あれから数日、未だに芯から凍える寒さには慣れることができないまま、けれど朝はそれなりに早く起きられるようになった。 さすがにもう大丈夫だとは思うけど、万が一また星宮さんに迷惑を掛けたりなんかしたら恥ずかし過ぎる。 なので夜は早めに寝ることにし、念のため目覚ましも用意。おかげで九時前には起床する習慣が付き始めた。 空いた時間は、気分によってだけれど散歩をすることにしている。 とにかく霧ノ埼は空気が綺麗だ。冬の冷たさを除いても、風は心地良く閑散とした風景も意外と見てて飽きない。 ちょっと家の周辺をぐるっと歩き回るだけでも、これが楽しかったりするのだ。 まあ、たまにぼーっとしてたら行き過ぎて自分がどこにいるかわからなくなるのが欠点。 ただ問題は、雪まで降る霧ノ埼の冬はかなり厳しい部類に入り、重武装で挑まないと歯の根が合わなくなるということで。 着替えのために服を脱ぐだけでもぶるぶる身体が震えてしまう。窓を開けた状態なんてのは論外。 エアコンを好まない私は少し皺が寄るのを承知で、布団に包まりながらもそもそと着替えるのだけど。 風が強い日なんかは、あまりの寒さに気持ちが先に折れるのだった。 そんな感じでいつも通り表に札を出し、形だけでも開いておいてから、座ってぼんやり。 手持ち無沙汰なのが嫌になると意味もなく本の整理をしたりして、それも終わるとこたつに入る。 ぬくぬくとみかんを頬張りながら、控えめに見ても店番には到底思えない姿でお客さんを待つこと十時の開店から二時間弱。 正午を過ぎても、いっそ清々しいくらいに人は来なかった。 「うあー……暇ー……」 テーブルに顎を付けて唸ってみる。 わかっちゃいたけど、予想できてはいたけど、こうもやることがないとは……。 突っ伏したまま、私は昨日顔を出しに来てくれた星宮さんとの会話を思い出した。 「こないだも言いましたが、この辺は全然人が来ないんですよ」 「何にもないもんなぁ。道も舗装されてないし、車はすっごい酔いそうだ」 「はい。だから……私以外のお客さんは、ほとんど来ないと思います」 その言葉通り、今まで星宮さんを除くとお客さんは一人も訪れてきていない。 一度こたつのぬくもりに負けて三時間ほど寝てしまったこともあったけれど、その時も誰かが入ってきた痕跡はなかった。 翌日、調子に乗って鍵を閉めないままふらっと外を出歩くも、案の定と言うべきかゼロ。 ちなみにどうやって確かめたかというと、玄関の扉に紙を一枚挟んでおいた。 開けられれば紙は落ちる。元の場所に戻そうにも、全く同じ場所とはいかない。古典的な確認手段だ。 ……星宮さんは絶対悪いことはしないだろうし、窃盗その他の心配は皆無っぽかった。 「本でも読もうかな……」 立ち上がり、売り物の中から無作為に一冊を選び取ってこたつに戻る。 ビニールカバーの類は付けていない。そういうのは面倒だし、古本は古いからこその良さがある。 ここに並べられているのは、人の手を渡り、本棚に飾られ、ページを捲られた時間の分だけ歴史を重ねた書物だ。 微かな紙の匂いと薄く霞んだ装丁、変色した中身。 それは決して綺麗じゃないけれど―― 美しさだけが人を惹きつけるとは限らないだろう。 少なくとも私は、様々なルーツを持つ、見知らぬ誰かに読み古された本達が、大好きだ。 「んー……うん、悪くない」 本屋を経営してるからと言って、売っているそれら全てを読破しているとは限らない。 三桁を悠に越える莫大な量だ。小説の類ならまだしも、専門書や参考書などは範疇外、さすがに内容まではわからない。 なるべくざっと目を通して、どれがいいか薦められるようにしているけど、記憶力が超人的なわけでもなく。 精々三、四割、それも大雑把にしか覚えていないのだった。 だから時々、おもむろに選び読んでは頭の中の資料を増やすようにしている。 今回はあまり厚くもなかったので、流し読みで三十分程度。 こたつから離れるのを少し億劫に感じながら、元あった場所に戻す。 時刻は三時前、昼食は既に済ませたし、さてどうしようかと次の暇潰しを考え始めた時、 「こんちはーっす!」 本棚に圧迫されている所為で狭い店内に、些か音量過剰な大声が響いた。 思わずびくりと驚いて、声の聞こえた方を向く。開け放たれた玄関から冬の冷風が入り込む中、人影がひとつ。 星宮さんじゃない。彼女はもっと大人しい、どっちかと言うと細い声をしているから、違う。 なら、いったい―― そうか、新しいお客さんか。 「あ、いらっしゃいませ」 一瞬忘れかけた社交辞令の言葉を口にしながら、私はお客さん(仮)を観察する。 女の子だ。推測するに星宮さんと同じくらいの年齢。 何故か満面の笑みで、何となく、太陽のように眩しい、なんて形容を思い出した。 さっぱりしたショートカットの髪型と相まって、活発な印象を受ける。若干ボーイッシュな服装もそれを助長していた。 インドアよりもアウトドア派、読書よりもスポーツの方が好きそうな子である。 「いらっしゃいましたー!」 彼女は妙にテンション高く不思議な返答をしてから、きょろきょろと店内を見回す。 ふぇー、と気の抜ける声を漏らし、好奇心旺盛な子供のように並ぶ本に触れては離れを繰り返し、徐々にこっちへ近づいてくる。 そして私の前で足を止め、じぃっと見つめてきた。 「えっと、な、何?」 「………………」 変なプレッシャーに負けて訊いてみるも、さらに、穴が開くほど見つめられる。 ……視線が段々痛くなってきた。自分の家なのに居心地が悪くなってくる。 無言の圧力に押され、立ちかけたところで彼女が口を開いた。 「あの、ひなちん来ませんでした?」 「……は?」 「ひなちん。最近よくここに来てるって言ってたから、もしかして、って思って」 ひなちんって誰、と疑問が頭に浮かび、しかしそれは続く彼女の言葉ですぐに解けた。 最近よくここに来てる、というのが確かなら、一人しかいない。 私は普段呼ばない、穏やかな少女の下の名前を思い出す。 星宮、陽向。……ひなた、だからひなちんか。愛称で呼ぶくらいだから、彼女の友達なんだろうなぁ。 「あの、あたしの話、聞いてます?」 「え、あ、うん。大丈夫ちゃんと聞こえてる。星宮さんのことだよね? ならまだ来てないけど」 そう返すと彼女は目に見えてしょんぼりし、肩を落とした。 何となく気の毒になる。別に私が悪いことをしたわけじゃないんだけど、さて慰めたりした方がいいのかと思った直後。 彼女の真後ろ、玄関の扉が開き、件の人物……星宮さんが現れた。 その視線がまずこちらを捉えようとして、私と彼女の間にいる先客に注がれる。 浮かぶ表情は困惑。目が細められ、微かに首を傾げた星宮さんは、 「かむぎゅっ」 「もうどこ行ってたの!? あたしひなちんの家まで行ったのに明成さんはちょっと前に出かけたって言うから捜したんだよー」 何か、おそらく名前を言いかけたところで、正面から飛び掛かった彼女に抱きしめ頭を抱えられる。 まあ随分な勢いでそのまま押し倒すんじゃないかと思わず危惧してしまうくらいだったけど、さすがにそんな心配は必要なかった。 しばらく堪能してから今度は猫のように擦り寄る彼女を引きずり、星宮さんは私の前に立ち挨拶の言葉を口にする。 「こんにちは、鈴波さん」 「ああ、こんにちは。それで……」 「ちょっと待ってください、今引っぺがしますから」 慣れたことだと言わんばかりの躊躇いない手付きで、襟を掴みべりべりと引き剥がす。 彼女は抵抗せずに離れ、星宮さんに軽く額を叩かれてからはっとこっちに向き直った。 「ご、ごめんなさい。ひなちん分が足りなかったもので、つい」 「すみません、この子がご迷惑をお掛けしたみたいで」 「いや、気にしなくていいよ。でも星宮さん、ちょっと猫っぽい感じのする彼女は誰? 友達?」 「はい。……名乗ってなかったの?」 「その前にひなちんが来たから忘れちゃってた」 「えいっ」 「あうっ」 呆れた顔をした星宮さんに再び額を叩かれる彼女。どうでもいいけど掛け声が可愛らしい。 しかし、友人関係っていうよりも、こうして見てるとはしゃいで失敗した子供とそれを嗜める母親みたいだなぁ……。 なんて生温かい目をしていると、頭を起こした彼女がようやく名前を教えてくれるようだった。 「自己紹介遅れましたけど、あたし、桜葉佳那って言います」 「佳那ちゃん、ね。よろしく。私は鈴波信一。見ての通り、この古本屋の店主です」 「小学校からずっと同じ学校に通ってるんです。家が比較的近いのもあって、それで」 星宮さんの補足で、彼女、佳那ちゃんと星宮さんがどういった関係なのかはわかった。 まあ、友達なんだろう。あそこまで抱きしめられても嫌がらなかった辺り、親友と言ってもいいのかもしれない。 大人しく穏やかな星宮さんと、活発で賑やかな佳那ちゃんは、性格的にもバランスが取れているように思える。 「鈴波さん、質問ー」 「何?」 「ひなちんは名字にさん付けなのに、どうしてあたしは名前でちゃん付けなんですか?」 「……桜葉さんって呼ばれたい?」 「……佳那ちゃんの方がしっくり来ますね」 「あの」 「ん、星宮さんも何かあるの?」 「鈴波さん……今日が初対面なのに、佳那には妙に親しげに話してませんか?」 「うーん……多少砕けても平気そうかな、って思ったからかな」 他人に対する警戒の度合いが低いというか。 別に悪い意味ではなく、相手に「このくらいなら大丈夫」と思わせる雰囲気があるのだ。 わかりやすい言い方をすれば、親しみやすい感じがする。 ひとつだけ残念なのは、佳那ちゃんはあまり本とかが好きそうではないことだけど。 とりあえず、いい子であるのは間違いないだろう。 その後、星宮さんに怪訝な視線を向けられ佳那ちゃんの時とはまた別種の居心地の悪さを体験したりして。 最終的に押せ押せの佳那ちゃんが星宮さんを引っ張って連れて行ってしまった。 翌日星宮さんに聞いたところによると、元々彼女は星宮さんと遊ぼうと思ってたらしい。 しかし残念ながら先に顔を出した家にはいなかった。 星宮さんのお父さん(名前は明成さんでいいんだろうか)が娘は出かけたと言い、ここに当てを付けてやって来たとのこと。 何故星見堂が最有力候補に挙がったかという疑問には、こう答えてくれた。 「前の日、近所に古本屋さんができた、って佳那に話したんです」 それくらい、星宮さんにとって星見堂が近場に建ったことは大事件だったそうだ。 私も彼女がそこまでの本好きとは思ってなかった。見誤ってた、と言うべきかもしれない。 思わず少しだけにやついてしまい、どうしたんですかと素で訊かれて困った。 そんな、他愛もない会話が……早くも、日常の一部になりそうで。 いとも容易く、呆気なく打ち解けてくれた星宮さんに、私は心の中で、感謝した。 back|index|next |