秋の頭、私は星見堂を留守にしていた。
 そろそろ顔を出せ、と父親のお達しがあったからだ。
 古書店業(客が日参平均一人以下な状況でも経営できているというのなら)に明確な休日はない。決まった日に休みを設けるところも多いけど、まず人が来ない霧ノ崎では、いつ店を空けても大差なかった。……我ながら虚しい。
 実家は霧ノ崎から割と遠く、電車と新幹線をいくつか乗り換える必要がある。片道五時間強、日帰りには少し厳しい距離だ。
 いつもなら一人の車内には、星宮さんが相席している。
 これには深い事情が――なんてこともなく、うちの親が「連れて来られないか」と言って、その又聞きに星宮さんが頷いた、というだけの話である。
 そこそこの頻度で両親とは連絡を取り合っているので、星宮さんの人柄などについては充分伝えていた。
 もっとも。

「あの……星宮さん、まだ時間あるんだし、そんな固くならなくても」
「でも、鈴波さんのご両親にご挨拶するとなると……」
「考え過ぎ考え過ぎ。日頃世話になってる子なんだから紹介して、くらいのことだよ。……まあ、他の意味も、ないわけではないけど」

 一番肝心な話は、まだ言ってなかったりする。
 七夕以後、私達の関係は変わった。少しだけ座る時の距離が近くなって、星見堂に彼女が泊まる日が増えて、幾人かの知り合いに冷やかされるようになった。
 明確な言葉にしたことはないけれど、不思議と通じ合っている確信がある。一度相談して、あれこれするのは星宮さんが成人してから、という約束もした。
 世間一般にはこれも一応、付き合ってる範疇に入るんだろう。
 佳那ちゃんにはロリコンと揶揄されたけど、実際結構な歳の差なので否定できない。ただ、今になってみれば、なるべくしてなったのかもしれないとも思う。
 私の両親は、そういったことには割と寛容だ。おそらく正直に話せば、反対はしない。
 反対はしない、だろうけど……。

「うぅ……絶対色々言われる」
「す、鈴波さん! ご両親はどんな人なんですか?」

 不穏な雰囲気を察してか、あからさまに話題を逸らそうとする星宮さんに、私は強張りかけた表情を戻して、顎の辺りに手をやった。

「んー、父も母もそんな変な性格はしてないよ。仕事もサラリーマンと専業主婦だし。でも、割とお金持ちではあるかな」
「お金持ち、ですか。鈴波さんとは程遠いイメージのような……」
「程遠いって……。確かに羽振りの良い印象はないだろうけどね。星見堂を始める時、結構援助してもらったんだ。ある程度うちにお金がなかったら、霧ノ崎に店を置くなんてことはできなかったと思う」
「それを聞く限り、ご両親は鈴波さんのこと、ちゃんと気にしてるんですね。いい関係みたいです」
「少なくとも仲悪くはないかなあ。今でもちょこちょこ連絡取り合ってるし。だから星宮さんのことも事前に伝えてあるわけだしね」
「……何を言われたのか、追求したいところではありますが」
「そこは私を信じてほしいとしか」
「別に疑ってはいませんよ」

 道中はだいたい、そういう会話をしながら過ごした。
 新幹線を降り、さらに一時間近く掛けて着いた駅から徒歩十五分ほど。
 都会の中心より若干離れた一軒家が、私の実家だ。
 一人で来る時は軽いノックだけで普通に表を開けるんだけど、今回は星宮さんもいるので、律儀にインターホンを押して入った。
 これまた珍しく、玄関先で出迎えた両親が、私には目もくれず星宮さんを奥へ案内。一際使い勝手の良い座布団を宛がい、甲斐甲斐しく飲み物を出し、挨拶もそこそこに質問を始める。ちなみにその間、私は適当にしてろとばかりに視線だけで追いやられていた。
 まあ、それこそ勝手知ったる我が家だ。
 コップと冷蔵庫の飲み物を失敬して、少し離れたところで三人の話を聞く。質問というよりだんだん面接みたいになってきていたけど、悪いことにはならないだろう。
 星宮さんも、嫌がってはいないようだし。

「それじゃあうちの息子とはもう」
「星宮さんちょっと私の部屋まで一緒に来てくれるかな!」
「あ、は、はい」

 と思ってたら油断も隙もありゃしない。
 全く何もわかっていない星宮さんは、小首を傾げながらも大人しく手を引かれてくれた。絶対後で詮索されるぞこれ。
 足早に自室へ入り、念のため扉を閉める。
 家を出てからも、こうして帰る度に使っている部屋だ。いくつかの家財などは星見堂に持っていったから、当時より物は減っているけれど、それでも殺風景というほどでもない。
 古びた机と本棚、シングルベッド。
 埃が積もってない、かつ目立った汚れも見当たらないのは、日頃から掃除を欠かしていないからだろう。その辺り、母の方はマメなところがある。
 率先して私がベッドに座ると、星宮さんも遠慮がちな仕草で隣に腰を下ろした。スプリングが小さく軋む。

「ごめんね、いきなり連れ出しちゃって」
「いえ。珍しいものも見られましたし」
「珍しいもの?」
「ご両親の前だと、あんな風に焦ったりするんですね」

 どうしてなのかはわかりませんでしたけど、と続ける星宮さんには、苦笑を返すしかなかった。理由は絶対教えられない。

「鈴波さんは、変な性格じゃないって言ってましたけど……何というか、ああ、鈴波さんのご両親なんだな、って思いましたよ」
「それ遠回しに私が変な性格だって言ってるよね」
「あっ、そういうわけじゃなくて。お父さんの方は厳格そうだけど誠実で、くだけたところもあって。お母さんの方はお茶目で、でも結構鋭かったりして。どちらも、鈴波さんが継いでるんだな、と」
「……真顔で恥ずかしいことを」
「素敵なお二人じゃないですか。恥ずかしくなんてないです」

 無自覚な追い打ちにひとしきり悶えて、私は気を取り直した。
 今回の小旅行の目的。
 星宮さんを両親に紹介するのとは別に、もうひとつあった。

「明日、昼前にはここを出るつもりだけど、霧ノ崎に帰る前に、寄りたい場所があるんだ」
「他にご挨拶をする人がいるんですか?」
「ある意味そうかも。大学生の頃、借家から通っててね。行きたいところはその近く」

 ――墓参りだ。










 翌日、実家を出立するまで、おおよそ穏やかな時間を過ごすことができた。若干、近況報告という名の尋問をさせられもしたけど、そこは両親なりの心配があったんだろう、と解釈しておく。
 駅から数十分、乗り換えは一度。
 実家周りよりも幾分寂れた、特に目立つものもない通りをしばらく歩き、私は小さな公園の入口で足を止めた。
 ベンチがふたつ、ブランコに滑り台、砂場。都会ならそこかしこにあるような、ありふれた遊具に混じって、一際大きな桜の木が中央辺りを陣取っている。
 秋にもなれば葉は落ちて、裸に近くなった枝が寒々しい姿を晒していた。私は途中自販機で買った飲み物の片方を星宮さんに渡し、手招きしてベンチに座る。

「なんだか、寂しいところですね」
「霧ノ崎と比べると、どうしてもね。しかし、昔より狭くなってるというか……子供は遊びづらいだろうなあ」

 プルトップを空けて、ミルクコーヒーを一口。
 随分寒くなった霧ノ崎と違い、こっちはまだ過ごしやすい涼しさだ。コーヒーの冷たさと淡い苦さを舌に感じ、息を吐く。
 大丈夫だ、と言い聞かせても。
 心の準備が必要だった。

「十九の頃、大学に入って、ここに越したばかりの時期に、猫を飼ってたことがあったんだ」
「飼ってた……ということは、その、もう?」
「うん。二ヶ月もしないうちに死んじゃった。……今からちょっと、昔話をするけど、聞いてくれる?」

 はい、と短く星宮さんが返事したのを皮切りに、私は過去へと沈み込む。
 緩やかに、緩やかに――痛みと共に、思い出す。



 冬の、この辺では珍しく雪が降った日だった。
 当時もまともな料理は作れなかったけど、一人暮らしでお金もなかったから、ある程度は自炊しなきゃいけなかった。大学帰りに近くのスーパーでタイムセールを狙って、ビニール袋と鞄を片手ずつに持って歩いていた。
 昼からずっと止まない雪は、足跡が残るくらいには積もっていて、だから最初は気付かなかったのだ。
 薄汚れた毛並みの、それでも真っ白い子猫。
 細い路地で隠れるようにうずくまって、弱々しく震えていた。興味半分で寄ってみれば、どうにも様子がおかしい。首輪の類はなく、捨て猫でないことはすぐにわかった。
 怪我をしてるのかと思ったけど、そういうわけでもないらしい。ただ純粋に、その子猫は弱っていた。
 私はそいつを見下ろしながら、少し考えた。
 生活にあまり余裕はない。そして以前に、借家のアパートは、表向きにはペット禁止だ。隣の住人が先日室内犬を抱えていたのを見たけれど、規律は規律。極力守るべきものだろう。
 目にしてしまった以上、心は痛むものの、私が責任を取る必要もない。立ち去ろうと振り返りかけ、そこで子猫が瞼を開けた。
 思わず足を止めたのは、その瞳が血のように赤かったから、ではなく。
 酷く理知的な、諦念の色を湛えていたからだ。
 見捨てることに、何故か惜しさを感じた。
 しゃがみ、恐る恐る手を差し伸べると、私の顔を一瞥し、それから指先をぺろりと舐めてきた。
 ざらついた舌と、命の熱。
 そっと抱き上げても、子猫はまるで抵抗しなかった。
 小さな身体は雪まみれで冷たかったけど。
 自分以外のぬくもりとこうして直に触れたのは、久しぶりだった。

 隠れて飼うこと自体はさほど難しくなかった。何せ前例がある。猫用の食料やその他諸々を持ち込むところさえ見られなければ、大家の老夫婦にも気付かれない。あるいは知っていて見逃していたのかもしれないけれど、結局最後まで指摘されることはなかった。
 子猫はしばらく体調を崩しきりで、ある程度元気になるまでに一週間は掛かった。そうしてわかったのは、元より大人しい気性で、現状を把握でもしているのか、まるで鳴かない。外にも出たがらない。とにかく、少し変わっていた。
 洗えば毛並みは白く、注視してみると薄く肌に血管が透けていた。瞳も同じで、兎のような印象を持った。結果的に、それは間違っていなかった。
 アルビノ。白子。色素欠乏症。
 本来持つべき色素を保有しない個体が、稀に生まれ得る。肌や毛は漂白した風になり、瞳は血管が透けて赤く見える。太陽光、つまり紫外線に弱く、一部の病気などにも罹りやすい――。
 気になって軽く調べて、私はだいたいの事情を察した。
 きっと、家族か群れから爪弾かれたのだろう。
 仲間と同じように生きられず、外見も違う、そういう異端が排斥された。居場所を失って、あんなところで死を待っていたのかもしれない。
 見過ごすのは容易かった。
 けれど一緒に過ごして、そうしなくてよかった、と思った。

 子猫はまるで、こちらの言葉を理解しているようだった。言えば従う。教えれば飲み込む。あまりの賢さと従順さに、こいつは猫の姿をした何かなのでは、なんて考えたことさえあったくらいだ。
 しばらく名前を付けずに呼んでいたけど、どうにも不便だったので、呼び名を決めることにした。
 その日はよく晴れた、満月の浮かぶ夜。
 子猫は日中、まず外へ出ようとしなかった。本能的に陽射しが駄目だと感じていたのか、窓のそばにも寄らない。代わりに、陽が落ちると窓から外を見る。時折玄関に向かって、少し躊躇うようにうろついてから戻る。
 私が言い聞かせて、自分の立場を把握していたから、かもしれない。気まぐれらしい猫にしては、やけに自制の利く子だった。
 そんな子猫が、いつも見上げる月。
 凝った名前も思いつかない私は、何の捻りもなく『ツキ』と名付けた。
 今にしてみれば、悪くはなかったと思う。
 白い毛並みと赤い瞳は、随分夜に映えたからだ。

 大学やバイトの帰り、玄関の鍵を開けると、必ずツキはそこにいた。食事をねだる現金なところもあったけど、いてほしい時にいるような、本当によくできた同居人だった。
 それがある日、ただいま、と声を掛けても現れない。
 私は「ようやく出ていったのか」と一人頷いた。名目上飼ってはいたものの、首輪を付けていたわけでもない。窓は開けっ放しにしていたし、猫の身体能力なら、そこから降りるのも難しくないだろう。元々いつかそうなることを覚悟で連れ帰ったのだ、いくらか寂しくなるけど仕方ない、と八畳一間の部屋に踏み入り、ベッドの上でツキがぐったりしているのを見つけた。
 触れると、熱い。こちらの手に反応して辛そうに開いた目が、かつても浮かべていた諦めの色を宿していた。
 その時幸運だったのは、比較的帰りが早く、まだ獣医が開いている時間だったこと。
 そして、不運だったのは――連れていった時ではなく、過ごした日々の間でもなく、私とツキが出会う前から、ある意味手遅れであったこと。
 診断の結果、ツキは複数の疾患を併発していた。
 治癒できる見込みもない。薬がどうこう、手術すればどうこうという話以前に、挙げられた病名のほとんどが、色素欠乏症の弊害に数えられていたからだ。
 なるべくしてなった。
 そんな医者の言葉に、私は冷たい命の論理を噛みしめた。
 勿論、天寿を全うできるアルビノの個体だっているだろう。
 初めからそうなるしかなかったとは思いたくない。
 けれど、ツキは弾かれた。
 生き続けられる可能性を選べなかった。
 いずれ来る別れを思うと、酷く、胸が痛かった。

 あとは一ヶ月もなかったはずだ。
 病院で安静に過ごす道もあったけど、それはツキが嫌がった。医師の問いに珍しく鳴いて答えたのだから間違いない。私はひっそり連れ帰り、家を空けている時以外は極力そばにいるようにした。
 固形物が食べられなくなって、柔らかいものを探した。
 身動きを取らず、丸まって眠る時間が増えた。
 額や頭、喉や首裏を撫でてやれば、微かに身じろぎして、もっと、と目で訴えてきた。それがいじらしくて泣きそうで、私は無心でツキに触れ続けた。
 消えると決まった命は、ゆっくりと先細っていく。
 死に際なんて、呆気ないものだった。
 最後に一鳴きもせず、眠るように瞳を閉じて、そのままずっと覚めなかった。しばらく揺すって起きなくて、徐々に冷たく、硬くなっていく身体を抱き上げて、戻らないものの重さを知った。
 街の寝静まる、いやに寒い夜。
 私は、ツキを埋めに公園まで行った。
 今にして思えばこの上なく迷惑なことだったけれど、あの時はそれしかなかったし、そうしてやりたかったのだ。
 誰もいないのを確認して、桜の根元に穴を掘る。小さなシャベルで踏み固められた地面を掘り起こすのは大変なんてものではなかったけど、それでも一心不乱に腕を動かし続けた。
 微かに木の根が覗く穴に、小さな身体を横たえる。
 土を上から被せ始めると、視界に白い粒がちらついた。
 雪が降ってきた。
 寒さでかじかむ手を擦りながら、元に戻していく。
 最後に足で踏み固めれば、違和感はほぼなくなってくれた。
 淡い降りだった雪の勢いは次第に強くなり、完全に埋め終わった頃には、足下も桜の木も薄い雪化粧に覆われていた。私はスコップを拾い、頭に積もった雪を手で払う。
 少し溶けて、冷たい水が頬を伝った。
 ――実家で動物を飼ったことはなかった。
 祖父母はどちらも健在で、だから、ずっと実感を得る機会は来なかったのだ。
 何かを失うのは、辛い。
 例え一緒に過ごした時間は短くても、大切に思っていた。
 覚悟していたはずなのに、苦しくて、胸の痛みは張り裂けそうなほどで、私は俯いた。そうすれば、せめて自分くらいは誤魔化せるかもしれなかったから。

 どこにでもあるような、そういう話。
 私と一匹の猫との、よくある出会いと別れの昔話だ。



「……で、結局帰ってから、風邪ひいて二日寝込んだ」
「こう言うのも何ですけど、微妙に締まらない話ですね……」
「まあ、あの時すごい泣いたしね。穴掘るのもかなり大変で、結構汗掻いてたんだよ。なんで当然の結果でした」

 随分長い間喋っていたので、大きく息を吐いた。
 渇いた喉をミルクコーヒーで潤し、木の根元に視線を向ける。

「もう何年も経ってるわけで、あの子はすっかり土に還ってる。あるいは誰かに掘り返されちゃったかもしれないけど、どちらにしても、私以外はそこがお墓みたいなものだなんて知らないんだよね」
「私を連れてきたのは、知ってほしかったから……ですか?」
「かな。ちょっと自分でも自信ないや」

 忘れられはしないけど、記憶が、痛みが風化するには充分な時間だった。そんなことがあった、というかけがえない経験のひとつとして、ツキは私の中で生きている。
 同じ傷の痛さを知れば、いくらかの共感ができるだろう。
 失うこと、失われたものに対して。
 私は少しだけ、星宮さんと同じ気持ちを持てた。
 もしあの七夕の日、私が星宮さんに賢しらな言葉を掛けなかった理由があるとするなら、それだけだ。
 だから、かもしれない。
 何であれ、ひとりで抱えるのは苦しかったりするから。

「寒いね」
「秋ですから」
「そろそろ行く?」
「もうしばらく、こうしてましょう」
「了解。……寄ってもいい?」
「寒いですからね」
「うん」

 肩に触れる熱と重みに、目を細める。
 それは二人であることの証だ。

 ありがとう。
 思い出の中で眠る白い毛並みと赤い瞳の子猫に、私はそっと感謝した。





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