一週間。
 墓参りと実家帰りを除けば五日だけれど、突発的に休んだ分の仕事を取り戻すのに必死で、煮詰まるような気持ちの余裕もなかった。
 おかげで前日の夜、家の中で一人無意味に正座して、頭を抱える羽目になったわけで。
 快く叔父に背中を押されたはいいものの、さて具体的にどうするのかと訊かれると困る。そもそも事の発端からして行き当たりばったり、出たとこ勝負みたいな流れだったのだ。スタートで盛大に転けたから、挽回のしようもない。
 こっちとしては、まあ一応、いくらか心の準備もできたけど。
 何食わぬ顔で一週間経ったからと素直に足を運んで、ごめんなさいと追い返されない保障がどこにもないというか。
 だってあれから、一度も連絡をしてないのだ。
 普段より温厚で揺れ難い灯子さんなら、さすがに玄関払いみたいなことはしないだろう。でも、絶対と言いきるには、僕は彼女を知らなさ過ぎた。
 あの時、見てしまった表情のような。
 秘められたものを、大抵の人間は持っている。
 僕が触れてしまったのは、あるいは当人すら自覚してなかった、トラウマにも近いところだ。
 亡くなった彼女の夫、桜葉優都さん。
 死してなお、その人のことを灯子さんは愛している。
 ならば僕の告白は、不義を求めるように聞こえたのかもしれない。
 いなくなった人なんて忘れろと。
 心臓に釘を打つ行為だった。

(……よくない傾向だなあ)

 叔父には格好付けてきたけれど、やっぱり怖い。
 緊張するし、会いに行くことを想像するだけで鼓動がせわしなくなる。まだ何もしてないのに泣きそうだ。
 それでも、一発勝負はしなきゃいけない。
 人生、賭けてみようと決めたのだ。

 深呼吸を繰り返し、荒れ狂う精神の波をどうにか抑えてから、僕は家を出た。
 バイクに跨り、ヘルメットを被ってエンジンを掛ける。
 重低音を引きずって走り始め、風を切り、アスファルトの道を抜けて、霧ノ崎のバス通りに入る。
 長いようで短い往路。
 素朴な建物の姿を認め、なるべく音を立てないよう、かなり早い段階で減速して止まる。
 まだ店の表口には回らない。
 ヘルメットを仕舞うと、微かに手が震えていた。
 僕は胸に右手を当て、鼓動を確かめながら息を吸う。
 大丈夫。
 気負う必要なんてない。
 難しく考えなくてもいい。

「すぅ――、ん、よし」

 丁度、お客さんの姿はなかった。
 レジ前でぼんやりしてた佳那ちゃんが、一瞬驚き、それから微妙に恨みがましい視線を向けてくる。
 何となく予想がついてしまったので、苦笑い。
 一週間前のフォローをしてくれたんだろう。
 酷く申し訳なかったけど、ここで謝るのは違う。だから感謝の気持ちを込めて、僕は笑みを返した。
 佳那ちゃんは頷き、奥を指で示す。
 バイトの時、荷物はいつもそっちに置かせてもらっていた。間違いなく、そこには灯子さんがいる。
 今はまだ営業時間。
 邪魔をするつもりはない。いつも通り、手伝いに来ただけだ。

「お邪魔します」
「あ、……霞さん」
「こんにちは、灯子さん。勝手な都合で休んじゃってすみません」
「それは、別に……霞さんにも、事情はあるでしょうから」
「ありがとうございます。じゃあ、早速仕事始めますね」

 エプロンを身に着け、動き出す。
 あれほど激しかった鼓動と緊張は、すっかり静まっていた。



 陽が暮れた頃、普段より早めに灯子さんは桜葉亭の看板を下ろした。
 表の札を『OPEN』から『CLOSED』に。
 パンくずや小さなゴミが落ちた床を丁寧に掃除し、明日の準備を終えてから、僕達三人は桜葉家の居間に移動した。
 気を利かせた佳那ちゃんが、麦茶を人数分用意してくれる。
 しばらく、会話はなかった。灯子さんは僕への接し方を忘れてしまったかのようで、俯いた顔を上げ、口を開きかけては閉じ、誤魔化しに麦茶をちびりと飲む――そんな仕草を繰り返していた。
 その姿を可愛いと思うのは、不謹慎だし失礼だろうけど。
 おかげで少し残っていた気負いも、綺麗さっぱりなくなった。

「灯子さん」

 名前を呼んで、噛み締める。
 ……僕は、この人を好きになった。
 亡くなった夫がいる。十八にもなる娘もいる。けれどそれは僕にとって、何の障害にもならない。
 四年か、五年。
 ずっと見てきて、そして今になって、わかったことがある。
 灯子さんに、僕は必要ないだろう。
 そばにいたところで、例えば過去の記憶、嫌なこと、苦しいこと、全部忘れさせたり、守ってあげたり――なんて物語のヒーローみたいな真似は、まずできない。できっこない。
 だからこれは徹頭徹尾、最初から最後まで、僕のわがまま。
 欲しいと思った。
 誰より隣にいたいと思った。
 そうするに足る理由が、僕の中で叫んでいる。
 得たいなら、歩み寄れ。
 求めるなら、手を伸ばせ。
 そのために僕は、またここに来たんだ。
 彼女の前に。

「先日は押しつけるみたいに逃げちゃって、すみませんでした。僕のせいで、随分困らせたと思います」
「………………」
「でも、撤回はしません。あの時は発作的に言いましたけど、改めて――桜葉灯子さん」

 僕は、

「あなたが好きです」










 霞さんの瞳に、私は熱を見た。
 優都さんとは違う。
 二十年以上も前、あの日にされた、迂遠で不器用な告白。
 それとは全く重ならない、火傷しそうな力強さがあった。
 本気さが窺える、声の張りと眼差し。
 自然と私の身体は震えた。
 これだけの感情を向けられて、穏やかでいられるはずがない。心がじりじり炙られているようで、くらりとする。
 彼は、私の奥底を覗いている。
 過去の何もかもに気付いて、その上で敢えて、無視している。
 優都さんの妻ではなく。
 佳那の母でもなく。
 今は私を、桜葉灯子だけを捉えていた。

 一度は有耶無耶にしようともした。
 けれどこれは、こんな風にされたら、もう無理だ。
 求められている。
 なら、私はちゃんと、答えなければいけない。
 桜葉灯子として。
 剥き出しの、自分として。

「……私、昔は今よりずっと、弱い人間でした。優都さんと結婚して、佳那が産まれて、少しは強くなれたと思ってましたけど……こうして考えてみると、あんまり変わってませんね」

 娘には心配を掛けたし、怒らせてしまった。
 くたくたになるまで顔を突き合わせて、話して、怒鳴って、叫んで、少し泣いて――そんな二人だけの家族会議を経て、ようやく、優都さんと向き合うことができた。
 欠落は未だ、埋まらないまま残っている。
 でも、残していては駄目なのだ。傷は癒えるもので、穴は埋まるもの。どちらも、時間と共に消えて、薄らいでいく。
 自分で無為に広げ続けても、そこには何も足されない。  それはきっと、寂しいことだ。
 確かに、誰も喜ばない。

「正直に言えば、霞さんのこと、好ましく思いますよ。けれど、恋愛感情があるかと言われると、ほとんどないです。今までそういう風には見てこなかったですから」

 やっぱりそうですか、と如実に落ち込む霞さん。
 おそらく心情を表に出すまいとしていたのだろうけど、落胆の色が隠しきれてない。しょんぼりと眉が落ちている。
 彼は、佳那とはまた違って表情豊かだ。
 そんなことさえ、知らなかった。
 ちゃんと、見ていなかったのだ。

 私は彼を、嫌いにはなれない。
 勿論ぎくしゃくしたくないし、これまで積み上げてきたものを崩して、壊して、なかったことにしたくもない。
 ……以前までの自分なら、決して取らなかった選択肢。
 びっくりするほど、口にするのに躊躇いはなかった。

「――だから」

 色々なことを、やり直そう。
 新しいものを、見つけよう。
 本当の始まりは、その先にある。

「もっと、あなたのことを知って、それでも一緒にいられそうなら……私と、佳那と、霞さん。三人で、家族になりましょう?」
「……灯子さん」
「はい」
「これから、よろしくお願いします」

 ずるいかな、とは思ったけれど。
 きっとこの時にはもう、答えは決まっていたのかもしれない。

 ――しばらく後。
 私達はひっそりと、法的にも、家族になった。










 霞さんがうちに住むようになったことを最初に報告したのは、何故か鈴波さんだった。
 いやまあ、ほとんど成り行きみたいな感じで。
 お客さんがいない時間にあーだこーだ話していたところ、いつの間にか背後にいて聞かれてて。
 こっちが事情を説明する前に、さらっと状況を言い当てられて、結局全部教えてしまったわけです。
 粘り強い交渉(という名の賄賂)によって、一応まだ他の人には伏せてもらうよう約束したけど、やっぱり色々と油断ならない人だ。ひなちんのこととかひなちんのこととか。

「じゃあ、灯子さんと佳那ちゃんは朝藤の姓に?」
「いや、霞さんが桜葉さんになってくれました」
「婿入り……とはちょっと違いますけどね。残したかったのは、僕も灯子さんも同じでしたから」

 桜葉姓の人間がいないのに桜葉亭っていうのも変な話――なんてのは、理由のひとつでしかないけれど。
 無理に消すことはないだろう。
 お父さんのこと。
 名前と、夢の痕跡。

「詳しく事情を知らない私が言うのも何ですけど……尊いことだと、思います」
「……そう思われるのなら、嬉しいですね」
「まあ二人が結婚するっていっても、霞さんは霞さんだしねー。今更お父さんとは呼べないし」
「それでいいんじゃないかな。家族の形も、色々あるから」

 あたしのお父さんは、やっぱり一人だけだ。
 代わりなんて必要ない。無理に空いたところへ当てはめたり、レッテルを貼ったりすることもない。
 強いて言うなら、兄みたいなもの、だろうか。
 認識なんて、そんなものでいい。
 だから霞さんは、お母さんに指輪を贈らなかった。
 そこはもういない、お父さんの居場所。
 無理に奪わなくたって、隣にはいられるだろう。

「ああ、そうでした。鈴波さん、来週は三日ほどお休みしますよ」
「三日となると、どこかに遠出ですか?」
「ええ。三人でお墓参りと、あの場所に」
「あの場所……そっか、まだ霞さんは連れていってないんですね」
「いい機会ですから」

 小さな笑みを交わす二人に、霞さんが微妙な顔をする。
 当日までのお楽しみと、詳しいことは教えてないのだ。前知識なしであれを見て、いったいどんな反応をしてくれるのか、密かに楽しみだった。
 それから二、三分雑談をして信一さんが帰り、また店内は静かになる。お母さんは奥に戻って、あたしと霞さんで商品の並びを整える。
 
 あたし達と霞さん、他人同士の話はこれでおしまい。
 この先は、ずっと続いていく――家族の話だ。



ordinary strength/two.受け止める勇気・了





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