大変気まずくはあったけど、社会人としての義理はちゃんと果たさなければならない。
 桜葉亭に電話を掛ける。普段より遅いコール音の後に出たのは、佳那ちゃんだった。

「朝早くにすみません、朝藤です」
「あれ、霞さん。こんな時間に電話とか珍しいですねー。どうしました?」
「えっと……いきなりで申し訳ないんだけど、一週間ほどバイトの方をお休みさせてもらいたいな、と」
「ホントにいきなりですね……。んー、ちょっと待ってください、お母さんに変わりますから」
「あ、いや、ごめん、できればそれは、やめてほしいかな」
「そんなこと言われても、あたしが霞さん雇ってるわけじゃないですし……」
「お願い」
「……何でなのかとかは話してくれるんですよね?」
「今は無理だけど、色々整理できたら必ず」
「わかりました。お母さんには伝えときます」
「ありがとう。それじゃ、また」

 受話器を戻すと、留めきれない溜め息がこぼれた。
 まだあれから一日しか経ってない。この状況で灯子さんと直接会話をしようとしても、お互い碌なことにならないだろう。
 というか、絶対無言になる自信がある。そうしたら余計に困らせるだけだ。

「会社にも連絡、しないとなあ……」

 有給自体はさほど使ってないので、そこそこ残っている。
 二日。
 行って帰ってくるなら、それだけもらえれば充分。
 あとは明らかな私用にどう理由付けしたものかと、僕は再び頭を抱えた。



 さすがに即日とは行かなかったものの、明日明後日とどうにか休暇をもぎ取った。全力で詰んでいた仕事を消化し、大事なところを後輩に引き継ぎ、翌朝出発。
 最寄りの駅から、電車を二本ほど乗り換えること二時間弱。一般的な会社の出社時刻を過ぎ、元々多くない下車客が皆無な駅で降りる。
 外に出て、少しだけ懐かしい景色に目を細めた。
 最後に訪れたのは、やっぱりほぼ一年前だ。
 改札からさらに二十分程度歩き、叔父の住むマンションの一室へ。
 昨日のうちに連絡はしておいた。仕事で昼はいないけど、荷物は置いてって構わないと言われている。
 インターホンを鳴らすことなく、去年と同じ暗証番号で一階のドアはさらっと開いた。エレベーターで五階へ移動し、一番奥の扉まで行って立ち止まる。
 持ち鍵は全て、まとめる主義だ。
 中から該当のものを探し当て、鍵穴に挿して捻る。
 かちゃり。
 軽い音を聞いて、僕は玄関に踏み入った。

「……また片付けてない」

 基本的に善良で、何事も卒なくこなす叔父だけれども、物の整理や掃除の類だけは不思議と手に付かない人だった。
 一緒に暮らしていた頃は、仕方ないなと思いながら毎日掃除機を掛けていたものだ。というか、部屋の真ん中にわざわざコンセントに繋いだ掃除機がある辺り、こっちにやらせようって魂胆が透けて見える。
 たぶん、宿泊代のつもりなんだろう。
 そういうところはきっちりしてて、抜け目ない。
 さして量もない荷物を端に置いてから、僕は腕まくりをした。
 まあ、このくらいなら、三十分も掛からない。



 で、ゴミ出しを終え、ついでに冷蔵庫の中身を確認してから、財布の入った小さな鞄だけを持って、本来の目的である場所に向かうことにした。
 勝手知ったる何とやら、自転車を失敬させてもらう。徒歩だと若干遠いけど、二輪の足があれば丁度良い距離だ。
 大通りに出てしばらく真っ直ぐ。途中何度か細道を抜け、一度緩やかな坂を上り、上った分の傾斜を今度は下り、やがて共同墓地のある寺に辿り着く。
 近場で供えるための花を買った。
 この時期はいつも、決まった色のものが売っている。
 毎年来る僕の顔を覚えた店員は、こちらの姿を認めると、必ずそれを二束差し出す。
 父と、母の分。
 すぐ外せるように、セロテープで簡易な止め方をした撥水紙の部分を持ち、寺で線香を受け取る。
 途中に置いてあった水桶には冷たい水を貯め、花の茎元を浸けておく。片手に桶、もう片手に線香。立ち昇る煙から感じる、独特の匂い。
 水場から墓までは、あまり遠くない。
 いくつかの小道を曲がり、並ぶ墓石のうちのひとつを見つけて足を止める。
 朝藤家之墓。
 プラスティックの花瓶には、萎れかけの花が既にあった。
 花弁を落とさないよう、中の水を取り替えた後、そっと持ってきたものを入れる。備え付けのたわしを手に取り、墓石の上から水を掛けて、薄く積もった灰や汚れを落としていく。
 最後に線香を台座に刺して、一息。
 空を見上げ、照りつける春の陽射しに目を細める。
 じんわり浮いた額の汗を手の甲で拭い、僕は濡れた墓石に触れた。
 水と、石の冷たさを感じる。
 こうする度に、生きてないんだな、と思う。
 つまらない確認だ。

「父さん、母さん、久しぶり」

 両手を合わせたりはしない。
 目を閉じたりもしない。
 祈るのではなく、語る。
 だからこれは、僕から二人への報告だ。
 一年前のこと。夏のこと、秋のこと、冬のこと、今の春のこと。
 晴れた日のこと、曇りの日のこと、雨の日のこと、雪の日のこと。
 仕事のこと、趣味のこと、ご飯のこと、見た夢のこと。
 楽しかったこと、辛かったこと、思い出深かったこと。
 友人のこと、上司や後輩のこと、叔父のこと。
 そして、桜葉亭と、佳那ちゃん、灯子さんのこと。
 とりとめなく言葉は溢れてきた。考えをまとめずに、自分でもわからないまま、そのままを吐き出す。伝える。
 ……死んだ人は、どこへ行くのだろう。
 ここにいるのかもしれない。いないのかもしれない。
 高い空の上で聞いているのかもしれない。深い地の底で眠っているのかもしれない。あるいは、もう世界の隅々まで探したところで、決して見つからないような遠くへ消えてしまっているのかもしれない。
 それでも僕は、話すことを止めなかった。
 聞いてなくてもいい。聞こえなくたって構わない。
 死者と向き合うというのは、きっと、そういうことだ。

 ――確かめたかった。
 二度と応えることのない、父や母にではなく、自分に。
 嘘偽りはないと言えるのか。
 人生を賭ける覚悟は持てるのか。
 折られても諦めずにいられるのか。
 何より、本当に好きだって、胸を張れるのか。

 思いつく限りをまくしたてた。
 一切妥協をしない、仕事をしている時の姿。お客さんの一人一人に見せる、抱きしめるみたいに優しくて柔らかい笑顔。ご馳走になった夕食を口に運ぶ僕を窺う、気遣いとささやかな期待の視線。亡くなった夫のことを話した時の、憂いの濃い表情。歳の割に若々しい容貌。佳那ちゃんを見守る母親の色をした目。
 数えればキリがない。小さな、日々の景色に溶け込んだ彼女の記憶が、僕の心を何度も何度も揺さぶる。
 灯子さんを思うと、胸が軋む。
 同じくらい、胸があたたかくなる。
 激情からは遠いけど、気付いてしまえば、飢えにも似た衝動がそこにはあった。

「……僕は、灯子さんが、好きで」

 欲しかった。
 彼女のそばに公然といられる理由が、権利が、役目が、欲しかった。

「あの場所に、いたい」

 一緒に暮らしたい。
 隣で笑っていたい。泣いてもいたい。
 毎日三人で食卓を囲んで、パンを焼いて、お客さんを迎えて、話して、笑い合って、時には喧嘩して、仲直りして、眠って、歳を取って、やがて死ぬまでそうしていたい。
 僕は、僕の人生を差し出したかった。
 その覚悟を以って、家族に、なりたかった。

 そうだ。
 代替じゃない。
 ただ、与えられたものじゃない。
 両親に、叔父に誇れる――家族を、得たかったのだ。

 ようやく、自分の気持ちがしっかり見えた。
 だったらあとは、ちゃんとするだけ。
 やり直さなきゃならない。
 勢い任せの衝動的な告白ではなく、きちんと考えた上での言葉を、伝えるために。

「……また、近いうちに来るよ」

 上手く行く保証はどこにもないけど。
 嬉しい答えを持って来られたらいいと、思う。



 叔父は日が変わる前に帰ってきた。
 適当な料理(大半が酒のつまみ)を作り置いた僕は、叔父が着替えている間にビールを用意し、テーブルに向かい合わせで座り、二人でささやかな乾杯をした。
 墓参りの後は、いつもこうしてる。
 月一程度でメールは送っているけれど、必ず叔父は僕の口から、最近の話を聞きたがった。墓前で語ったことを、幾分噛み砕いて伝えると、少し赤らんだ頬を緩ませて、そうか、と頷いてくれる。
 考えてみれば、僕には話を聞いてくれる相手が多い。
 両親。叔父。それに、桜葉亭のふたり。
 心を許せる人がいるのは、きっと、幸せなことだ。

「……さて、今年に限って命日より早い理由を教えてもらおうかな」
「う……やっぱり言わなきゃ駄目、だよね」
「義理でも親子、隠し事は?」
「極力しない」
「よし。話しなさい」

 なんてしんみりしてたら尋問みたいな空気になってた。
 いやまあ、最初から言うつもりでいたけど。
 叔父に隠し事はしたくない。
 いきなり来て、迷惑も掛けちゃったし。

「その、好きな人ができまして」
「ふむ。いったいどんな人?」
「一回りくらい年上で、高校卒業した娘さんが一人いて、未亡人で……」
「ちょっと待った。何その高過ぎるハードル。というかいつどこで知り合ったの」
「今パン屋でバイトしてるって前に言ったでしょ。そこの店主さん」
「ああ……やけにお前の話に出てくると思ったら、そういうことか……」
「それで、昨日勢い余って告白しちゃって」
「……居たたまれなくて逃げてきたと」
「別にそんなつもりは……ちょっとあったけど。でも、こっちに来たのは、気持ちの整理がしたかったからだよ」

 いつの間にかお互い、グラスを離していた。
 見定めるように、叔父の目が僕を捉える。

「律儀な奴だね、お前は」
「そうなのかな」
「なかったことにする、ってこともできただろうに」
「それをやったら、顔向けできなくなりそうだったから」
「……いい大人になったなあ、お前は」
「叔父さんのおかげだよ、きっと」
「そうか」
「うん」

 ふぅ、と熱混じりの息を吐く。
 不意に叔父が、僕のグラスにお酒を注いできた。
 溢れる寸前までを大人しく受けて、こっちも注ぎ返す。
 持ち直したグラスは重かった。
 叔父が与えてくれた、重さだ。

「お前は僕の、自慢の息子だ」
「………………」
「だから、やるならしっかり、ぶつかってきなさい」
「……はい」

 本当に。
 この人達の子供で、よかった。










 あたしはあんまり頭が良くない。
 大親友であるところのひなちんが、それはもう真面目でお勉強のできる子だったので、そっちと比べてるところもないとは言えないけど。
 とにかく直情的というか、考えるより先に走り出しちゃうような、そういう性格だって自覚を持っている。
 難しいことは性に合わない。
 変にごちゃごちゃ悩むくらいなら、身体を動かして忘れた方がいい。他人に色々言われても、笑顔で押しきっちゃえば話は早い。
 そんな感じだからか、しばらく気付かなかった。
 どうもあたしは、心の機微みたいなのに疎い――とか何とか言って、深く考えたことがなかったのだ。

 あの日、あたしが自分の部屋に行こうとしてた時、廊下の方から半ば駆け足で出てきた霞さん。
「ごめんね、帰らなきゃいけなくなった」って、呼び止める間もなく階段を下りてっちゃったのを見ても、特別不審には感じなかった。
 もしかしたら、会社かどこかから電話でもあったのかな、なんて。
 勝手に納得してたら今度は、お母さんが出てきて。
 しかも、そこはお父さんの部屋だった。
 力なく笑って「……今日は、これから用事があるんですって」とか。普通、この時点で怪しいと判断すべきところなんだろうけど、そっかと変に疑問にもせず流しちゃって。
 ご飯食べて、ぐーすか寝て、起きて、朝に霞さんから一週間休ませてほしいって電話をもらって、さすがにおかしいと思い始めた。
 我ながら気付くのが本当に遅い。
 ひなちんくらいの聡明さが欲しい。
 ともあれ、そこであたしは悩んだ。
 昨日、お母さんと霞さんの間で何かがあった。それは確かだ。
 様子が変わったのは部屋から出てきた時以降だったし、他でもない、お父さんの部屋だってのが気になる。
 あそこはお母さんでも、掃除の時間以外は滅多に入らない。
 娘であるあたし以外の人を入れるなんて、以っての他。
 だからつまり、それだけの理由があったんだろう。

「むぅ……」

 ぐるぐる思考を回してみたけれど、ちょっとオーバーフローしそうになったので、気分転換に顔を洗いに行く。
 洗面所で冷たい水を流し、両手ですくってばしゃばしゃ。
 春とはいえ、霧ノ崎の朝は結構気温が低い。刺々しいくらいの冷たさが、いい感じに頭をすっきりさせてくれる。
 タオルで拭いて一息。
 ……思えば、霞さんにお父さんの話をしたことはなかった。
 別に隠すようなことじゃなかったけど、敢えて言うことでもない――なんて調子で、あたしも、たぶんお母さんも、家庭の事情を随分長い間教えずにいたわけだ。
 誠実さには欠けるかもしれない。
 でも、お母さんはほとんどお父さんの話をしたがらなかった。あたしにだって、話してくれたことはそう多くない。
 思い出の場所と、馴れ初め。
 あとは、昔はどんな人だったか、とか、まあ一種の惚気。
 そんな程度だ。
 だからあたしの中で、お父さんの比重はだいぶ小さい。
 顔は覚えてる。声も覚えてる。
 優しくて、面倒見の良い父だったという記憶もある。
 けれどそれだって、五歳くらいまでのぼんやりした思い出だ。
 実感がない頃にいなくなったから、今もふわっとしてる。
 お母さんとずっと二人で、小学校の時、友達の家に遊びに行くまでは、家族ってそういうものだと思ってた。
 不満はない。悪いことでもない。
 いっぱい愛情を注いでくれたお母さんのことは、大好きだ。
 ……大好き、だからこそ。
 産まれてから今まで、見続けてきたからこそ。
 すごい引っ掛かる。

 何故、お母さんは霞さんをお父さんの部屋に招き入れた?
 あそこにあるもの。というか、あそこにしかないものは、すぐ思いつく。
 仏壇。
 おそらく、お父さんのことを、お母さんは話した。
 想像してみる。霞さんなら、まず冥福を祈ってくれるだろう。善良で礼儀を知る人だ。遺影の前で手を合わせて、目を閉じて。問題はその後。何となく、亡くなった理由とか、馴れ初めとか、訊いたんじゃないかって気がする。
 お母さんは言葉少なに、でも昔を噛みしめるように、語ったはず。お父さんのことを思い出す時、よく遠い目をするから。
 それを見て――霞さんは、どう感じた?
 何かがあったんだ。
 結果として、霞さんがお母さんから離れた……というか、たぶん逃げた。ぶったりぶたれたり、直接手を出したって線はなし。そんな痕跡なかった。
 じゃあ、いったいどんなことが?
 間違いなく、お母さんはその“何か”について、深く考えてる。いつも柔和に微笑んでるような人が、ふっと顔を曇らせるくらいに。
 うーん……。
 わからない。わからなくて、もやっとしたものがお腹の底にずっしり沈み込む感じ。フラストレーション溜まる。

「……あー、やめやめ。こういうのあたし向いてないや」

 洗ってまだ少し湿った頬を、ぱちんと叩いた。
 気持ちを切り替えよう。
 一人で悩むから良くないんだ。
 だったら、どうすればいいのか。
 一番簡単なのは――そう。
 当人に、直接訊けばいい。



「おはよー」
「おはよう。ちょっと遅かったわね。さっきの電話?」
「霞さんからだったよ。一週間休ませてほしいって」

 軽いジャブ。
 そう、と頷いたお母さんのこめかみが、一瞬動いたのをあたしは見逃さなかった。
 テーブルに付き、用意された朝食に手を伸ばす。
 もくもくご飯を飲み込みながら、次の言葉を探す。
 まどろっこしいのはなし。
 腹芸とかは苦手だから、ストレートに。

「昨日、何かあったの?」
「……どうしてそう思うの?」
「霞さん、お父さんの部屋から出てきたし。お母さんの様子もあれから変だし。で、トドメにさっきの電話」

 鈍いあたしでもわかるよ、というサイン。
 こっちをじっと見たお母さんが、箸を止め、置こうか迷い、結局また動かし始める。
 ちゃんと全部食べてからってことだろう。
 真面目な話は食事中に向かない。若干早めに、あたしもお母さんもテーブルの上のものを片付けた。
 食器まで下げて、嘆息。
 四人席の対面に座って、あたしはお母さんの言葉を待つ。

「霞さんに、優都さんのことを話したの。今までずっと、何だかんだで言えずにいたから」
「うん」
「そうしたら……霞さんに、告白されて」
「うん……え?」

 ストップ。
 額に手のひらを当て、聞いた事実を反芻する。
 いやいやまさか、それは予想外というか、考えもしなかった。
 そっか。
 霞さん、お母さんに告白したんだ。
 ……うわあ。うわあ。
 えーっと、ど、どうしよう。
 喜べばいいのかな。それとも怒るべき?

「整理させて。えー、昨日の夕方、霞さんをお父さんの部屋に連れていって、お父さんのことを話した。で、お母さんが告白された」
「ええ」
「あのね、お父さんの話したところと、告白されたところに全然繋がりが見えないんだけど……」
「私も霞さんがどうしてそうしたのかは、わからないわ」

 あたしはそこで、観察する。
 努めたような無表情だった。小さな俯きの中にうっすらと滲む、困惑の色。
 一見すれば、全く論理性がない。突発的な、衝動的な行動にさえ思える。そりゃあ人間、いつだって冷静でいられるわけじゃないんだから、そういうこともあるだろう。
 けれど、なら、どうして。
 霞さんはいきなり踏みきった?
 これはあたしにだって理解できる。高校卒業までした娘がいる相手に告白するなんて、生半可な覚悟じゃ無理なことだ。学生みたいにちょっとお試し、はいくら何でも、その歳では通用しない。
 結婚を前提にして、って暗黙の了解が入る。
 あの人は間違いなく、理性的な大人だ。
 仮に――そう、仮にずっとお母さんのことが好きだったとしても、敢えて口に出すようなことはしないだろう。
 だからおかしい。酷い違和感がある。
 つい、口を滑らせた、理由があるはずなんだ。

「霞さんさ、すっごくいい人だよね」
「……そうね。自分の仕事もあるでしょうに、毎週ちゃんとこっちにも来てくれて。私の作ったパンも、喜んで食べてくれて」
「下心とか、あったと思う?」
「いいえ。そういう人じゃないと思うわ」
「あたしもだよ。それだけだったら、絶対続かないもん」

 接客業は、長い立ち仕事になる。
 何度も、何十度もパンを運ぶために往復しなきゃいけないし、汗だっていっぱい掻く。お客さんにはいつでも笑顔で接するのが基本だ。簡単な仕事なんてどこにもないって言うけど、きっと他にもっと楽な環境は山ほどある。お給料も、うちじゃそこまで出せない。
 なのに霞さんは、ずうっと働いてくれた。
 初めはおぼつかなかったことも、頑張って覚えてくれた。
 軽い気持ちで、四年五年もいられるわけない。

「お母さんのこと、ほんとに前から好きだったのかもね」
「………………もう、おばさんよ?」
「歳の差婚なんてよくあるでしょ」
「――優都さんが、いるのよ?」

 そうじゃなくて、と言いかけて、あたしは固まった。
 些細な言い回しの違いかもしれない。
 でも。
 確かに聞いた。
“いた”じゃなくて“いる”。
 妙に納得してる自分がいた。
 霞さんの行動、お母さんの気持ち、全部見えた気がした。

 ……実感、なかったんだ。
 幼いあたしがそうだったように、お母さんにとっても、お父さんがいなくなったのは、受け入れ難いことで。
 現実はわかってた。だってもう、この家にお父さんは帰ってこない。部屋も空いたまま、あたし達家族は二人きり。それはちゃんと、理解してるんだろう。
 勿論、だから平気、なんて話にはならないけれど。
 お母さんは、許さなかったんじゃないか。
 自分がお父さんを忘れること。
 あんまりにも唐突に、理不尽に、いなくなったこと。
 それでずっと、引きずってきた。
 今も。
 十年以上経っても。

「お母さん」

 霞さんが、形振り構わず告白なんかしちゃった理由、何となくわかった。
 よくここまで抱えて、あたしにも悟らせず、秘め続けてきたものだと思う。急に死んで、あたしと一緒に残されて、それでもしっかり高校卒業までさせてくれたんだ。あたしはお母さんを滅茶苦茶尊敬してるし、優しくて、素敵で、自慢の母親だと胸を張って言える。
 だけどそれは、違うだろう。
 その答えは、霞さんも、お父さんも、馬鹿にしてる。

「あたしさ、お父さんのこと、もうほとんど覚えてないけど、いい人だったのは知ってるよ。お母さんとはお似合いだった。好き合ってたのも知ってる。今でも、あたしのお父さんは一人だけ。代わりなんて、誰にもできない」

 そしてそんなの、霞さんがわかってないはずがない。

「いなくったって同じだよ。お父さんはお父さんだし、霞さんは霞さん。断言できる、霞さんはあたしのお父さんになりたくて告白したんじゃない。お母さんが好きで、だからたぶん、お母さんのそういうところが許せなくて、我慢できなくて、しちゃったんだと思う」

 好きだったら、幸せにしたいって。
 考えるのは、普通のことじゃないのかな。
 自分が傷付いたり、あるいは相手のこと、少し困らせてでも、その先にあるものを求めるんじゃないのかな。

「色々理由とかつけて、断るつもりでいるんでしょ?」
「……霞さんには、もっといい人が見つかるわ」
「ううん。お母さん以上の人なんて、絶対見つからない」
「でも、私は……優都さんも、佳那も……」
「あたしやお父さんを理由にしないで!」

 言い訳に使ってほしくなんかない。
 誰も嬉しくないよ。
 母親なんだから、気にするのは当然かもしれないし、あたしのことちゃんと考えてくれるのは有り難い。けれどそれで、いろんなことから目背けて逃げちゃうのは、ずるい。
 反抗期らしい反抗期のなかったあたしだけど、人生で覚えてる限り初めて、お母さんを強く睨んだ。
 目が合わない。向き合うことを、せずにいる。
 だからあたしは椅子を倒す勢いで立ち上がり、ずんずんテーブルを迂回してお母さんのところまで直接行く。
 肩を掴んだ。間近、正面、鼻と鼻が触れかねないくらいの距離で、見る。
 揺れる瞳は、弱々しかった。
 そんな風に情けないままじゃ、いてほしくなかった。

「お母さん、今日はお店休もう」
「えっ、ちょっと、待ちなさい。そういうわけには――」
「駄目。そりゃお客さんには申し訳ないけど、十分二十分で話が終わる気しないもん。あたしもこんな気持ちで接客なんてやってられない」
「でも……佳那」
「でもも何もないの! 今日は一日家族会議!」

 結果。
 その日は終日、桜葉亭の表に『諸般の事情でお休みさせていただきます』という紙が張り出された。
 あたし達は都合十時間近く、朝食も昼食も忘れて、何もかもを吐ききって燃え尽きるまで、二人で“話し合い”をしたのだった。
 ……もう二度とやるまい。





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