あれから何かが変わったかと言えば、そんなことはない。
 少しだけ星宮さんのいる時間が増えて、私が自分の仕事について話す機会を得た。たぶんそのくらいだ。
 思えば今まで、初めて会ってから二年も経っているのに、こういう話をちゃんとしたことがなかった。我ながらちゃらんぽらんだって自覚もあったけど、随分心配させちゃったかもしれない。
 そりゃまあ、日がなごろごろしたり本読んだりしてるだけの人間が、いったいどうやって生活費を稼いでるのか、多少なりとも疑問には思うものだろう。言葉にして問い質さなかったのは、星宮さんなりの優しさで、厳しさだ。あるいは臆病さ。大人びていても、彼女はまだ十八だから。
 訊かれないならとそれに甘えて、居心地のいい方へ流れていた。
 店主とお客さん。
 程良い距離感を保つことばかり考えて、例えば将来のことだとか、相談に乗ってあげようだなんてこれっぽっちも思いつかなかった。
 どんなに人ができていても、星宮さんはまだ高校生。
 そういうのは、年上で、大人の私が気付くべきだろう。
 年長者の義務とは言わないけれど。
 もっと早い段階で聞いていれば、あんな風に、必死な彼女を見ることはなかったんじゃないだろうか。
 最近はその辺を反省しきりだ。

 ともあれ、折角お願いされたんだから、教えられることは全部教えるつもり。
 一応研修期間って形で、アルバイトとしてお給料も出すよ、と提案したけれど、それはいいですとばっさり断られた。

「……べ、別にお金のことは心配しなくていいからね?」
「いえ、そういうわけじゃなくて……勿論そこも心配ですけど、まだ何もできないのに、お金だけ頂くのは、何というか……心苦しくて嫌です」
「何事も最初はそんなものだと思うけどなあ」
「それでも、です。どうしても気になるのなら、家事のお手伝いとかでお返しする、ってことにしてください」
「つまりそれはいつも通りなのでは」
「はい。だから、いつも通りでいいんです」

 相変わらず変なところで押しが強い。
 ならばせめてやれる分は精一杯やろうと張り切ったはいいものの、星宮さんは大変覚えが良く、見事に空回りした。
 本読みにほとんど共通の性質として、好奇心の強さが挙げられる。読書というのは大抵、知らないことを知ろうとする気持ちから取る手段だ。それは物語だったり特定の知識だったり、まあ内容によって大きく違うけど、欲するから読む、そこは基本的にみんな同じだろう。
 星宮さんも例に漏れず、幾分子供らしい知的好奇心に溢れていて、しかも勤勉だった。一を聞いて十を知るような要領の良さはなくとも、きっかけを見つければ、知識の蔦を自分で探して手繰り寄せる。
 勤勉とは、貪欲ということでもある。
 彼女の料理の腕は、父親の職業や父子家庭という環境も要因だったろうけど、覚えた知識を活用し、発展させた結果として得たものだ。
 知るために払う労力を苦と思わない。
 大人になれば、それはとても得難いことだと身に染みてわかる。
 先生側としては、優秀で非常に楽な生徒さんだと思うんだけど、

「もしかしなくても、パソコンは苦手?」
「その……学校で授業は何回かあったんですが、なかなか上手く、覚えられなくて」
「あー、そっか、最近は情報って名前で枠できたんだよね」
「機械は全て駄目というわけではないんですけど……」

 そういえば携帯も持ってなかったなあ、星宮さん。
 複雑な操作をするものが苦手なのか、機能の多過ぎるものが苦手なのか。どちらにしろ、ちょっとハードル上がったかもしれない。

「時間はいっぱいあるんだし、ゆっくり覚えていこう。とりあえずわからないところを出してって、ひとつひとつ潰してく感じで」
「疑問点は紙に書きます?」
「折角だから、それもキーボードでメモしよっか」

 指の行き先がおぼつかない星宮さんに、ホームポジションを教える。左手の人差し指はF、右手はJ。中指以降は指の並びに準じて横一線。その配置でまず、キーボードを見ながらローマ字入力で文字を打っていく。
 ある程度慣れてきたら、少しずつディスプレイの方に目を向けて続ける。視線を落とすのは打ち間違えた時だけにすればいい。一朝一夕で身に着くものではないので、とにかく焦らない。反復運動だ。
 幸いと言うべきか、ほかの初歩的な部分は問題なさそうだった。ショートカットなどの便利な操作は、もうしばらく経ってからにすべきだろう。こっちで管理してるところの扱いについても。パソコンだって、基礎をしっかりしてからの方がつっかかりはなくなる。
 二時間ほどやって、一旦休憩を入れた。
 後ろについて教えるだけでも、結構疲れる。

「このやり方で大丈夫?」
「学校で教わった時よりはわかりやすいです」
「ならよかった。星宮さんはきっと、こういうのに苦手意識持ってるだけじゃないかな。覚えはいいから、いずれちゃんとできるようになると思うよ」
「……やっぱり、携帯も買った方がいいんでしょうか」
「仕事で使うなら必須だろうけど、そうじゃないならむしろ持たない方がいいって。何かね、時間に縛られてる気になるから」
「時間に縛られてる?」
「連絡手段が手元にあるってことは、いつ電話が来てもおかしくないわけでしょ。掛かってきたら出ちゃうのが人情だし、それはあんまり心の余裕がないというか」
「ああ……何となくわかりました。確かに、持っていない方が気持ちは休まりますね」

 都会っ子は逆に、ないと落ち着かないのかもしれないけど。
 環境によっては不便さよりも煩わしさを感じるものだ。
 それに、星宮さんが携帯片手に電話したりメールしたりする姿が、どうにも想像できない。

「今、変なこと考えませんでしたか」
「いやいや。さて、そろそろお勉強再開と行きますか」
「続けてパソコンの練習を?」
「ううん。そもそも古本屋って何、という話をしようかなと」
「中古の書籍を取り扱う生業、ですよね」
「生業って……まあ、大雑把に言っちゃうとそういうことだけど、もうちょっと細かい、資格とかの話」

 物の売り買いをするのは自営業。その中でも、人の手に一度以上渡った書籍を扱う人間は、古物商に分類される。言葉の通り、古い物の商いだ。
 新品は流通の上位側から取り寄せればいいので、資金と契約があれば成立するけれど、古物に関しては都道府県の許可が要る。警察署を通した申請をし、許可証を得られて初めて商売ができるわけで。
 ちなみに星見堂も、端の方にひっそり許可証を掲示してある。さすがにこんなところまでチェックが入ることはないだろうけど、一応規則は規則。ちゃんと許可を取ってますよ、という証明だから。

「資格の類は必要ないんですね」
「うん。面倒な試験とかもなし。しっかり書類を書いて出せば、誰でも古物商は名乗れる」

 当然、そこから先は自分次第だ。
 なったはいいけど商売が立ち行かない、みたいなパターンは多い。特に昨今、大手のチェーン店とかに押されてる業界だし。
 大事なのは住み分け。
 衝突しない落としどころを見つけることだった。

「うちは割とニッチなジャンルを含めて、結構手広く扱う感じかな。小説やビジネス書はいろんなお店で扱ってるから、そんな積極的には手を出してない」
「ここには随分置いてあるように見えますけど」
「趣味と実益を兼ねてるからね」
「……読みたい本を集めた結果、ですか」
「悪くないでしょ?」
「私もその恩恵に預かってる身ですから」
「読書狂とまでは言わないけどさ。たくさん好きな本を手元に置いて、いつでも読める……そういう環境の中にいられたら幸せじゃない」
「古本屋さんとしては落第かもしれませんよ?」
「自覚はあります」

 なんて。
 以降はほとんど雑談。些細な疑問点に答えたり、不意に今日の夕食はどうするんですか、と話し合ったり。
 さすがに星宮さんは夜には帰るけど、レシピくらいは一緒に考えてくれる。まだ知識が追いつかなくて、アイデア力に乏しい身としてはかなり有り難い。
 話すことがなくなっても、例えば同じこたつに入って、二人別々の本を読んでいるだけで、何となく満たされた気持ちになる。
 静かなのに、寂しくない。
 一人でいる時には決して得られない、不思議な安らぎ。

 気付けば星宮さんが船を漕いでいた。
 本読みの矜持か、開いた本に頭を乗せるようなことにはなってなかったけど、右頬をテーブルに押し当てる形で、穏やかに目を閉じている。
 頻繁というほどではないものの、星宮さんもそこそこ、こたつの魔力に負ける日がある。今日はきっと、慣れないことをやって疲れたからだろう。陽が沈むまでは寝かせてあげようと思った。
 こういう時のために置いてあったタオルケットを、そっと星宮さんの肩に掛ける。幸いにもその程度で起きたりはせず、僅かに身じろぎしただけだった。
 耳を澄ましてようやく聞こえる、小さな寝息。
 そういえば、最初にこんな無防備な姿を晒された時は随分慌てたものだ。警戒心がなさ過ぎる、とは今でも思うけど、信頼の証だと受け取れば、そりゃあ悪い気はしない。

「……あ」

 居間から店舗部分を抜けた表扉の先、小粒の雪が降り始めていた。
 天気予報では短い間と言っていたから、おそらく夕方までに止むだろう。若干後ろ髪を引かれながらもこたつから足を出し、立ち上がって縁側に向かう。
 軽く、柔らかい霧ノ崎の雪だ。
 凪いだ曇り空からふわふわ降りてくるそれを、私は伸ばした手で掴み取ってみる。
 一瞬走る冷たい感覚。重みも何もなく、残った微かな水もすぐに乾いてしまった。
 白く煙る吐息をこぼし、縁側の隅に座る。
 あっという間に冷える足先をぶらぶらさせ、雪まみれの空を見上げる。

 少しばかり、古い記憶を思い出した。
 昔のこと。
 高校を卒業した直後から、私は一人暮らしを始めていた。
 父との約束だったからだ。
 その頃には今の仕事をしたいと考えていて、そんな私に父は、資金の提供を約束してくれた。
 ただし、条件が三つ。
 大学はきっちり、単位を落とさず卒業しろ。
 家を出て一人暮らしで、自分の金は全部自分で稼げ。
 一度夢を目指すと決めたなら、そのための努力を怠るな。
 もう遊んでる暇なんて一切なかった。入学費以外はそれも自己負担で、と言われてたから、サークルにも入らず、連日バイト漬け。たまの休みに買い込む本だけが唯一の楽しみだった。
 大樹さんと知り合ったのも、だいたいその時期だ。
 たぶん死ぬまで頭が上がらない人の一人でもある。

 風呂さえ付いてないボロアパートを借りて、ギリギリまで生活費を切り詰めて、時折近くの友人宅に転がり込んで。
 見かねた母がご飯を作って持ってきてくれることもあったけど、まあ、お世辞にも健康的ではない生活をしていた。

 あの子と出会ったのは、確か、二十歳の冬だった。
 今日みたいに。
 肌寒い、雪の日。

「……五年、かあ」

 大人と言ってもいい、白い毛並みの猫。
 怪我をしていたらしく、後ろの片足を引きずっていた。
 降り積もる雪に埋もれながらも浮かび上がる、血のように紅い瞳の色が印象的だった。
 純粋な白子アルビノ、ではなかったと思う。
 よくよく見れば毛には灰色も混ざっていたし(街の汚れが染みついたからかもしれない)、陽射しを嫌う素振りもあったけど、執拗に陽溜まりを避けることはしなかった。
 大人しく、気難しい子で。
 それでも寂しかった部屋にいてくれた、大切な家族だった。

「冬は、寒いよね」

 本当に。
 心の隙間を、冷たい風が撫でていく。
 久しぶりに感傷的な気持ちになってしまった。
 似合わないよなあ、と誤魔化すように苦笑する。
 こんなの、誰だって持ってるものだ。
 自分だけじゃない。
 生きるってのは、そういうことだろう。

「戻ろう」

 庭先に放り投げていた足を引き、立ち上がる。
 すっかり冷えて感覚がなくなっていた。
 手も神経の通りが鈍い。目の前で擦り合わせ、はー、と吐息を掛けて温める。やらないよりはマシ、程度だけど。
 居間に入ると、丁度星宮さんが起きる瞬間にかち合ったらしく、ゆるゆると瞼を開いて彷徨った視線がこっちを捉えた。
 しばし硬直。

「……っ!」
「あ」

 慌てて上半身を起こし、その反動で膝辺りをこたつに強打したのか、うずくまって涙目になる星宮さん。
 別に何をしたわけでもないんだけど、ちょっと申し訳ない気持ちだった。

「えっと……大丈夫?」
「すみません、膝、ぶつけて……」
「擦り剥いたりはしてない?」
「一応、平気です……うぅ」
「何というか、その、ごめん」
「鈴波さんは悪くないです。でも、恥ずかしいとこ、見せちゃいました」
「普段はこっちが見られてばっかりだからなあ」
「おあいこだ、って言うつもりですか?」
「違うって。そんな気にしなくていいよと」
「……無理です」
「やっぱり?」
「鈴波さん、いじわるです……」

 湿布を貼るかと聞いてみたけど、謹んで遠慮された。
 確認した感じ腫れてもいないし、本当に大したことはないんだろう。少し赤くなった膝頭を撫でる星宮さんを見て、さっきまでの沈みがちな心がふわりと軽くなる。

 例えば、過去に色々あったとして。
 それがどれほど些細な、大多数の他人にとっては取るに足らない小さなことであっても、自分が重いと思うなら、一生忘れられないような記憶にだってなり得る。
 確かにこんなの、誰だって持ってるものだ。
 辛い時は辛いし、苦しい時は苦しい。

 でも、誰もが誰かに救われることも、きっと当たり前みたいにある話で。
 その“当たり前”を、私は愛しく思う。

「もうすぐ、雪も止むかな」
「雪、降ってたんですか?」
「星宮さんが寝てる間にね」
「まだ蒸し返しますか……」
「ごめんごめん」

 謝りながらもついくすりと笑ってしまって、恨めしげに目を細めた星宮さんが、無言の抗議を向けてくる。
 そんな彼女をどう宥めようかと、私は少し離れた隣に座った。
 自然な距離。
 こういうことが、いつまでも続けばいい。

 ――けれどやがて、季節は変わる。
 春を越した先に待つ夏。
 私は何気ないこの日を、後に思い出すことになる。



ordinary strength/one.未来と過去の話・了





backindexnext