昨日の天気予報通り、よく晴れた空だった。
 二泊分の着替えやら何やらを抱えて集合場所の桜葉亭に向かうと、既に星宮さんがいた。相変わらず早い。

「おはようございます、鈴波さん」
「星宮さん、おはよう。灯子さんと佳那ちゃんは?」
「灯子さんは車を取りに行ってます。佳那は……たぶんそろそろ」
「準備できたー! っと、おはよーございます二人とも」
「うん、おはよう。朝から元気だなあ」
「あはは、それだけが取り柄ですから。久しぶりの旅行だし」

 その気持ちはわからないでもないかな、と思う。
 遠出なんて何年ぶりだろう。実家にいた頃も、そんな積極的にどこかへ出かけたりしなかったから、ちょっぴりドキドキしてる自分がいる。
 ……全く、いい大人が何はしゃぎかけてるんだか。
 なんて自分の心の動きに苦笑したところで、この辺りでは滅多に聞かないエンジン音に気付いた。四人乗りの軽自動車に乗った灯子さんが、危なげない手捌きで桜葉亭の横に車体を停める。

「おはようございます。そっか、灯子さん、運転できたんですね。てっきり電車で行くんだと思ってましたが」
「一応車は持ってるんですよ。車庫が少し離れた場所にあるんです」

 よくよく考えてみれば、当然の話だ。
 霧ノ埼くらい交通の便が悪いと、徒歩や自転車じゃ色々と不便なわけで。特に、材料の買い出しがある桜葉亭は足がないと厳しいだろう。
 雪草の家にも車庫はあったし、たぶん明成さんも職場へは車で行ってるはず。星宮さんの家で見た覚えがないのは、灯子さんと同じように別の場所に置いてあるからかもしれない。

「それじゃ、出発しましょうか。佳那と陽向ちゃんは後ろにお願い。鈴波さんは助手席に」

 言われた通りに収まり、シートベルトをきっちり締める。
 最後に乗り込んだ灯子さんがエンジンを掛け、程なくして私達を乗せた車は走り始めた。

「だいたい三時間ほどで着きますから、その間は寝ていても大丈夫ですよ」
「いえ、到着までは起きてます。目覚めがよかったのか、全然眠くないので」
「鈴波さんの目覚めがいいのは珍しいですね」
「……私だってたまにはそういう時もあるよ」
「たまにって、信一さん、それじゃ弁解になってないですよー」

 ……こうなったら不貞寝してしまおうか。
 ちょっといじけたふりをしながら、左側に視線を向けた。灯子さんに頼んで軽く開けてもらった窓の隙間から、生温さと涼しさが半々の風が入り込んでくる。
 人通りのない畦道、遠くに並ぶ木々が流れていくと、次第に建物が目立ち始める。未舗装の土はアスファルトの道に変わり、都会ほどではないけれど、他の車もちらほら見かけるようになる。
 西の方面に真っ直ぐ向かい、途中で南へ。そこからしばらく国道らしき通りを進み、出発して二時間くらいで山道に突入した。深い緑に囲われた道を、ぐるりと迂回するような動きで登っていく。
 道中、気晴らしに私は灯子さんとぽつぽつ雑談をし、後ろでは散々喋っていた佳那ちゃんが微妙にバテていた。聞き役の星宮さんは、バックミラー越しに涼しい顔。二人とも車酔いとは縁がないらしい。若干弱い私としては羨ましいところだった。

 太陽が真南に達した頃、私達はようやく目的地に着いた。
 森に溶け込んだ、和風の造りをした玄関。表看板には、やたら達筆な時で『白夜』と書かれている。
 灯子さんが中に踏み入ると、着物姿の女性がこっちに気付いてお辞儀をした。柔らかい笑みと共に、すす、とほとんど足音を立てず灯子さんの前まで来る。

「皆さん、いらっしゃいませ。こちらの女将を勤めております、白夜文しらよるふみと申します。……灯子、一年ぶりね」
「ええ。折角お誘いを受けたことですし、またお世話になります」
「勿論よ。お金は頂かなくとも、去年も来てくれた大事なお客様ですもの。では、お部屋にご案内致します」

 会話はそこそこに、白夜さんの案内で泊まる部屋に向かう。木造の階段を上る最中、自己紹介する機会があったので、彼女に名前を伝えた。
 星宮さんは三年前、佳那ちゃんは灯子さんと一緒に昨年来たということだから、初対面なのは私だけだ。しかも、女性三人の中に男一人なわけだし。
 誘われた経緯などを話すと、白夜さんは可笑しそうに口元を綻ばせて、

「信頼されてるのね。でも確かに、あなたは変な気を起こすようには見えないわ」

 と言われた。どう返せばいいものやら。
 三階の真ん中にある二部屋が、私達に割り振られたところだった。最初は一部屋でも、なんて話になってたらしいんだけど、さすがにそれは色々まずいだろうと灯子さんが判断しての処遇。大変助かりました。

「私は同じでもよかったんですけど……。鈴波さんだけ別っていうのも心苦しいですし」
「まあ、こっちのことは気にしないで。寝る前までは顔も出すから」

 相変わらずの無警戒っぷりに何とも言えない気持ちになりつつ、ひとまず自分の部屋に引っ込んで荷物を整理。最低限必要なものだけ引っ張り出して、灯子さん達のところに行く。
 室内はどちらも畳張りだ。古い木とい草の匂いがする。霧ノ埼とはまた違う、空気の冷たさと気持ち良さ。テレビとか金庫とかエアコンとか、文明の利器もいくつかあるものの、基本的には簡素で、安らげる雰囲気を感じる。
 ……いいところだなあ。
 窓の外に広がる、遠大な山の風景を前にして、私は思わず目を細めた。

「ふふ……鈴波さん、とりあえず座ってください」
「あ、すみません。お茶、いただきますね」
「はい、どうぞ」

 腰を下ろし、灯子さんが湯呑みに注いでくれたお茶を一口含む。
 それから軽く背筋を伸ばして、一緒にテーブルを囲む三人に視線をめぐらせた。

「これからの予定ですけど、特に決めてるわけではないので、自由に動いてもらっても大丈夫です。一階の温泉に入ってもいいですし、外に出るのもいいかもしれませんね」
「灯子さんはどうするんですか?」
「私はここにいますよ」
「じゃああたし温泉行く! ひなちんと信一さんもどう?」

 あっけらかんと同行を求めてくる佳那ちゃんに、一瞬私は口ごもった。それを悟ったのか、少し考える仕草を見せて、星宮さんが助け船を出してくれる。

「折角だけど、外を歩いてきたいかなって。あの、鈴波さん、よければ一緒に来てもらえると……」
「うん、喜んで。ごめんね佳那ちゃん、温泉は戻ってきてからゆっくり入るよ」
「む、なんだか二人で結託してるみたい。お母さーん、あたし振られたー」
「あらあら。仕方ないわね、後で私も行くから」

 泣きついた佳那ちゃんの頭を「よしよし」と撫でる灯子さん。些かわざとらしいけど、これもスキンシップなんだろう。灯子さんの懐で佳那ちゃんガッツポーズしてるし。
 ともあれ、当面の予定は決まった。夕食前にまた集合することにして、星宮さんと部屋を出る。

「この辺の地理とかは知ってる?」
「うろ覚えですけど……迷うことはないと思います」
「了解。ナビゲートは任せるね」
「はい、任されました」

 脇にお風呂セット一式を抱えて横を駆け抜けていった佳那ちゃんの姿に、顔を見合わせ笑いながら、私達は並んで階段を下りていった。










 夏でも霧ノ埼はそこそこ暑い。
 なので都会や南の方ほどではないものの、じめっとした過ごしにくさを昨日まで体感してた身としては、ここは何とも気持ちの良い場所だった。
 乱立する木々が陽射しを適度に遮り、湿り気のある、けれど決して生温くはない風が枝葉を揺らしている。時折鳥らしき鳴き声が遠くで響き、羽ばたく音も聞こえる。
 旅館の裏手、離れたところにあるらしい露天風呂へのルートから逸れたところに、小さな道を見つけた。
 星宮さんが言うには、そこから川に出られるらしい。
 定期的に人が踏み入ってるみたいだけど、かなりの隘路だ。獣道に近い。サンダル履いてこなくてよかった。

「虫避けスプレーも持ってくるべきだったかな」
「これだけ多いとあんまり効果はないんじゃないでしょうか」
「星宮さんは随分平然としてるね……」
「慣れてますから」

 いくら刺されても慣れるものじゃないと思う。
 ちょこちょこ周囲を飛び回る蚊を、しっしと手で追い払いながら、固い土と雑草の上をゆっくり歩く。
 私と星宮さんの間に、会話はほとんどなかった。
 でも、不思議とそれが苦ではない。お互い、静かなのが平気だから、だろうか。口を開かなくても、何となく一緒にいて、楽というか。穏やかな気持ちでいられる。
 肩が触れるか触れないかの距離。過剰に近過ぎず、かといって遠過ぎるわけでもない、自然な立ち位置。
 思えば、たった一年半だ。初めて星宮さんと出会って、それくらいの付き合いしかないのにもかかわらず、私は今、ここにいる。
 ほとんど身内の旅行にお呼ばれしたことに、ある意味年甲斐もなく心躍らせたりなんかしちゃって。冷静になって振り返ると、恥ずかしくて苦笑さえ出てこない。
 けれど、

「……鈴波さん、水の流れる音が聞こえます」
「うん。もうすぐ近くかな」

 やっぱり嬉しい。
 言ってしまえば余所者だった私を、こんなにもあっさり受け入れてくれたこと。無防備過ぎるところはあるけど、心を許してくれていること。
 ちゃんと応えてあげたいなと、いつも思う。

「足下ちょっと不安定だね。気を付けて」
「私よりも鈴波さんの方が心配ですよ。普段外に出ないんですから」
「星宮さんだってインドア派でしょ」
「毎日一時間くらい掛けて学校行ってます」
「……まあ、お互い転ばないようにね」

 川原は木々が拓けた先にあった。
 森との境目が軽い傾斜になっていて、しかも砂利だから滑りやすい。そろりそろりと慎重な足取りで二人して下りる。
 陽射しを反射して煌めく水面は、そのまま飲んでも何の問題もなさそうなくらい澄んでいた。
 ここは上流の方なのか、全体的に水深は低い。余裕で底が見える浅さだし、流れも速くはないから、やろうと思えば歩いて向こう岸に渡れそうだ。時折水の中をすっと影が横切ってくけど、たぶん魚か何かだろう。
 さわさわと聞こえる水の音。
 蚊があんまり飛んでこない分、森林浴よりいいかもしれない。

「丁度いい大きめの岩もあることだし、座って休憩しよっか」
「わかりました」

 なんて返す星宮さんは、笑みを隠し切れていなかった。
 こっちの考えはバレバレらしい。
 お誂え向きな広く平たい岩の上に、並んで腰を下ろす。
 慣れない道を歩いたせいで、若干痛い足の裏の感覚はしばし忘れる。

「そういえば、霧ノ埼にはこういう川ってないね」
「ですね。小さい、畑に水を引ける程度のはありますけど、それも昔に山の方から引っ張ってきたらしいですよ」
「なるほど……。じゃあ山まで行けば見られるのかな」
「どうなんでしょう。結構深いところにあるって話ですから、探すのは難しいかもしれません」
「そっか。残念、向こうでも川遊びができると思ったんだけど」

 両手を空に高く掲げて、ゆっくり私は後ろに倒れた。
 硬い岩の感触は、横になるには些か不向きだ。でも、陽射しを浴び続けて淡い熱を持っている。
 背中から伝わる、じわっとした温かさ。

「もう、そんな風に寝たら服が汚れちゃいます」
「平気平気。どうせ戻ってお風呂入ったら着替えるんだし」
「……それもそうですね」

 お小言もそこそこに、珍しく納得した星宮さんも、私の右隣で仰向けになる。
 座高に少し差があるので、頭の位置までは並ばない。だいたいこっちの首辺りに星宮さんの頭が置かれてる形。
 まだ太陽は高く、眩しくて瞼は上げていられなかった。だから左手で目を遮り、代わりに周りの音を聞く。
 風鳴り。葉鳴り。水流。何かの跳ねる音。
 それと、微かな星宮さんの息遣い。

「いい天気です」
「うん」
「陽射しも、風も、気持ちいい」

 投げ出した右手に、星宮さんの指が触れた。
 触れるだけ。お互い、繋いだり絡めたりはしない。

「鈴波さん」
「ん?」
「今日ばかりは、私も鈴波さんのこと、言えないかもしれません。なんだか、眠くなってきました」
「いいよ、寝ちゃっても。見張ってるから」
「すみません。お言葉に甘えさせてもらいます」
「いつもはこっちがお世話になってるしね。普段のお返しだと思って」

 本当に眠かったんだろう。
 左手をどけて様子を窺うと、星宮さんはこてんと頭を傾けて、穏やかな寝息を立てていた。
 まあ、仕方ない。
 こんなよく晴れた日にするひなたぼっこが、眠気を誘わないはずはないんだから。

「……陽が当たらなくなったら起こそう」

 ふぁ、と私も欠伸をひとつ。
 幸いと言うべきか、目を閉じても意識が落ちることはなさそうなので、しばらくは大人しくこのままでいることにする。

「佳那ちゃんと灯子さんは、今頃何してるんだろうな……」





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