「蒼夏さんは、宴会と名の付くものが大好きなんです」 「お祭りとか馬鹿騒ぎとか?」 「具体的に言うと、大勢で集まってお酒を飲むことなんですけど……」 「……なるほど」 次の目的地に向かう途中、星宮さんから蒼夏さんに関する話を聞かせてもらっていた。 一年を通じて畑仕事に精を出し、機械や農薬の類は一切使わず、己の身体ひとつで耕し作物を育てているらしい。 それが本当なら(嘘だとは思わないけど)、随分とんでもない人だ。 均整の取れた外見にも納得できるし、そんなことを毎日のようにやっていればそりゃ肌だって焼けるだろう。 帰りに回収しに行く予定の野菜、その瑞々しさを脳裏に思い浮かべ、どれだけのものかと未知の味を想像してみる。 「………………」 「どうしたんですか、そんな首を傾げて」 「いや、何というか……星宮さん、蒼夏さんの野菜ってどれくらいおいしいの?」 「しばらく他の野菜を食べてないのでちょっとうろ覚えですけど、確か、一般の売り物と比べてすごく甘くて濃い味でした」 「濃いって、甘味が?」 「野菜の味としか言えませんが……決して癖が強いってわけじゃなくて。生で食べても充分おいしいんですよ」 「そっか。楽しみだなぁ」 星宮さんの言葉を聞いて、期待値がぐっと上がった。 調理の仕方さえ間違えなければ、きっととてもいいものが出来上がるだろう。 「……ところで、次はどこに行くつもりなの?」 「鈴波さんも知っている人の家ですよ」 「私が知ってる?」 言われ、考えてみた。 霧ノ埼で私と多少の関わりを持つ人は限られている。というか、片手で数えられるくらいだ。 ついさっき知り合った蒼夏さんは除外するとして、今隣にいる星宮さんと、それからもう一人。 「ああ、佳那ちゃんか」 「正解です。あそこはたぶん、鈴波さんも気に入ると思います」 「気に入るって……普通の家じゃないの?」 「はい。でも、まだ教えません」 くすりと微笑を漏らし、星宮さんは悪戯っ子のような表情を浮かべて先に行く。 その姿は何だか妙に機嫌良く見え、こんな顔もできるんだ、と私は彼女の新しい面を知る。 結局答えは教えてくれないみたいだけど……まあ、着けばわかるか。 蒼夏さんの家から北側を目指し歩くことおよそ五十分、いい加減足が疲れてきたところで私の目に飛び込んだのは、看板だった。 決して大きくない、素朴な佇まいの家屋。その上部に備え付けられた看板に書かれている文字は『桜葉亭』。 表は一面ガラス張りで、室内には何段かの棚と、そこに置かれたお盆の上に並べられた様々な、如何にも香ばしそうな物体。 「うわ、こんなところにパン屋が! え、ここ佳那ちゃんの実家!?」 「はい。佳那と、母親の灯子さん、それとバイトの朝藤さんの三人で切り盛りしてるお店です」 「もっと早く知ってれば……。だけどこんな人が来なさそうな場所でお店開いて、やっていけるのかな」 「結構人は来るんですよ。ここは市の境が近くて、境界線にもなってる道はバスが通ってますから」 「ここのパン目当てに買いに来る人もいる、ってこと?」 「贔屓目じゃなく、本当においしいんです」 そう言う星宮さんはどこか誇らしげで、彼女がどれだけ佳那ちゃんを大事に思っているかが伝わってくるようだった。 「……あ、気づかれましたね」 「ホントだ。手振ってる」 店の前で立ったまま話す私達を発見したらしい、現在店番中の佳那ちゃんが誘うように手を振っている。 と、奥の方から積まれたパンを運んできた女性が現れ、私と星宮さんに向けて微笑んだ。 佳那ちゃんに良く似た、けれど彼女より僅かに背の高い人。仕草や雰囲気から大人の落ち着きが伝わってくる。 おそらくお母さん―― 桜葉灯子さん、なんだろう。どういう字を書くのかはわからないけど。 もう一人、バイトの朝藤さんって人は今日は不在みたいだ。ちょうど客も捌けたのか、店内には二人以外誰もいなかった。 これはある意味運がいいのかな、と思い、 「えっと……うん、とりあえず入ろっか」 私は星宮さんに、そう提案した。 「いらっしゃいませ」 ドアを引いて入ると、穏やかな声がこちらに届く。 私は小さく頭を下げ、ついでにレジ番中の佳那ちゃんにも軽く挨拶してから店内を見回した。 中心には品物を乗せるお盆とトングが置かれ、それを囲むように作られた三段重ねの棚には、色とりどりのパン。 ざっとわかるものだけでも、メロンパンやカレーパン、クロワッサンにフランスパンなど、その種類は多岐にわたっている。 「……おお」 思わず感動してしまった。 そんな私の袖を、星宮さんはそっと引っ張った。 つい素敵な光景に目を奪われて、危うく今回の目的を忘れそうになっていたのだった。 慌てて気を取り直し、私はこの場で一番の年長者に声を掛ける。 「すみません、えっと、先日……って言っても三ヶ月ほど前に越してきた者なんですが」 「佳那から話は聞いてますよ。それに、陽向ちゃんからも」 「……星宮さんからも?」 「ええ。私はまだ足を運んだことはないけれど、古本屋を経営してらっしゃると」 「大したところじゃないですが……ああ、名乗り遅れました。私、鈴波信一、と言います。こちらつまらないものですがどうぞ」 「まあご丁寧に、ありがとうございます。私は……あ、もしかして、ご存知ですか?」 「さっき星宮さんに。桜葉灯子さん、ですよね?」 私がそう言うと、彼女―― 灯子さんは少しも驚いた顔を見せず、ええ、と頷いた。 無意識の癖なのか、右手を緩やかな仕草で頬に当てて微笑む。淡い笑みが似合う人だ、と思った。 「佳那の母です。この桜葉亭の店主もやってます。よかったら、今度は一人でお買い物に来てくださいね」 「わかりました。次の機会には、是非」 「信一さん、どうせだったらちょっとうちのパン食べていきません?」 再来の約束を交わしたところで、佳那ちゃんから唐突な申し出。 一瞬断ろうかとも考えたけど、ちらりと目をやると、星宮さんは大丈夫ですよと言うように首を縦に振った。 なら無闇な遠慮はかえっていけないかな、と結論付ける。 「じゃあ佳那ちゃん、少し頂いてもいい?」 「勿論! ねえお母さん、どれならいいかな?」 「そうね……菓子パンや惣菜パンの味にも自信はあるけど、やっぱりこれかしらね」 「オッケー。よし、奥で切ってくる」 佳那ちゃんが調理場らしき方に消え、さして時間も経たず戻ってくる。 その手が持っていたのは、薄く小さめにカットされて皿に乗った食パンだ。 見た目はふんわりと柔らかそうで、焼き上がったばかりなのか香ばしい匂いが離れた私のところまで漂ってきた。 正直、この時点でもう期待外れってことは絶対ないと思う。 皿を受け取り、私はわくわくしながらそっと手に取って一口。 「どうです? おいしいでしょ?」 「……うん。こりゃすごい」 途端、口の中に微かな甘味が広がった。歯応えはもちもちとしていて、噛む度に味が染み出してくるような気がする。 佳那ちゃんの確信を含んだ問いにも素直に答えられるくらいの素敵さだった。 なるほど、これならわざわざ遠くから買いに来てもいいかもしれない、と思える。 パン本来の味を完璧に活かした出来栄えに、私は感心した。 横でちゃっかり一切れ摘まんでいた星宮さんも、幸せそうに食べている。 満足げにごちそうさま、と言って皿を返した私達に、灯子さんは営業用の笑顔を浮かべ、 「ふふ、信一さん、これから桜葉亭をご贔屓に、お願いしますね」 佳那ちゃんと一緒に、見送ってくれたのだった。 桜葉亭を出た頃にはだいぶ陽も傾き、ふと取り出した携帯は四時過ぎを示していた。 風が少し冷たくなってきて、隣の星宮さんは寒くないだろうかと心配する。 「ちょっと冷えてきたね。……大丈夫?」 「平気です。この服、薄そうに見えますけど結構あったかいんですよ」 「そっか。最後の目的地まではあとどのくらい?」 「えっと……そうですね、だいたい徒歩で、まだ三十分以上は掛かるでしょうか」 「そ、そんなに……?」 「はい。向こうに見える、あの山の辺りなので」 星宮さんの指差す方、東に並ぶ山々の草木はこの時期ようやく緑を纏い始めている。 冬の寒々しい景色よりもこっちの方がいいとは思うんだけどそれはともかく。 行き先まではまだ随分と遠いようで、多少桜葉亭で休んだとはいえ、疲労感はかなり重かった。特に足が。 「……もしかして、鈴波さん、疲れちゃってます?」 「あ、いや。まだまだ行けるよ」 「それならいいんですけど……何かあったらいつでも言ってくださいね。休みますから」 気遣われるのが情けなくて、つい意地になってしまった。 勿論、それを私はすぐに後悔することになる。 既に踏破した距離は時間に換算して百二十分以上、足裏がじんじんと響くように痛い。 足が棒のようになるってこういうことか、としみじみ浸る余裕もなく、ただ淡々と東の方角を目指すだけである。 そうしてとぼとぼ歩いていると、不意に一つのものが目に入った。 館と呼んでいいような、随分大きな家だ。 木造の家ばかりが目立つ霧ノ埼の中で、洋式のその建物は異質と言っても差し支えなかった。 「ねえ星宮さん。あの建物って……」 「ああ、雪草さんのところですね」 駄目元で聞いてみると、どうやら星宮さんは館の住人のことを知っているらしい。 近づいて表札に書かれた名字を確かめるとそこには、横文字で雪草、と記されていた。 「知り合い?」 「はい。でも、今日は時間が厳しいかなと思って、行くとは言ってないんです」 「じゃあ今度だね。……あの、またお願い、できるかな」 「いいですよ。まだ案内してない場所、いっぱいありますから」 厚かましい申し出だと思いながらも頼み、意外とすんなり頷かれたので少し驚く。 ……本当に、優しい子だ。自分の時間をあっさりと私のために使ってくれる。 感謝の気持ちを込めてありがとう、と笑みで答え、去り際、私は一度だけ振り返った。 窓は閉まっていて、中の様子は窺えない。近いうちに挨拶に行けるだろうかと、そんなことを思った。 以降、特に目立つものも見当たらず、寄り道をしないまま最後の難関に辿り着いた。 難関というのは些か大袈裟過ぎる気もするけれど、そう例えたくなるのも仕方ない。 何しろ、見上げた先には眩暈がするくらい長い石段が待ち構えていたのだから。 「……ねえ、星宮さん」 「この上ですよ」 「やっぱり……。うぅ、頑張ろう」 「ゆっくり行きましょうか」 「お、おー……」 我ながら掛け声も心許ない。 気を遣ってくれたのか、星宮さんはまだ余裕がありそうなのに、あからさまにペースを落とした。 一段一歩を確かめるように踏みしめて登る。目測で三桁はあった石段だ、進んでも進んでも終わらない。 どうにか息も絶え絶えに頂上を視界に捉えて、最後の段を踏むと同時、膝に手を付いて俯く。 ふくらはぎがパンパンで、正直しばらく一歩も動きたくなかった。でも、そういうわけにもいかない。 じわりと滲み出た額の汗を拭い、顔を上げる。 「神社、だ」 「はい。随分昔からあるらしいですが、私も由来はよく知りません」 石段を上がった先、拓けた空間の中でまず目に入るのは、どんと構えた鳥居だろう。 そこから石張りの道が続き、横には手水舎が設置されている。正面に建った本殿は、大き過ぎず小さ過ぎずといった程度。 山の自然そのままの、深い鎮守の森を除けば神社としては標準だと思う。 ついでに、本殿の前に置かれた賽銭箱は、お世辞にも大量の賽銭が入っているようには見えなかった。 社務所らしき建物は見当たらない。人がいる様子もなく、どうやらここは基本的に無人らしい。 ポケットを探ると偶然抜き忘れていた小銭が入っていたので、折角だからと放る。 「あんまりこの辺の人も来ませんけど、夏にはお祭りがあるのでその時には賑わうんです」 「出店とかも並んだりするの?」 「ニュースでやったりするような、そういう大きなのと比べると格段に小規模ですけどね」 それを聞いて私は、何だか懐かしいような気持ちになった。 ……お祭りなんて、もうどれくらい行ってないだろうか。 「鈴波さんも、時間があったら来てみるといいですよ」 「そうだね、考えとく。……で、ここで最後……だよね?」 「ふふ、そんな不安そうな顔をしなくても、今日はおしまいです。もうそろそろ夜になっちゃいますしね」 「あ、そういえば。星宮さんはどうしてここを最後に選んだの?」 「石段の方を見ればわかります」 星宮さんの言葉通り私は振り向き、そして思わずおお、と唸る。 逆光で眩しいけれど、高所からは今まで歩いてきた道が、霧ノ埼の広い土地が遙か遠くまで見渡せた。 地平線を輝かせ燃える西日も、形容し難い幻想的な色を纏って沈んでいく。 ただ、圧倒される。ああ―― 確かに、この景色は最後に相応しい。 「私、ここから見える景色が大好きなんです」 「……私も、今さっき惚れ込んだ」 「仲間ですね」 「うん。仲間だ」 お互いに笑い合う。 黄昏の光に照らされながら、あとは石段を降りて帰った。 途中蒼夏さんの家に寄って野菜を回収し、彼女と別れて星見堂に着いた頃には、もう陽も落ちて濃密な闇が周囲に満ちていた。 「あー……疲れた」 足裏は痛い。でも、心地良い疲労感だ。 今日巡った場所と知り合った人のことを頭に浮かべ、それから、今度は一人であの神社に行こう、と思う。 さすがに徒歩じゃ嫌だけど、自転車ならかなり行き帰りも楽だろう。 次は約束もなく、偶然星宮さんと出会うこともあるのかな、なんて考えて、本当にありそうだと苦笑した。 back|index|next |