桜葉亭を出た後、自転車の籠にパンを放り込み、私はペダルに足を掛けて走り出す。 ダイナモ式のライトが悲鳴めいた音を上げて光を灯し、前面が少しだけ明るくなった。 霧ノ埼の道にはほとんど外灯の類がないものだから、出かける時には明かりが必須だ。 でないと五歩先も見えない闇の中、どんなに自分の家が近くたって迷いかねない。 「……それにしても、慣れるもんだなぁ」 未舗装の道に転がる小石を避けながら、思う。 ほんの数ヶ月前は、星見堂と薄霧の方面以外全くと言っていいほど地理を知らなかったのに。 星宮さんに案内してもらい、何度も色々な場所へ行くようになってからは、こうして一人で出歩くこともできる。 特に桜葉亭は、自炊の苦手な私にとって、貴重な朝食を手軽に確保できる場所だ。そりゃあ足繁く通うに決まってる。 味もいいし、灯子さんや佳那ちゃん、霞さんは私を快く迎えてくれるので尚更。 「時間は……まあ、何とか間に合うかな」 そうこう考え事をしているうちに、星見堂まで戻ってきた。 入口の鍵を開け、電気を点けながら居間へ。そこでパンを適当なところに置き(明日の大事な食糧)、奥の自室へ向かう。 夜になるとだいぶ冷え込むな、と小さく身を震わせ、渡り廊下を抜けて一度トイレに。 用を足したら部屋に踏み入る。目的は、押入れから出してベッドの上にとりあえず乗っけておいた大きな箱。 両手で持ち上げると、微妙な重さがずしりと来た。それを落とさないよう、けれど急ぎ足で玄関にリターン。 忘れずに電気は消し、途中居間で本を束ねるために使うビニールテープを回収した。 戸締りを確認したら(よく考えてみると庭から簡単に侵入可能だ。意味ないかもしれない)、 自転車の後部座席にもなる荷台に、持ってきた箱を括り付ける。可能な限り左右に揺れないよう、念入りに。 用済みになったビニールテープの塊は普段財布入れとして持ち歩いているポーチに突っ込み、サドルに腰掛ける。 ペダルを踏むと先ほどより強い抵抗を感じたけど、それはわかってたこと。ぐっ、と力を込めて漕ぐ。 最初こそ不安定な挙動を見せるも、スピードに乗った途端自転車は真っ直ぐ進み始めた。 「さて、こっからは気をつけなきゃ、っと」 速度を犠牲にする代わり、慎重な足取りで走る。 長年人が歩いてある程度平らにはなっているけれど、舗装されていない土の道はどうしても凹凸が目立つ。 その中でも極端な段差やタイヤを跳ねさせる石を回避し、後ろの荷物になるべく振動を与えないよう細心の注意を払う。 まあ、きっちり梱包はしたんだけど……一応デリケートなものだし、ちょっとした拍子でも壊してしまうのは嫌だから。 とろとろ走っておよそ十五分、辿り着いたのは、何度か目にしたこともある家屋。 今日の目的地であり、私が持ってきたその荷物―― 長らく活用していなかった望遠鏡に出番を与えてくれた彼女の家。 星宮さんの、家だった。 初めて。 鈴波さんを、家に誘った。 事の発端はお昼、学校が休みなのをいいことに、開店直後くらいから入り浸っていた私は、言い出す瞬間を見計らっていた。 お父さんに予定を訊ね、鈴波さんが大丈夫そうな日もさり気なく調べ、そうしてついに今日、下準備を万端にして。 胸をドキドキさせながら、ちょっぴり勇気を出して、その言葉を口にした。 「あ、あの、鈴波さん」 「何? え、どうしたの星宮さん、そんな緊張したような顔で」 「……今日の夜、予定はありますか?」 「えっと……ないかな。今日も一人寂しく過ごすつもり」 あはは、と冗談めかして笑う鈴波さん。 でも、もし私が同じ立場にいたら、きっと心細い気持ちになると思う。 お仕事で忙しいお父さんは時々夜になっても帰ってこれない日があって、そんな時、一人の夕食は味気なく感じるから。 それに私はいつも鈴波さんにお世話になってばっかりで、一度お礼をしたいと考えていた。 たぶん単純にそう言っても、鈴波さんは「普段から世話になってるのは私の方だし、気にしなくていいよ」なんて返すだろうけど。 何ヶ月も関わって、色々な話をしてきて―― 私は、鈴波さんに親近感みたいなものを覚えている。 男の人を、家に呼んだことはない。 ないけれど、鈴波さんなら大丈夫だ、と信じられた。 一緒にご飯を食べて、お父さんと私と、三人でたくさんお話をして。 そういう、家族のようなことをしてみたいと思った。 だから、私はもう一歩踏み込む。少なからず気負わなければ声にも出せない提案だったけど、きゅっと小さく拳を握って。 「じゃあ、もしよかったら……うちで、ご飯を食べません?」 「……ちょっと待って。うちって、星宮さんの?」 「はい」 「これってつまり、私、お呼ばれされてる?」 「そのつもりですけど……」 首肯すると、鈴波さんは困惑半分驚愕半分の表情を浮かべた。 感情豊かながら、本当に驚いたような顔はあんまり見せてくれない鈴波さんがそういう表情になるのはちょっと新鮮。 しばらく視線を彷徨わせ、もう一度同じ問いをしてから鈴波さんは頭を抱えた。 「あのさ、星宮さん、わかってるよね。私これでも男だよ?」 「今日はお父さんが家にいるから問題ありません」 「いや、でも……こう、色々まずいような気がするんだけどなぁ……」 「鈴波さんのこと、信用してますから」 「それは勿論嬉しいんだけど、ご飯にも正直惹かれるんだけど……うーん」 私にはいまいちよく理解できない何かが引っ掛かっているらしい。 けれど、どうやらもう一押しだと判断し、最後の一手。 「うちはもうこたつを出してます」 「……う」 「先日親戚からいっぱいみかんももらいました」 「ううっ」 「こたつに足を入れながら、剥いたみかんを頬張り熱々の緑茶を……」 「……参りました。駄目、その魅力には耐え難い。星宮さんさえよければ、夕食の席に参加させていただきます」 「はい、わかりました。……ふふっ、やっぱり鈴波さんは面白いですね」 「そうかなぁ……」 本気で首を傾げる鈴波さんに、私は微笑みかけた。 この人と一緒にいると飽きない。同じ空間にいるだけで、あっという間に時間が過ぎていく。 それを心地良いと思うから、こうして家に呼べたのかもしれなかった。 一応何度か送ってもらったことがあったので、道を教える必要もなく。 夜、七時前に来てほしい、と要望を告げ、いつもより早く私は星見堂を出た。 もっと話しているのも悪くないけど、今日のご飯はゆっくりきっちり作りたい。 四時頃にはお父さんが帰ってくるはずだし、一度電話してお買い物を頼もうと思う。 様々な候補のメニューと、鈴波さんが喜ぶ姿を想像し、帰り道を私は少しだけ急いだ。 まだ空は明るい。そして、余裕はあるに越したことはない。 星宮さんの家は、ひとことで言えば典型的な日本家屋だ。 木材を中心に、コンクリートや鉄にはほとんど頼らない組み方をしていて、ところどころに雪国特有の配慮も見える。 玄関から奥までは縦長の形式、二階はなく、土地を十二分に利用して部屋のひとつひとつが広く取られている。 入って右手には縁側と星見堂の二倍以上はある庭。一際大きな木は、桜だと教えてくれた。 この辺りは些か開花時期が遅いらしいけど、春になると綺麗に咲き乱れ、親しい人達で宴会をするとか。 まあ蒼夏さん辺りが発案しそうなことで、来年は自分も誘われるだろうか、と口には出さず考えた。 間取りは単純。 玄関より伸びる廊下、右手には庭に面した客間と台所に程近い居間が配置され、左手は個室と洗面所、それにお風呂。 奥はお手洗いにもうひとつの個室、あとは物置。個室は前者が星宮さん、後者は明成さんのもの。 突っ込んでは訊けなかったけど、父子家庭であるのには何らかの事情があるようだった。 いつか、星宮さんが話してもいいと思った時にわかることだろう。今は知らなくても構わない。 ちなみにこたつがあるのは客間で、障子を開けていた場合、一度入るとなかなか出られなくなる。 東の山々が見えるし、外の景色に近しいのは勿論風情があっていいんだけど、こたつがなかったら凍えるな、と思った。 「……しかし、自分だけ手持無沙汰だと申し訳ないというか」 現在、星宮さんと明成さんは、台所でせっせと夕食を作っている。 私はお客さんだから待っててください、だなんて座らされてここにいるわけで、正直暇だ。 テレビは居間だし(だいたいこの時間はニュースくらいしかやってない)、生憎今日は大荷物の所為で本も持参していなかった。 正確にはポーチに突っ込むのを忘れていたんだけど、まあ気付いたところで後の祭り。 しばらくテーブルの上に顎を乗せてむにゃむにゃやってみるも、すぐに飽きてじゃあもう望遠鏡を組み立ててしまおうかとし、 「ご飯できましたよー」 私がこたつから抜け出そうとしたタイミングで、星宮さんのお声が掛かった。 狙ったとしか思えないそのぴったりさに一瞬固まり、けれどふんわりと漂ってくるいい匂いにつられて居間に向かう。 襖を開けると、そこには実においしそうなおかずやら何やらが並べられていた。 「鈴波さんの席はここです。どうぞ座ってください」 「うん、それじゃ、お邪魔します」 「ご飯はこのくらいでいいかい?」 「あ、はい。ありがとうございます」 星宮さんはともかく、さすがに初対面の明成さんとはまだ上手く打ち解けられない。 この辺は慣れてくしかないよなぁ、と思いつつ、四人用の小さなテーブルの前に腰を下ろした。 私から見て右側に星宮さん、左側に明成さんという配置。……自分以外の人が夕食の席にいるのは、久しぶりだ。 明成さんの合図で三人同時に「いただきます」と手を合わせ、穏やかな夕食の時間が始まった。 なるべく行儀良くしようと意識しながら箸を伸ばし、ひとつずつおかずを摘まんで口の中に入れていく。 「……おいしい」 「本当ですか?」 「こんなところで嘘なんか吐かないよ。うん、本当においしい」 「よかったです。まだまだありますから、たくさん食べてくださいね」 平凡なことしか言えない自分が情けなくもなるけど、どれも純粋にいい味で、箸が止まらなかったのが何よりの証拠だろう。 食べながらの話によると、明成さんは料理教室の先生をしているらしい。なるほどそれならおいしいのも頷ける。 別に男の人が料理なんて、とは言うつもりもないし、この腕前は素直に尊敬できるレベルだ。 時折私の食生活を見かねた星宮さんが昼食を作ってくれることがあったのを思い出し、そりゃあ上手いわけだ、と納得した。 「ごちそうさまでした。おいしかったです」 「そう言ってもらえると振る舞った甲斐があったよ」 二十分ほどで完食し、空になった皿達の前で手を合わせる。 明成さんに人の良い笑みを向けられ、何となくくすぐったい気持ちになりながら私は食器を片付けた。 せめてものお礼に、と皿洗いを申し出たけど、お客さんの手を煩わせることはできません、なんて感じで一蹴。 なのでその間、私は何故か勧められるままお風呂に入っていた。 ……あれ、ご飯食べてちょっとしたら帰るつもりだったんだけどなぁ。 「うー、寒っ」 風呂場を出ると微妙に吹き込んでくる外気が肌を撫でた。 急いで身体中の水滴を拭き取り、当然ながら着替えは持ってきてないのでさっき脱いだのをまた身に着ける。 閉めていた脱衣所の引き戸を開けると、そこには星宮さんの姿。 「あ、鈴波さん、上がりましたか」 「うん。いい湯加減だったよ。……というか、ここまでお世話になっていいの?」 「はい、むしろ大歓迎です。うちは私とお父さんの二人暮らしですし、不満じゃないけど、少しくらい賑やかな方がいいですから」 「……そっか。じゃあ、もう少しだけいようかな」 そう私が呟くと、星宮さんは何かを言いたそうに俯いた。 五秒ほど悩み、上げた顔には決心の色が。 「すっ、鈴波さん!」 「え? なに?」 「も、もしよければ……泊まっていってくださいっ」 ―― 爆弾発言だった。 思わず間抜けにも訊き返してしまう。 「……ごめん、もう一回お願いできるかな」 「もしよければ……その、泊まっていって、ください」 「私が? ここに? 今日?」 ぶつ切りの質問に、星宮さんはこくこくと頷く。 仕草は追い詰められた小動物のようで、決して私が何かしたわけじゃないのに妙な罪悪感を覚える。 「あなたのお父様は、許可しているのでしょうか」 「してなかったら、最初からこんなこと言いません」 「だよね……。でも星宮さん、わかってるよね、私これでも男だよ?」 「その言葉はお昼にも聞きました。私がなんて答えたかは、覚えてますよね?」 「いや、まあ、そうだけど……ほら、明日も星見堂の営業があるし」 「寝過ごしたら平然とその分開店を遅らせるような人の言い草とは思えませんけど」 「う……」 「……私は」 反論を潰され、それでもどうにか断る糸口はないものかと考えていたところに、一際強い声が聞こえた。 「私は、鈴波さんがいい人だってことを知ってます。鈴波さんだけじゃありません。霧ノ埼に住んでる人達はみんないい人で、 困った時は助け合うし、嬉しかったことは自分のことみたいに喜んでくれます。家も遠い、血も繋がってない間柄だけど…… 私はみんなを、家族のようなものだと思ってるんです」 「……うん」 「だから、遠慮なんて要りません。あ、いえ、勿論最低限そういうのは必要でしょうけど、 もし鈴波さんが私やお父さんを心配してくれてるのなら、大丈夫ですから。親睦を深めるために、とか、そんな気持ちでいいです。 お泊まり……していってくれますか?」 ふと、私は一昔前の、ご近所付き合いに関する話を思い出した。 今よりも町会やお隣さんとの繋がりが強かった頃、例えば醤油が足りなくなった時、快く貸してくれるような。 そんな時代があって……そしてきっとこの霧ノ埼では、都会じゃとうに廃れた人と人、家と家との関わりが、まだ残っているんだろう。 鬱陶しい、と感じる人も、いっぱいいるかもしれない。 けれど、私はそれを、あたたかいものだと思う。あたたかくて、尊いものだと思う。 星宮さんは私を本当に迎えてくれているのだ。年上だとか異性だとか、そういうのは関係なしに、 親しいご近所さんとして、これからも長く付き合っていく、家族のような存在として捉えている。 それは、信頼がなければ言えないこと。心を許していなければ、できないこと。 こうまで示されたら、応えなきゃいけないだろう。 元々断る理由は希薄だったし、星宮さんと自分自身の気持ちがよければ、あとはもう単純だ。 「……じゃあ、お言葉に甘えて」 「はいっ。お布団用意してきますね」 とてとてとこころなしか嬉しそうに駆けていく星宮さんの背中を眺め、私は苦笑した。 結局押しに弱い性格もあるのかもしれないなぁ、と思い、そこで客間の隅に置いておいた箱の存在を忘れてたことに気付く。 「折角持ってきたのに、使わず帰るところだった……」 どこに何が置いてあるか知らない私では、星宮さんの手伝いも儘ならないだろう。 こっちはこっちで驚かせる準備でもしよう、そう一人心に決めて、私は望遠鏡を組み立てに行った。 物置から引っ張り出してきた布団を抱えて、私は客間を目指して歩いていた。 鈴波さんが来ると決まった時、軽く干して埃を掃っておいたから、一応すぐにこれで眠れるはず。 微かな陽の匂いを含んだ布団はさすがにだいぶ冷えていたけれど、顔を埋めてみた限りでは問題ない。 ちなみに毛布までは一緒に持ってこれなくて、枕と合わせてもう一往復する必要があった。 「鈴波さーん」 「お、ありがとね。持つよ」 客間と居間を仕切る襖は開けられていて、でもこたつの辺りに鈴波さんの姿はなかった。 名前を呼ぶと、縁側の方からひょいと現れる。正直持て余し気味な大きさだった布団を受け取り、鈴波さんは端に置いた。 「掛け布団と枕は?」 「お父さんの部屋に置いてあります。また取りに行くつもりですけど」 「じゃあ私が行くよ。星宮さんに力仕事をさせるのは心苦しいしね」 「別に構いません」 「私が構うの。明成さんの部屋は……奥だっけ?」 「物置の手前にあります」 お父さんはお風呂に入ってるから、部屋には誰もいない。 私の言葉を聞くや否や、鈴波さんはさっさと歩いていってしまった。 しばし一人になり、何となく落ち着かなくて客間の中に踏み入る。 こたつに足を入れて待ってようか、と考え、しかしさっきまで鈴波さんのいた縁側が気になって視線をやった。 「……望遠鏡?」 少し色褪せた箱の横に、白い望遠鏡が配置されている。 ベランダに突き立った三脚と、東の空を向く筒。学校の授業で使ったような記憶もある、天体望遠鏡。 どうしてこんなところにと疑問を抱いた直後、軽い足取りで鈴波さんが戻ってきた。 敷き布団の上に持ってきたものを重ね、一息。それから私を見て、悪戯が成功した時の子供みたいな笑みを浮かべた。 「いやね、本当は夏のうちに見せようと思ってたんだけど、なかなか言い出す機会がなくって」 「機会なら毎日のようにありましたよ?」 「ごめんなさい忘れてました。押入れから引っ張り出したまではよかったんだけどさ、また仕舞っちゃったんだよね」 「それで今日までそのままにしてたと」 「うん。お昼に誘われた時ふっと思い出して、丁度いいかな、とまた埃掃って持ってきたんだ」 言いながら、鈴波さんはサンダルを足に引っ掛ける。 しゃがんで細かい調整を始め、それが終わると私を手招きした。 呼ばれるまま、もうひとつ転がっていたサンダルを履き、そばに寄る。 「秋はあんまり目立つ星座もないんだけどね。ここからだと見えるのは……」 「ペルセウス座とアンドロメダ座辺り、ですか?」 「ありゃ、星宮さん、もしかして結構星座とか知ってる?」 「はい。お父さんやお母さんが教えてくれて、自分で調べたりもしました」 「そっかー……。星座早見表なんかも持ってきたんだけど、それなら必要ないかな」 「いえ、ちょっと見せてもらってもいいですか?」 色々と本を読んだりしたのは、小学生の頃の話だ。 今ではうろ覚えな部分も多く、鈴波さん持参の星座早見表を眺めてみると懐かしさが込み上げてきた。 ぽつり、ぽつりと忘れていたことが頭の中に浮き上がってくる。空を見上げ、私は指で星を辿った。 霧ノ埼の綺麗な空なら、そういう真似もできる。殊更に目立つ光を探し、線で繋げればそれは形になる。 「……ここの空は、本当に澄んでるよね。肉眼でもこんなによく見える」 「鈴波さんは、霧ノ埼に来る前どこに住んでたんですか?」 「もっとごちゃごちゃしてて、人が多くて、空気の汚いところだよ。星座なんて全然見えなかった」 「なら、どうして望遠鏡を……?」 「父の趣味が天体観測だったんだ。子供の頃にこれをくれた。あっちじゃほとんど役に立たなかったけど、 星が良く見える土地に行くことがあったなら持っていけばいい、なんて言われてね。実際持ってくる時はびくびくしてたよ」 天体望遠鏡って高いんだよなぁ、と頬を掻く鈴波さんに、私は思わずくすっと笑ってしまった。 そんな姿が簡単に想像できて、しかもすごく似合っていたものだから。 「あっ、すみません。笑っちゃって」 「いいよ別に。さ、そろそろ望遠鏡で見てみない?」 「……私が使ってもいいんですか?」 「そのために持ってきたんだけど。もしかして、壊しちゃわないかって思ってる?」 「いえ、……えっと、ちょっとだけ」 「大丈夫だって。無茶な動かし方をさせない限りは平気」 そっと肩に手を置かれ、私はそれに従うように腰を落とした。 鈴波さんが望遠鏡の向きを微調整し、レンズを覗くように示す。 心臓の高鳴りを感じながら、ゆっくり右目を近付け、そして私は、 「わぁ……!」 ―― 掴めそうなほど近くに、星を見た。 普段から飽きるくらい眺めているものでも、こうして目にすると印象が違う。 淡く輝く光は色までわかるし、不思議とひとつひとつに個性があるようにも思える。 「安物だからちょっと融通利かないけど、動かす時はここをこうやって」 「はい。……すごい、綺麗」 嬉しそうに笑みを漏らす鈴波さんの視線を受け、しばらく空を見つめていた私はゆっくり望遠鏡から離れた。 「もういいの?」 「……何というか、見過ぎて飽きるのは嫌かなって思って」 「あはは、そんなこと気にしないでもいいのに。……よければ、また一緒に見よっか」 「是非お願いします」 「じゃあ片付けよう。次からは星宮さんが組み立ててみる?」 「はい。鈴波さんが教えてくれるのなら」 「よしわかった。約束するよ」 二人で解体し箱に戻す途中、そんな会話の中で交わした小さな約束。 きっと守ってくれると信じている。だって、鈴波さんはそういう人だから。私が信じられる、人だから。 「……だからって、これはないんじゃないかなぁ」 少し寒いけど、星が見える絶景だしちゃんと布団を被れば何とかなると思って、縁側で寝る、と言ったところまではよかった。 でも、そこで「風邪をひくから駄目です」なんて制止されて、無理かなあと呟いたら、 「なら私も縁側で寝ます」 「ああ、なるほど。確かに二人で寝ればあったかい、ってそれはちょっとまずいんじゃ……」 「その辺は気にしないでください。小さい頃はよくお父さんと同じ布団で寝てましたから」 「絶対にそういう問題じゃないと思う……」 ちょっとちょっと星宮さん、それは年頃の女の子としては無防備過ぎやしませんか。 可能な限り遠回しに止めておいた方がいいと釘を刺したつもりなんだけど、意外に頑固なところがある娘さんで。 あれよあれよという間に明成さんから許可が下り(いいんですかそれで)、ただでさえ狭い縁側に布団が並列。 ここで背中を向けるのは失礼だし、かといって正面に星宮さんがいるのも据わりが悪い。 結局私は仰向け以外の選択肢がなく、夜空は確かに素晴らしいけど、何か釈然としないのだった。 しかしやっぱり縁側は寒い。遮る物がないと風が直で来るから肌身に染みる。 ぴっちり布団を被っても、ほんの僅かな隙間から滑り込んでくる空気は容赦なく身体を冷やしていく。 それは星宮さんも同じようで、視界の端に小さく身を縮める姿が映った。 ちゃんと眠れるだろうか、と心配になりつつも目を閉じる。と、隣でごそごそと動く気配。 音は徐々に近付き、こっちの掛け布団がゆっくりと捲られるところで私は横を向いた。 でも、一瞬早く二の腕に布団以外のものが触れる。……星宮さんの、手だ。 「……何してるの?」 「鈴波さん、寒くないですか?」 「寒いけど……それと今の状況に何の関係が?」 無言で星宮さんは身を寄せてきた。 「いや、待って星宮さん!」 「静かにしてください。もう夜ですよ?」 私は悪くないはずなのに、窘めるような口調を聞いて身体が強張ってしまう。 あまりにも警戒心のない行動。けれど逆らうのはどうにも心苦しく、せめてもの抵抗として背を向ける。 さすがに意識することはない。ないんだけど、年齢に関係なく女性とは縁がなかったのも確かで。 気恥ずかしさが湧き上がってくるのも仕方ないと思う。ああ、自分でも頬赤いのがわかるよ……。 そんな私の心境を察してるのかどうか、星宮さんは腰に手を回し、さらに密着してきた。 子供が同衾した親のぬくもりを求めるような、どこか幼い動き。 「これで、きっと風邪はひきません」 「まあ……だろうね。うん、確かにあったかいよ」 背中越しに呟く星宮さんの声。 その中に、気の所為でなければ寂しそうな色が含まれていたから―― 。 すっと肩の力を抜き、私は星宮さんの方に向き直った。 女の子らしい小さな身体を、なるべく自然に、下心が感じられないようそっと抱きしめる。 「……昔、母によくこうしてもらいました」 「うん」 「幼い私は、母に力いっぱい抱きついて、その温かさを感じていて……」 彼女の目は、遠くを見ている。 私が知らない過去を。おそらくは、とても大事な記憶の中の風景を。 「……鈴波さん、おかあさんみたいに、あったかいです」 「………………」 「だから私、今、幸せですから、ね」 「……うん。そっか」 頭を抱えるようにして、柔らかなその髪を優しく梳く。 この子は、本当にいい子だ。今時希少なくらい純粋で素敵な育ち方をしている。 やがてすうすうと穏やかな寝息を立て始めた少女が、今日は幸せな夢を見られるように、と祈った。 光を散りばめた十一月の夜空を見上げ、もうすぐ一年か、と思う。 流れる四季と共に歩んだ日々、私がそこで得たものは何だったろうか。 「霧ノ埼、か」 ……ここに来て、よかった。 そんな気持ちが、きっと答え。 星は巡り、二度目の冬が訪れる。 忘れないでほしい。 まだ、何も始まっていないということを。 これから、彼らは歩んでいくのだということを。 それぞれの想いは未だ胸の中。 彼らは手にしていない。 理解に至れる、心の強さを。
first season "start" end.
and start the second season "only understand". back|index|next |