初めて霧ノ埼で夏を迎えた時、都会とは全然暑さの質が違うことに少しだけ驚いた覚えがある。
湿気がない……というわけでもないんだろうけど、実家の方に比べればじめじめした感じが弱い。家の中にいる限りは陽射しの強さもさほど気にならないし、外出する際に帽子を忘れなければ日射病の心配もほとんどなくなる。冬はともかく、夏は格段に過ごしやすい霧ノ埼では、扇風機を回してるだけでも結構やっていけるものだ。
まあ、そもそもエアコンが自室にしかないってのもあるんだけど。居間は縁側が近い、かつ星見堂にも繋がってるから密閉性が皆無だし。

「……とはいえ」

やっぱり暑い日は暑い。
最高気温二十八度、ギリギリ真夏日ではない、なんて言っても救いにもなりゃしないわけで。
窓は全開、扇風機の風を直で浴びながら私はぐったりと居間で仰向けになっていた。
こうしてると店内の様子がわからないけど例によって例の如くお客さんはゼロだから問題ない。自堕落万歳。そんな調子でうーあー呻いたり、ちらりと頭を右に傾けて縁側を眺めたりして(陽射しが眩しくてちょっとくらくらした)、さっさか夜にならないかなーと気の早いことを考えていると、慎ましやかに玄関の扉を開ける音が聞こえた。
ちりん。外の生温い風が入り込み、風鈴が一際大きく涼しげに鳴る。

「こんにちは。鈴波さん……は、いつも通りですね」
「あー、星宮さん、こんにちは」
「はい」

さすがに寝転がったままだと失礼なので、上半身を起こして挨拶。
今や唯一と言ってもいい(初めからそうだけど)お客さんである星宮さんは、被ってきたつばの広い帽子を後ろ手に持って軽く会釈する。それから本棚に気を払うことなくこちらに歩み寄り、慣れた手付きで靴を脱いで居間に上がってきた。
もうそろそろ知り合って一年半、こういうところでは遠慮がなくなってる。ちょっぴり嬉しくもあり、悲しくもあり。
ちなみに今日の彼女の服装は、薄手のブラウスにカーディガン、ハーフパンツ。普段よく着ているのはロングのワンピース姿なので、何というか、珍しい。思わずじろじろ見てしまい、不安げな視線を向けられた。

「私、どこか変ですか?」
「いや、そうじゃないそうじゃない。気にしないで」
「はあ……。あ、ところで鈴波さん、お昼はもう?」
「ちゃんと食べたよ」
「……本当みたいですね」

正直に答えたのに、台所を確かめられた。水切りに置いた食器はまだ乾き切ってないから、少し前に使ったのはわかるだろうけど……そんなに信用ないのかなあ。
なんて思っていたのが顔に出てたのか、

「夏バテだから、とか理由つけてお昼抜いたりしなければ、こんな風に疑う必要もないんですよ?」
「う……ごめんなさい」

言い訳もできない。しょっちゅうこんな感じで窘められてるので、何かもう、どっちが大人なんだか、という感じでもある。
情けない自分を誤魔化すように頭を掻き、私は窓際の壁に背を預けた。星宮さんがいるのにだらしなくごろごろしてるわけにもいかない。とりあえず、立ち上がって冷蔵庫から烏龍茶を出して振る舞った。沈めた三つの氷がからん、とぶつかり合いながら回り、グラスの表面にはあっという間に露が浮かび始める。
近くに置いてあった布巾でさっと拭き、律儀にいただきます、と呟いてから、星宮さんはこくりと一口飲んだ。
彼女の家からここまでは、だいたい徒歩で三十分弱。澄ました顔に見えたけど、やっぱり喉は乾いてたらしい。目を細め、ほう、と息を吐いて、口元を少しだけ緩める。

「冷たくて、おいしいですね」
「昨日も言ってたね、それ」
「え、そ、そうでしたか?」
「自転車とかで来ればいいのに。歩きだと時間掛かるでしょ」
「確かに早くは着かないですけど……でも、夏の霧ノ埼を眺めながら歩くのも、好きですから」
「そっか。……実は自転車に乗れないとか」
「ちゃんと乗れますっ。もう、子供扱いしないでください」
「あはは」

笑ったら拗ねられた。
知りません、なんて表情を浮かべてそっぽを向かれると余計におかしい。
ただ、あんまり機嫌を損ねると後が怖いので、それ以上は心の中に留めておいた。

「そういえば星宮さん」
「はい」
「最近忙しそうにしてたけど、何かあったの?」

今日も目ぼしい本を探して棚を眺める星宮さんに、軽い気持ちで質問する。
興味を惹かれる物が見つかったようで、丁度胸の高さにあった一冊をすっと抜き取ってからこちらに戻ってきた。
私の向かい、テーブルの前に座り、グラスを本から遠ざける。いつものスタンス。
読書の準備を終えた星宮さんは、また烏龍茶に口付けて、こくりと頷いた。

「宿題を片付けてたんです」
「ああ、去年もこのくらいのペースだったっけ」
「ですね。だいたい今頃終わってたかと思います」
「じゃあもう全部?」
「七月のうちに頑張りましたから。あとは自由ですよ」
「優等生だなあ……」
「そんなことないです。……それに今年は、急いで片付けたい理由もありましたし」

持ってきた本の目次を開いたまま、ページをめくる手を止めて。
一瞬の間を挟み、意を決するように、星宮さんは言った。

「鈴波さん。一緒に、旅行、行きませんか?」










桜葉家が霧ノ埼に越してきたのは、星宮さんが小学校に入る頃だったという。
元々近所に子供どころか大人さえ少なかったこともあり、彼女達はすぐに仲良くなったらしい。上手い具合に性格のバランスが取れてるからかもしれないけど、ともかく交流を深めていくうち、家族ぐるみでの付き合いもするようになって、時折遠出する際に誘われることも多かったそうだ。

「未だに私、灯子さんが昔はどこに住んでたかっていうのも知らないんですけどね」
「そういうことを積極的に語るような人じゃないみたいだしなあ……」

で、その遠出の行き先が今回の問題。
灯子さんの知り合いには旅館の女将さんがいて、だいたい三年に一度、そこの宿泊券を送ってくるとか。……さっきから伝聞系ばっかりだけど初耳だから仕方ない。というか旅館に宿泊券なんて存在するんだろうか。色々気になるところを見つけたものの、星宮さんに訊いても答えられないんじゃないかと思って口を噤んでおいた。

「話を聞く限りだと、星宮さんもそこに泊まったことあるの?」
「前回はお父さんと行きましたよ。少し山奥にありますけど、空気はおいしいですし、温泉もあって素敵なところです」
「へえー……って、あれ? じゃあ今年も明成さんと行けばいいのに」

当然とも言える疑問をぶつけた途端、すうっと星宮さんは瞼を落とした。
えっと、と困ったように前置きし、僅かに俯いて、

「今の時期は忙しいんです。子供用の教室も兼任してるので」
「ああ、なるほど」
「三年前は運良く時間が取れたんですけど、今年はどうしても予定が空けられないから、って」
「……だから私に白羽の矢が立った、と」

濁し気味の言葉に納得。それはどうしようもないよなあ。
あるいは他の誰かを―― 霞さんや透くん、里さん辺りも誘ったのかもしれないけど、みんな駄目だったんだろう。
しかし、消去法にしたって些か大胆な気もする。まだ知り合って一年半しか経ってない異性に対して、一緒に旅行しませんか、だなんて。
……まあ、でも。
星宮さんのそういうところは、きっと、美徳だ。
それを良しとする、周りの人達も。

「あ、あの、忙しければ無理に付き合わなくても大丈夫ですよ?」
「何か遠回しに断られてるみたいだ」
「いえ、そんなつもりじゃなくて! ただ、鈴波さんにも自分の都合や事情があるでしょうし、一緒に行っても楽しくなければ、無理強いしても意味がないですから」

あたふたと自分の台詞を繕う星宮さんを制止し、ほんの少し考えて、決めた。
難しいことじゃない。変に悩む必要もない。善意には、甘えることで応えよう。

「いつかはわかる?」
「え? ……あっ、ちょっと待ってください」

星宮さんは壁に立て掛けてあったカレンダーを指差して、来週の火曜から木曜までだと教えてくれた。
頭の中に八月の予定を並べ、整理してみる。うん、問題ないはず。

「おっけー。その日なら大丈夫だよ」
「……じゃあ」
「来週、楽しみにしてるね」
「はいっ。……私も、楽しみにしてます」

ぽつり、付け加えるように。
そう呟いた星宮さんを見て、私は小さく笑みを返した。

さて、準備どうしようかなあ……。





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