夏になって嬉しいと思うのは、洗濯物がすぐ乾くことくらいだろう。
例えば農家の人達は、六月の長い雨空や作物を育ててくれる恵みの陽射しを毎年心待ちにしているのかもしれないけれど、 生憎基本的に引き篭もってばかりの商売なので、冷房もなしに室内にいるとあまりの暑さに何もする気がなくなってしまう。
止まり木もないのに騒がしく周りを囲むアブラゼミの大合唱がまたそれを助長するものだから、うん、起き上がりたくない。
小さな台所兼居間を半密室にして、除湿付き、設定温度も程々な冷房を効かせてみても、暑いものは暑かった。

「あー……でも、都会よりは涼しいんだよなぁ」

この辺りはアスファルトが少ない分、地面に熱が蓄えられにくい。
前に住んでたところより北に位置するので、幾分湿度も低く、風も纏わりつくような感じはさほどしない。
だから総合的に見ればかなりマシなはずなんだけど、霧ノ埼に慣れた身体はこの気候すら嫌に思うらしかった。
食料その他諸々の買い出しを昨日のうちに済ませ、しばらく出かける必要がないのは幸いだ。
私は手団扇ではしたなく襟の中をぱたぱたと煽り、せめて気分だけでも涼しくなろうと足掻いてみる。

「……大して変わらない」

当然だけど。
もぞもぞと転がりながら冷蔵庫に接近、一リットルの紙パック牛乳を取り出す。
さすがに横になったままじゃ無理なので立ち上がり、食器棚からコップをひとつ回収。
白く濃い液体を並々と注ぎ、一気にぐいっと飲み干した。
氷を入れずとも、しっかり冷えた牛乳はおいしい。喉を通る感覚は気持ち良く、ついもう一杯と調子に乗ってしまう。

「おっと、あまり飲み過ぎるのもいけない」

人より少し胃の弱い私は、水分を摂り過ぎるとすぐ腹を下す。
困ったことにその境界線を自覚し難く、気づけば緩くなってた、というのがしょっちゅうだった。
……ちょっと下品な話だけど、特に夏はトイレットペーパーを切らせない。買える時に安く揃えるのが重要。

飲み終わったら牛乳は仕舞い、使用したコップを手早く洗う。
冷たい水を手で浴びながら、後でお風呂に入るのもいいかもなぁ、と思う。
こうも暑いとみんな出歩きたくないだろうし、そもそもお客さんが皆無のこの店にそういう心配は無用だ。
入浴中にちょっと張り紙でもしておけばいいか、そう考えて実行しかけたところで、玄関の扉が動く音を耳にした。

「お邪魔します。……どこへ行こうとしてたんですか?」
「あ、あはは……いらっしゃい」

まあ何とも見事なタイミングで。
風に靡く黒髪を軽く手で押さえた星宮さんは、夏らしい薄手の私服姿。
淡い桃色の膝までをぴっちり隠すワンピースと、膝下まであるらしい(膝が見えないので断言できないけど)ハイソックス。
後ろ髪は髪留めか何かで結わっているけど、耳横の部分までは長さが足りなくて詰められなかったんだろう。
確かに、風が吹いたらちょっと鬱陶しいかなと彼女の仕草に関して納得した。

「学校は?」
「期末試験なので、早く終わったんです。家に一度帰って、着替えてから来ました」
「そっか。お昼は食べたの?」
「はい。そう言う鈴波さんはどうなんですか?」
「一応軽くね。夏はなかなか食欲が出なくて」
「ちゃんと食べないと駄目ですよ。何なら私が作ってもいいですけど」
「いやいや、そこまで迷惑は掛けられないって」
「今までにも充分迷惑は掛けられてると思います」
「……言うね」
「料理をするのは、好きですから」

私の皮肉をさらっと流して、星宮さんは冷蔵庫の中身を検分し始める。
台所の棚にも一通り目を通し、食材を選び出す。それらを見るにどうやら、

「パスタ?」
「夏らしく冷製です。さっぱりした味付けなら、あまり食欲がなくても食べられますよね」
「うわ、正直すっごく有り難い」

一時間は掛からなかった。完成品を前に、私は一度星宮さんを拝む。
実家から送られてきた自家栽培のバジルを香り付けに、トマトをふんだんに使った冷製パスタ。
いただきます、と今度は皿に手を合わせ、フォークで食べる。オリーブオイルを主としたドレッシングは決してしつこくなく、 トマトの爽やかな味と新鮮な舌触りが絶妙だ。添え物のサラダは先日蒼夏さんにもらった野菜のフルコース。
うまいうまいと言いながら食べる私の向かいで、星宮さんはサラダだけを上品にしゃりしゃり咀嚼していた。

「ごちそうさまでした。いや、本当においしかったです」
「そう言ってもらえるなら、作った甲斐がありました」

感謝の言葉を告げると、星宮さんは嬉しそうに微笑んだ。
これ以上手間を掛けさせるわけにはいかないので、洗い物は私がやる。
その間、星宮さんにはいつも通り本でも読んでもらうことにしたのだけど。

「ん、どうしたの?」

彼女は何も手に取らず、玄関の方を見つめ続けていた。
初め、外を眺めてるのかと思ったけれど、違うらしい。その視線が捉えているのは、扉の上にあるものだった。

「ずっと、気になってたんです」
「………………」
「あそこにぶら下がってるのって」

細い、女の子らしい指が指したのは、

―― 風鈴、ですよね?」










こっちに越してきてすぐの頃の話だ。
必要なものを揃えるため、霧ノ埼のそこかしこを回っていた私は、ある店を見つけて足を止めた。
人通りの少ない道にひっそりと佇む、小さな家。ガラス張りの店内には所狭しとばかりに、様々な色や形をした、 冬の季節になると滅多に見かけることのないようなものが並んでいた。
つい、気を引かれて私は中に入る。外気が室内に紛れ込み、売り物達が涼しく優しい音を立てる。

「……おや、もしや貴方、興味があるのですか?」
「いえ、何というか、珍しいなと思って」

店の奥に座る老婆がしわがれた声で私に訊ねた。
正直に答え、ぐるりと周囲を見渡す。

ゆらゆらと短冊を揺らしているのは、吊り下げられた無数の風鈴。

「確かに、今はそう思われていますね。……ですが、私は何も、夏に限定する必要はないと考えているのですよ」
「限定する必要がない、とは?」
「古来より、風鈴は世界各地で作られてきました。日本だけのものでないのは知っていますか?」
「えっと……中国に昔からあった、ということくらいしか」
「風の向きや音の鳴り方で吉兆を占い、当時はそれを占風鐸と呼んでいたそうです。 また、魔除けとして使われていた時期もありました。寺の四方に朱色の風鐸を吊るし、その音色で魔を祓っていたのでしょう。 今でこそ涼しさを象徴する道具として見られていますが、昔は呪術的な価値を見出し扱われていたのです」
「……なるほど。それは知りませんでした」
「魔除けとして使うならば、季節は関係ありません。魑魅魍魎の類は時間こそ気にするものの、 あまり気候に左右されない存在が多いようですからね」

冗談めいた言葉に、くすりと笑う。
どうやらこのおばあさん、偉く話し上手らしい。
引き込まれてるなぁ、と自覚しながらも、私は好奇心を抑えられなかった。

「貴方は、風が好きですか?」
「え? あ……そうですね、好きですよ」
「どのようなところが?」
「色々なものを、届けてくれるからでしょうか」
「もう少し、詳しく聞かせていただけますか?」
「その……風は、ずっと遠くから旅をしてきてるんだ、って考えたことがあるんです。 花の名残や雨の匂い、秋の紅葉や冬の白雪……季節の色とか、それこそ海の向こう側、私が見知らぬ世界の何かを携えて、 旅の途中に巡り会った私達に見せてくれるのかもしれない。……恥ずかしながら、そんなことを」
「いえ。全く恥ずかしいことではありませんよ。旅の途中……ですか。貴方は、良い詩人になれますね」

千切れんばかりに首を振って否定する。
こんな他人に聞かせるだけで羞恥プレイ確定の発言を本にして綴ろうものなら、間違いなく自殺ものだ。
私のリアクションに老婆は可笑しそうな顔をして、それから、傍らに置いてあった杖を取り、すっくと立ち上がった。
曲がった腰と、杖を突いて歩く姿が、重ねた年齢を感じさせる。
老店主は壁際に吊るしてあった売り物のひとつを紐掛けから外し、私の前にかざした。

「ここで貴方がお財布を持っていないと私は大変間抜けですが」
「あ、はい」
「よろしければ、こちらをお薦め致しましょう。どこか風の通る場所に吊るすと、良い音色を奏でますよ」

流されるまま、差し出されたそれを受け取る。
透明な青色の硝子には、僅かな濃淡のグラデーションが窺えるのみで、絵は描かれていない。
短冊も白紙で、その無個性とも言える素っ気なさが逆に気に入った。

「じゃあ、頂きたい……んですけど、あんまり値が張るとちょっと」
「千円でどうでしょう」
「え、そんなものなんですか? もっと高いと思ってました」
「良心的な価格が売りなのです。それにこの子は、貴方に貰われるのが一番いいでしょうから」
「わかりました。千円……で本当にいいんですよね?」
「疑り深い御仁ですね。心配しなくとも、まだ痴呆になってはいませんよ」
「……失礼致しました」
「少々お待ちを」

そう言って、風鈴を持ち奥に消える老婆。
しばらくして戻ってくると、風鈴は丁寧に包まれていた。

「僭越ながら、短冊には私が一筆書かせていただきました」
「そういうサービスでいらっしゃる?」
「書道を嗜んでいまして、友人に昔一度せがまれてから始めたのですよ」
「なら何て書かれたのか、家に帰って見るのを楽しみにします」
「ええ。ではお客様、またのご来店を」

不思議な人だったな、と思い、割らないよう気をつけて仕舞ってから家路に就く。
開店準備中の星見堂に戻り、取り急ぎ生物だけを片付けた後、まずやったのが風鈴の包みを解くことだった。
きっちりと重ねて折り畳まれた新聞紙を一枚ずつ剥がすと、厳重に守られていた中身が現れる。
指に紐を引っ掛け、左の手のひらで包むように持った。右手で短冊を摘まみ、書かれた達筆な字を見つめる。そこには、

「んと……『四季の風 呼び込む鈴の 響かせる 遠き旅路の 微かなる音』。……うわ、どうしよう、恥ずかしい」

だって、どう考えても。
私が口を滑らせた時の言葉を使った短歌形式の詩だ。
悪くない出来だとは思うけど、何分羞恥が先立ってまともに目を向けられない。

「……でも、来るだろうお客さんがこれ見たってわからないだろうし、大丈夫だよね、うん」

自分にそう言い聞かせ、玄関、店舗部分の入口にそっと風鈴を吊るす。
軽く開けて隙間を作れば、入ってきた僅かな風で、ちりんちりん、と涼しげな音が響く。
まあ、冬はあまり開けっぱなしにしたくないけど、素直にいい音色だと思った。

―― 以来、ずっと玄関に飾ってあるんだよね」
「そういうことだったんですか」
「想像よりもつまらない理由だった?」
「いえ。何ていうか、私にはそんな発想ありませんでした」

長々とした話を終えると、星宮さんはそんなことを呟いた。
玄関の風鈴、その短冊を手に取り、柔らかな動きで持ち上げる。

「そうですよね……。風は、たくさんのものを運んでくれるんですよね」
「たまに要らないのも運んできちゃうけど」
「もう、茶化さないでください。……私は、鈴波さんのそんな考えを、素敵だと思いますよ」
「う、今更凄い恥ずかしい話してたのに気づいた」
「ふふっ……ふあ、少し眠くなってきちゃいました」

唐突に、星宮さんが口元を手で押さえる。
小さな欠伸を私に見せないようにしながら噛み殺して、涙が薄く滲んだ目を擦り、ぱちぱちと瞬き。
しかし睡魔に逆らい切れなかったのか、彼女は失礼します、と靴を脱ぎ、居間に上がってきた。
きっと、眠気で色々鈍ってたんだと思う。でないと、その後の奇行としか言えない行動の説明が付けられない。

「すみません……どうしても眠くて……ちょっとだけ、寝かせて……くださ……」

言葉はそれ以上続かず、横になった星宮さんはすやすやと寝息を立て始めた。
いや、待って。あまりにも無防備過ぎる。危ない。
膝まで隠れてるとはいえ、今の彼女はワンピース、即ちスカート姿だ。
パンツルックとは比べるまでもなく、その危険性は高い。というかそもそも、仮にも私、男なんだけど。

「これって、一応」

信頼、されてるんだろうか。
私の側なら、こんなことをしても大丈夫だと。
手を出したり、ましてや襲うことなんて絶対有り得ないはずだ、と。

「……どうしよう」

勿論、何かをしようとは全く思わない。
けれども状況自体がかなりデッドボールで、もしこの現場を例えば偶然佳那ちゃんがやってきて見られたりなんかしたら、最悪だ。
起こしてしまおうか、と考えた。寝るのなら自宅に戻ってからの方がいいんじゃないか、そう言えばいい。
なのに、私は馬鹿だ。こんなにも安心しきった寝顔を見ると、到底起こそうという気にはなれないのだから。

リン、と風の音が聞こえる。
夏の音色は、どこか優しい。暑さを和らげるような涼しさがそう感じさせるのかもしれないけれど、本当はどうなのかわからない。
ただ、私が感じるのだ。春夏秋冬、風は季節によって様々な顔を、音色を持っている。
風鈴は翻訳機のようなもので、私達はそれを通し、風と会話できるんだろう、なんてことを考えた。
つくづくメルヘンチックだ。でも、たまにはそんなのも、いいんじゃないか。

「…………おかあ、さん……」

不意に、星宮さんが寝言を口にした。
それはどこか悲しげな、寂しげな感情を含んだ声で、私は一瞬強張る。
今、彼女はどんな夢を見ているのか。たぶん幸せなものじゃなくて、そして私には何もしてやれない。
でも、せめて楽になってほしくて、これくらいは平気だろうかと頭をそっと撫でた。
少しだけ、星宮さんの表情が和らぐ。素敵な夢に変わればいいと思い、しばらくの間、私はそうしていた。

私達二人を見守るかのように、ずっと、かぜのおとは鳴り続けていた。





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