結局、星宮さんは一泊することになった。
 雨は止む気配がないし、いくら落ち着いたとはいえ心の整理も必要だろう。そういう話を明成さんに電話でして、詳しい話は明日の朝、という流れでまとまった。
 あの後特別何かがあったわけでもなく、順当に私は脱衣所を出て、星宮さんの着替えを待ってからお風呂に入った。自分で考えていたよりも身体は冷えていたらしく、温めのシャワーも随分心地良かった。
 夕飯は有り合わせのもので。
 作ってる間も、食べてる間も、星宮さんとの間にはちょっと妙な空気があった。まあ、さっきのあれこれを意識するなという方が難しいだろう。かくいう私も、内心かなり悶えていた。
 ああ、思い返せばとんでもなく恥ずかしいこと言ったな、とか。
 いい匂いしてたなあ、とか。柔らかかったな、とか。
 本当にしょうもない。
 布団は私の部屋に敷いた。
 テーブルを一時的に片付けて居間で寝てもらおうとしたんだけど、寝るまでおはなししましょう、なんて“お願い”をされて断れるはずもない。
 まだ心細くもあるんだろうし。
 離れ難かったのは、こっちも同じだったから。
 部屋の窓を開けると、柳の葉擦れにも似た雨の音が聞こえた。九時前、普段ならまず床には就かない時間に、二人揃って横になる。
 電気を消し、月の明かりさえない真っ暗な空間で、色々な話をした。出会った頃のこと。みんなの第一印象。ここに越してくる前のこと。親との思い出。友達のこと。霧ノ崎のどこが好きか。お互いに直してほしいところ。お気に入りの本や物語。今日のこと。昨日のこと。明日のこと。口の中が乾くまで喋って、冷蔵庫に水を飲みに行って、戻ってもまだ話を続けた。
 どちらかと言えば私が語る方で、専ら星宮さんは聞き手に回っていたけれど、やがて静かに眠るまで、始終嬉しそうで楽しそうだった。
 平気そうな素振りをしていたものの、何だかんだで疲れてたんだろう。
 身体より、心が。
 仰向けになって、天井を見つめる。
 日頃の運動不足が祟ったか、こうして落ち着いてみると足の辺りに滲むような疲労感がある。これは明日筋肉痛かもなあ、と苦笑い。全く、慣れないことはするものじゃない。
 明日は朝一で、星宮家に戻らなければいけない。いくら連絡したといっても、姿を見てない以上、明成さんは心配しているはずだ。
 訊くべきこともある。
 星宮さんの、母親について。
 私がそれを耳に入れていいかどうかはともかく、星宮さんには知る権利があるだろう。
 あっさり許すかもしれないし、すごく怒るかもしれないけど。
 上手くいけばいいと思う。
 何もかも。
 一度間違ったって、絶対に取り返しがつかないなんてことはないから。

「……あどけない寝顔だ」

 身体ごと首を傾ければ、布団に包まって眠る星宮さんが見える。
 過去にも何度か目の当たりにしたことはあったけど、記憶の中のどれより幼く、安らかだった。
 頑なさが一切ない表情。
 大人びてて、しっかりしてて、真面目で――そういう生き方はきっと、誰に強制されたわけでもないんだろう。でも、どこか肩肘張ったところがあったのかもしれない。
 母親のことを、ずっと忘れずにいたように。
 鬱積したものを、彼女もまた持っていた。
 解消したとは言いきれない。立ち直るために、いくらか私は力を貸せたはずだけど、人の、特に家族の死は、そんなすぐに受け入れられるものではない。目を逸らしてきたのなら尚更だ。
 それでも。
 近くに、そばに、隣にいることで、何かができる。
 力になれる。

「……おやすみなさい、星宮さん」

 胸の奥は、あたたかかった。
 そのぬくもりの意味を、私はもう、知っている。










 結論から言えば、話し合い自体は三十分も掛からなかった。
 星宮さんは、心配掛けてごめんなさい。
 明成さんは、今まで黙っててすまなかった。
 お互いに悪いところを認めて、あとは遺恨も後悔もなし。
 そういう風にできるのだから、二人は親子として、とてもいい関係を築いてきたんだなと思う。
 星宮さんの母親、真朝さんに関しての話は、前述した通りだ。
 嘘を吐き通すため、というわけではないけれど、仏壇は母方の祖父母、つまり真朝さんの実家にあるという。正月には星宮さんも毎年顔を出していて、なのに母親の写真がなかったのは、祖父母も明成さんに協力していたからだそうだ。
 良いことではない、と諫めて。
 それでも手を貸したらしい辺り、娘と孫に対する想いは複雑だったのだろう。どんなに幸せだったとしても、親より早くいなくなったことに変わりはないのだから。
 明成さんは私にも頭を下げた。
 客人として呼んでおいて巻き込んでしまったこと、あの時はそれが最善だったろうとはいえ、娘を任せてしまったこと。ついでに、雨の中走りに行かせたことも。
 まあ、結果的に二人とも風邪はひかなかったし、私があれこれ言うつもりもない。むしろまだ未成年の娘さんと危うく致しかけたので(裸で密着したのをそう言うのなら)、頭を下げるべきはこちらの方かもしれなかった。勿論口には出せないけど。
 明成さんが引っ張りだしてきた、家族三人が健在だった頃のアルバムも見せてもらった。真朝さんが写っている写真をチェックしてみると、なるほど確かに面影がある。どちらかと言えば、星宮さんは母親似だ。
 夫婦の写真もたくさん残っていたけれど、それ以外ではほとんどが親と子のものだった。どれも真朝さんは星宮さんを抱いていたり手を繋いでいたりして、笑っている。明成さんがあまりいないのは、撮影側に回っていたからだろう。時折差し挟まれていた明成さんと星宮さんの写真では、何だか少し明成さんがぎこちなかった。
 妻を亡くして、男手ひとつで育てるようになるまでの、過ぎ去った時間がそこには詰まっている。
 きっと何度も見ただろうに、星宮さんは愛おしむような、でも泣きそうな顔でページをめくっていた。

「必要なら胸は貸すよ?」
「いえ、大丈夫です。……手だけ、ちょっと握っててください」

 言われた通りにして、一瞬それを目にした明成さんが口端を緩める。あとでちゃんと話さなきゃなと思いながら、星宮さんがアルバムを読み終えるまでそうしていた。

 それから、昼食と夕食までをご相伴に預かった。
 一旦星見堂に戻ってもよかったんだけど、昨日のリベンジだ。
 七夕は過ぎてしまっても、願い事がまだ残っている。
 取り下げる間もなかったから、笹に括り付けられた短冊は漏れなく駄目になっていたけど、新しく書き直して、改めて吊り下げることにした。
 星宮さんの提案(というよりあれはもうほとんど懇願みたいなものだった)で、もう一度みんなにも願い事を書いてもらって。
 桜葉家の面々。
 蒼夏さん。
 雪草の屋敷の二人。
 霧ノ崎にいる、私達の知り合い全員の短冊を揃えた。
 雨雲が過ぎ去った今日は、夏らしく気持ちいい晴れ空。

 星を見るには、丁度良い日だ。










 陽が沈みきる前に夕食を済ませ、三人で縁側に陣取る。
 傍らには冷たい麦茶と、明成さんが昼過ぎに買ってきた棒アイス。
 氷菓子に近いそれを頬張りながら、私は着々と天体望遠鏡のセッティングを進めていた。
 背後で星宮さんが、期待の視線を注いできている。
 時折口元から滑り落ちそうになるアイスを咥え直し、スタンドを固定。レンズを覗きつつ角度の調整をする。しばらくしてベストな位置が見つかり、そこで大きく息を吐いた。

「準備できたよ」

 振り返って呼びかけると、笑みを浮かべた星宮さんが「お疲れ様です」と麦茶入りのコップを手渡してくれた。
 甘さと冷たさの残る口内を仄かな苦みで満たし、縁側に腰を下ろす。星宮さんも隣に座って、さやさや揺れる笹を二人で眺める。
 テーブルの方で一人ちびちび、明成さんは日本酒を飲んでいた。少し珍しい。そういう思考が表情に出ていたのか、すごくいいことか悪いことがあった日だけだよ、なんて答えが返ってきた。今日は前者だと、信じることにする。
 蒸し暑くも、星の綺麗な夜。

「霧ノ崎は星がいっぱいあり過ぎて、慣れないと正座が判別できないね」
「鈴波さんは慣れました?」
「三年目にもなれば、ちゃんとわかるよ」

 星宮さんの手には星図があったけど、目当てのものはすぐに辿れた。
 わし座の一等星、アルタイル。夏彦星を示す光。
 こと座の一等星、ベガ。織姫星を示す光。
 そしてふたつの星を隔てる、無数の煌めき。
 河を渡る日は過ぎてしまったけど。
 例えば、今年だけは特別に許されたかもしれない、なんて。
 そういう風に思うのは、きっと、自由だ。

「……鈴波さんは、自分の名前の由来を知ってますか?」
「うん。昔、両親に訊いたことがある。でも、何でいきなりそんな話を?」
「さっきふと、思い出したんです。昔、お母さんと一緒にこうやって星を眺めてた時、教えてくれたこと……あの頃の私は小さかったですし、お母さんもほとんどひとりごとみたいにしか話してなかったですけど」

 陽向。
 そういえば、同名だとひらがなの方が多いだろうに、どうしてその漢字なのかはちょっと気になってた。

「どんな意味だって言ってたの?」
「先に鈴波さんの方を教えてください。交換条件です」
「む……まあいいけど、本当にそのままだよ。信一、つまり一つを信じるって意味。生きてれば迷ったりすることもたくさんあるだろうけど、何でもいいから一つ、これだと思うものを信じて、その気持ちを忘れずにいられるように――とか。あはは、自分の名前改まって解説するのって、かなり気恥ずかしいね」
「ふふ、でも、すごく鈴波さん……信一さんらしいです」

 ……あれ?
 今、名前で呼ばれた?

「私の名前……陽向。陽の光に向かって健やかに育つように――それと、いつか大事な人ができた時、その人を優しく包めるひなたになりますように、って」

 星宮さんが立ち上がる。
 私の手を取って、引っ張って、月と星の下へ連れ出す。
 夜に陽はなく、熱もない。
 けれど私のそばには確かに、ひなたのぬくもりがある。

 短冊に書かれた願い事を、私は知っていた。
 星宮さんらしい、すっとした字の一文。



鈴波さんあなたのひなたになれますように』。



ordinary strength/three.ひだまりのこころ・了





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