十二月の終わりは、それまでのスローペースな日々と比べれば程々に慌しかったように思う。 まず、星宮さんと佳那ちゃんの学校が冬休みに突入し、しばらくは二人とも星見堂に顔を出さなくなった。 元々佳那ちゃんは滅多に来なかったけど、星宮さんはどうやら学校帰り、ほぼ毎日寄ってくれていたらしい。 ふっと火が消えたような、本来の静けさを取り戻した店内はとても寂しく感じた。 その理由は、二十五日、クリスマスから数えて五日後に判明する。 昼前に訪れた星宮さんは私のさり気ない(そうしたつもりだった)問いに苦笑して、 「課題を終わらせてたんですよ」 と答えてくれた。佳那ちゃんも一緒で、星宮さんのスパルタ指導を受けていたとか。 晴れやかな表情で来たということは、まあ無事に全部消化できたんだろう。 お疲れ様、と労いの言葉を掛けて、その日は他愛ない話を長々と続けた。 ちなみにその前、二十四日……つまりクリスマス・イヴは、駅前の方に足を運んでケーキを買ってきた。 別にキリスト教徒でもないけれど、宗教に関してはちゃんぽんなこの国でそんな野暮なことは言わない約束だ。 祭りがあるなら楽しんでしまえばいい。ということで、終業式の後に来た星宮さんと佳那ちゃんにもケーキを振る舞った。 結果、何年かぶりに、大概の女性は甘い物が大好きだ、なんて定説を思い出すことになった。 ホールで買わなくて本当によかった……。 年末は一度実家に帰った。 とはいえ滞在したのは元旦までの二日間、特に話すようなこともない。 久々に親戚の面々と顔を合わせ、僅かながら幼子達にお年玉を渡し、正月ならではの豪華な夕食をしっかり胃に入れて。 翌日新幹線その他に揺られ星見堂に辿り着いた時、ああ、戻ってきたな、と思えたのは、ここが私の居場所になったからだろう。 一月からは雪が凄かった。とにかく凄かった。 毎日のように降るものだから、雪かきが欠かせず慢性筋肉痛でいつもぐったりしてたのを覚えている。 佳那ちゃんが店の前で雪だるまを作ったり、かまくらを建設しようとして失敗したり。 三人でやった雪合戦は、日頃の運動量の問題で佳那ちゃんの独壇場だった。 一度雪の代わりに雨が降った日なんかは、洒落にならない寒さで布団を被ったまま動いて星宮さんに怒られた。 二月になると、日数の経過と共に降雪量は減り、晴れの日が増え始めた。 雪解け水がどこに消えていくのか、そんなことをぼんやりと考えながら見上げた空は青く。 緩やかに白から緑へと変わる霧ノ埼の景色を眺めて、もう雪かきをしなくていいのか、と安心する。 そうして今日。 居間のテレビでだらだらと流れるニュースを耳にしながら、開店前の時間を過ごしていた。 天気予報を告げるキャスターの声が、右から左へ抜けていく。 消そうか、と思った時、ひとつの単語が聞こえて私はリモコンを持つ手を止めた。 「あー、そっか。もうそんな時期なんだ……」 外を吹く風は強い。ようやく芽吹いた青葉の匂いと、包み込むような柔らかさを含んだ陽射しが満ちている。 散歩にでも行けばとても気持ち良さそうで、開店前だけれど、私はその欲求に抗えそうになかった。 ……まあ、少しくらい遅れても大丈夫だろう。星宮さんは学校だし、彼女と佳那ちゃん以外の客は未だに来ていない。 そもそも佳那ちゃんが客なのかと言われると、それはちょっと首を傾げるところだ。 予想通りというか、あの元気な少女は超アウトドア派、家で読書なんて滅多にしない子だったわけだし。 星宮さんとセットでたまに訪れるくらいで、一人で顔を出したのは最初の一回だけ。 ―― 何か、もう少し色々と危機意識を持った方がいいような気がしてきた。 けれども、うん。下手な考え休むに似たり。 私がただ悩んでも、増えるのはお客さんじゃなく頭痛の種。 面倒なことはとりあえず放っておいて、ぐるりとその辺を歩き回ってこよう。 緩い服装のまま、上に何かを羽織りもせず、靴を履いて飛び出した。 つい鍵を持つのを忘れたけど心配は要らない。何せ霧ノ埼東側の盗難事件は話によると0件。 こたつで寝てしまった時もだけど、大前提として人が通らない場所なので警戒心という言葉を忘れそうになる。 「いいこと、だとは思うけどね」 社会で生きる人間を縛るのは、法律を主にしたルールだ。 でもそれは、抑止力としてはネガティブな部類に入る。守らなければ痛い目見るよ、ってもの。 なら何がポジティブな抑止力に成り得るか。私は、他人の信頼だと思う。 信じられたからには、裏切りたくない。信じてくれるなら、応えたい。 相手を信頼できる土壌があるからこその、抑止力。 世の中には、平気で他人を裏切り、騙し、傷つける人間も存在する。 そういう人に一度でも遭えばきっと誰だって、信じる心を失ってしまうだろう。 疑えばキリがないのに、疑わなければ生きていけない。それはとても、辛いことだ。 けれど星宮さん達は―― 最初から私を信じて掛かった。 少しも疑念を持たず、そう、絶対にこの人は自分を騙すことはないとでもいうように。 怖いくらいに無垢な信頼。おそらく、霧ノ埼の優しい環境によって育まれた。 「そういえば、彼女のお父さんには会ってないなぁ」 いや、会わなきゃならない理由もないんだけど。 あんなにも純粋な子を育てた親だ、ちょっと話してみたいな、とは思っている。 「んー……いい風」 呟いた途端、一際強く吹いた風が私の髪や服を煽った。 冬の、冷たく肌を切り裂くようなものじゃない。もっと……そう、不思議とわくわくする、予感にも似た空気。 ニュースで言っていた、新しい季節の訪れを示す風。 春一番、だった。 「……起きてください」 「んー」 「鈴波さん、起きてください」 両肩を控えめに揺さぶられて、私はテーブルに突っ伏していた上半身をむくりと持ち上げる。 眠い目を擦りながら振り向くと、背後には靴を脱いだ星宮さんが立っていた。 「あ、ごめん。寝ちゃってた」 「いつもそうだと思うんですが……私の気の所為ですか?」 「気の所為……だったらいいなぁ」 「怒りますよ」 「ホントすみません」 真顔で言われると本当に怖い。星宮さんの怒る姿が想像できないってこともあるけど。 平謝りしてその場はどうにか乗り越え、結局いつも通りの形に収束。 星宮さんがランダムに本を選んで目を通し、私がそれを眺めるという形だ。 彼女が読むものはジャンルの偏りがなく、昨日は純文学だったかと思えば今日は料理のレシピ本。 しかも割と真剣で、どうやら今回は購入を考えてるらしかった。 「うーん……迷っちゃいます」 「お金がないの?」 「いえ、そういうわけではないんですけど……」 「星宮さんならツケでもいいよ?」 これが例えば顔も知らない、再会の可能性が限りなく低い相手なら、こんな申し出は端からしない。 絶対に返してくれる、そういう信用があるからこそ持ち出せること。 「……ちゃんとお金は払いますよ。私が悩んでるのは、その、とってもつまらないことなんですが」 「馬鹿にしたりとかしないから言ってみて?」 「こういうのって、一回何か作ったりすると、それで満足しちゃいません?」 「あー……うん、わかる気がする」 「それで本棚に閉まったまま、すっかりあるのを忘れちゃって」 「大掃除した時とかに見つけて、もう要らないかなあ、って思うんだよね」 「そうなると、買わない方がいいような気がするんですよ」 欲しいけど、あんまり活用しそうにないからどうしようか考えてる、と。 勿論店側としては買ってくれれば嬉しいけど、だからといって押し付けようとは思わない。 少し悩み、私はひとつの提案をしてみた。 「じゃあさ、こういうのはどうかな。コイントス」 のそのそとテーブルから這い出し、懐から取り出したのは、百円玉。 居間の入口の段差に座り、それを軽く握った右手の親指に乗せる。 「まあ、ちょっと適当過ぎるかもしれないけど。表が出たら購入、裏が出たら今日は買わない、ってことで」 「確率は二分の一、ですね。……私がやってもいいですか?」 「当然。お金を出さない私がやるのはどうかなって思ってたし」 ふと悪戯心が湧いてきて、私はぴん、とコインを弾き星宮さんへ飛ばした。 普通に受け取るつもりでいた星宮さんは、驚き慌てて後ろに下がる。 くるくると回転するそれを掴もうとして、けれど微妙にタイミングがズレて落としてしまう。 転がる百円玉。危うく本棚の下に消えるところで小さな手が捕まえた。 「鈴波さん!」 「あはは、ごめんごめん」 「もう、びっくりするじゃないですか……。お金を粗末に扱うと罰が当たりますよ?」 その通りだった。確かに、私が全面的に悪い。 ある意味年齢不相応な、どこか年寄りめいた窘めの言葉に苦笑しながら、私は頭を下げる。 別に謝る必要はないですよ、と星宮さんは言い、明日の天気を占うような気軽さで、百円玉を放った。 二人揃って目で追う。上空でぴたりと止まり、星宮さんの足下に落ちたコインの向きは、 「……表、ですね」 数字が書いてある側ではなく、桜が彫られている側だ。 星宮さんは屈んで床の百円玉を取り、ちゃんと手渡しで私に返す。 それから一度は戻した本を再び抜き取って、私の元に持ってくる。 「えっと……いくらだったかな」 「覚えてないんですか?」 「そういうわけじゃないよ。全部頭に入れるには量が多過ぎるし、割と料金は適当に決めてるんだ」 「何か基準が?」 「古本だからね。こっちに回ってきた時の保存状態と、あとはどれだけ手に入りやすいかっていう希少さ」 ざっと目を通した限り、状態は決して悪くなかったと思う。 勿論新品同様とは行かないけれど、あからさまな染みや破けたり抜けたりしているページは見当たらない。 ぱたんと片手で閉じて星宮さんに渡し、五百円でいいよ、と告げた。 「……もっと高いと思ってました」 「古本だからね」 「ふふ、そうですか」 さっきと一言一句違わぬ私の返答に、星宮さんは小さく笑みをこぼす。 「はい、じゃあ五百円ちょうどお預かりします。袋は要る?」 「大丈夫です。今日は雨も降ってませんし、小脇に抱えて持って帰りますよ」 と言いながらもまだ帰る気はないらしく、淑やかな動作で私の隣に腰を下ろした。 決して広くはない入口部分だけど、二人が座れないほど狭くもない。 身体の横に置いた手が触れないくらい。それが私と星宮さんの一番安心できる距離だ。 並んで私達は、玄関の向こうへ視線を向ける。開いた扉から入り込む風の心地良さに目を細めながら。 「鈴波さん、知ってます? 今日が春一番だそうですよ」 「うん。星宮さんが来る前ニュースで聞いた。……いい風、だよね」 「雪もすっかり溶けて、ああ、春だなぁ、って感じです」 「もうすぐ三月かー……。星宮さんは次、高校二年生だったっけ」 「はい。こないだ入学したばっかりだと思ってたのに……早いものです」 「……本当に。早いもんだ」 三ヶ月なんて、あっという間だった。 気づけばひとつの季節が終わりを迎えようとしていて、その中で、私は変わらずここにいる。 「ねえ、星宮さん」 「何ですか?」 「そっちが春休みになったらさ、改めて、この辺を案内してくれないかな」 「そういえば……簡単には地理を教えましたけど、本格的に案内したことはなかったですね」 「雪凄かったし、寒くてなるべく外出たくなかったから」 「鈴波さん、寒がりだったりします?」 「暑いのは結構耐えられるんだけどなぁ……。で、どう?」 私の頼みに、星宮さんはほんの少し悩むような仕草を見せ、 「わかりました。予定が決まったら言いますから、適当な日に回りましょう」 「ありがとう」 「どういたしまして、です」 安堵の溜め息を漏らし、私は立ち上がる。 外へ足を運び、思いっきりすうっと息を吸い込んだ。 強い風と共に、柔らかな香りが通り過ぎる。きっとそれは、遠くから来た花の匂い。 霧ノ埼で迎える、初めての春。 いったいどんなことが待ってるんだろうと、微かな期待に胸を膨らませながら―― 見上げた空は、綺麗な青色だった。 start/one.日常始点・了
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