春眠暁を覚えず。
出典は中国、唐の時代に生きた詩人、孟浩然の詩『春暁』の一節だ。
暁は夜明けという意味で、まあ要約すると春に眠ると夜明けなんて覚えてないものだよ、なんて感じになる。
原詩だと、鳥の囀りで目が覚めたら花が散っていて、ああ、昨日の夜は酷い嵐だったのかな、という話になるんだけど。
ともかく春が一年のうちで最も過ごしやすい季節であることは疑いようもなく。
そんなんだから、ついうとうとしたまま布団の中で一時間ほど過ごしちゃったのも致し方ないと思う。

「……って、冬もおんなじようなことを星宮さんに言って怒られたなぁ」

冬は寒くて布団を出るのが厭だったけど、春眠暁を覚えず、はまた別だ。
抗い難い誘惑に、如何せん意思の弱い私はすぐ釣られてしまう。
苦笑しながら敷き布団と掛け布団を重ねたまま畳み、押し入れに半ば放り込むようにして仕舞った。
勿論、本当はそれぞれ分けて入れた方がいい。なら何故そうしないのかというと、単に面倒だから。不精なだけです、はい。

朝食から散歩と、今はもう日常化した朝の習慣をこなしてから腰を落ち着ける。
今日は日曜なので、星見堂は休業だ。でも、店を開けない理由はそれだけじゃない。別に平日も休日も変わりないわけだし。
いつもより少しだけ個人的に見栄えの良い服を着て、朝風呂にも入って、ご飯はしっかり胃に詰めて。
表を開けた状態で、私は迎えを待っていた。
ちらちらと壁掛け時計に視線をやっては玄関を眺め、いくら何でも気にし過ぎじゃないか自分、とちょっと凹む。

「十一時に来るって言ってたよね」

現在二十分前。さすがに身構え過ぎだ。
しかし、これから星宮さんに連れてってもらう場所を考えると、何というか……ドキドキする。
曲がりなりにも古本屋の店主をやっている以上、人見知りではないけれど、初対面の人に会うのは怖くもあるわけで。

例えばこれが親しい相手なら、迂闊なことを口にしたって笑って許してくれるだろう。
友人や家族の条件として、気兼ねなく付き合える、というものがある。
語弊を恐れず言うのなら―― 多少は傷つけてもいい関係。傷つけ合っても構わない関係。
だけど、初対面の人は違う。何しろ向こうのことはほとんどわからないのだ。
ふとした言葉で怒らせる場合もないとは言えない。大袈裟な表現をすると、地図もなく地雷原を歩くような感じ。
考え過ぎだとは思うけど、そういう心配をしてしまうのはもう性分みたいなもので。
ちょっと他人には理解され難い不安を抱きながら、私はそわそわして星宮さんを待ち焦がれ。
そして十一時十分前、玄関の扉が控えめに開いた。

「お邪魔します。……鈴波さん、ちゃんと起きてますね」
「いらっしゃい。それにしてもいきなりそれはないんじゃないかな……」
「前例がありましたから」

そう言って微笑む星宮さんの出で立ちは、春休みということもあって休日用。
薄手の淡い緑色をした服にカーディガンを羽織り、下は膝までしっかり隠れる、黒と茶のチェック柄のロングスカート。
冬の頃と比べて見た目は軽くなっているけど、相変わらずあまり肌を見せたがらない子だ。
靴だけは動きやすさを重視したもので、何となく可愛らしいのをイメージしてた私は拍子抜けした。

「もう行きますか?」
「こっちは準備できてるからいつでもいいよ」
「わかりました。結構歩くことになりますけど、大丈夫ですよね」
「……一応訊くけど、どのくらい?」
「東の方をぐるっと。小さな山の一つに、神社があるんです。そこまでは行こうと思ってます」

頭に周辺の地図を浮かべてみる。如何せん情報が少ないので曖昧だけれど、だいたいの輪郭は覚えているから問題ない。
西側、薄霧の方面は除外するとして、まずは星見堂の位置を脳内マップに赤点で記す。
場所はだいたい、霧ノ埼区域の北西。薄霧までは徒歩で三十分超、まあ比較的近い方だろう。
星宮さんが言う神社は、確かずっと離れたところだ。自転車でもどれだけ掛かるかちょっとわからない。

「陽が沈む前に帰れるといいなぁ……」
「早く出発して歩けばそれだけ早く帰れますよ」
「確かに。じゃあ行こっか。今日は案内よろしくお願いします」
「はい」

そうして約束通り、今更な挨拶回りも兼ねた遠出が始まった。










あまり積極的に会話もせず、二人で並んで歩く。
星見堂を出て十分、既に辺りの景色は知らないものになって……というか、三百六十度畑とかばっかり。
向こうに山々が見えるからあっちは東で、微かに判別できる高層ビル群があるのは西側、なんて判別ができる程度。
ところどころにぽつりと建っている家屋の大半は木造だ。
中には畑を耕しているお年寄りもいて、そういう人と目が合うと、私と星宮さんは揃ってお辞儀で挨拶を交わした。

「この辺りは特に過疎化が進んで、若い人達はみんな離れていったそうです」

生きた時代が違うと、自然、考え方にも相違が生まれてくる。
年老いた者は、これまで守ってきた、愛すべき土地に根を張っているけれど、その子供までが同じだとは限らない。

「残されたのかな。それとも、自ら残ったのかな」
「私が知ってる皆さんは、誰もが自分で残ったんだ、って言ってました。でも……」
「寂しそうな顔をしてた?」
「……はい。やっぱり、家族と離れるのは、嫌ですよね」

いつか、子は親の元を離れ巣立っていくものだ。仕方ないのかもしれない。
でも、理屈じゃないだろう。寂しさとか悲しさとか、そういう感情は。
親の顔を思い出し、私は何となく、昔を懐かしむような気持ちになった。

「星宮さんは、優しいね」
「え? 優しい……ですか?」
「他人を理解しようとする心を持ってる。それは、すごく大事なものだよ」
「そう、なんでしょうか……。よくわかりません」
「わからなくてもいいさ。星宮さんには是非そのままでいてほしいな」

そう告げ、勢いでつい頭を撫でてしまった。
柔らかい髪だなぁ、と思ってから自分のしたことに気づき、慌てて手を離す。

「あ、ごめん! 子供扱いしちゃって……」
「平気です。気にしてません。ちょっと髪が乱れちゃいましたけど、その……嫌じゃなかったですし」
「そうなの? 女の子って、こういう扱いされるのは嫌いだとばかり思ってたけど」
「少しくすぐったかったですよ。でも鈴波さんは別に、私の頭を叩こうとしたわけじゃないですよね?」
「まあ、そりゃあね」
「なら構いません。事ある毎にされたら困りますけど……たまになら、許しちゃいます」

どうして撫でられることが嫌じゃなかったのか、それは教えてくれなかった。
しかし許されたのには素直にほっとしたので「ありがとう」と伝えたら、どうして謝るんですかと不思議そうな顔をされる。
結局苦笑いをして誤魔化し、また会話が途切れてからは周囲の景色を眺めながら歩くだけになった。
星見堂から南東の方角を目指して四十分ほど、彼女が足を止め、そこが最初の目的地だと知る。

「着きました」
「ここが?」
「はい。私の知り合いの家です」

出発してすぐ、彼女が語ってくれた今回の案内の目的に、知人友人の紹介というものがあった。
挨拶回りとはつまりそういうことで、現在私は簡単な手土産を持参している。
正直本当に大したものじゃないけれど、大切なのは気持ちだと星宮さんが言うので、まあ、大丈夫だと思う。
やけに古い型の呼び鈴を押すと、奥の方からどたどたと足音が近づいてきた。
向こうから、玄関の引き戸が開かれる。

「お、陽向ちゃん。こんにちは」
「こんにちは、です」
「横にいるのは……昨日話に聞いた彼だな?」

現れたのは、若い女性だった。
白無地半袖のシャツと、膝上で適当に切り取ったようなハーフジーンズの上下。
今が春先だってことを考えると些か寒々しい気もするけれど、当の本人に全くそんな様子は窺えない。
これまたざっくりと、いっそ潔いくらいの短さな髪は僅かに茶が混じっている。光の加減かもしれないけど。
晒された細身の筋肉質な肌は三月にしては陽に焼けていて、彼女がよく外に出ていることを示していた。
私は確認の意図を含んだその問いに対し頷き、どれくらい星宮さんから話を聞いているかはともかく、それで納得したようだった。
とりあえず中で話そうか、という提案に乗り、二人でお邪魔する。
ここに来るまでにもいくつか見たのとほとんど同じ、年季の入った木造建築だ。
洗練された都会の匂いが、まるでしない。それを私は、好ましいことだと思った。

テレビと三人で座るにも些か大き過ぎるテーブルのある、居間らしき大部屋に案内された。
適当に寛ぐといい、なんて言われて逆に肩の力が入った私を見て、星宮さんがくすりと笑う。
流し場から戻ってきた彼女が人数分の飲み物を各人の前に置き、それから私と星宮さんの中間に腰を下ろした。

「陽向ちゃんからある程度聞いている。わたしは白坂蒼夏だ。よろしく、鈴波信一さん」
「あ、こちらこそよろしくお願いします。どの程度かちょっと気になるところですが……」
「古本屋の店主だということくらいだ。冬に越してきたんだったか? どうだ、霧ノ埼レベルの大雪は初めてだろう」
「そうですね。前は都心に住んでたんですけど、あっちは全然雪なんて降りませんでしたし」
「とにかく寒い上に、きっちり着込まないと外に出る気にすらならないからな。冬はわたしも引き篭もってたよ」

冗談めいた口調で言い、彼女―― 白坂さんは自分の飲み物をぐいっと呷った。
その勢いを感じさせる仕草が妙に似合っていて、何というか、つい姉御と呼びたくなる。
勿論それを初対面の相手に対して口走るつもりはなく、苦笑することでその場は流した。

「白坂さんは、お仕事は何を?」
「蒼夏で構わない。自分の名前が好きなのでね」
「……では、蒼夏さん。お仕事は?」
「わたしの外見から当ててみるというのはどうだ? 陽向ちゃん、面白い案だと思わないか?」
「ええ、それはいいかもしれませんね。鈴波さん、ここはひとつ親交を深めるために考えてみてください」

いきなり妙な話になった。
試されてるのかなぁ、と思いつつ、ちょっと真剣に悩んでみる。
肌の焼け具合を見る限り、家の中でする仕事ではないんだろう。外で、それも長い間動くものだという推測が立つ。
髪の長さとかは……関係ないか。筋肉あるのは普段鍛えてるからって理由も充分有り得るわけだし。

「うーん……畑仕事、だったりしますか?」
「正解」
「……鈴波さん、よくわかりましたね」
「いや、当てずっぽうだったんだけど……」

この辺でできる仕事はそんなに多くないはずだから、と適当に言ったら当たってしまった。
ちゃんと最後まで考えたわけじゃないので、褒められても複雑な気分。
私が星宮さんに微妙な尊敬の目を向けられている間、蒼夏さんは立ち上がりふらっと奥に消えた。
それからすぐ、多種多様な野菜を持って戻ってきた。

「うわ、凄いですね」
「無農薬なのが自慢だ。形は少し歪だが、味は保障する」
「蒼夏さん、作った野菜を格安で売ってるんですよ。私もよくお世話になってます」
「なるほど。……ん? もしかして星宮さん、蒼夏さんを紹介した理由って……」
「たぶん鈴波さんの想像通りだと思います」

要するに、私の自堕落な生活態度とそれに伴う貧相な食事内容を知っている星宮さんは、心配して教えてくれたんだろう。
まあ、確かに日頃情けないほど適当なものしか作ってないけど、そんな心配される私って一体……。
しょぼんとうなだれた私を見て、蒼夏さんは楽しそうな表情を浮かべた。

「なら、今日は友好の証としてこれを持っていくといい」
「え、いいんですか?」
「構わんよ。元々わたしは食べていけるだけの稼ぎがあればいい口でね。幸い、その分を売り切っても少し余るんだ」
「……そういうことならわかりました。ご好意に甘えさせてもらいます」
「あっ、蒼夏さん。これからまだ行くところがあるので、帰りにもう一度寄ってもいいですか?」
「わかった。夕方までは外の畑にいると思うが、玄関に置いておくから声は掛けなくても大丈夫だ」
「はい。ありがとうございます」
「信一くん」

急に下の名前で呼ばれたので驚いてしまい、一瞬反応が遅れた。
そんな私の様子を目敏く見つけ、にやりと笑みを顔に貼り付ける蒼夏さん。
最初からそう呼ぶつもりだったんだろうけど……何とも意地の悪い。

「君とは仲良くやっていけそうな気がするよ」
「そうですね。私もです」
「近いうちに……そうだな、四月の頭にでも君の歓迎会をしようと思っているから、その時は是非誘いに乗ってくれると嬉しい」

蒼夏さんの申し出と同時、星宮さんが意味深な苦笑いをしたのを私は見逃さなかった。
一抹の不安を覚えつつ、はい、と頷く。それで蒼夏さんは満足し、玄関まで送ってくれた。

……後で、星宮さんに色々と訊いておこう。





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