懐かしい、夢を見ていた。
初めてあの子と出会った時のことだ。
そう―― どんなに足掻いても上手く飛べない姿に、僕は自分を重ねていたんだった。

霧ノ埼に越してきたのは、一年ほど前。
辺りの雰囲気に不釣り合いな屋敷を興味本位で見に来る人も、当時は結構いた。
けれど誰もが一種の近寄り難さを感じて、結局僕達はすぐに孤立してしまった。
仕方ないだろうな、とは思う。東側に住む人はお年寄りが大半で、家も木造が中心。
もし僕が彼らの立場にあったなら、きっと進んで関わりはしないから。

別に、僕自身は近所付き合いがなくても平気だった。元々仕事柄、外にはあまり出ない。
家事は里がやってくれたし、時折実家に顔を出さなきゃならなかったけれど、そうでない日はずっと閉じ籠もっていた。

……正直に言えば、他人とどう接すればいいのかわからなかった。
特に霧ノ埼の住人は、初対面なのにもかかわらず気軽に話しかけてくる。
その度僕は口を噤んでしまって、言葉ひとつも返せなくて。
里は心配そうにしていたけど、彼女の期待には応えられないまま一ヶ月が過ぎ。
いつしか僕は、必要に迫られた時以外出歩かなくなっていた。それでもいいかと思っていた。
だけど仕事ばかりじゃストレスも溜まる。その日は朝からイライラしていて、気を紛らわせるために散歩をしようと決めた。

「おはようございます、透さん。今日は早いですね」
「ちょっと目が覚めちゃってね。今から散歩行ってくるよ」
「あ、はい。いってらっしゃい」

微かに里が頬を綻ばせたように見えて、申し訳なさを引きずりながら玄関で靴を履き、行ってきます、と囁く。
越してきたのが三月の終わりだから、もう五月を目の前にした時期だった。
都会とは比べるまでもない清涼な空気を吸い、幾分刺々しかった気持ちが穏やかになる。
何となく周囲に視線をやり、他人の姿が見当たらないことに安堵を得た。まだ、苦手意識があった。
目的地は決めず、適当にふらふらと歩く。屋敷を見失わない程度の場所まで、と一応の線引きをしておきながら。
東の山々から昇ったのであろう朝陽は眩しく、引き籠もり気味の僕には少しきつかったけど、心地良かった。
風が、匂いが、空の広さが、都会とはまるで違う。そんな世界の変化を僕は今更ながらに感じ、

「……ん?」

どこかから、小さな囀りを聞いた気がした。
初めは錯覚かと思い、でも、もう一度弱々しい鳴き声を耳にした時、僕は釣られるようにその音がした方へと向かった。

「あ……」

一羽の雀が道の真ん中で横たわっていた。
懸命に羽ばたこうとするけれど、左の翼を痛めているのか上手く飛べない。
他の仲間達が遠くへ行ってしまっても、この雀だけは取り残されてしまったんだろう。

……孤独な、子だ。

僕は名も無き雀に自分を投影し、共感した。助けてあげたい、そう素直に思った。
そっと拾い上げると、僅かに抵抗する。人間嫌いの鳥が今僕のことをどう見ているのか、それはわからない。 ただ、どんなに怯えられようとも、恐れられようとも、手放すことだけは絶対にしたくなかった。
とりあえず家に連れて帰り、インターネットで鳥類の看護の仕方を調べる。同時、この辺りで一番近い動物病院を検索。 やはりと言うべきか薄霧の方まで行かないとないようで、久しぶりに車を運転する必要がありそうだった。
一応免許は持っているけれど、ハンドルを握るのは約半年ぶり。ブランクの長さに少し不安を覚える。

「……でも、迷ってる暇はないか」

痛めた羽は動かしちゃいけない。なるべく安静にして連れて行かないと。
里に事情と行き先を告げ、付いていきましょうか、という彼女の気遣いをやんわりと断り、出発。
舗装されていない霧ノ埼の道は進むだけで細かな振動を車内に響かせる。
小さな、痛々しい鳴き声を背中に受け、僕はせめてこの子が苦しむ時間を一秒でも減らそうとアクセルを強く踏んだ。

片道およそ三十分。目星を付けた霧ノ埼にひとつしかない動物病院は、先に連絡を入れたこともありすんなり受け入れてくれた。
不思議と大人しい雀を診察した獣医さんは、翼の骨が折れてます、と言った。
必要なのは、何か添え木のようなもので固定し治るまでは決して飛ばないこと。
元よりこの子に他の選択肢はなく、僕は迷わず治療をお願いした。当然、お金も自分で出した。
獣医さんは別に構わないと言ったけれど、それでも。

鳥籠を買った。雀の生態と鳥類の飼い方を調べた。里には、新しい家族が増えたと伝えた。
本能的に理解しているのか、籠の扉を開けても外に出ようとしない雀を僕は眺め、いつしか親愛の情を抱いていることに気付く。
手を差し出すと、初めは触れもしなかったのに、二週間が経った頃にはおずおずと肩まで登るようになった。
可愛らしい僕の家族。一緒に暮らしていてないのは不便だからと、名前まで付けた。

―― 陽。
翼の折れたこの子が、いつか太陽が輝く空へ飛び立てるようにという願いを込めて。

安静にしてた甲斐があったのか、怪我自体は三週間ほどで完治した。
後遺症も残らず、今まで通り飛べるでしょうと獣医のお墨付きまで貰い、僕はその帰り道、迷っていた。
……本当に陽のことを考えるなら、ここで自然に還した方がいいんだろう。
この子は鳥籠の中にいるべきじゃない。仲間達と共に、どこまでも自由に羽ばたいていくべきだ。
でも僕は、陽がいる日常に慣れ過ぎてしまった。自分勝手だけど、一緒にいてほしいと思ってしまった。

それが伝わったのかどうかは、わからない。
ただ、結果として、陽はふたつの翼で鳥籠から飛び立ち―― くるりと空に輪を描いて、戻ってきた。
覚えている。離れていかなかった陽を見て、その時確かに僕は、安堵したんだ。

今になって考えてみれば、何だか皮肉めいていて少し可笑しい。
鳥籠の中の暮らしが嫌で逃げ出した僕と、自ら鳥籠の中の暮らしを選んだ陽。
僕達は似ているようで全然違う。だからこそ、心を通わせられたのかもしれないけど。

後のことは、語るには短過ぎる。
僕は陽と散歩に出ることが多くなり、自然に人付き合いが増えていった。
そんな僕を里は相変わらず良く世話してくれて、陽に関しても理解を示してくれたのはとても有り難かった。
白坂さんと知り合い、そこからあっという間に人の輪が広がって、昔の自分は何だったんだ、って感じだ。

「……本当に、ね」
「どうしましたか?」
「ちょっと、昔のことを思い出してたんだ。陽を拾った時のこと」
「ああ……あの時は透さん、思い詰めたような顔をしてましたからびっくりしたんですよ?」
「心配掛けちゃったよね。今も色々、申し訳ないと思ってる」
「いえ、いいんです。わたしは透さんのお世話をするのも好きですから」
「ありがとう……ふぁ。お腹いっぱいになったからかな。ちょっと眠くなってきたよ」
「最近お仕事が忙しいみたいでしたけど……少しお休みした方が」
「うん、そうする……」

お茶を注いでくれた里には悪いけど、温かいうちに飲み干せそうにはない。
自室に戻るのも億劫で、抗い難い眠気に逆らえず、僕はゆっくりとソファに横たわる。
小さくごめんねと呟くと、里は僕の頭のすぐ隣に座り、膝枕をしてくれた。
柔らかい。そう思う間もなく、意識が薄らいでいく。

こんな、日々が、ずっと続けばいいのに、ね……。










完全に透さんが寝入ったのを確認して、わたしは彼の髪にすっと指を入れて梳く。
そのまましばらく頭を撫で、恐る恐る頬に触れた。朝以外はあまり外に出ない透さんの肌は、人より少し白い。
けれども決して不健康そうではなく、血の通った頬は仄かにあたたかい。寝顔は穏やかで、優しい気持ちになる。

「膝枕なんてしたのは、何年ぶりでしょう」

わたしと彼が今の関係になってからは、たぶん一度きり。
元々あまり隙を見せない透さんがこうも無防備な姿をわたしに晒すのは、それこそ幼い頃以来だろう。

初めて透さんと会ったのは、わたしが八歳、透さんが七歳の時だった。
遠縁の親戚、本家筋の人間だと紹介され、随分暗い子なんだなと思った。俯きがちで、ほとんど喋ることのない男の子。
今はもう、あの頃の面影は残ってないように見える。鈴波さんが透さんのことを好青年だと評していたけれど、 わたしも長い付き合いでなければきっとそんな風に感じたはずだ。それほどまでに、透さんは変わった。

……もしかしたらわたしだけが、変わらずにいるのかもしれない。
たくさんのものが移ろっているのに、わたしだけが、どこかで置いてかれてるのかもしれない。

他人だったわたし達は、まず顔見知りになった。
何度も一緒にいて、遊び相手になった。
そうしたらいつの間にか、とっても大事な人になった。

でもわたしと彼を取り巻く環境は、変わらないことを許さず。
最終的には自ら望んで、わたしは雪草家、透さん専属の側付きとしてここにいる。
それくらいしか、彼のそばにいる方法は思いつかなかった。
透さんを朝起こして、ご飯を作って、仕事で忙しい時は気遣って、お客さんはわたしがもてなして、なるべく透さんには負担を掛けないようにして。 服も下着も洗って、家を綺麗に保って、側付きという大義名分で、透さんから離れずいつでも近くに居させてもらう。 わたしは、それだけで幸せだった。時折こうして穏やかな表情を見られれば、それで。

「……あら?」

甲高い囀りが透さんの部屋の方から聞こえてきて、わたしは首を傾げた。
朝の散歩を終えた後、透さんは陽を自由に飛ばせる。鳥籠に閉じ込めないのは、必ずあの子が帰ってくると知っているから。
いつもは夕方まで戻ってこないのに、今日は珍しいこともあると思う。

「仕方ないですね。名残惜しいですけど」

起こさないようそっと透さんの頭を持ち上げ、ソファに下ろす。
鳥籠の扉を開いてあげなければ、陽は自分の住み処に入れない。
まあ、それくらいならすぐに終わるだろう。そうしたらまた膝枕をしようと考え、わたしは笑みを漏らした。

……この穏やかな日常が、ずっと続けばいいのに。
逃避だと理解していても、そう思わずには、いられなかった。





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