六月も近くなると、毎日の天気は段々怪しくなってくる。
どんよりと灰色の雲が厚く空を覆い、ありきたりな表現をするならば、今にも泣き出しそうな、といった感じ。
昼なのに日光をほとんど通さない天蓋は暗く、見ているだけでも気が沈んでしまう。

「……雨、降るかなぁ」

鬱屈としながらも、まず考えるのは洗濯物が濡れちゃわないだろうかって辺り、一人暮らしの長さが窺える。
庭に設置した物干し竿、そこに並んだ服やら下着やらの乾きはいまいちで、空模様を見てると気もそぞろ。
外出もし難くなるし、これだから梅雨は嫌だと溜め息を吐くと、湿った風が店内に流れ込んできた。
都会のそれよりはまだ涼しく、けれど雨独特の形容が難しい匂いを運んできて、私は慌てて腰を上げた。

「やっば、こりゃちょっと放っておくのはまずい」

ドタドタと縁側まで急ぎ、不精故にきっちり揃えてない健康サンダルを足につっかけて庭へ。
左手で洗濯バサミを外しつつ右手はするりと生乾きのタオルや衣服を回収。
些か主張の激しい洗濯物を抱えて私が縁側に飛び戻るのと同時、ぽつりぽつりと雫が降ってくる。
それはすぐに数を増し、激しい土砂降りへと変わった。
あと少し取り込むのが遅れてたら、洗濯物は漏れなく全部びしょ濡れになってただろう。危なかったー……。

「仕方ない、中に干すか」

洗濯機を回したのは朝九時頃。今は昼食を済ませた一時過ぎだから、実質四時間ほどしか外には出せてない。
勿論そんな程度で乾くはずもなく、どれもこれも見事に湿ったままだ。
とりあえず雨が届かない場所に重ねて置き、私は再び庭に飛び出した。
我ながら馬鹿なことに、ハンガーなどの道具も取り込むのを忘れてたのである。

「うひゃあー! 冷たい!」

時期的にはまだ春、五月下旬の気温は決して高くない。
雨に打たれれば寒く感じるのも当然っちゃ当然で、今の私には微かな風も身体を冷やす敵だった。
とりあえずびしょびしょになったシャツは脱ぎ、洗濯機に投げ入れて替えの服を探す。
が、何故かその時の私は妙にテンションが上がっていた。昔実家にいた時、台風が来たことを思い出したのだ。
子供は風の子元気な子、というけれど、大人になるとそういう気持ちを忘れていく。
お気に入りの傘を持って楽しそうに散歩に出ることも、レインコートを買ってもらって嬉しくなったことも。

……だけど、ふと童心に帰りたくなる時というのはあって。
意味もなくはしゃいだり、公園ではしゃぐ子供に混ざって遊んだり、そんな文字通り大人気ないことをしたくなる。

どうしてか、自分でもよくわからなかったけど……何故か私は服を着た後、風呂場に洗濯物を干してから外に出た。
履き物はもうすぐ夏だからと一年ぶりに復帰してもらったサンダル。靴下はなし。
着直した上は薄く素っ気ないデザインの、一枚千円くらいで手に入るもの。
下はジーンズより多少は水を吸いにくい、これも千円ちょっとあれば買える綿の長ズボン。
購入した時に一応チェックしたのを覚えている。どれも、濡らすのは厳禁、だなんて書かれてはいなかった。

そう。
全く後先考えず、私はわざわざずぶ濡れになりたくなったのだった。










「……何をしてるんですか?」
「あ」

調子に乗って水を滴らせながら走っていたら、後ろからそんな声が背中に届いた。
振り向けば聞き覚えのある声の通り、そこには星宮さんの姿。
当然のように傘を差し、私を呆れの色が多分に混じった目で見つめている。
対する私は、家が近いにも関わらず雨合羽も傘もなしではしゃいでたわけで、現場を押さえられては言い訳のしようもない。
じーっ、とそれこそ穴が開きそうなほど見つめられ、早々に降参した。

「えっと……ごめんなさい」
「私に謝る必要はないと思います。それより、どうして傘も差さずに?」
「いや、まあ、大変説明しにくいんだけど……」
「言ってみてください。怒りませんから」
「ほらさ、こう、たまに思いっきり童心に帰って意味もなく走り回りたくなる時とか、ない?」
「………………」

何言ってるんですか、とその瞳は間違いなく語っていた。
星宮さんはまずびしょびしょの私、次にまだ降り止みそうにない空模様へと視線を移し、小さく溜め息をひとつ。

「もう……本当に変な人ですね、鈴波さんは」
「よく言われる」
「褒めてません」

それから自然な動作で、すっと傘を私の頭の上に差し出した。
途端、髪や肩、爪先などを叩いていた水滴の感触がなくなる。
遮られた雨粒が、緩やかに傘の傾斜を降って滴り落ち、私に傘を差し向けた星宮さんは、

「ちょっと、今度は星宮さんが濡れてる」
「でも、このままだと鈴波さん、風邪引いちゃいますから」
「だからって星宮さんが濡れる理由はないと思うんだけど」
「そう思うのなら早く室内に入った方がいいんじゃないでしょうか」
「どうせここまで濡れちゃったんだし、折角ならもうちょい外にいたいなぁ……ってのは駄目かな」
「……別に、否定はしませんけど。それでもし風邪を引いたら、本当に怒りますからね」

もうほとんど脅しだ。
しかしどう考えても悪いのは私で、明日咳でもしてようものなら、軽い説教じゃ済まない気がする。
星宮さんをこれ以上濡らさないためにも、私には星見堂の中に戻るという選択肢しかなかった。

「鈴波さん、バスタオルはどこに仕舞ってあります?」
「えっとね……そういうのは全部、一番奥の私の部屋にあるんだけど。入って右側にある箪笥の一番下の棚」
「わかりました。取ってきますから、そこで待っててください」
「あ、う……すみません」

全身濡れ鼠状態の私は玄関先で立ち往生。歩けば水を撒き散らすこの姿では、奥に行くだけでも本が大変なことになってしまう。
ならぐるりと迂回して縁側に行けばいいだろうという話になるけど、星宮さんは律儀なので玄関からしか家には入らない。
それなのに私が今からそっちに向かっても星宮さんを驚かせるだけだと判断して、結果見つけてくれるのを待つばかりになる。
およそ一分、とたとたと軽い足音を響かせて、バスタオルを胸の前に抱えた星宮さんが戻ってきた。
どうぞ、と手渡され、慎重に、雫を本棚に飛ばさないよう丁寧な手付きで身体を拭く。
濡れそぼった髪から順に下へ。が、びしょびしょの服はいくら拭いたってどうしようもない。
となると、着替えるしかないんだけど……。

「……どうしました?」

最大の障害は、可愛らしく小首を傾げていらっしゃる。
私は言うべきか迷い、でも着替えを取ってきてもらうのもどうかなあ、 どうせならいっそお風呂に入っちゃった方がすっきりするんだよなあ、と考え、思い切って告げる。

「星宮さん。できればしばらく、ここで暇を潰してくれないかな」
「いいですけど……何かあるんですか? 手伝えることなら力になりますよ」
「いや、あのね。お願いだから何も聞かないで」
「はぁ……」

釈然としない表情で、けれど星宮さんはしっかと頷いてくれた。
そうと決まれば早急に。私はバスタオルを腹の下に抱え、外へと飛び出す。
制止の声が掛かるけど止まらない。折角の行為を無碍にしてるのはわかってる。
背中を雨に対するバリケードとし、縁側に辿り着く。幸いなことにバスタオルの被害は軽微だった。
まずは風呂用のガスのスイッチを入れ、まだハンガーに掛けてない衣服を無作為に選んで回収、 洗面所兼脱衣所へ通り過ぎる時投げ入れつつ、 床やら何やらをなるべく濡らさないようとにかく急いで自室の棚からバスマットを引き抜く。
再び脱衣所に戻り、念のためぴっちり引き戸を閉めて準備完了。ぐっしょりと湿った服を脱ぎ、ちょっと絞って洗濯機へ突っ込む。
シャワーの蛇口を捻って水が温まるまでしばし待機、あとは湯の奔流に身を任せるだけだ。

……うわ、すっごいあったかい。気持ちいい。
自分の身体がどれだけ冷えていたかを確認しながら、ゆっくりシャワーを浴びる。
星宮さんを待たせているので、髪や肌を洗ってる時間はない。今回は意図的に烏の行水ってことで、所要時間は約五分。
充分に温まってから、私は少し湿ったバスタオルで全身の水滴を拭き取り、余計な洗濯物がまた増えちゃったな、と苦笑した。
まあ、言ってしまえば何もかも自業自得なんだけど。
さっきとほとんど変わり映えしない、淡白なデザインの上下を着た私は星宮さんのところに戻った。

「ごめんね、待たせちゃって」
「いえ。……鈴波さん、お風呂に入ってたんですか? 髪、湿ってますけど」
「うん」
「そうですか。身体、あったまりました?」
「おかげさまで。星宮さんは大丈夫? 身体冷えてない?」
「平気です。ちょっと肩が濡れちゃいましたけど、少し経てば乾きますよね」

女の子を濡らしたままで放っておくというのは人としていけないことだと思い、かといって入浴を勧めるのはいくら何でもまず過ぎる。 星宮さんが着られる服だってこの家にはないわけだし、私にできるのは心配することだけだったりする。
心の中でもう一度深く頭を下げて、真剣に本を眺める星宮さんの隣に立った。

「今日は外国童話?」
「はい。こんなものもあるんですね……」
「節操ない品揃えが売りだから」
「おぼろげに読んだり聞いたりしたことのある話ばっかりですけど、結構原典とは違うように見えます」
「訳者によって内容ががらっと変わる場合もあるし、それに外国童話は残酷な話が多いんだ」
「ああ……それじゃ、子供には読ませられないですね」
「メジャーどころだと例えば、マザー・グースかな。ハンプティ・ダンプティって知ってる? これは唄なんだけど」
「鏡の国のアリスに出てきた、あの?」
「そう。卵に顔が付いて手足が生えた姿の、ハンプティ・ダンプティ。彼は塀から落ちて粉々になっちゃう。卵だから」

王様や家来がどんなに頑張っても、砕けた彼は決して元に戻らない。
本当に、ただそれだけの話なのだ。

「他にも色々あるんだけど、詳しくは割愛。まあ、身近で聞く唄や物語の出典を調べてみると案外面白いかもしれないよ」
「興味はありますが、ちょっとそんな風に言われると気が引けちゃいますね……」
「星宮さんは残酷なのとか苦手?」
「……あまり、好きではないです。物語ならやっぱり、登場人物には幸せになってほしいと思います」
「そっか」

私はさらに言葉を続けようとして、口を噤んだ。
好きではないです、と言った星宮さんが、ふっと翳りのある表情を見せたから。
純粋で、世話焼きで、この世の穢れを知らないかのような彼女にも、苦しいことや悲しいことは、あるんだろう。
少し考えればすぐわかることだ。今まですっかり忘れてた自分の方がどうかしてた。
―― だから、かもしれない。

「……え?」

ぽふ、と手を乗せ、できるだけ優しく彼女の頭を撫でた。
星宮さんは初め酷く困惑し、次に顔をそれこそ熟れた林檎のように赤らめ、最終的には恥ずかしそうに俯く。
免疫ないのかなあと思いながらも、手は止めない。なでなで。

「……あ、あの」
「………………」
「す、鈴波さん……」
「………………」
「………………うぅ」

いい加減オーバーヒートしそうなところでストップ。
僅かに乱れた髪を最後に指で梳き、整えてからごめんね、と前置きして、

「そう思うなら笑おう。幸せは、笑顔の人のところに来るものだから」
「……はい」
「よし、いい返事。……あ」
「雨、上がり始めてきましたね」

私の声に反応して星宮さんも同じ方向を見る。
いつの間にか土砂降りだった雨は緩やかになっていて、遠くの空に光が射していた。
風が吹けば雲は流れ、灰色は次第に駆逐されていく。鼻に入るのは、湿った、夏の匂い。

「もうすぐ、夏です」
「早いなぁ……。そろそろ越してきて半年だ」
「あっという間でしたか?」
「かもしれない。いいこと、かな」

こうして私はまた、新しい季節の訪れを感じて。
でもとりあえず、今から干せば乾くかもしれないと、洗濯物を外に出すことにした。星宮さんの好意に甘えて、一緒に。

「うわ、風が生温い」
「夜にはちゃんと涼しくなりますよ」

梅雨を入口に、夏が来る。



start/two.春静かに・了





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