山を挟み日本海側に位置する霧ノ埼には、冬になるとしばしば雪が降る。
降雪量はスキーで賑わうような場所と比べてさほど多くないものの、それでも視界一面が白く染まるくらいだ。
勿論そうなると厚い雲の所為で陽射しは遮られ、極端に冷える。
吐く息は白く、それこそ一日中布団から出たくなくなるほどに寒い。洒落にならない。
よって朝、まずすべきことは、可及的速やかに暖かい服を着ることだったりする。
ちょっと脱ぐだけで鳥肌が立ってしまうけど、そこは気合で我慢。
晴れた日なら換気のために開ける雪国特有の二重窓も、ぴっちり閉じたまま。

着替えを洗濯機に放り込んでも試練は続く。
寝室から居間に移動する際、縁側を通過しなきゃいけないんだけど、そこは板張り。
冬の寒気に晒されて、これまた洒落にならない冷え方をしてるものだから歩くのが辛い辛い。
靴下を履いても容赦なく伝わってくる、まるで氷を踏みしめてるかのような感覚にやっぱり布団の中が良かったと毎回後悔する。
そんな弱音は表にせず、どうにかこうにか辿り着いたら温かい朝食の時間だ。
まあ、お世辞にも料理ができるとは言えない私が作るので大した物は食卓に並べられないけれど。
それでも米は炊けるし味噌汁程度ならちゃんと作れる。おかずのレパートリーが致命的に少ないだけだ。

さて、霧ノ埼に来る際、散々気をつけろと言われたことがひとつある。
通常どの家にも雨風を凌げるよう屋根というものが存在し、当たり前だけど雪が降れば上に積もってしまう。
少量なら構わない。しかし、霧ノ埼くらいの降雪量だと、放っておけば重さで屋根が抜ける、らしい。
実際見たことはないし話も聞かないので推測だけど、本当に試してみたいとも思わないので雪かきは必要なのだった。

「それにしても、これは怖いよなぁ……」

我が家は二階建てでこそないものの、本棚の関係で割と天井が高い。
長い脚立を使い、スコップ片手に乗っかった屋根上は、いい景色の代わりに傾斜ですごい足場が不安定。
軽く雪を下ろして確保した立ち位置も、ちらりと視線を下に向ければ地面が見える。
結構距離あるなー、と思ったら少し足が震えた。どうしようこのチキンハート。

「……なるべく急いで終わらせよう」

そうと決めたら行動あるのみ。
私はスコップを両手で握り締め、雪かきを始める。
ざっくざっくと先端で刺しては放り投げの繰り返し。見た目にはこれ以上ないくらいの単純作業だ。
でも、単純なのと楽なのは違う。雪は簡単に言えば氷と同じで、元々は水。決して軽くはない。
それをひたすらスコップで持ち上げて地面に落とすんだから、実はかなりの重労働。
体力には全く自信のない私は、十分も経たないうちに早くも疲労を感じていた。……本当に早いよ。
あー、こんなことならもうちょっと運動とかしとけばよかったなぁ。
後悔先に立たず、もしくは後の祭り。いざという時になって悔やむのは人間の性だと思う。

「ふぃー。ちょっと休憩」

どばどばと出てきた汗を念のためと持ってきて首に下げてたタオルで拭く。
唯一有り難いのは、重労働な分動きも激しいから身体が温まったことくらいか。
むしろ上着を一枚脱ぎたくなるくらいで、雪かきがどれだけハードかわかろうものだ。
ちなみに現在の進行状況はだいたい二割五分。二十五パーセント。
星見堂は一応見栄えも重視してかシンメトリーの無落雪屋根になっていて、その半分のさらに半分。
三角屋根だと、左右の傾斜からほぼ毎日どっさり雪が降ってくるらしいので、建てる際にこうしてもらった。
その代償が現在のきっつい労働なわけだけど、そこは我慢するしかない。
慣れるまではファイトだ、と自分を励まし、別に全然嬉しくないなあと今更なことを思いながら休憩終わり。続きを開始。
汗水垂らしてひたすら雪を下ろし、いい加減足腰立たなくなってきた頃にようやく全ての雪が屋根から消えた。

「よし、降りよう……って駄目だ怖い」

今度は別の理由で足が震えて、しばらくまともに脚立の足場を踏めそうにない。
尻が濡れるのを覚悟でぺたんと座り込み、ついでに背中も濡れるのを覚悟で仰向けに寝転がる。
……結局、室内に戻って遅めの開店をすることができたのは、昼食をお腹が求める時間帯だった。










「それでふらふらしてるんですか……」
「いやぁ、あはは」
「鈴波さん、体力ないんですね」

ぐさっと来た。そりゃあ悪意はないんだろうけど、そうもストレートに言われるとちょっと傷つく。
しかし現状文句を言える立場でもなく、返答代わりにスコップを動かした。

星宮さんが訪れたのは二時過ぎで、その時の私は立ち上がる気力を屋根上に落っことしてきた後。
どころか疲れで身体を起こすのもだるくテーブルに顎を乗せてぐでーっとしていた。
そんな私に、一瞬星宮さんは呆れるような視線を向け、挨拶も早々にぐったり状態の訳を訊ねた。
ある程度はしょって説明した結果出てきたのが先の発言。その通りだけど手厳しい。
なら彼女はどうかというと、雪国暮らし歴は私より遙かに長いのだから推して知るべし。

「玄関先に雪が積もってます。それも大量に」
「いっぱい下ろしたからね」
「……下ろした雪を邪魔にならない場所に除けるまでが雪かきですよ?」

なんて会話を経て、私は疲労感たっぷりの身体に鞭打って再びスコップを握り。
何故か星宮さんも「手伝います」と申し出てくれ、二人仲良く星見堂前からせっせと運び出すことに。
足下が不安定な屋根上ほどじゃないけれど、量が量なのでやっぱりハードだ。
息を切らしながらちらりと横を見ると、星宮さんは平然とした顔で作業を進めている。
あんな手足が細いのに、どこにそんなパワーがあるんだろうか……。

「手が止まってますよ」
「あ、ごめん」

サボタージュを指摘される。
まあ、細腕の女の子に力仕事を任せるのは男としてどうかと思うので、馬車馬のように張り切ってみた。
手伝ってもらうのは有り難いけど申し訳ない。これからは冬のほぼ日課になるわけだし、私一人でできるようにならないと。

「鈴波さん」
「ん? 何?」
「頑張るのはいいことだと思いますけど……」

意味深な間を置いて、星宮さんからのひとこと。

「一緒に土も掘っちゃってますよ?」
「………………」

無理に搾り出していた気力が蒸発した。
へなへなと崩れ落ちる。

「あの……私、何かいけないことを言っちゃいましたか?」
「いや、星宮さんは気にしなくていいから……」

今度からは、加減とかも覚えよう。
そう学習できただけでも、星宮さんとの雪かきはいい経験だったのかもしれなかった。
―― というのがほんの三十分ほど前のこと。
心地良さを通り越して鉛のようになった疲労感に苛まれながら、私はぼんやりと本を選ぶ星宮さんの姿を眺めている。

「そういえば」
「はい」
「星宮さんっていくつ?」
「いくつ、とは?」
「年齢。だいたい想像はつくけど、具体的に何歳かは聞いてなかったかな、って」
「えっと……十六歳です」
「高一?」

頷く星宮さん。高校生かなー、とは思ってたけど、そっか、まだそんなもんか。

「だから今の時期は昼頃でもここに来れるんだね」
「冬休みが近いですから、学校も早く終わるんです」
「ちょっとした疑問が解決したよ」
「……私、そんな不良学生じゃないです」
「わかってる」
「そういう鈴波さんは、おいくつなんですか?」
「言わないと駄目?」
「遠慮なく女性に歳を訊ねた罰です」
「抜け目ないなぁ……」
「佳那と付き合ってれば自然とこうなります」

くすくすと、年頃の女の子らしい声で笑う。
真面目一辺倒な子かと思ってたけど、意外に茶目っ気もあるみたいだった。

「二十四」
「え、そんな若いんですか?」
「星宮さん、私をどれくらいだと思ってたの……?」
「その……二十代後半かな、って。あ、いえ、別に老けてるように見えるとかそういうことじゃなくて!」
「………………」
「雰囲気がすごく老成してるというか、深みがあるというか――
「いいよ、頑張ってフォローしなくても……」
「す、すみません」
「別に星宮さんが悪いわけでもないんだから、謝らなくていいって」

私の言葉で、星宮さんは余計縮こまってしまった。
何だか罪悪感。いやそもそも、よく考えたら先に年齢を訊いた私が悪いんじゃないかな……。

「でも……あの、訊いてもいいですか? どうしてそんな若いのに、本屋さんをやろうと思ったのか」
「話さなかったっけ」
「夢だったから、というのは聞きましたけど……」
「んー、経済的な事情に関しては、簡単には説明できないし色々あったと答えるしかないんだけどさ」

世界に満ち溢れてるのは綺麗事ばかりじゃない。
ずっと幸せなまま、夢を見たまま生きられるわけじゃ、ない。
ある意味では、私がこうしてここにいるのも、奇跡みたいなものなのかもしれなかった。

「私はね、本ってとてもすごいものだと思うんだ」
「すごい……ですか」
「誰かが綴り、誰かが見定め、誰かが纏め、誰かが世に送り出す。たくさんの人が、一冊一冊に携わってるんだよ。例えばこれ」

足の裏が痛いのは我慢して、立ち上がり本棚から適当にひとつを取り出す。
両手でぱらりと後ろのページを開き、目当ての箇所に手を置いて止めた。

「執筆、編集、デザイン、校正、発行……決して厚くはないこの本にだって、これだけ手が掛かってる」
「……本当ですね。私、今まであまりそういうところに目を通してませんでした」
「本には、そうやって頑張ってきた人達の、何て言うのかな……そう、想いが詰まってるんだ」
「……想い」
「一冊の本が、それを読んだ誰かの人生を変えるかもしれない。私は、そんな機会を与えられればいいと思う」

記された言葉は力になる。
万人にとってはどうでもいいような、何気ない登場人物の台詞に感銘を受けることもあれば。
実体験を元にした悲劇の物語に心打たれて涙を流すこともある。
良かれ悪かれ、誰かが紡いだその声は、時に人を強く突き動かすのだ。

「……どう? 星宮さん、素敵な出会いはありそう?」
「まだわからないです。……でも、きっといい本が見つけられるような、そんな気がします」
「そっか。なら好きなだけ探すといいよ」
「はい」

微かに頬を緩め、彼女は首を縦に振る。
私は微笑み返そうとして、外の様子に目が行った。

―― 雪、ですね」

星宮さんの言葉通り、ちらちらと白い粒が降り始めている。
いつの間にか空を雲が覆い隠し、緩やかな速度で、また地面に積もっていく。
あー……また明日にでも、雪かきしないといけないのか……。

「星宮さん、傘は持ってきてる?」
「一応。玄関に置いたんですけど、見てませんでした?」
「ごめん、ぼけっとしてた」
「……大丈夫です。心配してくださって、ありがとうございます」

そう言って、星宮さんは私と同じ方を見つめる。
きっと、全く違うことを考えながら。

「……雪、好きですか?」

不意にそんな問いを向けられた。
私は少しだけ考えるふりをして、答える。

「嫌いじゃないよ。でも―― ちょっと、ね。あまりいい思い出がなくて」
「そう、ですか」
「星宮さんは?」

訊くと、彼女はゆっくり玄関に近づき、ガラス張りの扉に指を這わせた。
扉を通して、雪降る空を見上げるように。
こっちに背を向けたまま、

「私は、好きです」
「……そっか」

星宮さんは、私にももっと好きになってほしいと、そう思っただろうか。
霧ノ埼にいる限り、毎年必ずこの光景を見ることになるから。
けれど、どうしても。雪は寂しさを連想させてしまう。降り積もって、積み上がって、何もかもを埋めてしまう。

いつか胸を張って、その問いに頷けるようになるかと考えてみたけど―― 今はまだ、難しそうだった。





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