星宮家を飛び出してすぐ、私は途方に暮れていた。
 来る時は星宮さんに合わせて歩いてきたから、自転車がない。雨足は強く、土砂降り一歩手前の激しさ。一時的なもので、長くは続かないだろうけど、それでも傘を持たずに出た彼女が全身ずぶ濡れになるには、充分過ぎる。
 というかそもそも。
 霧ノ崎はあまりに広くて、どこに行ったかさっぱりだ。
 闇雲に走り回っても、私の体力ではすぐ力尽きてしまう。ある程度、検討をつけなければいけない。
 考えろ。
 選択肢自体はそう多くない。行き先を決めてない可能性もあるけれど、ここは星宮さんの冷静さを信じよう。
 星見堂。桜葉亭。蒼夏さんの家。透くんと里さんの家。山の神社。バス停は省く。あの状況で星宮さんは、お財布を持ち出す余裕なんてなかった。だから、五分の一だ。
 少しだけ、立ち止まる。

「……うん」

 目的地と覚悟を決めた。
 初速から全力で――行ければよかったんだけど、そんなペース配分だと絶対途中で普通に歩くより遅くなるので、軽い駆け足を、極力持続させることに意識を注ぐ。
 無心で。
 走る。
 呼吸とリズムを一定に。上半身の跳ねとブレは抑えて。
 一歩は軽く。焦らず、堅実に。
 次第に傘を邪魔に感じて、走りながら閉じる。
 たっ、たっ、たっ、と足音を刻む。
 髪がうなじに張り付く。服も濡れて肌にまとわりつく。
 気持ち悪さを、けれど今は忘れる。
 時間は見なかった。
 次第に足が上がらなくなり、横腹も痛くなる。
 苦しさを誤魔化すようにして、速度を落としつつもどうにか目的の場所に辿り着いた。
 誰より見慣れた、星見堂の軒下で。
 一人の女の子が、小さく震えていた。

「風邪、ひいちゃうよ」
「……鈴波、さん?」

 どこもかしこもびしょ濡れで、長い髪は酷く乱れ、薄手の服は透けて下着の色が浮いている。緩慢な動きで私を見つめる姿は、胸が軋むほど痛々しかった。
 雨避けの軒は申し訳程度の大きさだから、明らかに星宮さんの身体を覆いきれてない。今も滴る水が、彼女の髪や肩に当たって染み込んでいる。
 どうしようか、私は迷った。
 幸いにも、早い段階で発見できたのだ。明成さんにはすぐにでも連絡すべきだろう。でも、ここからまた星宮さんの家に戻るのは、かなり時間が掛かる。いくら夏とはいえ、今のまま放っておけば、本当に風邪をひきかねない。
 ……それに。

「とりあえず、鍵開けるから中に入って。さすがに湯船はないけど、お風呂入って身体をあっためよう」
「え、……え?」
「ほらほら急いで。本には触れないようにね」
「あ、は、はい」

 まだ帰りたくない、と。
 瞳の奥で、星宮さんの心が訴えていたみたいだから。



 床が濡れるのには目を瞑った。
 ぐしょぐしょの靴を脱ぎ、何となく爪先立ちで居間と縁側を駆け抜け、星宮さんを脱衣所に押し込める。
 タオルも着替えも、仕方ないけど後準備だ。
 当然ながら我が家に女の子用の衣服は存在しないので、大きめのシャツとハーフパンツを箪笥から引っ張り出す。
 ……下着だけはどうにもならないです。
 我慢してもらうしかないなあ、と溜め息を吐き、私もまずはさっとバスタオルで肌の水を拭い、ラフな服に着替える。既に脱ぎ捨てたあれこれは、一時避難としてビニール袋に詰めておく。
 脱衣所の引き戸をノックし、反応がないのを確認してからそっと開けた。濡れた不快感より羞恥心が勝ったのか、床に衣服の類は転がっていない。こういう時でも結構冷静なのには感心するけど、洗濯機の入口に水の跡が残っているのに気付いて、何とも言えない気持ちになった。
 ……まあ、最初から彼女の着替えは洗濯するつもりだったけど。
 年頃の女の子の服や下着と一緒に自分のを洗うのは不味いよなあ、と、片手にぶら下げていたビニール袋を洗濯機の上にこっそり乗せる。
 入ったばかりだしまだ上がってはこないだろうと踏んで、着替えとバスタオルを置き、私は洗濯機を回し始めた。洗剤と漂白剤を適量投入し、しばらくすると内部に流れ込んだ水が、低い唸りと共に衣服を濯いでいく。
 やることはやった。星宮さんがお風呂に入ってるところだ、万一鉢合わせなんかしたら大惨事なので、ここに長居するわけにもいかない。
 そう思って出ていこうとした途端、風呂場の扉を叩く音が聞こえた。
 こんこん、と二回。
 薄ぼけた硝子に、小さな手が透けている。

「……鈴波さん、いますか?」
「うん。ごめんね、洗濯機回したから、すぐ出るよ」
「あ、待って……待ってください」
「どうしたの? シャンプーもボディソープもこないだ補充したばっかりだし、足りないものはないと思うけど」
「いえ、その、少しでいいです……近くに、いてください」

 弱った声で懇願されて、私は戸惑った。
 この状況、傍目にはとてもよくない。仮に私が今みたいな場面に第三者として遭遇したら、お巡りさんこっちです、と110番しかねないシチュエーションだ。
 というか。
 星宮さん、今日は無防備ってレベルじゃない。
 ノーガード過ぎる。
 いわゆる良心的なものが、早く出てけと忠言していた。
 でも。
 もう一度、こんこん、とノックの音。
 私を呼ぶ音、求める音だ。
 衝動的に家出して、ざあざあ降る雨に打たれてずぶ濡れになって、お風呂の中でひとりきり。
 心細く感じたのかもしれない。
 だからこれは、控えめに差し出された手、みたいなもので。
 やっぱり私は、星宮さんの手を、取ってあげたかった。

「近くってどのくらい?」
「……なるべく」
「じゃあ、こうしよう」

 ゆっくりと、風呂場の扉に背中を預ける。
 これなら間違っても、星宮さんと正面からかち合ったりはしないだろう。と、硝子と密接した背に、微かな振動と圧迫感が伝わってきた。
 直感的に、星宮さんも同じことをしたんだと察する。
 扉一枚を隔てて、シャワーの流水音が耳に届く。
 背中合わせの構図。
 お互い顔も姿もはっきり見えないのが、今は丁度良かった。

「身体はあったまった?」
「はい。風邪をひかなくなりそうなくらいには」
「着替え、置いといたから。濡れた服は洗濯機に掛けてる。乾燥もさせるけど、たぶん今日中に着られるようにはできないかな」
「……すみません、何から何まで」
「謝らなくていいよ。連れ込んだのは私だしね」

 なんて殊更に茶目っ気を込めてみると、向こう側からくすりと笑いが漏れ聞こえてくる。
 多少はこれで、心も軽くなっただろうか。

「ああ、そうだ、一個言わなきゃいけないことが」
「……何かあったんですか?」
「下着」
「したぎ……あっ」

 今度はお互い気まずい雰囲気。
 黙ってても後で確実にバレることなので、先に伝えたのは決して悪手ではないはず。なんだけど。
 反対側を向いている星宮さんがじっとりした目をしているのが、それこそ手に取るようにわかった。
 非難されて当然なので、見えないのを承知で両手を合わせ、声には出さずごめんと謝罪しておく。
 そもそも、教えたところでどうしようもないし。
 神様辺りにお願いしても、虚空から下着は出てこないわけで。

「鈴波さん、デリカシーって言葉を知ってますか」
「一応人並みには」
「はぁ……いいです。元はと言えば、私のせいですし」

 自分を責める言葉には、何も返さなかった。
 しばらく会話がなくなる。
 目を閉じれば、遠い雨音とシャワーが扉を叩く音。
 ――本当は、訊かなきゃいけないことがある。
 知っていながら、切り出さない。
 こうしていてもきっと、星宮さんは傷付いている。
 逃げたこととか、迷惑掛けたこととか。
 晴れてくれなかった、現実に対しても。
 襲い来た理不尽と、それを飲み込みきれなかった自身への複雑な感情。星宮さんは賢い子だから、今も頑張って噛み砕いてるんだろう。けれど、そうしたって傷は消えない。気丈な分、痛みを隠そうとする。
 優しい子だな、という印象があった。
 強い子だな、と思うこともあった。
 確かに、その通りではある。ちゃらんぽらんな私なんかより、よほど善く生きている。
 でも、違うだろう。そうじゃないだろう。
 まだ未成年だ。巣立ちの経験がない、こどもだ。
 純粋さは、繊細さの裏返し。
 人間らしい弱さを、彼女も当たり前のように持っている。

(気遣いが過ぎるのも、よくないよな)

 実のところ、色々な予想はついていた。
 父子家庭であること。昼に話した時の、明成さんの言動。星宮さんのお母さんについて。探偵役とは程遠いけど、このくらいなら集めたピースを繋げるのも、そう難しくはない。
 それはおそらく、深いところにあるものだ。
 掘り返せば、彼女の心に踏み込むことになる。
 望まれたのか?
 無遠慮じゃないのか?
 賢しらに語るのは、傲慢にしかならないのではないか?
 自問自答を繰り返した。
 とても、短い時間だったと思う。
 だって本当は、迷う必要すらなかったのだ。

「星宮さん」
「………………」
「理由、教えてくれる?」

 きっかけは私の方で作った。
 自分でも驚くほど柔らかい声で、促す。
 微かな身じろぎの音に、躊躇いが見て取れた。
 私は待つ。
 星宮さんが、そうしよう、と決断できるまで。

「お母さんのこと、私、あんまり覚えてないんです。小学校に入る前に、いなくなっちゃって。お父さんは、色々あって一緒にいられなくなったんだって言ってました。もっと後に聞いた時には、離婚したんだ、とも」

 離婚。
 半分は予想通りだ。
 あの時明成さんは「妻が家からいなくなったのは」という風に話していた。曖昧な、真意を濁した表現。
 もし星宮さんが起きていたなら、あるいは何かの拍子に起きて、聞いてしまったら。それを恐れたのかもしれない。
 普通はそう思う。
 私も、話を聞いた時にはそう思った。

「それでもいくつか、覚えてることがあります。七夕の日、一緒に星を見たこと。笹の葉に、願い事を書いた短冊を吊すこと。星座の見方を指で教えてくれて、織姫と彦星の話もしてくれました」
「分かたれた二人は、一年に一度、晴れた日にだけ会える……って話だね」
「はい。雨の日には天の川が氾濫して、橋を渡れなくなる。そうしたら二人は会えないんですよね」
「元はと言えば、夢中になり過ぎて仕事をしなくなった二人が悪いんだけど……まあ、罰としてはやり過ぎだよね、あれは」

 きっと織姫も彦星も、充分反省したろうに。
 星宮さんも同意して、くすりと笑う。

「……お母さんがいなくなった後も、お父さんは笹を持ってきてくれました。七夕の習慣を続けたんです。だから、私は毎年、短冊に同じ願い事を書きました。――お母さんが、いつか戻ってきますようにって」

 それは、たぶん。
 誰より父親に、明成さんに願ったことだったのだろう。
 離婚なら生きていたっておかしくない。別れても連絡を取り合っているかもしれない。
 ひとつきりの、小さな希望。
 けれど星宮さんは、そんなものにしか縋れなかった。
 他に結べるものがなかったから。
 織姫と彦星はそのまま、星宮さんと彼女の母親だ。
 自分と逸話を重ねていたのには、願掛けの意味合いもあったのかもしれない。
 いつか戻ってきますように、と。
 橋を渡り、会いに来る日を夢見て。

「今までも、雨の日は何度もありました。ただ、今日だけは、どうしても晴れてほしかった。願い事が、叶ってほしかった」
「……どうして?」
「鈴波さんを、お母さんに紹介したかったんです」

 高校を卒業して。
 半分以上、大人になったようなもので。
 アルバイトという名目ではあるけど働き始めて。
 毎日が楽しくて、嬉しくて。
 なのに雨が降ったら、叶うかもしれない、というささやかな、蕾めいた可能性すらなくなってしまう。
 星宮さんにとって、今年は今年しかなかった。自分の中で定めた、節目の日。だから願掛けはより重い意味を持った。
 こうなっちゃったからにはしょうがない、とか。
 今日のところは割り切ろう、とか。
 酷い傲慢だった。
 他人にはわからなくても、彼女には確固たる理由が、あったのだ。

「――星宮さん。星宮さんのお母さんは」
「知ってます」
「………………」
「何となく、わかってました」

 そして、扉の向こうで。
 星宮さんは、口にする。

「お母さんはもう、亡くなってるんだと思います」










 後に明成さんは語ってくれた。
 星宮真朝――彼女の母親は、星宮さんを出産してから、体調を崩しがちだったという。
 運が悪かったのか、元々身体が弱かったのか。
 無理をさせず、霧ノ崎で静養を続けたものの、一度傾けばあとは沈みきるしかなかったらしい。
 横になる時間が多くなり。
 やがて布団から起き上がることさえ辛くなって。
 最期は病院で、明成さんや両親に看取られて息を引き取った。
 当時、星宮さんは小学校に入ったばかり。

「あの子に真実を伝えられなかったのは、私の弱さだよ。幼いから酷だと思ってしまった。幼いからこそ、きちんと受け入れられるまで、教えるべきだったのに」

 明成さんは、全てを隠した。
 優しい嘘になると信じて、それを押し通した。
 正しいことと、間違ったこと。
 どちらが優しくて、どちらが残酷だったのかはわからない。
 けれど、永遠に隠しきれるはずもなかったのだ。
 星宮さんは聡かった。
 違和感を違和感として考える力もあった。
 それでも騙され続けようとしたのは、星宮さんも信じたかったからだろう。
 お母さんは生きてる、と。
 生きているのなら、いつか会えるはずだ、と。

“本当”を突きつければ、彼女は認めざるを得ない。
 傷付けたくなんてなかった。
 そんなことないって、言ってあげたかった。
 だけどそれは、やっぱり、違うだろう。
 ――ひどいことをする、役回りが必要だったのだ。










「私、ばかみたいですよね。叶わないのに、必死になって。こんな風に、鈴波さんにも、お父さんにも、迷惑掛けて。こんな、こんなの、でも、うまく、できなくて、っ」

 見えないけれど聞こえる場所で、星宮さんが泣いていた。
 はじめてだ。
 そういう姿も。
 この胸の、ばらばらになりそうな痛みも。
 隔てる扉一枚が、酷く分厚く思えた。
 距離だけなら、すぐにでも触れられる近さなのに。
 背中にある固さと震えが、そのまま私達の遠さだった。
 ……どうして全部、うまくいかないんだろうね。
 泣かなくてもいい未来だって、あったろうに。
 だけど、今は今だ。
 失われたものは戻らないし、時も遡らない。
 受け入れて、乗り越えて、前を見るしかない。
 蒼夏さんと大樹さん。
 透くんと里さん。
 灯子さんと佳那ちゃん、霞さん。
 私と星宮さんが知る人はみんな、そうしてきたんだ。
 けれどそれは、誰かが隣にいたからこそ。
 ひとりじゃないから、立ち上がれた。

「ここにいるよ。私はちゃんと、星宮さんのそばにいる」

 ならば私も、そうであろう。
 崩れる彼女の、支えであれ。
 余計な言葉は要らない。
 ただ、寄り添おう。

 星宮さんは、泣き続けた。
 こどもみたいにわあわあと叫んで、何度も何度もしゃくり上げて、むずがるようにして、堪えて、でも耐えられなくて、喉も涙も涸れるまで訴え続けた。
 辛かった、と。
 苦しくて、痛くて、本当はずっと、こんな風に抱えていたくなんてなかった、と。
 私は静かに、頷きを繰り返した。
 星宮さんの全てを認めた。
 彼女が泣き止むまで。
 最後に、かすれた声で星宮さんは言った。

「……そういうの、似合わないですよ」

 強がり混じりの響きに、もう大丈夫だ、と思った。
 そろそろ星宮さんも風呂から出たいだろう。私は地味に痛む背を擦りつつ立ち上がり、一声掛けて居間に戻ろうとして、

「まだいてください」
「え、いや、でもさすがに」
「いてください」
「………………はい」
「そのまま、振り向かないでくださいね」

 丁寧な、けれど有無を言わさぬ口調で止められ、元いたスペースに座り直す。洗濯機の唸りが強くなり始めたことに気付き、ぼんやりその揺れを眺めていると、扉を打っていたシャワーの音が途切れた。
 小さな重みもまた離れ、向こうの様子がわからなくなる。別にあっちからも見えないのだから、振り返ってシルエットの確認くらいはできたはずだけど、何故か私は律儀に星宮さんの言いつけを守っていた。
 これまでの躾の成果かもしれない。
 しょうもない条件反射だった。
 不意に、こん、と一度硝子が叩かれる。
 思わず背中を軽く浮かせた瞬間、かちゃり。
 風呂場の扉が開いた。
 熱を帯びた湿気が、隙間から脱衣所に広がっていく。
 私は背筋をぴしりと伸ばし、固まっていた。
 だって、後ろに、星宮さんがいる。
 用意した服は、洗濯機の上だ。
 門番よろしく座る私の横を抜けない限り、それは取れない。
 混乱の極致だった。いやいや、いくら何でもやり過ぎだろう。無防備どころか、確信犯的ですらある。
 意図が読めない。
 わからない。
 逆らって振り向けばある意味地獄だし、このままでいても遠からず直面する。風呂場からの湿気のせいではなく、明らかに緊張と動揺から来る汗がこめかみの辺りに滲んでいた。
 どうしよう、と自問してみても、まあ、どうしようもない。
 勿論星宮さんは待ってくれなかった。
 背中に触れる、手指の感触。
 濡れた髪が薄い生地を湿らせ、伝わる息遣いが肌を撫でた。
 胸の鼓動が一気に加速する。
 ぺたりと、頬らしきものが心臓の裏側に当たる。

「……鈴波さん、どきどきしてます」
「そ、それは、するに決まってると思う……よ」
「どうして、ですか?」

 火照りだけではない。
 身体の芯から、熱が生まれている。

「星宮さんが、近い」
「はい」
「そっちもどきどき、してるよね」
「……はい。し過ぎて、倒れちゃいそうです」

 淡い匂いが鼻をくすぐる。
 こどもだなんて、とんでもない。
 おんなのこの生々しさに、くらくらする。

「早く服、着ないと。折角お風呂入ってあったまったんだから」
「実はのぼせそうだったので、少し冷ましたくて」
「だったら私、いなくてもいいんじゃないかな」
「近くにいてくれるって言ったじゃないですか」
「こういう状況は想定してません」
「大丈夫です。鈴波さんのこと、信用してますから」
「酷い反論殺しだ……」

 ええと。
 どうしてこうなった。

「あの、星宮さん。意図を教えていただきたく」
「したかったから、じゃ駄目ですか?」
「わかりやすいけど理由になってません。というか、大変はしたないです。よくないです」
「……そのくらいはちゃんとわかってます。自覚、ありますよ」

 声に不服な色が込められた。
 軽く背中に爪を立てられる。星宮さんの力だと全然痛くないけれど、何度もざくざくやられると地味に効く。
 気が済むまで刺し終えた星宮さんは、さっきまでそうしていた場所を指先で撫でさすり始めながら、ぽつりと呟いた。
 
「……私、鈴波さんが自分にとってどういう人なのか、ずっと考えてました」
「……うん」
「私がいない時はほとんどいつもお昼くらいまで起きないし、出不精で全然外にも行かないし、一人だとちゃんと店番もしてないし、会った当初はご飯もまともに作れないし」
「………………」
「色々だらしなくて、放っておけない人。そう思ってたんです」

 年下の子にここまで言われる私って……。
 なけなしのプライドもあっさりゴミ箱行きだった。

「でも、そうじゃないって気がしてきて。一緒にいても苦しくないのに、たまにすごくどきどきするんです。今日、家を出て、真っ先に思いついたのも星見堂でした。もしかしたら、鈴波さんが捜しに来て、見つけてくれるのかな、って。そんな風に、考えてて」
「こっちに来てるかどうかは、賭けだったけどね」
「来てくれたんですから、充分です」
「なら濡れた甲斐もあったかな」
「あ……そういえば、鈴波さんはお風呂に入らなくていいんですか?」
「まだ平気。だから話、続けて」
「……自分の気持ちがわからなかったんです。ぐちゃぐちゃで、上手く言えなくて……鈴波さんのこと、好きなのは間違いないのに」

 きっと頭の中で、まとまりきってないんだろう。
 喋りながら整理しようとしている星宮さんを見て、私は何となく、彼女の伝えたいことを察した。
“好き”は最初、ひとつしかない。
 誰かを好ましいと思うこと。
 それが様々な環境に触れ、他人と関わり、感情を知ることで、ひとつきりだったものが分化していく。
 ――自惚れていいのなら。
 おそらく、星宮さんの中には今まで、なかったのだ。
 形容できない“好き”。
 それを心が持て余している。

「私、変です。こんなことだって、するつもりなかったのに」
「人間、混乱すると突飛な行動をするっていうけど」
「やっぱりおかしい、ですよね」
「ちょっとだけ、星宮さんらしいかも」
「……どの辺がです?」
「妙なところで大胆な感じ」
「これは……うぅ、意識したら余計恥ずかしくなってきました」

 ということはつまり、ちゃんと最初から恥ずかしかったと。
 俯いて頬を染めている姿が、見えないのにはっきり想像できて、何だか嬉しかった。
 星宮さんなりの、誠意。
 正直であろうとすること。
 そんなところに、どれほど助けられてきただろう。
 私は右手を、自分の左肩に置いた。
 手繰るように指先を這わせ、求める。
 星宮さんは応えてくれた。
 おずおずと、控えめに指と指が触れる感触。
 触れて、絡む。
 熾りみたいな身体の熱とも、密着した背中のあたたかさとも違う、それはちいさなぬくもりだ。
 心からこぼれた、好きの気持ちのひとかけら。

「私ね、星宮さんのこと、好きだよ」

 息を吸う。
 確かめるように、噛みしめるように。

「一緒にいて苦しくないし、たまにすごいどきどきする。朝、おはようって言われたらそれだけで一日が楽しくなるし、夜、帰っちゃうんだって思うとちょっと寂しくなる。ほんやりしてる時、本読んでる時、ご飯作ってる時、寝ちゃってる時、私を怒ってくれてる時、何か間違えたりして恥ずかしがってる時……ぱっと思いつくだけでもこんなに。私、星宮さんを見てる。覚えてる」

 積み重ねた年月が、私達の中にはある。

「歳を取って、いつかおじいさんおばあさんになっても、一つ屋根の下で暮らしていたいって思う。そういう“好き”だから」
「……まるで、家族みたいですね」
「まるでじゃないよ。本当の、家族になりたいんだ」

 お母さんの代わりとかでなく。
 隣にいることが、当たり前な関係。

「手、繋いでくれたのも、家族になりたいからですか?」
「ううん。好きだから」
「じゃあ私も、鈴波さんが好きだから、こうしてるんですね。………………あ、あの」
「ん?」
「もしかして私、さっき鈴波さんに、こ、告白、されてました?」
「えーと、まあ、はい。そういうことです。というかそれより前に、私が告白されてた気も――」
「あっ、や、ちが、そ、そんなつもり……っ」
「なかった?」
「……鈴波さん、いじわるです」

 繋がって、触れ合ったまま、そうして私と星宮さんは互いに互いの重さを委ねた。比翼の鳥でも、連理の枝でもない。並び立ち、共に歩く、家族であるために。
 恥ずかしさも、今ばかりは気にならなかった。

「明成さんに、連絡しないとね」
「はい。いっぱい迷惑、掛けちゃいました」
「謝る時は私も一緒に頭下げるよ。とりあえずは電話、だけど」
「……だけど?」
「もう少しだけ、このままで」

 風邪をひかない程度の、短くて長い時間。
 そばにいることで満たされるものを、たぶん私達は、初めて知ったのだ。





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