「本当にごめんね」
「あ、いえ、気にしてないです」
「それでも寝坊したのは単純に私のミスだし、今回は完全にこっちが悪いよ」

気持ちは土下座するくらいの勢いで、推定高校生の少女に平謝りする二十代な私。
ちょっとどころか相当情けない姿だろうけど、それを言えばこの歳になって寝過ごしたなんてこと自体が情けない話だ。
安いプライドは丸めてポイ。こうして来てくれている以上、彼女は大事なお客さんなのだから。

「あとちょっとだけ待っててほしいな。実はまだ準備が終わってなかったりするのです」
「わかりました」
「並んでるのは手にとって目通してもいいよ」
「はい、ありがとうございます」

ふっと彼女が笑顔を浮かべる。
可愛らしいなぁ、と思い、何となく優しい気持ちになりつつ昨日残してしまった作業を開始。
居間の端っこにどさどさっと積んであったダンボール、数日間の努力によってようやくラスト一箱になったそれを持ち上げる。
中身は、本。ジャンルはバラバラで、ほとんどは新品でないもの、つまり古本だ。
開業するに当たって節操なく揃えたのはいいけれど、整理せず適当に詰め込んだので色々と凄いことになっていた。

「………………」
「失礼。本入れるよー」
「は、はいっ」

ほわー、と自分の身長を悠に越える高さの本棚を見上げていた彼女に声を掛ける。
慌てて退いたので驚かせちゃったかなと苦笑いし、一緒に運んできた脚立を使いまずは上の方に並べていく。
これはここで、これはあそこで、と頭の中で反芻しながら一冊ずつ片付けていき、五分ほどでダンボールを空にした。
最後に、決して上手いとは言えない字で書いた『営業中』の札を表に出して終わり。

「よし、おしまい。ということで――

半ば物置部屋と化している居間に空箱と脚立を放り込んで、店内と居住部の境界線である段差に座る。
要するにこの家は玄関先が古本屋、まあぶっちゃければ本置き場になっていて、奥の自分が腰を下ろしている場所が靴を脱ぐところ、 そこからは居間、庭に出られる縁側っぽい板張りの廊下、トイレ、風呂に洗面所、私の寝室の順に並んでいる。
本棚が乱立する玄関先の部屋は居間の方から丸見えで、勿論逆に玄関の方からは居間が丸見えだ。
昔ながらの、自宅とお店が一体化した家屋。大工さんに是非こうしてほしいと頼み込んで建ててもらった。
こうも寒くなければ、きっと私は小躍りしてたと思う。踊る代わりにこたつか布団で丸まってたけど。
……まあ、それはともかく。ようやく、言える。

「いらっしゃい。古本屋『星見堂』へ、ようこそ。どうぞゆっくりしていってください、お客さん」

少しだけ茶化すような声色で、私は彼女を歓迎した。










開店から三十分。
私の耳に届くのは、微かに流れ込む冬の風音と、彼女が手に取った本を捲る乾いた紙の音だけだった。
それがまた眠気を誘うもので、私は彼女の活字に目を通す真剣な表情を見ながら、こくりこくりと舟を漕いでいた。

「あの」
「寝ちゃ駄目だ、寝ちゃ……だめ……」
「……すみません」
「うわっ! ……ごめん、どうしたの?」
「お名前、聞いてませんでした」

危うくそのまま落ちそうになっていたところで声を掛けられ、思わず頭が跳ねる。
頬を両手でぱちんと叩き訊ね返すと、唐突にそんな言葉を向けられた。
あー……確かに、うん、名乗ってはいなかったけど。

「物怖じしないんだね……」
「何がですか?」
「いや、何でもないよ」

まるで警戒されてないというか、些か無防備に過ぎるんじゃないだろうか。
別に、彼女に危害を加えようとかそんなつもりは欠片もないけれど、人を疑うということを知らないのかな、と少し心配になる。
でもまあ―― 当然ながら、悪い気分にはなるはずもなかった。
信用されるのは、それだけで嬉しい。私なら平気だと思われているのは、とても有り難い。

「鈴波信一。鳴る鈴に水の波、信一は一つを信じる、って書くんだ」
「鈴波さん、ですか。いい名前ですね」
「ありがとう。お世辞でもそう言ってくれると嬉しいかな」
「いえ、本当にいい名前だと思います」

年下の女の子に自分の名前をベタ褒めされる。
もしかしなくても、羞恥プレイだった。うわ、何だかすっごい恥ずかしい……。
私もこの名前は好きだけど、こうも持ち上げられるとこそばゆいなぁ。

「星宮陽向って言います」
「へ?」
「名前です。私の名前。空の星に宮殿の宮、ひなたぼっこのひなたで、ひは太陽の陽って書きます」
「え、ああ……えっと、星宮、さん?」
「はい」

柔らかな笑顔と共に、彼女―― 星宮さんは頷いた。

「鈴波さんは、ここに住むんですよね?」
「うん。この家だって自腹で建ててもらったし」
「結構若く見えますけど、そんな簡単に家や土地って買えるものでしたか?」
「実家がそれなりに裕福だってのもあるけど、まあ運が良かったのかな。色々あったのです。ちなみにまだ二十代前半だよ?」
「それで一人暮らしして、その上お店まで始めてるんですね……」
「古本屋やるの、夢だったから」

昔から、本屋の経営をしてみたいとは思ってた。
それがこんなにも早くに叶ったのは、さっきの言葉通り、運が良かったからだ。
親の反対もなく、周囲の人間にも恵まれて、意外なほどにすんなりと事は進んでしまった。
とはいえ決して少なくはないお金が動くのも確かで、実際は容易な話でもなかったけれど。
結果として、ずっと前に考えた店の名は無駄にならずに済んだ。

霧ノ埼を選んだのは、特別な理由があってのことじゃない。
候補を探している時ふと目に付いた、西と東で空気が全く違う町。
駅の近くにはいくつかあるのを確認したけど、栄えた場所を少し外れると本屋はひとつもない。
東側に行けば行くほど人口密度は低くなり、そうなると当然ながら客は来なくなる。だからだろう。
利便性の面でも、東側は西側と比べて格段に悪い。そしてある一点から、道の舗装さえなくなるのだ。
真面目に商売をするつもりなら、駅の近くに建てるのが普通だと思う。

でも。
私は「そういう在り方」を望まなかった。
一人でもいい。一人だけでもいい。ここに来て、素敵な本と出会ってほしい。
手に取って、読んで、あ、いいなと思ったら買って、その本を大切にしてほしい。
探し物が、求めた物が見つかる場所になればと、そう願った。
そして、今の私にはそれを可能にするだけの余裕があった。

だから私は、たぶん―― この、何もないけどたくさんのものがある町に惹かれたんだ。
ここでなら私も、素敵な日々を過ごせるのかもしれないと思えたから。

「……この辺に住んでる人は、もうほとんどいません。私が知ってる限り、両手の指で数えられるくらいです」

そんなことを、星宮さんは言った。
霧ノ埼の東側を、同じ市の一部であるにも関わらず、西の人達は田舎と呼んでいる。
いい意味での呼び方じゃない。不便で、過疎で、見渡しても畑しかないようなこの区域を、遠ざけ嫌がるように。

「でも……いえ、だからこそ、私はみんなを家族のようなものだと思ってます」
「家族」
「はい。仲良しさんです」
「そっか。……本当に、いいところなんだね、ここは」

不便が何だ、過疎が何だと言うのだろう。
代わりにこの場所には、人と人との繋がりがある。
慌しい都会では見過ごしてしまうような、忘れていくような、優しい絆が。

「鈴波さん」

星宮さんに、名前を呼ばれる。
その表情に温かさを見つけて、私は懐かしい思いを得た。
女の子らしい小さな手が差し出される。白く細い、右手。

「仲良く、しませんか?」
「………………」

一瞬、とても単純な理由で躊躇したけれど――

「こちらこそ、よろしく」
「はい、よろしくお願いします」

私は彼女の手を、きゅっと弱い力で握った。
その柔らかさと見た目通りの細さに、壊れそうな印象を抱きつつ。
手はすぐに離れ、些か居心地悪く感じる私とは逆に、星宮さんは恥ずかしがりながらも、どこか嬉しそうですらあった。

「……実は」
「ん?」
「お父さん以外の男の人に触れるのって、あまり慣れてなくて」
「ぶっ!」
「あ、いえ、だから何だってわけじゃないんですけど……えっと、鈴波さんがいい人でよかった、って思いました」

唐突な爆弾発言だった。
いやもう本当、この子はどうしてこんなにも無防備なんだろう。
危ない。知り合ってまだ半日も経ってないのに、ちょっと守ってやらなきゃいけないんじゃないかと考えてる自分がいる。
意味もなく焦り、とりあえず私は話題を変えることにする。

「そ、そういえば、星宮さんって本好きなの?」
「読書の嫌いな人がわざわざ開店前から古本屋に足を運んだりしますか?」
「するまでもない質問だったね……」
「まさか寝過ごして忘れてるとは思いませんでしたが」
「ごめんなさい申し訳ありません」

平謝り。見本みたいに自分でざっくざっくと墓穴を掘っていた。
結局この後、一冊好きな本をプレゼントするということで手打ちになり、初日から出費が決定。
星宮さんはそれとは別に三冊ほど購入し、ほんのりと幸せそうな雰囲気を纏って帰った。
近場(どれくらいの距離なのかはわからないけど)に古本屋ができたことがそんなに嬉しかったんだろうか。
最終的にお客さんは彼女一人で、陽が落ち切った頃に表の札を外し、閉めた。
これにて今日の営業は終了。ほとんど道楽みたいな感じだけど端から売り上げには期待していない。
適当な食事(インスタント)、片付けと風呂その他諸々を済ませ、布団に入る。
ぐっと冷えた部屋の空気に軽く震えながらも、私は星宮さんが店を出ていく時に、振り返って口にした言葉を思い出していた。

「また来ますね、かぁ……」

こんなにも、心が躍るような気持ちになっているのは、たぶん。
それが一番私の望んでいる言葉だったから、なんだろう。

「……明日はちゃんと起きよう」

そう誓い、目を閉じる。
張り切った睡魔が意識を攫おうとして――

「あ」

表の鍵を閉めるのを、また忘れていたのだった。





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