体裁上星宮さんがアルバイトとして星見堂に勤めるようになってから、おおよそ三ヶ月が過ぎた。
 初めはあんなにおぼつかなかったパソコンの扱いも、最近になって随分良くなってきた。まだ後ろで見てなきゃいけない場面も多いけど、この分ならあともう三ヶ月もすれば、ほとんど任せちゃっても大丈夫なくらいになるだろう。
 古本屋にとっては厭うべき季節、湿気が酷い梅雨の六月を越え、だいぶ晴れの日が増えてきた七月。
 相変わらず閑古鳥が編成を組んで鳴いてるような中で、私と星宮さんはお昼ご飯の素麺を黙々と食べていた。
 いくら日本の北寄りだといっても、暑いものは暑い。一応居間にもエアコンは設置してあるので、縁側の方も全部閉めきって点けようかと思ったけど、不健康ですと星宮さんに却下された。こういう時の彼女は頑なだ。
 結局窓を全開にし、さらに扇風機をぐりぐり動かして、ちびちび氷を浮かせた麦茶を飲む――そんな感じで暑さを誤魔化している。
 止まる木もないからか、星見堂付近は蝉とも無縁だ。
 扇風機の唸り声と素麺を啜る音だけが響く、穏やかな時間。
 ずずず、と最後の一口を吸い上げ、先に私が空いた食器を片付ける。さして間を置かず、星宮さんもそれに続く。
 手早く食器を水洗いしていると、テーブルを拭いていた星宮さんが、ふとこぼした。

「もうすぐ七夕ですね」
「……そういえばそっか」
「鈴波さん、もしかして忘れてましたか?」
「いやいやまさか」

 咎めるような視線を向けられ、慌てて否定する。
 大人になると季節のイベントに頓着しなくなるものだけど、一応、七夕のことはちゃんと覚えていた。
 何せ星宮さんの家には、毎年笹の葉があるのだ。明成さんがどこかしらで調達してくるらしく、前回見たのも、家庭で飾るにしては立派なものだった。
 霧ノ崎に越してから一度、去年の星宮家の七夕には私も混ぜてもらっている。
 短冊に願い事を書いて、笹の葉に吊す――そんなことをしたのは中学校以来で、初めは少し気恥ずかしかった。二十歳を越すと、どうにも願い事が生々しくなる。そういう即物的な思考を切り捨てていけば、自然と内容はささやかになりがちだ。実際、昨年は割とつまらないことを書いた覚えがある。
 確か、一年ゆっくり寝て過ごせますように、とか。
 ……充分即物的かもしれない。

「また今年もお呼ばれしちゃっていいの?」
「はい。お父さんも鈴波さんを誘っておいで、って言ってましたし」
「じゃあ、お言葉に甘えて、よろしくお願いします」
「ふふ、よろしくお願いされました」

 テーブルを綺麗にし終わった星宮さんから汚れた台布巾を受け取り、さっと濯いで絞る。洗った食器は水切り台に逆さにして伏せておき、濡れた手をタオルで拭いて、私は腰を下ろした。
 先日台風が通り過ぎていったからか、ここ数日は嫌になるほどの快晴続きだ。真夏日にこそなってないものの、吹き抜ける風は生温く、扇風機も焼け石に水の感がある。

「エアコン……」
「駄目です」

 ひとこと呟いただけなのに否定の言葉が飛んできた。
 素直に諦め、ぐでーっとだらしなく横になる。
 一瞬こっちを見る星宮さんの目が鋭くなったけど、文明の利器の使用をすげなく却下した手前、あれもこれもと口煩くするのははばかられたのだろう。小さく溜め息を吐いてから、いつものように本を開いて読み始めた。
 私は目を閉じ、扇風機の鈍い唸りを聞く。
 このまま寝られれば楽……なんだけど、こうも暑いとなかなか上手くいかないものだ。店番はいいのかという良心からの問いかけは無視。私も星宮さんも、客の来店についてはとうの昔に諦めている。
 しばらく、機械音とページをめくる音だけが部屋に響く。

「……鈴波さん、まだ寝てませんか?」

 不意に、星宮さんが声を掛けてきた。
 私はうん、と頷き、のっそり上半身を起こす。
 何故か星宮さんは僅かな逡巡を見せ、それから真顔で、

「明日、一緒に神社へ行ってほしいんです」

 私にとっては、大変過酷な提案をしたのだった。










 ここ最近の気温を鑑みて、朝か日暮れか、迷ったのだという。
 規律面では些か私に厳しい星宮さんだけど、人並み以上に優しく、気遣いのできる子でもある。基本的に無茶は言わない。
 帰り際に指定された時間は、夕方だ。
 別に朝でもいいよと伝えてみたものの、鈴波さんは起きられないでしょう、なんて一刀両断。その通りになる可能性は割と高いので、あまり強く返せなかった。
 普段通りに別れ、微妙に寝苦しい夜を過ごしながら考えてみても、彼女の意図がどうにも掴めない。
 ……随分、真剣な顔してたよなあ。
 何かがあるのだろう。
 興味がないと言えば嘘になる。が、無闇に詮索するほど野暮でもないつもりだ。公言しない理由があるのなら、それはそのまま飲み込めばいい。あるいは訊くことが優しさになる場面もあるけれど、今回は当てはまらないと思う。

「まあ、あんまり気にしてもしょうがないか」

 変に悩んだりするのは、私の悪い癖だ。
 もやっとした感情を振り払い、瞼を下ろす。
 一度寝入ってしまえば、朝まではすぐだった。

 そうして翌日、黄昏の頃。
 星見堂を出た私達は、二人で自転車に乗っていた。
 勿論別々だ。いくら警察が月に一度巡回すればいい方な過疎地域とはいえ、相乗りは褒められたものではない。まあ、仮に荷台とクッションを備え付けていたとしても、後ろに乗せるなんて恥ずかしくてできなかっただろうけど。
 今更と言えば今更。
 いつだったか――確か去年の夏以来、どうも変に意識してしまう時があるのだ。これは非常によろしくない。半回り近く年下の女の子が相手だってのが特に。
 妹みたいなものだと自分に言い聞かせてはいるけれど、実際私と星宮さんの関係は家族めいたもののはずなんだけど、時折距離感を間違えそうになる。
 良くない傾向だ。
 自制しなければ、と心持ち強くペダルを踏みしめ、少し速度を上げる。
 軽く振り返ってみると、陽の沈む西空に星宮さんは視線を向けていた。
 茜色が横顔に掛かる。
 ふっと目が合い、表情に疑問の色が浮かぶ。
 私は何でもないように顔を戻して、また強めに自転車を漕いだ。
 夜の帳が降りきり、ライトを頼りにし始めてすぐ、石段の上り口に着いた。私の自転車の明かりは脱着式なので、それをハンドライト代わりにして上がっていく。暗くて頂上がぼんやりとしか見えないのが、精神的には幸いだった。あの長さは何度来ても心が折れかける。

「足下、気を付けてください」
「この状況で転んだら洒落にならないからね……」

 星宮さんとは手を繋いでいた。
 別に暗闇が不安だからというわけではなく、明かりを持っているのが私だけだからだ。万が一離れると、最悪どっちか、もしくは両方が遭難しかねない。人の通る道であっても、山に近い場所ではそういう危険が必ず存在する。
 片方が足を滑らせて、もう片方もそのまま一緒に――なんて可能性もあるけれど、握った手のあたたかさは失い難かった。私よりも幾分小さい。互いの五指で手の甲と平を押さえつけ合うように、今は固く結んでいる。
 靴裏が石段に擦れ、微かな砂音が立つ。
 夜は蝉も休み時で、けれど遠くの方からフクロウらしき鳴き声が聞こえてくる。会話が途切れれば、響くのはそのふたつだけだった。

「星宮さんは、肝試しってしたことある?」
「はい。中学校の修学旅行の時に」
「ああいうのってさ、学校側も配慮するから、結構無難なところになりがちだけど……こういう深い自然の方が、墓場とかよりよっぽど怖いと思うな」
「……何となくわかる気がします。畏れ、みたいなものなんでしょうか」
「かもね。自分なんてこの中じゃ本当にちっぽけなんだ、って考えちゃうと、すごい落ち着かなくなる。溶けて、そのまま消えてなくなっちゃいそうで」
「それは……確かに、想像してみると怖いですね」
「だからこそ、ここに神社を建てたのかな」
「どうなんでしょう。由来は聞いたことないです」
「いったいどんな神様を奉ってるんだろう……と、着いた」

 気晴らしも兼ねた雑談が一段落したところで、闇がいくらか密度を薄めた、ような気がした。
 石段を上りきった先の、控えめに言っても寂れた神社。社務所さえ見当たらない境内は、夜の暗さもあって神聖さより不気味さが勝っている。
 ……今になって、夕方じゃなく朝にするべきだったとちょっと後悔。平静を装っているつもりだけど、雰囲気出過ぎで結構怖い。当然というか、参拝には向かない時間だ。

「お参り、済ませちゃいましょう」

 隣の星宮さんは慣れているのか、私の手を引いてすぐに歩き始めた。濃い暗闇の中では些か心許ない光を前に向け、賽銭箱の正面へ。
 繋いだ手を介して促され、星宮さんに倣って私も小銭を取り出した。放り投げると、転がり落ちる音が殊更良く響く。
 鈴を鳴らし、拍と礼を欠かさず、二人して祈る。

(七月七日。七夕の日――せめて夜の間だけでも)

 晴れて、星空が見られますように。
 それは星宮さんの願いで、今日は私の願いでもあった。
 おそらく、両手を合わせていた時間は短かったと思う。 顔を上げるのは、私の方が早かった。
 ……単純な興味と、僅かな心配からだった。
 そっと星宮さんの様子を窺った私は――少しだけ、夜の怖さを忘れたのだ。
 細い月明かりに浮かぶ睫毛が揺れている。
 孤独に震える幼子のようだと、何故か感じた。
 危うく伸ばしかけた手を、私は慌てて引っ込める。
 そんなこちらの挙動にはまるで気付かず、祈りの姿勢を解いた星宮さんは、緩やかに私へと目をやった。
 帰りましょう、とその唇が告げる。
 柔らかくて、けれどどこか芯のない、儚げな声色をしていた。



 帰路はお互い、行きよりも慎重な足取りになった。
 暗がりの石段では、下りの方が遙かに危ない。滑りやすくなる梅雨の名残はほとんどないものの、躓いて転がり落ちれば、最悪死にかねない高さだ。
 手を差し出したのは星宮さんから。
 弱い光に照らされた道を、一歩ずつ確かめるように進んでいく。
 二人して、自分が話せることを忘れたみたいだった。
 やがて石段は途切れ、自転車を置いた場所に到着する。
 ここからはもうすぐに別々だ。わざわざまた星宮さんがうちに来る必要もないし、逆もまた然り。少しだけ並んで走って、後はお別れ。
 ライトを自転車に取り付ける。
 後輪のロックを外して、サドルに跨る。

「今日は、ありがとうございました」
「どういたしまして。七夕、晴れるといいね」
「はい。本当に」

 照る照る坊主を吊すよりかは御利益もあるだろう。
 最後にそんなやりとりをしてから、私達はそれぞれの家路に就いた。
 帰って、ふと天気予報を確認しようと思ったのは、境内で見たあの姿が、ずっと頭に残っていたからだ。

 ――七月七日。
 夜のニュースは、晴れのち雨を示していた。





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