何となく、鳥の声を聞いたような気がして目が覚めた。
きっちり閉めた窓の方から、ゆるゆると冷たい空気が流れ込んできている。
前に住んでた場所とは比べ物にならないほどの寒さだ。数日前には既に知った感覚だけど、嫌なものは嫌。寒いものは寒い。
一瞬だけ脳裏に浮かんだ選択肢を即座に潰し、私は布団を深く被り直した。

「…………うぅ」

頭が重い。ずっしりと眠気が居座っていて、その所為で瞼は全然開きそうにない。
たぶんこの調子だと布団から出れば外は恐ろしく冷えていて、 板張りの床に足を踏み入れようものなら氷上歩行の感覚を味わうことになるだろう。 まだ室内用サンダルを発掘してないし、裸足で歩くのは絶対勘弁願いたい。

「もうちょっと、寝よう……」

唸るように呟いて、カーテンの隙間から陽射しが漏れている窓の反対側を向く。
暗い部屋の中で微かに吐く息は白く、室温の低さを如実に表していた。
昼頃になれば少しは暖かくなるだろうと思い、目を閉じる。……ああ、何だか吸血鬼にでもなった気分。

「……ん?」

ふと、何かとても大切なことを忘れているんじゃないかという考えが過ぎったけれど。
風前の灯火にも似た弱い思考は睡魔に吹き消され、緩やかに意識が遠ざかっていく。
完全に眠ってしまう前、代わりに小さな疑問が意識の隅っこを流れていった。

―― そういえば、今、何時だったっけ?










二度寝の時間はどれくらいだろうか。
カーテンが閉めっぱなしである以上、外の様子は僅かに射し込む陽の強さでしかわからない。
まだ少しばかり身体は眠っていたいらしく、動くのも億劫なので私は布団に包まったままでいた。

んー、と言葉にならない声を唇から漏らし軽く寝返りを打っていると、不意に規則的な音が響いた。
近くじゃない。玄関の方からだ。ぼんやり霞んだ頭で耳を澄まし聴き取ってみる。
コンコン、コンコン、と。弱い力で硬い物を叩いているような音。

(ああ、ノックしてるのかな)

何だかふわふわしてる。
薄く開いた瞳に映る景色には現実味がなくて、これはもしかしたら夢なのかもしれない、と思う。
そのうちノックの音が止んだ。代わりに、今度はきぃっと軋む音がこちらに届く。おそらく、玄関の扉が出したものだ。
……あれ、鍵は閉めてなかっただろうか。だとすれば無用心過ぎる。

次は足音。途中でごそごそと靴を脱ぎ、遠慮がちに上がって近づいてくる。
居間から左、横の縁側に出て、そこを真っ直ぐ進み右手、風呂やらトイレがある場所を抜ければ私がいる寝室に辿り着く。
一歩ずつ、一歩ずつ。その音を強くする足音だけが私の耳に入り、まるでホラーだなぁ、と心中で苦笑した。

やがてこの部屋のドアが開けられ、外の光が暗闇を払拭する。
布団に覆い被さるように、人影が見えた。小さく細い、華奢な姿。
影がしゃがむ。圧し掛かる形で私の背中側に手を伸ばし、

「起きてください」

その声だけは、現実味を伴って妙にはっきりと聞こえた。
疑問符が浮かぶ。さっきは夢なのかもしれないと思ったけれど、これは本当に夢なのかと。
囁きでは効果がないと判断したのか、布団ごと身体を揺さぶられた。
ゆさゆさ、ゆさゆさ、私の眠気を払うには些か弱々しい力で。

「起きてください」
「あ、う、う」
「………………えいっ」

悲鳴は言葉にならなかった。
可愛らしい掛け声と共に掛け布団が取り去られ、一瞬で外気に晒される。
陽が高くなっても、冬の空気は充分に冷たい。結果、私は跳ね起きた。
服の隙間から滑り込む風に思わず悶えていると、私を起こしたその人影が顔を覗き込むようにして正面に立った。

―― 少女だ。女の子、というのが一番しっくり来るかもしれない。
ありきたりな言い方をすれば、それなりに端整な面立ちをしている。
万人が美人と讃えるほどじゃないけれど、可愛さと凛々しさ、穏やかさと生真面目さがバランス良く同居したような感じ。
眉は若干細く、口元はぴっちりと閉まり、こっちを見つめる黒い瞳はとても綺麗だった。
染めた様子のない髪は腰の少し上まで伸びていて、これも艶やかな黒。前髪は適度に不揃いで、清潔感がある。
ぱっと見た限り身長は160cmもない。もっと低い……たぶん、155cm前後だろう。
深緑のセーターに、それより薄い色合いの、膝下までを隠すロングスカート。どちらも皺なく綺麗に着こなしている。
何となく、深窓の令嬢、という言葉が浮かんだけど、着物も似合いそうだと思った。

ちなみに私は、薄手のシャツにスウェットの上下。如何にもだらしなさそうな服装。
……正直、あまり他人に見せたくない格好だ。いやまあ、それはともかく。

「えっと……君は、」
「おはようございます」
「あ、うん、おはよう……じゃなくて、君は誰? どうしてここに?」

それが、さっきまでの出来事が夢か否かということに代わって出てきた新たな疑問だった。
鍵が開いてたのは単純に私の不注意だし、引っ越してきたばかりとはいえ泥棒さんが好みそうなものは結構ある。
でも彼女はどう考えたって、何かを盗みに来たわけじゃない。泥棒が家の人間を起こすなんて間抜けな話は有り得ない。
なら何故、どういった理由があって、わざわざ不法侵入紛いのことまでして私の布団を引っぺがしに来たのか。

その問いに答える前に、彼女はすっと視線を別の方に向けた。
つられて私も同じ方向を見る。そこにあるのは、カーテンが閉まったままで薄暗くわかりにくいけど、壁掛け時計だ。
短針が十一の僅か先を、長針が二十分辺りを指している。つまり、今は十一時二十分頃。

「表の張り紙に、開店は十時から、って書いてありました」
「………………」

さっきまですっかりさっぱり忘れてたことを、急速に私は思い出した。
昨日寝たのが遅くなったのは何のためか。ここに引っ越してきたのは、何をするためだったのか。
完全に覚醒した頭が、バラバラに撒かれていたピースを繋ぎ合わせていく。

「うわあああああああああああああああああ! 滅茶苦茶寝過ごしたぁっ!」

思わず叫ぶ。慌てて布団を飛び出し、慌て過ぎて足を滑らせ転び彼女に手を差し伸べられた。
情けなくも立ち上がるのを手伝ってもらい、平謝りしながら玄関の方で待っててほしいとお願いする。
すんなりと頷き納得してくれたことを有り難いと思いながら、私はとにかく大急ぎで着替えを引っ張り出した。
久しぶりの、盛大な寝坊だった。二度寝した自分が全面的に悪いけれど、よりにもよって今日じゃなくても、と凹む。
ズボンに足の爪を軽く引っ掛けもう一度転んだ。布団の上だったので被害は軽微なれど、鼻が痛い。
それでもどうにか着替え終わり、洗面所に向かう傍ら、私を起こしてくれた少女のことを考えた。

おそらく彼女は、この辺りに住む子なんだろう。
張り紙は昨日の朝方から貼ったもの。つまり、それから今日の朝までに前を通れば時間はわかる。
推測だけで言うならば、その間のどこかで彼女は張り紙を見て、開店時間を知った。
そして想像の通りなら大変嬉しいことに、最初の客として訪れてくれたのだ。しかし、十時になっても開く様子を全く見せなかった。
不審に思い、ノックしてみるも無反応。もしかしたら、と触れた玄関の扉は、鍵の閉め忘れで開いている。

「それで中に入ってきた……ってところかな」

だとすると、随分大胆な行動だ。
ちょっと無防備に過ぎる気もするけれど―― 幸いと言うべきか、私は彼女に危害を加えようだなんて考えもしていない。
むしろ、あのままなら昼過ぎまで寝てただろう自分を起こしてくれたことに感謝してるくらい。
閉まってた時点で諦めなかったのは、きっと彼女は、本当に心待ちにしていたのかもしれないから。

「さて、じゃあ行きますか」

お腹は空いてるけど、とりあえず後回し。
今は感謝の言葉代わりに、開店を急ぐとしよう。
洗面所を出た後、もう一枚だけ寒がりな身体を温めるための上着を羽織り、私は玄関の方、店舗部分へと足を運ぶ。
途中、通った縁側からは、外の景色が望めた。気持ちのいいほどに青く晴れた空が見える。

その時、改めて、私はここに来て良かったと、思った。





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