星宮さんに教えてもらってから、私は割と頻繁に桜葉亭へ足を運ぶようになった。
暑い日はなかなか外出しようという気にならないけれど、朝食用のパンが切れた時はそれを理由に顔出しに行くことが多い。
結構な距離なので自転車に乗り、風を感じながらゆっくり向かえば見えるのは小さなお店。
近づくにつれ香ばしい匂いが鼻をくすぐり、この抗い難い誘惑に負けてついあれもこれもと買ってしまう。
冷めてもおいしいので多少は買い過ぎても問題ないとはいえ、ちょっと入り浸りな気がしないでもない。

「あら信一さん、いらっしゃい」
「どうも、今日もお邪魔します」

中に入ると灯子さんが必ず声を掛けてくれる。
桜葉亭の店主でもある彼女は大概レジの前に立っていて、時折ふっと裏に行っては焼きたてのパンを持って戻ってくる。
どうやら作る時間は明確に決めてないらしく、予想できる売れ行きを考えてある程度減ったものを追加する、という形だとか。
おかげで品揃えはいつも良く、私も安心して自由に種類を選べるのだった。

「はい、外は暑かったでしょう?」
「あ、ありがとうございます」
「おかわりもありますから、欲しかったら言ってくださいね」

ぼんやりと棚を眺めていたら、灯子さんに麦茶を手渡された。
確かに少し喉が渇いていたので有り難く頂く。氷の入ったコップを傾け、ぐい、と一飲み。
微かな苦味と冷たさが心地良かった。半分ほどまだ中身の残ったそれを一瞬どこに置くか迷い、近くの棚に乗せておく。
店内はクーラーで外よりも遥かに涼しく、しばらくは氷が溶ける心配もなさそうだ。
額の汗を拭う私の様子を見て、灯子さんは静かに微笑んだ。

「そういえば信一さん、お店の方は」
「見ての通りお出かけ中なので閉めてます」
「そんな適当で大丈夫なんですか?」
「元々星宮さんくらいしか来ないようなところですし、その星宮さんは今日来れないそうなので」
「こちらとしてはお買い物してくださって嬉しいですけど、経営に支障がない程度にしてくださいね」
「わかってます。……あ、佳那ちゃんがいないみたいですけど」
「今頃部活で汗だくになってると思いますよ」

前に、佳那ちゃん本人から自分は陸上部なんだと教えてもらったことがある。
種目は長距離で、普段走って学校に行ってるのも、持久力を付けるためらしかった。
……しかしこの暑さの中、強烈な陽射しに晒されながら走り回るって、もう絶対私には無理だよなぁ。

「んー、今日はこれと、これと……よし、こっちも」

トレイにひょいひょいとパンを乗せ、明日はどれを食べようか考える。
夏だからカレーパンなんかいいかもしれない。素朴な甘味のメロンパンも捨て難いし、 惣菜パンだけじゃなく食パンやフランスパンも実に素敵なおいしさだからどうしよう、などと迷っていた私の後ろで、 不安定そうにガタガタ何かが揺れる音が聞こえてきた。
唐突な事態に思わず振り向く。と、そこにはそれなりに見慣れた顔の青年が大きな鉄製のトレイを抱えてふらついていた。

「と、灯子さん、焼き上がったので持ってきました……っ」
「足下、気をつけてくださいね」
「は、はい……!」

って言ってるそばからバランス崩してる。
私は大急ぎでその辺にトレイを置き、身体が斜めに傾いだ彼を横に回り込んで支えた。

「うわ……っと、どうもすみません」
「珍しいですね。いつもなら危なげなくやってるのに」
「ちょっと最近仕事が忙しくて、あんまり寝てないんですよ……」
「あら、厳しい時はこっちを休んでも全然構いませんよ?」
「そういう訳にはいきません。本当に無理だって思ったらご厚意に甘えさせてもらいますけど、まだ僕は大丈夫ですから」
「霞さんは真面目だなぁ」
「別に、そんなんじゃないですって」

私の言葉に苦笑し、えっちらおっちらと大量の売り物を並べていくのは朝藤霞さん。
とっても気の良い青年で、歳は三十路一歩手前。だからってわけじゃないけど私より身長は高い。
透くんとはまた違い、細身ながらもどこか逞しい印象を受ける。なのにエプロンは妙に似合っていて、まあ、不思議な人だ。
桜葉亭のアルバイトとして働いていて、私とも面識があったりする。灯子さんや佳那ちゃんとは言わずもがな。
でも、何故か彼は元々就職済みで、具体的にどんな仕事かは知らないけれど、会社の規模とか内情の問題で結構暇らしく、 余った時間を有効活用するためにも桜葉亭に働きに来ているとのこと。

「元々はお客さんとして来ていたんです。いっぱい売り上げに貢献してくださったんですよ」

とは灯子さんの弁。
その縁あってか、人手の足りない桜葉亭は丁度簡単な仕事を探していた霞さんを雇うように。
話を聞く限り、毎日ぐだぐだの私と比べるのが恥ずかしくなるくらいちゃんとやっていて、 実際にこうして見ていても力持ちで有能なのは間違いなかった。今日のドジっぷりはむしろ珍しい。

「これは取っちゃっても?」
「いいですよ」

気を取り直し、私はトレイを再び持って霞さんのところから一個失敬する。
それは売り切れて棚には残ってなかったので、何となく食べてみようと思ったのだ。
人気商品故どうも今まで運悪く出会えなかったけど、焼き上がりの現場に居合わせることができてよかった。

「それじゃ、お会計お願いします」
「はい、どうぞ」

レジの前で灯子さんに品物の数々を渡すと、手早い動きで数字を入力し袋詰めしていく。
ひとつひとつの値段を覚えているのか、ほとんどレジの画面から視線を外さなかった。
ギリギリ二千円は超えない量で会計を済ませ、たっぷり中身の詰まった袋を受け取る。
がさりと乾いた音がして、持った側の手に微妙な重さが加わった。
これで一週間ちょっとの間は朝食に困らない。ほくほく顔で店を出ようとし、

「信一さん、ストップです」
「え、何か私、忘れてましたか?」
「とっても大事なことを。……はい、これ」

灯子さんに呼び止められる。
振り向き訊ねると、いつの間にか目の前まで来ていた彼女は私に何かを差し出した。
思わず反射で空いた左手を上げ、それを掴んでしまう。
冷たい水滴の感触に、いったい何を忘れていたのか、すぐ気づいた。

「あ、麦茶……そういえばまだ飲み切ってませんでしたね」

転びかけた霞さんを支えた時、置きっぱなしにしていたコップの存在がすっかり頭から抜けていったみたいだ。
間抜けな自分が少し恥ずかしくなり、妙な雰囲気を誤魔化すようにぐいっと残りを飲み干す。
ごちそうさまでした、とコップを返し帰ろうとしたんだけど、何故か灯子さんは裏に引っ込んだ。
それからさして掛からないうちに、透明な茶色の液体でいっぱいにしたコップを再び持ってきた。

「夏はちゃんと水分を取らないといけませんよ」
「えっと……」
「信一さんは他人じゃないんですから、遠慮なんてしなくていいんです」
「は、はあ……」
「まだまだありますから」

些か強引な灯子さんのお節介に私は微かに頬を緩め、この人には勝てないなぁ、と思った。
どこか、母や父と同じ匂いがする。けれど子供に見られるということが、不思議と嫌じゃなかった。

「人も少なくなってきましたし、霞さん、休憩しましょうか」

ひっそり忍び笑いをしていた霞さんもその言葉に硬直し、苦笑い。
桜葉亭での力関係が、何となく見えた気がした。










部活でお出かけ中の佳那ちゃんに会えないことを少しだけ寂しく感じながら、帰ってきた星見堂。
おやつ代わりにと早速もしゃもしゃと買ってきた中のひとつを頬張り、冷蔵庫の牛乳で流し込む。
一人暮らしだとつい注ぐのも面倒だからと紙パックの状態で飲んじゃうけど、正直あまり行儀は良くない。
現に今も、口の端から漏れた牛乳が細く流れ、顎を伝って床に落ちた。慌てて拭き取る。

「……よし、じゃあ始めますか」

さっさと牛乳を仕舞い、私は押入れと正対。
額に滲む汗は、きっと暑さから来るものだけじゃないだろう。
クーラーの電源は入ってるのに、身体の芯は仄かな熱を抱えている。
ごくりと大きく唾を飲み、

「えいっ!」

ご開帳。同時、積み上がっていた諸々の何かが私めがけて雪崩れ込んできた。
勢いに押し潰され、ついでに足を滑らせて一度は埋まったものの、どうにか体勢は立て直す。
本当の勝負はここからだ。目的のブツは、山と重ねられた要るのか要らないのか微妙な物達が築く壁の向こう。
姿こそ見えないけれど、一番奥には間違いなく、丁重に収めた箱がある。
私はそれを表に引っ張り出したかったのだ。

―― この家の押入れには、望遠鏡が仕舞われている。
どんな経緯で入手したのかという問いに答えるのは簡単で、天体観測が趣味だった父は、 昔気まぐれな星見に付き合っていた私に、年季の入ったその望遠鏡をくれた。
決して安くはない物だったし、子供心にちょっとした拍子で壊してしまうかもしれないと一度は受け取りを拒否したのだけど、 いつか俺がお前にやったみたいに、誰かに星を見せてやってくれと半ば押しつけるようにして私を頷かせた。
ここへ引っ越しする際にもまだ使えるんだからと持たされ、けれどそのまま埃を被っていたわけで。

ならどうして今になって使おうと思ったのか。これも単純な理由だ。
霧ノ埼は、夜空がとんでもなく綺麗だった。都会と比べ、星の見え方が全然違う。
瞬く光の数が多過ぎて星座の輪郭もなかなか掴めないくらいで、冬に私は一回屋根まで梯子でわざわざ上って空を眺めていた。
当然ながら寒かったけど、苦労した分、素敵な景色を拝めたと思う。

「……埃、だいぶ見事に積もってるなぁ」

屋根に上がらずとも星は見られるし、夏の夜は冬と比べてかなり過ごしやすい。
風鈴の音を聞きながら霧ノ埼の夏空を眺めるのは、きっと気持ちの良いことだろう。
私は掃除機を持ち出し、飛び散らさないよう埃を吸い取る。さらに濡らした雑巾で拭き、綺麗にしてから箱を開けた。
折り畳まれた白い望遠鏡が中にある。しばらく触れていないから、後でちょっと手入れをしておかなきゃならない。
それが終わったら……うん、今度星宮さんに提案しよう。
桜葉亭で買ってきたパンでもつまみながら、一緒に夏の星を見てみるのはどうかな、なんて。

でもまあ、何よりまずは……適当に詰め込んだままだった物を、整理しないと。
大小様々なそれらを一瞥して、今日はしばらく頑張らなきゃなぁ、と苦笑した。





backindexnext