夕食は、普段と比べれば簡素なものになった。 それでも里の作る料理はおいしかったし、何より、二人で摂る食事は楽しかった。 「……僕も片付け、手伝おうか?」 「いえ、これはわたしの仕事ですから」 「側付きは辞めたのに?」 「辞めても、ですよ」 そんな会話の後、かちゃかちゃと皿の鳴る音を聞きながら、僕は自分の携帯を凝視していた。 アドレス帳を開く。 探すのは「や」行のカテゴリ。 さして多くない登録者の中、他と同じく素っ気ない形で表示される四文字の名前を選択する。 雪草道司。 初めて携帯を持たされた時から、ずっとメモリには残っていた。幾度か機種変更をしても、この名を消したことは一度もない。 ないけれど――自分から連絡をしたのは、片手で数えられる程度だ。 僕と父の間には、明らかな確執がある。 これまで、僕はそれを埋めようとは思ってこなかった。 家を出た際、二度と会うまいとまで決めていた。 父は怪物だ。才があり、財もあり、かといって己の力に慢心せず、常に結果を出し続けてきた。 人間性はともかく、尊敬に値する。 しかしそれを認めたくない自分もいて……結局僕は、父が好かないんだろう。 越えられない壁だった。 理不尽な、敵だった。 「……でも、ここでは忘れよう」 苦い気持ちを噛み砕く。 電話番号を呼び出し、通話ボタンを親指で押し込む。耳に当てた小さなスピーカから、無機質なコール音が繰り返される。 「透か」 ぷつっ、と響く、唐突なノイズ。 久々に聞いた父の声は、電話越しでも重かった。 「父さん……少しだけ、時間もらえる?」 「構わん、今は車上だ。用件をさっさと言え」 「明日、そっちに行こうと思ってる。いつ帰ってこられそう?」 返事が来るまでに、数秒の間が空いた。 紙をめくる音。おそらく、スケジュール帳だ。 昔に見たことのある父のそれは、当人以外読めないほど細かい走り書きに埋め尽くされていた。 変わらない。 既に還暦を迎えたはずの父に対して、そんな思いを抱く。 「……八時には戻ろう。食事は用意させる」 「わかった。それじゃあ、明日」 通話を終え、耳元から下ろした手のひらに、じんわり汗が滲んでいた。携帯をテーブルに置き、深く息を吐く。 話していたのは一分前後なのに、酷いストレスだった。胃の辺りが軽く痛む。投げ出すようにソファへ背を預けると、いつの間にか里が隣に座っている。 「お疲れ様です」 「本当に……気疲れするね、これは」 「明日はもっと大変ですよ。しっかり覚悟しておく必要、あるんじゃないですか」 「里はあれから遠慮がなくなったね……」 「昔よりは慎ましくなったと思いますけど」 悪びれない言い種に苦笑した。 勿論、嫌ではない。 元々里は、こういう人間だった。 「敬語もやめていいのに」 「いえ、そこはこのままでいいんです」 「どうして?」 「もう染み着いてしまってますし……変わることの全てが悪いわけではないですから」 「……そう、だね」 生きていれば、変わっていく。 自分で変えてもいくことになる。 きっと僕は、大き過ぎる変化が怖かったのだ。 今も怖い。 けれど、踏み出すことにもう迷わない。 「上手く行くといいですね」 「うん」 「わたしも、付いてます」 手繰るように触れた指。 微かなその温かさが、心から頼もしいと思った。 朝に出発して、実家に到着したのは五時前だった。 霧ノ崎は住み心地の良い場所だけど、利便性がかなり悪い。新幹線に乗るにも、薄霧の方まで出ないことには話にならないので、移動は車で済ませた。 一応、僕も里も普通免許は持っている。 パーキングエリアを跨ぎ、交代で運転すること七時間ほど、実家の全容が見えてくるにつれ、何とも言えない気持ちになる。 古くから継いできた雪草の本家は、屋敷という他ない大きさで、敷地自体も呆れるくらい広い。百年以上も昔の人間が張った見栄が、こうして残っている。 表門で呼び鈴を鳴らし、来訪を告げてから敷地内に入る。屋敷の玄関までは車でも三分掛かる距離があって、そこまでは車で移動する方が楽だ。 玄関脇の簡易駐車場に停め、里と共に降りると、入口に立つ人影がひらひら手を振っていた。 「おかえり、透。里さんも」 「……ただいま、姉さん」 「はい、ただいま戻りました」 雪草高見――七つ上の、僕の姉。父と同様、会うのは本家を出て以来だった。 こっちの返答はぎこちなくなってしまったけど、そんな僕の態度を全く気にする様子もなく、姉さんはおもむろに頭を撫でてくる。 歳が離れているせいか、二十歳を過ぎても子供扱いのままだ。溺愛とまではいかないものの、可愛がられているのはわかるから、跳ね除ける気も起きない。 ひとしきり撫で終えると、姉さんは仕事に戻った。父の次に忙しい人間だ、僅かな時間の空きを見て来たんだろう。二年近くぶりとはいえ、わざわざ実家を案内してもらうこともないので、そのまま客間に向かう。 途中、屋敷の使用人と幾度かすれ違った。叔母くらいの歳の人間が多く、そのほとんどは以前から勤めている者だったのでちょこちょこ呼び止められる。 皆、掛ける言葉が温かかった。 そのことを、よく噛み締める。 「あの、透さん」 「ん?」 「客間ではなく、透さんの部屋に行きませんか?」 「さすがにこれだけ空けてたら、もう片付けられてると思うよ。僕がうろついてたらみんなも困るだろうし、父さんの帰りは大人しく客間で待つべきじゃないかな」 「確かにそうかもしれませんけど……ひとつ、騙されたと思って」 もう少しで着くという時、唐突に里がそんなことを言い出した。 何故か妙に押しが強く、断りきれず彼女の言葉に従うことになってしまった。 家族の部屋は全て二階で、一階の客間からはそこそこ距離がある。持ってきた荷物はさほど重くないけれど、室内を歩き回るのが億劫になってきていたので、正直早いところ腰を落ち着けたかった。 このまま押し問答をしてもしょうがない。幾分早足で、記憶の中の道筋を辿る。 ドアの鍵は、掛けられていなかった。 念のためノックをしてから、そっと扉を開ける。 「……残ってる」 部屋のレイアウトは、家を出た時のままだった。 細かい小物の配置までは覚えてないけど、あからさまに家具などを動かした形跡はない。それどころか、この部屋からは埃の匂いがほとんどしなかった。 あるいは、僕が来ると知って掃除させたのかもしれない。 でも、急場でやらせたにしては綺麗過ぎる。おそらく定期的に手を入れているんだろう。今すぐここで暮らしても、不自由はないと思う。 ――どうして? 心の中で呟いた問い。 それに対する答えを、既に僕は持っている気がする。 ただ、認めるには溝が深くて。 懐かしささえ感じる部屋を見渡し、無言で退室した。 ノブを握っていた手を、ふと見つめる。 「騙された甲斐、ありましたか?」 「まあ、ね。ちょっと驚いてる」 屋敷に着いてから、里の声色は普段に増して優しい。 薄く細めた瞳の奥に、ずっと見せたかった、という意図が透けている。 「ではわたしは、お茶を淹れてきますね。透さんは先に客間へ戻ってください」 「他の人に任せればいいのに」 「わたし以上に透さんの好みを知ってる人はいませんよ」 最近わかったことがある。 変なところで、彼女は頑固だ。 「食事の用意ができたんだけど」 里の注いだコーヒー片手にゆったり読書をしていた僕は、客間に入ってきた姉の一声で時間の経過に気付いた。 僅かにまだ残っていたコーヒーをくっと呷り、返事と共に本を閉じて立ち上がる。 「こちらを片付けてきますね」 カップは当然のように里が取り、持っていってしまった。 僕が家を出る少し前から側付きになったので、間取りについては熟知しているはずだ。厨房に食器を置いたら、そのまま直接こっちに来るだろう。 里とは後で合流するとして、すたすたと歩いていく姉の背を追う。 短い道中、会話らしい会話はなかった。 父に感じる隔意も、姉に対してはないけれど。 負い目のようなものを、僕は姉に見てしまう。 そうして目的の部屋に着き、扉を開ける前に、ふと振り向いた姉が僕の名を呼んだ。 「透」 「はい」 「まずは父さんと、思いっきりぶつかってきなさい。私との積もる話は、その後でゆっくりしましょう」 「……はい」 読まれてたのか、と心の中で嘆息する。 僕は、色んな人に心配を掛けてばかりだ。 こちらの頷きと共に開いた扉の先、既に並べられた料理が湯気を立てる奥に、静かに座る父がいた。 「早く席に着け。料理が冷める」 命令口調の物言いに、反発を覚えないでもなかったけど、こんなところで声を荒げることもない。 上座の父の左右にそれぞれ僕と姉が腰を下ろし、少し遅れてきた里が、僕のさらに隣へ座った。以前ならいたはずの弟と妹は、学校の行事で遅く、外で食べてくるらしい。 父と姉、僕と里の四人。 食卓は終始ピリピリしていた。 といっても、実際に気を張っていたのは僕だけで、父は勿論、姉も涼しい顔だった。心配そうな視線を里が向けていたけれど、今回はどうにもならない。 意識するなという方が無理だ。 ほとんど会話なく夕食が片付き、嫌味のない仕草で口元を拭いた父が席を立つ。 僕は唇を固く結び、その後ろに付いた。 すれ違い際、里と一瞬目が合う。 (大丈夫) 過剰に敵視するな。喧嘩腰になるな。 今日は、話をしに――向き合いに来たんだから。 壮年ながら、恐ろしく綺麗な姿勢で歩く父が入ったのは、執務室だった。実家にいる時は、一日の半分以上をここで過ごしている。ある意味、父の匂いが最も染み着いた部屋。 デスクの手前にある客用のソファに、二人で座る。 硝子のテーブルを挟んで相対する。 「二年ぶりか」 「はい。あの時家を出て以来、ここには戻ってきませんでしたから」 「一生帰ってこない可能性もある、と、私は思っていた」 「僕もそのつもりでしたよ。つい先日までは」 「……心変わりした理由は何だ?」 「明確なきっかけもありましたけど……まあ、色々です」 「彼女か」 「否定はしません」 正面、父の眼光に晒されていると、物理的な圧力を受けているように錯覚してしまいそうになる。 まるで視線が逸れない。 心の奥底まで見抜かれそうな、強く重い眼差し。 けれど僕は、それに耐えなければならない。 乾いた喉に粘ついた唾液を落とす。 奥歯をぐっと噛み締め、一息。 膝に乗せた手を握り、言葉を紡ぐ。 「今日は、父さんに言いたいことがあって来ました」 反応はない。 言外に、続けろという意図を感じる。 「僕に雪草の跡継ぎになれという話は、まだ有効ですか?」 「宣言を翻したつもりはない」 「では」 これからすることは――消極的で居続けてきた僕が初めて選ぶ、明確な反逆だ。 本当はずっとそうしたかった。 短くない人生の中で一度も言い出せずにいた、正直な気持ち。 「改めて、その話を断ります。申し訳ないけど、跡継ぎは姉さんにお願いしてください。僕よりよっぽど適任です」 「そんなことはわかっている。あれはお前より出来がいい」 「……なら、どうして僕にやらせようとしたんですか」 「通例と体裁の問題だ」 跳ね上がりかけた右腕を、ギリギリのところで抑えた。 それ以外の理由はない、と。 お前は無価値だと言われた気がした。 「雪草の名は、お前が考えているよりも古く、重い。私とて、過去の慣習や暗黙の了解に縛られている部分がある」 「だから、僕を跡継ぎに?」 「可能なら、お前に継いでほしいというのも事実だ。確かにお前は弱く不出来だったが、雪草を束ねるだけの器を持っている。少なくとも私はそう感じたからこそ、跡継ぎの話を持ちかけた」 「………………」 「透」 俯く僕に、父が。 名前を呼んだ。 「一生帰ってこない可能性もある、と、私は思っていたが……それ以上に、お前は帰ってくるだろうと踏んでいたのだ。逃げることを諦めたなら、その時は跡継ぎを任せるつもりだった」 「僕は、諦めたわけじゃ、ないです」 「そうだろうな。……ならば問おう。お前はこれから、どう生きる」 「里と二人で、僕達の望むように」 不意に父が目を閉じる。 声にはせず、唇だけで「そうか」と頷いた。 そして、 「透、歯を食いしばれ」 「え……く、っ!」 振りかぶる動きはほとんど見えなかった。 顎に力を入れた直後、左の頬に飛んできた拳がめり込む。その力に流され、僕の身体はソファを越えて床に落ち、さらに転がって壁にぶつかった。 痛い。 涙と、血が出るほどに、痛い。 「これで、跡継ぎの話は無しにしてやる。あとは好きに生きろ」 「……わか、り、ました」 「高見にも謝っておけ。あれはお前をずっと気にしていたからな」 「はい」 疼痛に耐え、立ち上がる。 父は、もう話は終わりだというように背を向けていた。 「それでは、失礼します」 「待て」 「……何ですか」 「帰ってきたくなったなら、いつでも構わん」 ……嫌な人だ。いつまで経っても、怖くて、嫌なひと。 それでも、たったひとりの父親で。 僕が――尊敬できる人だった。 どこに行こうか悩み、一周して結局自分の部屋に足を運ぶと、里と姉が揃って出迎えてくれた。 あからさまに腫れた僕の左頬を見ても、全く動じない姉とは対照的に、里は「冷やせるものを持ってきます!」と慌てて走って行ってしまった。焦り過ぎて部屋を出る時転びかけていた。 「派手に殴られたみたいね」 「こんなの初めてですよ。今もズキズキしてます」 「多少捻くれてはいるけど、それも親の愛情だと思いなさい。ずっとあなたを気にしてたんだから」 父と全く同じ言葉を聞いて、堪えきれずに噴き出した。 怪訝な顔をする姉に、何でもない、と答える。 「姉さん、今更ですが、申し訳ありませんでした。跡継ぎの話も含めて、色々押しつけてしまって」 「別に……と言いたいところだけど、実際大変だったし。ま、今度食事をご馳走しなさい。一回で勘弁してあげる」 「ありがとうございます。いい店を探しておきます」 「下二人にもちゃんと奢りなさいよ」 「わかってますよ」 「なら、私から言うことはなし。今度からはもうちょっと頻繁に帰ってきて。弟と妹に顔を忘れられるのも嫌でしょう」 「年末年始と、盆辺りには」 「彼女も一緒に?」 「里も一緒に」 そこまで言い返すと、ぽんぽん、と頭に手を乗せられた。 少しだけ、昔を思い出す。 里だけじゃなかった。 こんな僕だって、いろんな人に支えられてきた。 「いくつになっても、ここはあなたの家だから」 「……はい、姉さん」 近付いてくる足音が聞こえる。 頬の痛みと熱を感じながら、僕は里のために、扉を開けた。 持ってきてくれた氷は、涙が出るほど冷たかった。 帰ってきてからも、部屋には鳥籠を残している。 感傷に過ぎないのかもしれないけど、どうしても捨てられなかった。 鍵は掛けていない。 風に揺られる度、小さな鉄柵がゆらゆら動く。 空っぽの鳥籠。もう、誰も帰ってこない。 それを見て、僕はいつも考えてしまう。 ……果たして、陽は幸せだったんだろうか。 鳥の気持ちを人間が察することは、不可能だ。同じ人間相手でさえ難しいのに――例え長く一緒にいたとしても、僕には陽がほとんどわからなかった。 あれから初めて霧ノ崎の家に訪れたのは、鈴波さんだった。 陽の死を知り、ささやかな墓の前で真摯に祈ってくれた彼に、だから僕はその疑問を一度ぶつけてみた。 こちらの言葉を受けて、鈴波さんは一瞬きょとんとし、それから真面目な表情で、 「透くんがわからない以上に、私にもわからないよ。でも……最期に、家族のそばにいられたのなら、少なくとも私だったら、幸せだったな、って思う」 告げられた言葉に、僕は知った。 あの子は、僕の希望で、憧憬で、代わりだった。けれど、それ以上に――僕にとっては、家族だったんだ。 別れは悲しい。 心が張り裂けそうになることだって、ある。 でも、いずれ必ず訪れるものだ。 遠い空に僕は祈った。 最期の瞬間、言えなかったこと。 さよなら、陽。 僕は君といられて、楽しかったし、救われた。 一緒に生きてくれて、ありがとう。 only understand/four.空っぽの鳥籠・了
second season "only understand" end. and start the last season "ordinary strength". back|index|next |