秋の空は高い。 薄汚れた袖で額の汗を拭いながら見上げると、憎たらしいほどの青が目に入った。 ぽつりぽつりと掛かる雲は、陽光を遮ることなく流れている。 肌を焼く光と熱。それは夏の頃に比べれば緩いけれど、わたしの露出した皮膚を浅黒く染めるのには充分だ。 「……でも、随分涼しくなってきた」 九月も終わりになると風が出始める。纏わり付くような熱風とは違う、ひんやりとした秋風。 ほんの一ヶ月前はもうこの時間だとびしょびしょになっているはずのタオルも、今日はまだ湿り具合が少ない。 洗濯物も減るし何より過ごしやすいので、わたしとしては大歓迎だった。 「ふ、んっ!」 気合いと共に育った野菜を引っこ抜いていく。都会の人間なら買わないような、少々歪な形をしたものだ。 ツテで薄霧の方に取引先がひとつあるが、大手の店には売れないからという理由で買ってもらえない。 農薬も化学肥料も使わず育てると、おいしくなる代わりに大変な苦労を要求される上、さして儲かるわけでもないのだった。 なら何故わたしは、時勢に逆らった作り方を固持しているのか。 ……それはやっぱり、自分で食べておいしいものじゃなければ満足できないからだろう。 畑を耕し、種を、実を植え、一日の大半を掛けて作物に注意を配る。 虫が付けば自作の除虫剤で殺していき、逃した分は手で潰す。雑草は必ず抜き、育ち具合を見て栄養にも留意する。 毎日欠かさず畑の様子を確かめ、そうして春に植えた作物は夏にすくすくと成長し、秋になってようやく収穫の目処が立つのだ。 今わたしが抜いては籠に放り込んでいる野菜の数々。これらを食べられる状態に持っていくまで、どれほどの汗を流したことか。 苦労を認められたい、という気持ちも、勿論ある。 だが、何よりわたしが求めているのは、自分が作ったものを食べた人達が、おいしいと言ってくれること。 その瞬間、疲れは綺麗に吹き飛んで、また明日も、明後日も、頑張っていこうと思える。 みんなの言葉を聞くために、驚き顔や笑顔を見るためにやってると言っても、決して過言ではない。 わたしは若輩者だ。 霧ノ埼で畑仕事をしている者の大半はお年寄りで、わたしくらいの歳の人間が畑を耕しているのは未だに一度も見たことがない。 彼らの子や孫は、そのほとんどが薄霧、あるいはもっと栄えた町に出て行ってしまっている。 引き継ぐ者が年々減っている現状、苦労に見合わないこの仕事を好んでやる酔狂者は、本当に少ないらしかった。 「まあ、こんなものか」 もう収穫しても大丈夫そうなものを全て取り、わたしは籠を背負う。 色とりどりのそれらは当然集まれば相当な重量で、両肩に掛けた紐が服にめり込み、ずっしりとした重さを伝えてきた。 疲労の溜まった身体にこれはかなり辛い。が、その程度で根を上げるような鍛え方もしていない。 元々畑仕事は重労働だ。初体験の人が真面目にやれば、翌日は確実に筋肉痛になるほど。 わたしも当初は身体の節々が痛まない日はなく、途方もない作業量に泣きかけたこともあった。 それでも人間慣れるもので、二ヶ月もすれば溜まった疲れも持ち越さないようになってくる。 自分が日に日に強くなっていく感覚は、楽しく、そして嬉しいことだった。 家に戻ってまずするのは、収穫した野菜を洗うことだ。 土に塗れた作物は、それぞれ水洗いするとかなり見栄えが良くなる。 比較的デリケートなものは手洗い、大根などちょっとやそっとじゃ落ちそうにないものはたわしを使う。 きっちり土を取ったら保管場所に仕舞う。冷蔵庫ではないが、室温で保存できるところだ。 そこから自分の食事に抜き取ることもあれば、取引に使えないようなのを近所の人達用に格安で売ることもある。 わたしは生活に困らない程度金が稼げればいいから、妥協できる部分、気楽に考えてもいい場面ではそうするようにしている。 ある意味では、みんなの感謝がお代みたいなものだろう。 今日は早めに作業も終わり、久しぶりに部屋の片付けでもしようかと思い至った。 最近散らかしっぱなしで悪い傾向だなと自覚はしていたのだが、どうもタイミングを逃したまま放置していた。 まあ、いい機会だ。しっかり整理整頓をして、久々に宴会の誘いでもしよう。 「と、その前に着替えるか」 動けば当然汗も掻く。肌に張り付く服の感触にも慣れたが、不快なことに変わりはない。 この場で着替えたって誰に見られることもないのだから、人目を気にせず脱ぎ捨てて、半裸姿で自室へ新しい服を取りに行った。 箪笥には同じような上下が複数枚畳んで入れてある。どれもシンプルなデザインで、白以外の色は少ない。 汚れやすいのが難点だが、外にいることが多いわたしは黒い服をあまり着られない。夏は暑さで倒れてしまうからだ。 一応帽子を被って作業するとはいえ、熱を蓄える黒が畑仕事に向かないのは確かだった。 ふと箪笥の中身を眺め、まだ働いている間は半袖でも平気だが、そろそろ衣替えをした方がいいかもしれないと思った。 薄手の白いシャツとロングのジーンズを着る。 下着は面倒臭いので後回しにした。タオルと脱ぎ捨てた服を洗濯機に投げ込み、とりあえず居間の片付けに取り掛かる。 よく見ればここ数日のうちに飲んだビールの缶がそのままで置かれている。ゴミも散らばっていて、我ながら酷い。 皿も水に浸けてある分まだマシだが、流し場に積んであるそれらは明らかに一日で使われる量ではなかった。 正直に言えば、片付けは苦手だ。仕事にかまけて他が疎かになるのも、わたしの悪い癖だろう。 しかし放っておけばさらに酷くなるのは間違いない。さっさと手を打つのが吉だ。 ゴミは分別して捨て、ビール缶は水洗いをしてからサンダルを履いて潰す。雑巾の上でやれば床は傷つかない。 食器も丁寧に洗剤を付けたスポンジで磨き、水で流した後は拭いて仕舞った。一瞬どこに何を入れればいいのか迷った。 「……ふう」 居間が綺麗になったのは、三十分後のことだった。 ゴミ袋は燃える燃えないの両方とも六割ほどが埋まり、まだ口を縛るには勿体ない。 なので折角だから、この気持ちが萎れる前に自室の整理もしてしまおう、と決めた。 適当に掃除こそしているものの、本格的な片付けはここに住み始めてから一度しかしていない。 それも、あまり身を入れたものではなかった。特に押入れには片っぱしから色々と放り込んでいるから、きっと恐ろしいことになっている。 小物や何の用途があるのかよくわからないものがごっちゃに仕舞われている魔窟。早い話が簡易物置だ。 開くのが少し怖くもあるが、いい加減やらなければ余計に混沌と化す。このまま勢いで終わらせてしまおう。 「ならついでに、衣替えの準備もしておくか。……夜まで掛かりそうだな」 苦笑して、ふたつのゴミ袋を抱えながら自室へ入る。 普段布団を敷く辺りに転がった本やら何やらを元あった場所に戻し、箪笥を開いていく。 半袖や短パンはいくつか残しておくが、量があっても冬になれば着る機会は減るだろうから遠慮なく抜く。 冬物は明日にでも引っ張り出しておくとして、これでだいぶ箪笥の中はスカスカになった。 さて、いよいよ本題、押入れの整理だ。 襖で仕切られた押し入れは、左上が布団の収納場所。 隣、右上は替えのタオルやバスタオル、マットなどが引出しに詰められている。 左下はストーブ、扇風機、その他諸々の保管場所。 そして右下が目的のスペース、簡易物置。 放り込みやすいからという理由で使われているそこは、ぐちゃっと様々な何かが積まれ、微妙なバランスで形を保っていた。 中のひとつ、大きめのものを引っ張って抜き取る。……途端に崩れて部屋の方へと流れてきた。 思わず、うわぁ、と呆れた色の声が漏れてしまう。控えめに形容しても、酷い。 一目見ただけで要らないとわかる、何故とっておこうと思ったのか自分でもわからないものが大量に眠っていた。 何となく捨て難い、昔旅行した時買ったお土産。近所の知り合いからもらった置物―― 。 選別して、少しでも必要ないと判断したものは容赦なくゴミ袋へ投げ入れた。こういうのは割り切りが肝心だ。 そして、長い時間を掛け『要るもの』と『要らないもの』を分け終え、最後に残ったのは、小さな段ボール箱だった。 こんなものはあったろうか、とわたしは首を傾げる。 箱はガムテープできっちりと封をされ、かなり埃を被っていた。素手で触りたいとは思わない。 とりあえず箱を取り出し、掃除機で押入れ内のゴミや埃を吸い取ってから、雑巾で綺麗にする。 それからわたしは箱を見やり、どうしようか悩んだ。頭の隅に、何かが引っ掛かっていて、でも思い出せずもどかしく感じる。 結局、開けてしまうことにした。 どうして自分がわざわざ封をしてまで仕舞ったのか、その意味には気付かないまま。 ガムテープを剥がす。上を開くと、中にあったのは厚い冊子だった。 表紙には『三十一期 卒業アルバム』と書かれている。ああ、確かこれは……そう、高校のものだ。 懐かしさに小さく頬を緩め、アルバムの適当なページに目を通す。ぺらぺらとめくり、その度昔を思い浮かべて苦笑した。 これは、捨てられない。大事な思い出のひとつだ。止まらない手は最後の、クラス全員で撮った集合写真があるページを開き、 ―― わたしは、凍りついた。 気付けばアルバムを乱暴に閉じている自分がいて、 気付けば再びそれを仕舞った箱に、厳重にガムテープを張り付ける自分がいた。 押入れの奥深く。他の雑多なもので埋めるかのように、隠すかのように、わたしの思い出を封じ込める。 破り捨てなかったことを、褒めてほしいくらいだった。 あれは、いけない。前にも同じ間違いをしたな、と今更ながらに想起し、忘れていた馬鹿な己を嫌悪する。 「……ああ」 わたしはまだ、何もかもを受け入れられない子供でもあるのだ。 震える手が、身体が、それを物語っている。過去を直視することが恐ろしくて。 その日の夕食は、いつもより簡素なものになった。 真面目に作る気が、起きなかったから。 我ながら面倒な仕事に就いたものだ。 それでも辞めようと思わないのは、きっと自分に向いているからだろう。 何だかんだで若い馬鹿どもの世話を焼くのも嫌いではないし、多少は世の役に立っている、という自負もある。 働いた分、きちんと金が入るのも重要なことだった。妻子持ちの俺には、とにかく安定した収入がなければいけない。 最大の資本である身体を壊せばそれまでだが、健康さにかけては自信を持っている。 昔から滅多に体調を崩さない丈夫な肉体を維持し続けてきたのだから、それはある意味当然のことかもしれなかった。 工事現場というのは、とにかく体力と気合と根性を要求される場所だ。 するべきことによって仕事の内容は様々だが、総じて力を使う。貧弱な人間には勤まらない。 ただ、デスクワークも少なからずこなさねばならないし、筋肉馬鹿ばかりでは人員が足りないのも確か。 その点、信一には感謝している。特に俺と同年代の奴らは、パソコンなんて触ったことがないようなのばかりだからだ。 大概字も下手糞だし、書類の作成などを任せられるのは本当に少ない。 些か抜けてもいるが、適度に頭の回る信一を、俺は初めて会ってからだいぶ可愛がってきた。 贔屓目も、まあないって言えば嘘になる。しかし、ひたすら真面目に仕事をこなす姿には好感を持てた。 ひょろっとした見た目、ぽっきり折れそうな細腕、それでどうして工事現場の仕事なんか選んだんだよ、と前に訊いた時、 「多少辛くても、辛い分稼げますから。今はちょっと、お金がどうしても必要なんです」 苦笑しながらも手を止めないこいつを放っておけないと思ったのは、おそらく俺の性分だろう。 頑張ってる奴には相応の対価を掴ませてやりたい。親父がそういう人間だったから、その背中を見て育った俺もそうだった。 色々なことを話した。夢のことも聞いた。相談にも乗った。可能な限り、力になった。 そうして今、あいつは念願の店を構えている。まだ俺は一度も顔を出したことはないが、充実しているらしい。 ちょこちょこ手伝いを承諾してくれる信一は、会う度教えてくれるからだ。 ……お客さんはほとんど来ないけど、すごくいい場所です、と。 なら俺には何も言うことがない。頑張った分、ちゃんと幸せになってくれればいいと思う。 「……ただいま。今帰ったぞ」 鍵を開けての第一声は、囁くような音量。 時刻は深夜、どう考えてももう寝てしまっている妻と子供を無理に起こしたくはない。 仕事に理解を示してくれてはいるが、やはり一緒に夕食の席を囲めないのは心苦しかった。 三人でいられるのは朝のひとときくらいで、小学生になった娘は学校に出かけ、自分も昼前には仕事に出てしまう。 休みも不定期な俺はなかなか二人と予定が合わず、家族サービスができないのは本当に申し訳なく感じている。 汗臭い服を洗濯機に突っ込んで風呂に入る。バスタオルとマットは妻が置いてくれていた。 さっさと身体を洗い、湯船に浸かる時間も五分は掛けない。ほとんど烏の行水だ。 それなりに温まって、それなりに汗が流せればよかった。重い溜め息を吐き出してから風呂場を後にする。 寝間着に着替え、ようやく一人で眠れるようになった娘の部屋に向かう。 穏やかな寝顔を見ると、健やかに育っているな、と安心できた。 そっと頭を撫でる。目を細め僅かに身じろぎしただけで、自分が嫌われていないように思うのはおかしいだろうか。 「そういえば、明日は印鑑が必要だったな」 普段は持ち歩いていないが、仕事で時折使うことがある。 自室の机の引き出しに仕舞ってあるそれを忘れないよう表に出しておこうと探しに入り、程無くして見つけた。 と、そこで俺の目にひとつのものが留まる。限界まで開けた引き出しの一番奥にひっそりと置かれたそれ。 ―― 封の空いた手紙。 一瞬手を伸ばしかけ、止めた。 もう用は済んだのだ。これ以上わざわざ暗い部屋にいる理由もない。 が、ほとんど何もない机の上にぽつんと乗った、フォトスタンドを最後に注視する。 映っているのは、自分を含めた三人。二人は女性だ。 旅行の時に撮ったそれは、緑の景色をバックに、カメラに向かって笑いかけている写真。 そう、確かあの時は通りすがりの人にカメラを渡して、無意味に肩でも組もうかとあいつが言って、それで―― 「………………」 胸に去来する感情は、懐かしさと、切なさと、それらを上回る思い出の痛々しさ。 長い間は見ていられなかった。視線を逸らし、妻が眠っている部屋へと戻ることにする。 ……久しぶりに、思い出してしまった。 もうしばらく会っていない親友のことを。数年前の過去を共有する、彼女のことを。 「元気で、やっているといいんだが」 願わくば、乗り越えていてほしい。 自分の力で、傷を癒していてほしい。 写真に映る、自分でも彼女でもない、もう一人の友人は……今はどこにもいない友人は、あの頃のまま、微笑んでいた。 back|index|next |