重い瞼を擦り、あたしは起き上がった。
騒がしく耳障りな音を撒き散らす目覚ましのタイマーを止めて、しばらくぼんやり。
上手く考えがまとまらなくて、まだ半分くらい夢心地だった。

「……うーん、っと」

睡魔の誘惑を振り切ってから、両腕を天井にぐっと伸ばす。
そうしていると眠気が飛んでいくようで、なかなか気持ちいい。
何となくポーズが似てるから「オラに元気を分けてくれー」とか言ってみちゃったり。
まあ、そんな馬鹿なことをしてるとあっという間に時間が過ぎちゃうから、適当なところでストップ。
あたしはベッドからずりずりと出て、寝間着姿のまま部屋を後にする。

一階が桜葉亭のお店と調理場なら、二階はあたしとお母さんの住居だ。
四つある部屋もひとつは物置扱いで、もうひとつはお父さんが死んじゃってから使われてない。
定期的にお母さんが掃除をしてるのは知ってるけど、たぶんこれから先、そこに誰かが入ることはないと思う。
階段から見て左手に位置するのがあたしの部屋。板張りの床は裸足だと少し冷たくて、 あんまり足を付けっぱなしにしないよう急いで小刻みに駆け降りる。たんっ、と着地すれば一階、リビングはすぐ近く。

「おはよー」
「おはよう、佳那」

いつも通りお母さんはもう起きていて、今は台所でフライパンを振るっていた。
冷蔵庫から牛乳を取り出し、一瞬そのまま飲もうかと考えたけど、行儀が悪いと窘められるのは目に見えてる。
食器棚を開け、普段使ってるコップも回収。とぽとぽと牛乳を八分目くらいまで注ぎ、一気飲み。

「ぷはーっ、やっぱり寝起きは牛乳だねっ」
「二杯目は少し待ってなさい。もうご飯ができるから」
「はーい」

なるべく行儀良く椅子に座って待機していると、簡単なおかずの乗った皿が置かれていく。
それを見たあたしは立ち上がり、自分でお茶碗に白米を盛った。
今日はそれなりにお腹が空いてるからこんなもの、って調子で、毎回分量は違う。
お母さんにもどのくらいがいいかを尋ね、あたしのより少なめに入れて準備完了。

「いただきまーす」

二人きりの朝だけど、寂しくはない。
ただ、朝はどうにも慌ただしいからそんなゆっくり食べてる時間が取れないわけで。
楽しい会話は夜に後回し、ぱぱっと済ませてごちそうさま。
洗面所に向かい、顔を洗って歯を磨いて、それから自分の部屋へ一度戻り、着替えを取ってきてから朝風呂に。
学校では気の合う友達、みたいな接し方を男女問わずされてるけど、あたしだって一応女の子だ。
人並みには身嗜みに気を使うし、寝てる間に掻いた汗とかも気になるもの。
けれどそんなに朝は時間が掛けられなくて、結局十分ほどで出てしまうあたしは女としてまだまだ未熟なのかもしれない。
……お母さんに迷惑が掛かるんなら、未熟でもいいけれど。

さて、これで平日なら制服姿で行ってきます、と言うところなんだけど、今日は休日。
絶対外せない約束とかがない限り、お店の仕事を手伝うようにしている。
といってもさほどできることはない。あたしがやれるのは、焼き上がったパンの配膳とお会計くらい。
それでもやっぱり一人よりは断然楽になるみたいで、お母さんに感謝されるのがあたしはすごく好きだった。

下準備が全部終わって落ち着くのは、だいたい開店の十五分前。
順次出来上がったパンをお店の棚に並べ、調理場と店先を何往復もしてへとへとになった頃、時計の針が九時を指す。
それが、桜葉亭の開店時間だ。

霧ノ埼は土地の特性上、住んでいる人が極端に少ない。
徒歩、あるいは自転車圏内の中で、あたしが知っている限り常連さんは両手で数えられる程度。
他のリピーターはほとんどが車で近くを通りがかる人達で、運転手さんが特に多い。
でもさすがに九時じゃ早くて、じゃあ何でこんな時間に店を開けてるかというと、必ず来てくれる人が一人いるから。
六十歳後半のおばあちゃん。お母さんのパンを一度食べて気に入ったらしく、毎日ちょこちょこ買ってってくれる。
売り上げで言えばそれは微々たるものだけど、満足した顔で去っていくおばあちゃんを見られるだけでも、 朝早く起きて頑張った甲斐があるのよ―― なんて、お母さんは笑って言う。

あたしの周りは、お母さんみたいな人ばっかりだ。










お昼時になると、ぐんとお客さんの数が増える。
実は、桜葉亭は薄霧の方から山を越えて隣の町まで行くバスも通る、ここらじゃかなり珍しい舗装された道路のすぐそばにあり、 しかも結構バスの運転手さんやバス会社自体もいい加減で、自分が買いに行くからついでに皆さんもどうぞ、 みたいな感じでしばらく停車させちゃうものだから(桜葉亭前、なんてバス停が存在する)、嬉しいやら何やら、少し複雑な気持ち。
だから色々なのが飛ぶように売れ、あたしもお母さんも右へ左へ大忙し……なんだけど。

「霞さん、次はこれをお願いします」
「はいっ」

あたしがいるのに加え、今日は霞さんも手が空いてる日なので、大変な時間帯を三人で乗り切ることができた。
お母さんがパン作りに専念し、あたしはレジ、霞さんは配膳その他雑用に徹することで効率が格段に良くなる。
一時間くらいのラッシュが終わると、今度は閑古鳥が鳴くような暇さが訪れる。
そこでようやくあたし達は休憩。ちょっと遅めの昼食に、端っこが焦げたりして出せなかったパンをもぐもぐと。
前、ひなちんにその話をして「食べ飽きないんですか」って訊かれたんだけど、実はこれが意外と。
種類が多い上、やっぱりお母さんの作るパンはおいしいから、適度にローテーション組めばさほど気にならなかったり。

「そういや霞さん、本業の方はどうなの?」
「忙しかったらこっちには来れないよ」
「あはは、そりゃそうだね。……でも、喜んでいいのかなぁ」
「こちらとしては有り難いけれど、霞さんのことを思うと少し複雑ね」
「あ、いえ、僕はこれでいいんです。ほら、こうやっておいしいパンも御馳走になれますし」

細い見た目に反して、霞さんは結構食べる。
この人がいれば捨てるご飯なんて絶対出てこないだろうってくらいに食べる。
なので、言い方は悪いけど残飯処理役としても大活躍だ。真っ黒焦げじゃない限り口に入れてくれるし。
ひょいひょいと消えていくパンを見ていると、何だか一種の手品を前にしているようにも思えるから面白い。

ほのぼのと談笑する余裕すらある、一時過ぎから夕方に掛けての時間。
来客の波が途切れたところでお母さんを軽く休ませ、霞さんと会話を交わしながらぼんやり外を眺める。
店員としては些か態度が悪いとは自分でもわかってるけど、今来るような人はその辺をほとんど意に介さない。
遠くから自転車に乗ってやって来る人影を見つけ、あたしは苦笑した。
最近はほとんど毎日目にしてる顔。去年の冬に引っ越してきて、いつの間にか常連さんになっていた霧ノ埼の新しい住人。
正面のドアが開き、店員らしくぴんと背を延ばして「いらっしゃいませー」と告げる。少し親しみを込めて。
現れた人影―― 信一さんは、薄く笑顔を浮かべて「また来ちゃったよ」と答えた。
霞さんにも会釈と挨拶をし、慣れた手付きでお盆とトングを手に取る。
あとは棚の前で悩みながら残ったパンを選び、調子良くお盆の上に乗せていく。
必ず信一さんが買うのは、カレーパンとメロンパンだ。他は気分次第みたいで、あたしやお母さんが勧めたものや、 直感でおいしそうだと感じたものを適当に見繕っているらしい。
コンスタントにいっぱい購入してくれるのは嬉しいんだけど……あれじゃ三食パンなのかと不安になったりもする。
まあ、健康そうに生きてるからその辺の心配は無用みたいだ。

「……何か、信一さん、嬉しそうだね」
「そう見える?」
「うん。わくわくしてるというか、そんな感じ」
「正解だよ。ちょっとね、夜に行くところがあるんだ」

立ち話もそこそこに、信一さんは会計を済ませるとすぐお店を出て行ってしまった。
いったいどこへ向かったのか興味をそそられたけど、背中を追いかけるわけにもいかない。
少しだけ名残惜しい気持ちで見送り、またしばらくは霞さんとどうでもいいような話を続けた。

陽が完全に暮れ、夜になる頃に桜葉亭は閉店する。
具体的な時間を決めてるわけじゃなくて、夏なら遅いし冬なら早い、そんな割とアバウトな決め方。
外は明かり無しには出歩けないようになっちゃうから、買い物とかもだいたいあたしが夕方前に行ってくる。
表の鍵を掛け、後片付けをしたら霞さんは帰宅。たまに夕食まで付き合ってくれるけど、今日は無理とのこと。

「ではまた。次は……明後日に」
「はい、気をつけて帰ってくださいね」
「じゃあねーっ」

バイクに乗った霞さんが、颯爽と走り去っていく。
遠ざかる排気音が聞こえなくなるまで手を振り、あたしはお母さんと一緒にリビングへ戻った。
ここからは夕食の準備だ。朝よりは手間を掛けたものが、一時間ほどで食卓に並ぶ。
そうして話すのは、学校での出来事やひなちんと遊んだ時のこと。あるいは、今日来たお客さんのこと。
霞さん、忙しくない日は泊まっちゃえばいいのにね、なんてお母さんに言ってみたりもしたけれど、 お茶を濁すように微妙な笑顔でさらっと流され、何となく含みっぽいものを感じ取ったり。
ごちそうさま、は親子一緒。あたしがお皿を片付け、お母さんはそれを洗う。 その間にテーブルを拭き、汚れた布巾をお母さんにゆすいでもらいつつ、軽く水を切った食器を拭いて棚に戻していく。
全部終わったら今度はお風呂。もうこの歳になると二人で入るってことはないけど、少し寂しく思うこともある。

交替でお風呂を済ませたら、バスタオルとマットを投げ込んで洗濯。
終わるまでの間、テレビを見たり本を読んだりして時間を潰し、それからお母さんと丁寧に干し始める。
なかなかあたしは上手く皺を伸ばせなくてお母さんに教えてもらうんだけど、未だにお母さんほど綺麗にはできない。
そこはたぶん年の功なのかな、と思い、でも口には出せなかった。年齢の話はしない方が賢明。

洗濯物もきっちり干したら、もうおやすみだ。
だいたいいつも十時頃で、同級生達からしてみれば早いらしいけど、 五時頃には起きなきゃいけないお母さんのことを考えれば、もう少し早くてもいいくらい。早寝早起きで損はしないし。
一階の電気を消し、二階でおやすみなさい、の言葉を互いに告げる。
それぞれ自分の部屋に入り、あたしはベッドに飛び込んで、もそもそと毛布を被った。

秋の星空が窓から見える。
まだそこまで冷え込まないからカーテンは開けたまま。
ぼんやりと瞬く無数の光を眺め、眠気が来ないかと待ってみるも、なかなか睡魔は頑張ってくれない。

……どうしてだろう。
特別なことなんて何ひとつなかった日なのに、胸の中が、こう、もやもやしてる。
それがいったいどんなものなのかを考えると余計目が冴えてきちゃって、泥沼に足を突っ込んだ気分だった。
うーん、うーん、と悩むことしばらく。……結局、答えは出ない。

「ん、どうせ考えたってわからないんだし、忘れちゃおう」

目をきゅっと閉じて、全身の力を抜いた。
このままこうしていれば、いつの間にか眠って気付かないうちに朝が訪れるだろう。

明日は学校。
きっと、変わり映えしない日常が、また始まる。





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