人間、生きていれば当たり前のようにお腹が空くもので、どんな人も食べなきゃいずれ死んでしまう。 三大欲求のひとつというくらいなんだから、食が生活を占める割合は非常に大きい。誰だっていつでも満足するほどには食べたいだろうし、不味いものよりおいしいものを口に入れたいに決まってる。 僕は、自慢じゃないけど良く食べる方だった。 本当にもう、これは自慢にならない。むしろ悪癖の類だ。 太らない体質なのか、成人してからもずっと今の体型を維持できてるので、そういう意味では恵まれてるのかもしれない。 でも、現実問題として、食費は嵩む。 何度も量を減らそうと試みたけど、一定のライン以下で済ませてしまうと、空腹感が酷くてどうしようもなかった。病気じゃないかと医者に掛かってみたものの、別に異常ではないとお墨付きをもらう始末。まあ確かに、過食症だったらとっくに身体がおかしくなってるんだろうけど。 食べることは好きだ。おいしいものなら尚更。 他に趣味らしい趣味がなかったのは幸いで、稼いだお金のほとんどはご飯に消えていってる。お世辞にも今の仕事は給料がいいとは言えないから、結構ギリギリだった。 ……あの日、桜葉亭と、そこで働く彼女に出会うまでは。 「おはようございます、灯子さん、佳那ちゃん」 「はい、おはようございます、霞さん。いつもより少し早いですね」 「天気がよかったからですかね。何だか早起きしちゃいまして」 「霞さんおはよー。あ、ちょいちょい」 「何かな?」 「後ろの方、かるぅく髪跳ねてる」 「うわ、気付かなかった……。すみません、洗面所借ります」 「あらあら。どうぞ、ゆっくり直してきてくださいね」 開店前、今日は九時過ぎに着いたところで、いきなりのポカミス。バイトを始めた当初は色々慣れてなくて恥ずかしい姿も見せたから、今更ではあるんだけど……それでも情けないものは情けない。 洗面所の鏡前に立ち、少し首を捻って確認すると、ぴょこんと一束、流れに逆らうようにして髪が跳ねていた。 備え付けの櫛で押さえてみるも、変わらず。仕方なく頭を洗面台に突っ込み、ざばー、と水を被る。 濡らさなくていいところも濡れたけど、それはしょうがない。すぐそばに掛かっていたタオルを取り、わしゃわしゃ乱暴に水気を拭ってから、 「……ん?」 これ、バスタオルじゃなかろうか。 しかも頭を拭く前から、しっとり湿っていた。ということはつまり、自分より先に誰かが――灯子さんか佳那ちゃん、もしくは二人共が使った後になるわけで。 ぱさり。 滑り落ちたタオルの端を掴み、見つめる。 どうしよう。素直に言って謝るべきなんだろうか。いやでも伝えたところで……ああもう。 結局湿った髪のまま戻った僕は、つい近くにあったバスタオルを使ってしまったことを告白した。 「そういえば、タオルのことは考えてませんでしたね。すみません。洗面台の下にハンドタオルを入れた籠があるんです」 「思いっきり見逃してました……」 「別に気にしてませんから大丈夫ですよ」 「そうそう。霞さん考え過ぎだって」 女所帯に男が一人。あまり外聞的にはよろしくない立場にいることに改めて気付き、反省。 次はもう少し注意しよう、と心に決め、頭乾かしてきた方がいいですよと言われたので、今度はドライヤーのために洗面台に逆戻りした。 で、気を取り直して仕事再開。 日中の大半、僕の作業は出来上がったものの配膳だ。 お盆に乗せたパンを、所定の位置に並べていく。基本は等感覚。見栄えの良い角度を確かめながら、一個一個を丁寧に。 午前のうちは緩い客足も、昼が近くなると右肩上がりで増える。これがまた、市の外れにあるにもかかわらず、不思議なほどに人が寄るのだ。バスの運転手さんらしき姿を結構見かけるから、それが一因かもしれない。運行時刻に支障はないんだろうか。 灯子さんは一日の半分近くを、店の奥で過ごす。 今、桜葉亭で生地を作って焼けるのは彼女だけだ。佳那ちゃんも色々学んでる最中だけど、灯子さんと同じレベルになるのはいつになるかわからない。 生地を練るのはかなり大変な力作業だし、焼き加減を見る間は始終熱に晒される。冬の時期でも、表の様子を窺いに来る灯子さんは大抵汗だくで、僕にできるのは雑多な作業の肩代わり程度。それは酷く心苦しいことだったけど、だからってどうにもならない。毎日さえ来られないのに、時間を割いてまで教えてほしいだなんて言えなかった。 ――そもそも。 僕はいつまで、ここに通い続けられる? 夕方になればもう、客はほとんど訪れない。 五時を区切りに、僕は桜葉亭を後にする。 移動手段は原付だ。都会と違って交通の便が頼りない地域だと、こういう足は欠かせない。バスもこの時間帯じゃほとんど一時間置きにしか止まらないし。 誰も通らない道を走りながら、時折大きく息を吸い込む。 前かごには余ったパンの袋詰め。だいたい来る客は決まってるから、灯子さんなら数の調整も簡単にできるだろうに、わざわざ僕のために余らせてるところがある。 まかないですよ、って。 初めてこの袋を受け取ってから、ずっと。 ふわりと漂う、香ばしさと微かな甘い匂い。 半分は夕食、残りは明日の朝ご飯だ。 家に着く頃には冷めてるはずだけど、電子レンジで温め直すだけでも全然違う。何度食べても、飽きないほどに好きだった。 「感謝、してもし足りないんだよな」 桜葉亭でバイトを始めるようになって、僕の生活は随分楽なものに変わった。たまに夕食をご馳走になることもある。本当に、二人には頭が上がらない。 一人のご飯は、気楽な代わりに寂しいから。 ……最初は僕も、噂を聞きつけてやってきただけの、客の一人でしかなかった。原付を走らせて一時間近く、霧ノ崎ののどかな風景にぽつんと佇む、素朴な建物。 場所とおいしいらしいなんて話しか知らなかったから、そのお店が桜葉亭って名前なのも、直接目にしてわかったくらいだ。今になって考えると、かなり酷い客だった。 あの日も、灯子さんは汗まみれで、でも、優しく笑っていた。当時中学生だった佳那ちゃんと、訪れる一人一人に、営業スマイルじゃない、心からの笑顔を降り撒いていた。 持ち帰ったパンはおいしくて、けれどそれ以上に、楽しそうな、幸せそうな二人をもっと見ていたかった。 翌週、思い立ったら吉日とばかりに、いきなり現れて働かせてください、とか言い出した僕を、灯子さんはよく受け入れてくれたなと思う。 ちょっと捌き切れてないのはわかったから、全く勝算がないわけじゃなかったんだけど。 ともかく、そうして僕は、桜葉亭の小さな輪の中に入り込んで。 四年か、五年。 彼女達を、見てきた。 何となく察しはつきながらも、訊けていないことがある。 母子家庭である理由。 僕は所詮ただのバイトで、家族じゃなくて、やっぱり一歩引いたところにしかいない。そこは、簡単に踏み入っていい領域じゃない。 けれどいつしか、小さな熱が僕の胸に生まれていた。 狂おしいような感情。全部を知りたいと願う気持ち。 それはよくないものだ、とすぐに気付いた。 振り払おうとした。忘れようともした。 無理だった。 自分のことなのに、自分のことだからこそ、うまくいかない。 心の奥底で抑えつけて、留めるのが精一杯だった。 離れ難くて、ずるずる引きずって。 結局何も言えないでいる。 投げかけたら、強い波紋を生むだろう。 きっとそれは二人を大きく揺らす。 困らせることを、望んではいない。 だから、この言葉を口にする時は、桜葉亭を去る時だと思っていた。 なるべくそんな日が来ないようにしたかった。 けれど。 今は使われていない部屋があるのだと、彼女は言った。 いつものように、柔らかい声で夕食に誘われて、疑問を持たずご馳走になった夜のこと。 毎年、ある日には必ず桜葉亭が休みになることを僕は知っていた。表には「諸事情によりお休みをいただきます」としか書かれない、世間的には何ら特別な出来事のない日。 命日なんだという。 桜葉優都――灯子さんの元夫で、佳那ちゃんのお父さんの名前だ。 ようやく信頼を得られたのか、それともずっと話す機会がなかっただけなのか。どうしてこのタイミングで、とは思わなくもなかったけど、教えるに足る人間と見られたのは、やっぱり嬉しかった。 居間に佳那ちゃんを残して連れられた、かつて夫婦で使っていたらしき部屋は、きちんと手入れがされていて、生活感はないけど綺麗なものだった。箪笥がひとつ、机がひとつ。中身がだいぶ抜かれた本棚と、閉ざされた押入れ。扉から入って右手、窓の向かいに位置するところには仏壇があった。 遺影と思しき写真に目をやる。 柔和で、優しい笑みを浮かべているひと。 いくらか佳那ちゃんに似ている部分を見つける。 ああ、確かに親子なんだな、と感じた。 「祈らせてもらってもいいですか?」 「はい」 「それじゃあ、失礼します」 冷たい金属質な音が一回。 響く余韻を耳にしながら、両手を合わせる。 無心、ではなかった。 思うところは、たくさんあった。 「……病気か何かで?」 「事故でした。買い物帰りに、相手側の不注意で」 「その……どうして今になって、この話を僕に?」 「本当はもう少し前から、お話ししようと考えてました。霞さんには、色々お世話になってますから。でも、なかなか機会がなくて……いえ、ごめんなさい。言い訳がましいですね」 「そんなことはないですよ。思えば、僕も自分の話ってほとんどしてなかったですし」 だからおあいこです、と言外に含めた。 意図を汲み取ってくれたのか、灯子さんは静かに頷く。 彼女達といる時間は気楽で、有り体に言えば、家族みたいな風にも感じていた。 とても、得難いものだ。 もしかしたら灯子さんも、佳那ちゃんも、そう思っていたのかもしれない――というのは、ちょっと自惚れてるだろうか。 「佳那ちゃんは知ってるんですよね」 「亡くなったのは、あの子が五つの頃でしたから……理解させるのには時間が掛かりましたけど、当時は佳那にも随分助けられました」 「精神的に、ですか」 「もしあの子がいなかったら、桜葉亭はなかったかもしれませんね」 どこか儚げな微笑を浮かべて、灯子さんは一旦口を閉ざした。 言葉の端々から窺える、佳那ちゃんに対する深い愛情。 そして、さっき見せた遠い目の奥に潜んだ、亡くなった夫への、複雑な気持ち。 さっきまでの短いやりとりだけでも、僕が想像するよりずっと愛していたんだろう、というのが読み取れた。 桜葉優都さん。 灯子さんの心にここまで残る人を、僕は、羨ましく思った。 同時に妬ましく、恨めしくも。 「どんな方だったんですか?」 「優しくて、その優しさがあるから強い人でした。桜葉亭もあの人が始めたことですけど、子供の頃からの夢だったんですよ。それを忘れずに、ちゃんと叶えてここまで来た。一本、芯の通った人でもありました」 だから僕は、こぼしてしまった。 そんなこと言わなくてもよかったのに。 わかってたことだったのに。 「……灯子さんのこと、愛してたんでしょうね」 「はい。間違いなく。私が愛してたように」 透き通った――綺麗なほどに色の抜け落ちた笑みの先に、僕はそれを見た。 “好き”は、呪いだ。 望む望まざるにかかわらず、人の想いは残り続ける。 彼が、桜葉優都さんがどうだったのかはわからない。 忘れないで、と思ったろうか。 それとも、忘れていいよ、と思ったろうか。 伝える余裕はなかったはずだ。察するに、即死に近い状況だったんだろう。おそらく灯子さんは、夫の死を看取れなかった。 だから? だから彼女は十年以上もの間、ずっと、そんなものを抱えてきたのか? 未練というには少し違う。 間違いなく彼女は、現実を認めている。受け入れている。 わかっていて、その上で、呪われている。 過去が心に刻んだ傷を、癒さぬままでいる。 酷く痛々しい有り様だった。 ここに来てようやく気付いた自分は、あまりにも愚かだった。 優しくて、強い人だと思ったのだ。 彼女が奇しくも、夫をそう評したように。 「っ、霞さん?」 衝動的に、灯子さんの両肩に手を掛けていた。 働く人の固い肩だ。女手ひとつで娘を背負った母親の証。 強い戸惑いの視線が、頭半分の身長差で僕に刺さる。 全身が焼けるようだった。白熱した心はもう、まともな思考をしていなかった。 後になって振り返れば。 この時の僕は、端的に言って、怒っていたのだ。 世の理不尽に、ではない。結果的に妻と娘を残した故人にでも、いろんなことを引きずりっぱなしの彼女にでも、不甲斐なさ過ぎる自分にでもない。 だって、まるで。 人を好きになったら、愛したら、不幸になるんだって言われたみたいで。 だから、静かに。 けれど気持ちは叫ぶように。 場所も状況も考えず、僕は口にしてしまった。 困らせるだけの、その、想いを。 「灯子さん。僕は、あなたが、好きです」 back|index|next |