都会の雪は薄汚れてるというけれど、私にとっての雪は、霧ノ崎の一面に積もる、目が痛くなるほど真っ白なものだ。
 冬になれば高い空を分厚い雲が覆って、ほとんど毎日のように雪を降らせる。秋を越して枯れ木が目立つ山野も、あっという間に雪化粧を済ませてしまう。
 東北の豪雪地帯に比べるとまだ控えめなものの、それでも定期的に雪かきしなきゃ家屋が潰れかねないくらいには、冬が厳しいところ。朝方は大抵氷点下の気温だから、しっかり厚着をしておかないと、まともに外を歩けない。
 そんな霧ノ崎が、私は好きだった。
 ずっとここにいるからかもしれないけど、今まで他で暮らすなんて、考えたこともなかった。

 初めてそれを意識したのは、去年の秋口。
 学校であった、進路調査だ。

 薄霧の方に行けば大抵のものは揃えられるし、生活する分には不自由しない。ただ、例えば大学や専門学校に通うとなると、一番近いところでも電車で一時間。学科とかによっては、そもそも近辺に適切なところがない。
 だから高校を卒業する際、半分以上の人が実家を離れる。一人暮らしを始めたり、全寮制の学校を選んだり、いくらか違いはあるけれど、望んで霧ノ崎に残る人は、やっぱり少ないのだ。
 進路調査の紙を見て、去年の私は迷った。
 迷って、結局適当なことを書いてお茶を濁した。
 ちなみに後で佳那に話を聞いたら「あたしは桜葉亭継ぐつもりだよ」と返されて、すごく凹んだ覚えがある。

 私は、霧ノ崎が好きで。
 ここで生きていくことに何の不満もなくて。
 だから、それでいいと思ってた。
 いつまでも続くんだと、そう、思ってた。

 ……けれど当然、周りは進学する人ばっかり。
 みんなが必死に勉強してて、何だか取り残されるように感じた。勿論、だからってやる気をなくしたわけじゃないし、ちゃんとテストの点数は維持し続けたけど。
 先生に「この成績なら推薦取れる」と教えられた時も、素直に頷けなかった。
 進学にはお金が掛かる。もしそう言ったら、お父さんは絶対そんなこと気にしなくていいって返すだろうけど、ただ四年間、あるいは二年間を無為に過ごすだけだったら、進学する意味はない。
 少なくとも私は、そこまでわがままにはなれなかった。
 確かに、選択肢は増えるのかもしれない。でも、霧ノ崎を離れるのが嫌だった。
 お父さんと。佳那と。灯子さんと。蒼夏さんと。透さんと。里さんと。……鈴波さんと。
 同じところにいられないのが、怖かった。

「私、駄目だなあ……」

 通学路、誰もいないのをいいことにぽつり呟くと、一緒に白い吐息が口からこぼれる。
 今日は珍しく、雪が止んでいた。空に雲は多いけど、時折覗く太陽が光を落として、きらきら雪を輝かせる。
 足を滑らせないよう、一歩一歩を踏みしめる。きゅ、きゅ、と沈み込む感覚が足に伝わって、いつもながら、ちょっとだけ心が躍る。
 しゃく、しゃく。
 畑や草の生えていた場所も、今は白一面。
 見渡す限りの雪景色を徒歩で過ぎれば、薄霧の街並み。
 そこまで来ると、除雪車である程度整備された道路が目に入る。人の姿もちらほら見えて、私はその流れに紛れていく。
 学校までの道程で、途中、あまり使われていない細道がある。
 日によって通ったり通らなかったりするけれど、何となく今日はそっちを選んだ。家屋の塀と塀に挟まれた、大人ふたりが並べばいっぱいになるような隘路。
 朝早く、足跡のない道に、私の靴裏が窪みを作る。雪国に生まれても、こういうのは結構やっちゃうものだ。鈴波さんならどうだろうと考えて、一人苦笑した。たぶんあの人はそもそも外に出たがらない。
 と、低めの塀の上に、何かが乗っているのを見つけた。
 雪を被ってはいるけど、明らかにそこだけ盛り上がっている。気になって手を伸ばし、まだ柔らかい表面を払ってみる。
 埋もれていたのは、目も鼻もない小さな雪だるまだった。
 近くに住んでる子供が作ったんだろうか。若干バランスが悪くて、頭の部分も少しズレてくっついている。

「……まだ、時間は平気かな」

 私の手袋は濡れても大丈夫なタイプなので、躊躇はなかった。
 指先で余計なところを削り、逆に足りない場所には新しく雪を継ぎ足す。押し込むようにして固めれば、いくらか格好のつく雪だるまになった。
 別に、誰が見てくれるわけでもない。
 もしかしたらこれを作った子供だって、忘れてるかもしれない。
 けれど。
 だから何もしない、というのは、きっと違う。
 みんな、なにかをよくしたいと思って生きている。
 選択肢を増やすことも、限られた道を選ぶことも、同じだ。

「行こう」

 薄く手袋に付いた雪の粉を落とし、私はまた歩き出す。
 十二月二十五日。
 クリスマスの今日は、高校最後の二学期の、終業式だった。










「終わったー!」
「佳那、喜び過ぎ……」

 校門を抜けた途端、両手を上げて叫ぶ佳那に、私は苦笑いを返す。
 滞りなく式を終え、教室で通知表を配って連絡事項をいくつか告げると、あっさり先生は私達を解散させた。
 たぶん、うちのクラスが一番早かったと思う。
 蟻の子を散らすように人がいなくなる様子を見ながら、私と佳那も先生にお辞儀をして、教室を後にした。
 家までの道は、お互いに長い。
 一人で帰るのも嫌いではないけれど、やっぱり二人だと、一時間近い帰路もあっという間だ。

「三学期は出なくていい授業も結構あるし、もうほとんど高校生活は終わったもんだねー」
「私は極力出るつもりだけど」
「ひなちんは真面目さんだ。……まあ、あたしも最後まで気抜かないようにってお母さんに言われてるから、それなりには行くつもりだよ」
「部活の方はいいの?」
「引き継ぎはとっくに終わってるって。先輩的には心配な子も何人かいるけどさ、あんまし出しゃばるのはよくないでしょ」
「でも、たまには顔見せするんだよね」
「もち」

 除雪車が足を延ばさない地域まで来ると、照りつける陽射しのせいで溶けた雪が、そこかしこで凍りかけている。
 滑って転ばないよう、まだ柔らかい雪の残るルートを選びつつ、私達は会話を続けた。

「何となく、訊かなかったけど」
「……うん」
「進学しなかったのって、寮住まいとかしたくないから?」
「それもある……かな。学校でも、一番仲良かったのは佳那だし、私の知ってる人、好きな人はみんな、霧ノ崎にいるから」
「明成さんはそれでいいって?」
「ちゃんと自分で決めたことなら、って」
「らしいなあ。じゃあ、卒業したらどうするつもり?」

 その問いかけに答えるのは、若干の躊躇いがあった。
 家で、働いてるお父さんの分も家事をこなす――なんてことも考えたけど、それじゃ今までと何ひとつ変わらない。自立したとは口が裂けても言えない。

 私にはどんなことができるだろう?
 どんなことが、したいんだろう?

 去年からずっと、探し続けてきた。
 まだ、はっきり見つかったわけじゃない。
 けれど。
 やってみたいことは、ある。

「もう少しだけ内緒にさせて。上手く行ったら、近いうちに話すから」
「おっけー。いい報告期待してるぜ」
「うん。……ありがとう、佳那」
「どういたしまして」

 何だって、踏み出さなければ先には進まないものだ。
 だからきっと、この時私はようやくその一歩目を始められたんだと、思う。



「いらっしゃい、星宮さん」

 いつも通りそう言って迎えてくれた鈴波さんに、私もいつも通りの挨拶で答えた。
 帰宅し、荷物を置いてすぐに来た星見堂。冬は特別朝に弱い……というか寒さに弱い鈴波さんでも、さすがに昼を過ぎればちゃんと表を開けている、のだけど。

「やっぱり、行儀悪いです」
「あはは……こうも冷えると、ね? 風邪ひくといけないし」
「だからってこたつに入りっぱなしなのはいいんですか。一応客商売のはずですよね」
「どうせ星宮さんくらいしか来ないから問題ない!」
「問題しかないですよ」
「そんな冷静に返さなくても……」

 一国一城ならぬ一店一家の主たるこの人は、亀よろしく頭以外はこたつにすっぽり。
 さっきの言にはいい加減開き直った感があって、私はこれみよがしに重い溜め息を吐いた。それはまあ、確かに私以外の人が古本目当てに訪れたところを、まだ一度も見たことはないけれど。ちょっと気が抜け過ぎじゃないだろうか。
 呆れ混じりの視線が効いたのか、苦笑と共にずりずり這い出てきた鈴波さんは、今更姿勢を正してこほん、と軽く咳をした。

「今日は随分早いけど、終業式だっけ」
「はい。お昼前には終わったので」
「三年にもなると課題はないよね。ということは、冬休みの間は自由だ」
「あってもなくても勉強はしますよ」
「勤勉だねえ」

 会話をする傍ら、私は本棚を眺めて、無造作に一冊を抜き取る。これはご飯の後に読む本だ。
 靴を脱ぐのも慣れたもの。
 手元の本はテーブルに置き、冷蔵庫から食材を取り出していくと、鈴波さんも立ち上がって鍋や包丁を用意してくれる。
 一通りの野菜を千切りにし、安売りだったのをまとめ買いしたらしい鶏肉も一口大に。鍋には水を入れて沸かし、だしの素で下味を整える。
 火が通りにくい順に具を投入して、適当なところで冷凍のうどんを落とす。あとは柔らかくなり過ぎないくらい茹で、最後におろした生姜を溶かして完成。
 お手軽で身体もあったまる、冬にはよく食べるレシピ。
 二人が並べるほど台所は広くないので、鈴波さんには食器を出してもらった。とはいえ、この程度なら鈴波さんも作れるだろう。ただ今日は、何も考えずにいられる時間が欲しかった。たぶん、それを鈴波さんは汲んでくれた。
 いただきます、で向き合ってうどんを食べる。
 ほとんど無言で、食事は早く済んだ。
 一足先にごちそうさまをしていた鈴波さんが、私の分の食器も片付ける。
 男の人の、広い背中。
 私は、鈴波さんをじっと見つめた。

 迷って、悩んで、言い出せなかったことがある。
 今更じゃないかな、とか。
 迷惑になったりしないかな、とか。
 色々考えたら動けなくなって、息が詰まって。
 そうしてここまで、先延ばしにしてきた話。

 温かなご飯で火照った頬を、ぴしゃりと叩く。
 濡れた手のまま、鈴波さんがこっちへと振り向いた。
 目が合う。焦る。舌が回らないのを自覚する。
 それでも、と膝に乗せた両手を握り締めて、

「あ、あの、鈴波さんっ」
「とりあえず落ち着いて。深呼吸」
「あっ、は、はい……すぅ……はぁ……っ、ん」
「よくわからないけど、私は逃げないよ。ゆっくりでいいから」
「……すみません。その、卒業してからのこと、なんですけど」
「うん」
「私、やりたいことってずっとなくて。わからなくて。去年から考え続けてました。霧ノ崎からは離れたくなかったけど、みんなと別れるのは嫌だったけど、だからって、家にいつまでもいられるわけじゃない、のはわかってて」

 上手く言葉がまとまらない。
 けれど、焦らず。ゆっくり、紡いでいく。

「前に、鈴波さんが話してくれたこと、覚えてますか。好きならそれをみんなにも見てもらいたい、もっと知ってほしいって考える、って」
「えっと……ああ、春に風邪ひいた時かな」
「はい。それを聞いて、いっぱい考えて……気付いたのは、最近でした」

 私は、

「私は、本を読むのが好きです。いろんな人の考えとか、想いとかに触れることが好きです。たくさんの人が関わってできた、奇跡みたいな一冊一冊が、好きです」
「……うん」
「だから私は、この場所も大好きでした。鈴波さんがここに来たこと、星見堂ができたこと、すごく嬉しかった。霧ノ崎に――ここにずっといたいって、今でも思ってます」
「そっか。それは、私もすごく嬉しい」
「はい、お揃いです。……でも、今まで私はいるだけで、鈴波さんがどんな仕事をしてるのか、ほとんど知らずにいたんです。何もかも、もらってばっかりです」
「そんなことないよ。星宮さんには何度も助けてもらった。霧ノ崎のこと、ここに住む人達のこと、いっぱい教えてもらった。こっちこそ、してもらってばっかりだ」
「だとしても、私が、知りたいんです」

 鈴波さんのこと。
 知らなかったこと。

「お仕事、教えてください。鈴波さん、確かインターネットでも取引してるんですよね」
「まあ、そっちの方が本業というか……」
「全然お客さんの来ないお店が、二年以上も潰れないなんて普通はおかしいです」
「あはは、ごもっとも」
「小さなことからでいいんです。私に、鈴波さんのお仕事を手伝わせてください。ちょっとずつ、覚えていきますから」

 いつまでもそのままでいられないのなら。
 何もかも変わっていくことを認めるのなら。
 私もまた、そうあろうとすべきなのだ。
 ちゃんと迷って、悩んで、足掻かなきゃ。
 こどもからおとなになるためにも。
 みんなと一緒に、いるためにも。
 向かい来る現実を、恐れてはいけない。

 答えを待つ私に対して、鈴波さんは目を逸らさなかった。
 真剣な表情。
 ああ、と思う。
 この人は心から、私と向き合ってくれている。
 稚拙な願いを、笑わずに受け止めてくれている。

「こっちに引っ越して、もう二年も経ったけど……霧ノ崎では、星宮さんが一番長い付き合いだから。その二年分は、私なりに星宮さんのこと、理解してるつもりだよ」
「……はい」
「後ろ向きな気持ちとか、そんなんじゃないんだよね?」
「はい」
「わかった。私でよければ、この仕事についてとか、色々教えられることは教えるよ。そういえば、詳しく話したことってなかったしね」
「あ……っ、いいんですか?」
「断る理由がない。そっちが思ってる以上に星宮さんがいてくれて助かってるし、常々もっと恩返し的な何かができないかって考えてたくらいなんだから」
「ありがとうございます。よかったぁ……」

 緊張で、握った手のひらがじっとりしていた。
 張り詰めた気持ちの糸がぷつんと切れて、テーブルに突っ伏してしまいたくなったけど、はしたないのでそれは何とか耐えた。

「……そんなに安心するようなものだったの?」
「鈴波さん……私、これでもすごい勇気を出して言ったんですよ? いつ駄目って言われるか、怖くて仕方なかったです」
「いや、そこまで変に覚悟してたとは思わなかった。勿論本気は伝わったけど……星宮さん、額に汗浮いてるし」
「さっきからずっといっぱいいっぱいでした」

 本当に。
 鈴波さんの前でこんなに緊張したのなんて、初めてじゃなかろうか。

「ま、問題は解決したんだし、あとはいつも通りに戻ろう。気張りっぱなしだと疲れるだけだからね。お茶でも淹れよっか」
「お願いしてもいいですか?」
「了解。おやつには少し早いけど、摘むものも出しますかね」

 そう言って腰を上げた鈴波さんに、手伝いますと続きかけて、止める。私を見る目が、大丈夫、と語っていた。
 心臓に手を当てる。
 急ぎ足の鼓動はまだ静まらない。

 それが先ほどまでのやりとりのせいなのか、ようやく見つけた“やりたいこと”のせいなのかは、わからないけど――
 この一歩目を大切にしようと。
 私は、胸の弾みを噛みしめた。





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