風の強い日だった。
 台風がどうとか、低気圧がどうとか、専門的な話に終始する天気予報を見たけれど――その時の私には、具体的な原因なんてどうでもよかったのだ。
 だから、起きた時に祈った。
 神様よりも不確かな、何かに対して。



 当初の予定に従い、私は星宮さんにお呼ばれした。
 昼のうちからお邪魔し、先に笹を見せてもらった。既にいくつも短冊が吊されていて、折り紙製の飾りも控えめに取り付けられている。
 七夕が近くなると、みんなこぞって星宮家に訪れるらしい。
 随分前から続けられてる習慣めいた行事。
 飾りは星宮さんと佳那ちゃんの二人で作ったそうで、よく観察してみると微妙に出来が違う。まあ、綺麗な方が星宮さんで、少しガタガタなのが佳那ちゃんだろう。性格が出てるのかもしれない。

「鈴波さんが最後ですよ」
「だろうね。……もっと早く呼んでくれればよかったのに」
「いえ、これでいいんです。鈴波さんとは当日、一緒に星を見たかったですから」

 微妙に前後が繋がってない気もしたけど、楽しげにそう言われると上手く返せない。持参した天体望遠鏡に軽く目をやって、私はペンを手に取った。
 明成さんは昼食の準備をしていて、こちらが願い事を考えてる間に、星宮さんも手伝いに行った。徐々に色濃く漂い始めるいい匂いに集中力を削がれながら、何とか思いついた言葉を書き記す。
 油性のマジックで一行。
 右下に控えめなサイズで名前を添え、合わせてテーブルに置いてあったパンチで短冊の上部に穴を開ける。
 一本だけ用意されてた針金糸を通して、縁側から笹がある場所へ。風に揺れるみんなの短冊が目に入ったけれど、あまりじろじろ見るのも失礼だろうと、努めて意識から外した。
 吊すところに悩む。
 結局、目立たない枝の根元でそっと糸を結んだ。
 葉が密集していて、遠目ではまず文字が読めない。
 別に隠すほど大したことは書いてないけど、いくつになっても、こういうのは気恥ずかしいものだ。

「鈴波さーん、ご飯できましたよー」
「はーい」

 奥から呼ぶ声に従い、私は足早に二人の許へと向かった。
 昨日私達の昼がそうめん――冷たいものだったのを考慮してくれてか、白米に中華系の辛いおかずをチョイスしたらしい。三人揃って両手を合わせ、有り難くご馳走になる。
 何だかんだで星宮さんにはしょっちゅう食べさせてもらってるけど、彼女の師匠とも言える明成さんの料理を口にする機会はさほど多くない。なのでこういう時には、しっかり味わうようにしている。
 単純なものほど、腕が出るという。
 そういう意味ではなるほど、明成さんの上手さがわかろうものだった。
 いつかこのくらい作れるようになればいいなあ、と短冊には書かなかった願いを抱きつつ、手伝えなかった分せめてということで食器の片付けを請け負う。
 仕舞うところでは星宮さんの指示を仰ぎ、特にトラブルなく済ませてから、私達は縁側に戻った。
 ここから、夜までは待つのみだ。
 笹が正面に見える庭先に足を放ると、星宮さんも隣に座った。最近、星見堂にいてもその辺の遠慮や躊躇がなくなってきている。
 今まで何度も「一応私は男、異性なんだからね」と主張してきたけれど、気にしてませんよ、なんてしれっと返され続けたものだからこっちが折れてしまった。まあ、預けられた信頼を無碍にするつもりはないし、勿論不埒な行為に及ぶ気もゼロなので、ある意味では星宮さんの方が正しいのかもしれない。
 ともすれば肩を抱ける距離にお互いがいても、意識して触れ合うことはない。
 それが私と星宮さんにとって、一番自然な距離だった。

「今日は風があるから、比較的涼しいです」
「だね。陽射しは強いけど、そんなに気にならない」

 見上げた空は晴れていて、綿飴を手で千切ったような雲が流れているだけ。ここからだと遠くまでは窺えないけど、雨が降るとは信じられないほど良い天気だ。
 懸念があるとすれば、雲の流れ。
 陽を遮る時間が極端に短いのは、ひとつひとつが小さいからだけではないだろう。ほとんど足を止めず、頭上を過ぎ去っている。
 今はまだ、わからない。
 けれど、もし、彼方に雨雲が控えているのなら――。

「……鈴波さん?」
「え、あ、ごめん。何?」
「いえ、ぼんやりしてたので、どうしたのかなって」
「ちょっと考え事。夕方までどうしようか、とか」
「鈴波さんはどうしたいですか?」
「のんびりできればそれでいいかなあ」
「じゃあ、そうしましょうか」

 ああもう、本当によくない。
 下手な考え休むに似たり、だ。
 心配したところで天気を変えられるわけもなし。座して待つのみ。
 そうやって軽く開き直った私は、膝から下を縁側にぶら下げたまま、上半身をばったりと後ろに倒した。
 生温い木板の感触。背骨と肩胛骨が当たって少し痛かったけど、風の通り道で寝転ぶのは大変気持ち良かった。

「だらしないですよ」
「夏だからねー」
「理由になってません」

 窘める言葉には、可笑しげな弾みも含まれている。
 すぐに星宮さんも、私と同じように身体を縁側に横たえた。腰の位置が同じな分、上半身の高低差で星宮さんの頭は私より庭側に寄る。
 平行にはならない目線。
 横になりながらも、私は見下ろし、星宮さんは見上げる形だ。
 一瞬首を傾け、アイコンタクトめいたことをしてから、二人で視線を空にやる。
 シャツの裾が風に煽られ、お腹から首元へと空気が抜けていく。服装も折り目正しい星宮さんはそういうことにならないだろうけど、どちらにしろだらしない格好なのは間違いなかった。
 何をせずとも、心安らぐ静けさ。
 星見堂付近が騒がしくないのは、てっきり止まる木がないからだと思っていたけれど、どうやら蝉達はみんな山の方で合唱をしているようで、さっきから全くあの特徴的な鳴き声を聞かない。

「……夕方までには、起きられるよね」

 笹の葉が奏でるさやめきを子守唄代わりに、私はそっと目を閉じる。
 ひとりごとに対する追求は、おそらく、なかったと思う。










 一番最初に、背中の痛みが気になった。
 仰向けのままでいたからか、ちょっと身体が強張っている。ゆっくり上体を起こし、軽く腰を左右に捻ると、ばきばき骨が鳴った。こういうところでも歳を感じる。

「おはよう、信一くん」
「あ……おはようございます、明成さん」
「もうおやつ時だけどね」

 不意に声を掛けられ振り返る。
 居間から二部屋隣に位置する、この縁側に面した部屋のテーブルに、肘を置いた明成さんがいた。
 開いた本は、さっきまで読んでいたものだろう。
 本の横に湯呑みと急須、煎餅の入った皿も備えてある辺り、随分しっかり腰を据えていたらしい。

「お茶は飲むかい?」
「すみません、お願いします」

 余分にある湯呑みふたつは、私と星宮さん用と見た。準備がいいというか、気配りの人というか。持て成されてばかりで申し訳なくもある。
 のそのそと、どうやら一緒に寝入ってしまった星宮さんを起こさないようにテーブルまで移動して、手ずから湯呑みを受け取った。小さな礼と共に一口。まだ温かい。
 仄かな熱と水分が、喉から芯に染み渡る。
 半分ほどをくいっと飲み、一息。

「そういえば、二人でちゃんと話す機会は今までなかったかな」
「言われてみると。私もあまり星見堂から出ないですしね」
「不健康なのは良くないよ?」
「あはは、自覚してます」

 からかうような響きには、苦笑いを返した。

「陽向はそっちで迷惑掛けたりしてないかな」
「むしろ私の方が掛け通しですよ。色々お世話になって……ずっと前から、本当に助かってます」
「そうか。そう言ってもらえると、親としては嬉しいよ」
「友人というにはちょっと歳が離れてますけど、頼りになる子です。素敵な娘さんに育てられたんだな、と」
「私も、自分には不釣り合いだとたまに思う。それくらい良心的な子に育ってくれた」

 後半には私も頷く。
 大人びながらも歳相応で、何事にも勤勉。自分や他人に厳しい反面、妥協や一種の手抜きを許す柔軟さも持ち合わせている。純粋で、時折人を疑うことを知らないんじゃないかと思えるところもあるけれど、それを加味しても、ここまで擦れずに来たのは奇跡に近い……かもしれない。
 最近私に対しては、ますます遠慮がなくなってきてる気もするけど。
 それもまた、成長なんだろう。
 眠る星宮さんを見る明成さんの目は、優しい。
 私にも覚えがある。
 親の眼差しだ。

「一緒にいると、信一くんの話をよくするんだ」
「ええと、それは私の恥ずかしい話なんでしょうか……」
「まあ、そういうのもあるね」
「ぐ、具体的にはどんなものを」
「朝に表が開いてないからと起こしに行って、君が起き抜けに寝ぼけて陽向をベッドに引き込みかけたとか――」
「すみませんもう勘弁してください」

 いくら星宮さんが寝てるとはいえ、どんな拷問だこれ。
 当の父親がすごいにっこりしてるのが逆に怖い。

「別に咎めるつもりはないよ。未遂に終わったようだし、そもそも陽向は笑い話として教えてくれたからね」
「こっちは心臓がきゅっとなりましたよ……」
「それはともかくとして、大半は他愛もないことだよ。もっとも、話の中のあの子は、いつも信一くんのそばにいるようだけど」
「よ、余計に恥ずかしい……! いやまあ、でも、有り難いことだと思ってます」

 緊張で乾いた喉を潤すと、湯呑みのお茶が空になる。
 すかさず明成さんに次を注がれ、さらに恐縮。
 終始頭が上がらない。
 ことん、と急須を置いた明成さんは、急に表情を引き締めた。
 自然、私も釣られるようにして姿勢を正す。

「うちが父子家庭だというのは、はっきり言ったことはなかったね」
「はい。その、何となく察してはいましたが」
「敢えて黙っていたのは信一くんの気遣いだと思っておくよ。……陽向の母、私の妻が家からいなくなったのは、あの子が物心ついてすぐのことだ。以来、私達は二人で暮らし続けてきた。親として、愛情も充分注いできたつもりだけど……やはり、母親のいない家庭にしてしまったのが、後ろめたくもあってね」
「星宮さんは、お母さんのことを?」
「あの子に七夕の意味を教えたのは妻でね。あまり思い出せる記憶はないけれど、それだけははっきり覚えていると」

 ああ――だからか。
 星宮さんが七夕にこだわる理由。わざわざ夜の神社にお参りまでして晴れを願う彼女の気持ちが、少しだけわかった。
 きっと。
 お母さんと自分を繋ぐ確かなものは、それしかないから。

「陽向にとって、今日は特別な日だ。去年も信一くんを誘ったが、今年は私が言わなくても連れてきた。あの子は君にとても……そう、懐いているし、気を許してもいる」
「……はい」
「重く受け止めろ、とは言わないよ。ただ、よければ、陽向の良き人になってほしいと思う。どういう形であっても、ね」

 一度目は間を置いたけど。
 二度目はすぐに、はい、と強く首肯した。
 だってそんなの、考えるまでもないことだ。
 霧ノ崎に来て、彼女に会えたからこそ、今の私はある。

「星、見えるといいですね」
「信一くんも、陽向も、お参りまでしたんだろう? ならきっと大丈夫だよ。最近は予報も外れがちだしね」

 なんて――私達は話し、お茶を飲み、そのうち目覚めた星宮さんに恨みがましい目をされながらも、最終的には三人で談笑して。
 願って止まなかった。
 雲が来ないこと。雨が降らないこと。
 夜になっても空が陰らず、七夕の星が見えること。
 けれど、どんなに。
 どんなに強く、固く祈ったって、叶わないことはあるのだ。

 陽射しが色を変え始めた頃、急激に風が厚い雲を引き連れてきた。
 大気が湿り気を帯び、太陽は完全に姿を隠し、そして。
 ぽつぽつと。
 次第に、ざあざあと。
 あまりにも呆気なく、無情に、空が泣く。
 星宮さんが立ち上がった。
 縁側と庭の境界線で、雨の降り先を見上げる。
 そこに星の光はない。
 私も、明成さんも、すぐには言葉を掛けられなかった。

「……どうして」
「……星宮さん?」
「どうして、今日なんですか? お参りしたのに、照る照る坊主も部屋に吊したのに――あんなに、あんなに、お願いしたのに」

 今日だけは、絶対、晴れてほしかったのに。
 そう、驚くほど悲痛に漏らした星宮さんの様子に、私は小さな違和感を得た。でも、具体的にそれが何かはわからない。
 わからなくて、たぶん、間違えた。

「……確かに残念だけど、こうなっちゃったからにはしょうがないよ。また来年、今度こそ晴れるって信じて、今日のところは割り切ろう?」

 腰を浮かせ近寄って、諭すように言った私へと振り向いた、星宮さんは。
 何かを恐れるみたいに、首を横に振って。
 反応できなかった。
 だっと走り、私の左側を抜け、そのまま足音が遠ざかっていく。
 私は呆然として、五秒か、十秒か、我を忘れていた。

「っ、星宮さん!」

 どうにか気を取り戻し、彼女が駆けていった方――玄関に向かう。
 星宮さんの靴が一足、なくなっている。
 三本、人数分あった傘立ての傘はそのまま。

「傘、持ってってないのか……!」

 理由も何もかも、全てが不明瞭だ。
 それでも今、どうすればいいのかはわかる。
 迷う暇はなかった。私も靴を履き、傘を二本抜き取る。

「明成さん、ちょっと捜しに行ってきます! 二人とも出ちゃうのは危ないですし、こっちは携帯持ってるので、見つけたらここに連絡しますね!」

 座っていた分、一足遅れてこっちに来た明成さんに、半ば叫ぶ形でこれからの方針を伝えた。
 明成さんはわかった、と固い表情で頷き、

「無事陽向が見つかったら、君に話したいことがある。私とあの子の勝手な都合で迷惑を掛けて、すまないが……陽向を頼む」
「はいっ!」

 あとはもう振り返らず。
 雨は、だんだん強くなってきていた。





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