は危なくて使えなかったから、かれこれ乗るのは三ヶ月ぶりだ。ちょくちょく様子は見ていたけど、ちゃんと動くかは心配。 試しに軽くサドルに跨り、ペダルに力を入れて踏み込んだ。重みを足裏に感じるのと同時、すすーっと自転車は走り出す。 星見堂の外を一周してみたところ、調子は良好。大丈夫そうだと判断して、表の鍵を閉めた。 「よし、行きますかっ」 そうして、朝の簡易ツーリングが始まった。 道に転がった小石でタイヤが跳ね、バランスを崩して転びかけること数度。 予想以上にスリリングな道程だったけど、無事怪我もなく順調に目的地へ近づいてきていた。 とにかく、風を切るのが気持ち良い。春だからと半袖で出た所為か、少し涼し過ぎるくらいだ。 先日とは僅かに違うルートを選びつつ、徐々に山の緑がよく見えるようになる頃には、逆光もさほど眩しくはなくなる。 東に昇る朝陽を目指している風にも思え、何だか青春みたいだなあ、なんてことも考えた。あ、でも向かって走るのは夕陽か。 「おわっ」 また小石に突っ掛かる。 一瞬宙に浮くと同時、不自然に前輪の軌道が逸れ、勝手にハンドルが左に切られる。反射でブレーキ。 身体ごと斜めに傾ぎ、危うく倒れそうなところでどうにか伸ばした左足が支えの役割を果たした。 今までで一番ギリギリだった。ふう、と冷や汗を腕で拭い体勢を立て直し、 「……ん?」 ふと、右肩に軽い重さを感じる。 痛くはないけれど、何かが服に食い込んでいるらしい。 そっちを見ようとする前に、今度は囀りが聞こえた。最近はあまり耳にしていない、でもよく知っている鳴き声。 驚かせないようにゆっくりと首を捻る。そこには予想通り、一羽の鳥がいた。 「雀だ。……珍しい」 総じて、鳥の中でも小型に分類される雀は警戒心がかなり高い。 物音を聞いただけでもすぐ飛び去ってしまうくらいなのに、この雀はあっさりと私の肩に飛び乗った。 霧ノ埼だからこんなにも人に慣れているんだろうか。それにしても、何というか……どうしよう。 迂闊に身動きを取ると驚かせてしまいそうだし、貴重な状況だからもう少し堪能していたい気もする。 そんなどうでもいい葛藤をしていると、背後の方から「すみません」という声が掛かった。 振り返ってみれば、駆け寄ってくる人影がある。 ……背の高い、青年だ。顔付きか、あるいは華奢な体型か、中性的な雰囲気を持っている。 白い無地のワイシャツと、薄茶色のスラックス。私よりはきっちりした、けれど適度に気を抜いた服装。 彼も散歩中だったんだろうかと思う。しかし何故すみませんだなんて言ったのか、その理由を考えているうちに目の前まで来た。 立ち止まり、小さく呼吸を整えるとその青年はおもむろに手を差し伸べた。 私に、じゃない。私の肩に止まった、雀にだ。 「おいで」 優しい青年の声に従ったのか、雀は彼の手の甲まで羽ばたき乗る。 そのまま肩に登ると、そこが定位置だと言うように静かになった。 思わず私は感嘆して彼の顔をまじまじと見つめた。当然、初対面の人間にそんなことをされたら、普通は訝しがられるだろう。 しかし、全く彼は怪訝な表情をせず、どころかもう一度謝罪の言葉を繰り返した。 「あの、すみません。この子がご迷惑をお掛けしたみたいで」 「いやいや、気にしてないよ。こっちこそ、顔をじろじろ見てごめん」 「いえ、そんなことは……」 妙に低姿勢な人だ。 かといって慇懃無礼なわけではなく、たぶん、向かい合う相手のことを考えているからかもしれない。 なるほど、良心的な性格の持ち主らしいと判断し、折角だからこの際ちょっとアクティブになってみようと思った。 もしかしたら私も、星宮さんに影響されているんだろうか。だとしたら、まあ、悪くはない。 「よかったら、名前、教えてくれるかな。ここで偶然会ったのも何かの縁だし、どうかな?」 「……はあ、いいですけど。僕は雪草透です」 「ありがとう。私は鈴波信一。少し前に引っ越してきて、今は古本屋の店主なんかをやってる」 「そういえば話に聞いたことあります。向こうの方に新しく古本屋が建ったって」 「うん、そこの住人」 彼が指差したのは西の方角。だいたいその辺りにあるのは間違いないので頷く。 「じゃあ、また会う機会もあるかもしれませんね」 「雪草くんは……ってああ、まだ年齢訊いてなかった。これで私より年上だったら目も当てられない」 「あはは、別に構いませんよ。僕は二十三です」 「……良かった。私は二十四だ。あと一ヶ月くらいで二十五になるけどそれはともかく、雪草くんはこの辺に住んでるの?」 「はい。すぐ近くです。鈴波さんは家から結構遠いはずなのに、どうしてここまで?」 「何か妙に早く目が覚めちゃったから、ツーリングでもしようと思って」 「確かに、霧ノ埼は広いから自転車くらいないとこの距離は疲れちゃいますね。僕は近場を散歩してたんですが」 「やっぱり。その雀は?」 「色々あって、今はうちで飼ってるんです」 「そっか、だから人に慣れてるのかな」 「ええ。……あ、すみません、そろそろ戻ります」 「わかった。またね」 「はい、また」 手を振って別れる。 遠ざかる彼の背中を目で追い、私は先ほどの会話の中で何かが引っ掛かったことを思い出す。 でも、その具体的な中身まではわからない。凄くもどかしい。 うーん、と唸りながら、とりあえずは神社まで行こうとペダルを漕ぐのだった。 「あうっ!」 考え事をしてた所為で思いっきり転んだ。 石段の上から見た景色は、夕方のものとはまた違った綺麗さがあった。 陽射しを背に、彼方まで延々と続く土と緑の色。ちらほらと建つ家、外に出て働く人達。 それらは全てとても小さく、誰が誰だとかは判別できないけれど、俯瞰の視点は日々の営みを感じられる。 私がこうして今日を過ごしているように、他のみんなも思い思いに生きているわけで。 少し忘れかけていたものを思い出すことができたからか、何となく幸せな気持ちで帰路に就けた。 まあ、それはともかく。 ずっと悩んでもわからなかった正解は、午後になってやってきた星宮さんが教えてくれた。 「こないだ私と神社の方まで行ったのは覚えてますよね?」 「覚えてるから今日はそっちまで自転車で足を運んできたんだけど……」 「では、その途中、大きな家を見たのは覚えてますか?」 「……えっと」 言われ、記憶の糸を手繰り寄せてみる。 「あ、あったあった。何か妙に浮いてた、館みたいな」 「鈴波さん、あの時表札を眺めてましたよね。何て書いてありました?」 「確か、雪草って……あー!」 「たぶん、今鈴波さんが考えてる通りだと思います」 「彼、あそこの家の人なの!?」 「はい。透さんと、あとは雪草里さんの二人が住んでます」 「その人にはまだ会ったことないけど、二人とも同じ名字なんだ」 「従姉弟の関係だそうです。わかってるでしょうが、里さんは女性ですよ」 初対面だからと彼のことは雪草くん、と呼んだけど、それだと二人が一緒にいた場合どっちを指してるのかわからなくなる。 次に顔を合わせた時には名前で呼ぶべきかなあ、と考えていると、星宮さんはこんなことを口にした。 「土曜、二度目の案内がてら挨拶に行きます? 私は学校休みですし」 「え?」 「先日は紹介しそびれてしまったので、いい機会かなと思ったんですけど」 「じゃあ……こないだ言った通り、またお願いできるかな。さすがに一人で挨拶に行くのは、何だか、うん」 「うんって何ですか」 「気が引けるな、って」 「……世話の焼ける人ですね」 なんて言いながらも、何故か星宮さんは全然嫌そうな顔をしなかった。 結構彼女は世話焼きなのかもしれない。私が情けないのも事実だろうけど。 「向こうには私が連絡を入れておきますから、時間は……そうですね、前と同じで大丈夫ですか?」 「問題ないよ。店は別に出てる間閉めてたって誰も困らないし」 「その現実自体に問題があるような気もしますけど……」 そんなこんなで、先日交わした星宮さんとの約束と、今日雪草透くんが何気なく残した言葉、二つが同時に叶うことになった。 back|index|next |