おばさんくさいと言われるかもしれないけど、あたしはお風呂が大好きだ。
 陸上部に所属してる身としては、季節や気候に関係なく、全身から出る汗とお付き合いしなきゃいけないので尚更。
 走るのは気持ちいい。
 風を切って足を動かし、腕を振り、頭の中をまっさらにしてひたすら駆け抜けていく、長いようで短い時間。終わった後のじんわり滲むような疲れも、下着を濡らすじとっとした感覚も、何もかも。きっとこれは、あたしみたいに走ることが好きで、実際にやってみた人じゃないとわからないだろう。
 ただ、いっぱい掻いた汗はすごい勢いで身体を冷やす。そのままでいると風邪をひきかねないから、学校ではシャワーを借りることもあるんだけど、やっぱり一番は家に帰ってから入るお風呂。
 部活のある日(ほとんど毎日だけど)は、必ずお母さんが湯船にお湯を張ってくれる。しっかり汗と汚れを洗い流して、ふぃー、と息を吐きつつ浸かるのが、あたしにとっての至福の時間だ。
 それは、温泉でも変わらない。別に汗を掻いてなくったってお風呂には入れるし、何より広さが家とは段違い。毎年来てはいるけれど、こうして前にするといつもわくわくする。

「よしラッキー、誰もいない!」

 こんな真っ昼間から温泉ってお客さんが他にいないだけかもしれないけど、ともあれ貸し切り状態だ。
 人目をはばからず衣服をぱぱっと脱ぎ、丸めて籠に突っ込む。
 上がった時のためにバスタオルは出しといて、部屋の備え付けだったハンドタオル片手に、引き戸を開ける。
 当然ながら、去年と比べて配置は変化なし。左側にシャワーが並び、正面におっきな湯船。奥には外へ続く小さな戸と道があって、露天風呂はそっちの方。
 位置取りを確認して、まずあたしはシャワーを浴びた。風呂椅子に座り、頭からざーっと。
 頭や身体は、湯船に浸かる前に洗うのが礼儀だ。
 少なくともあたしはそう思ってるし、身綺麗にしてからの方が気持ちいい。
 鼻歌混じりにシャンプーを泡立て、両手でわしゃわしゃする。ひなちんと違って短い(長いと走る時に邪魔だし、特に夏は暑くて鬱陶しい)から、そんなに時間は掛からない。
 勿論女の子的には手を抜くつもりもないけど。
 シャワーでしっかり落とした後、ハンドタオルに石鹸を擦り込む。こっちもごしごし泡立て。充分行き渡ったら、強めに握って今度は肌をごしごしする。
 左手、右手、襟口からお腹。両腋、首、背中を通って、下腹部周りとお尻。腿から足先、指の間まで丹念に。
 流す時はタオルから。泡が残らないようにぎゅっと絞って、それから身体にシャワーを掛ける。
 終わったら最後に、おしぼり状態のタオルをぴんと伸ばし、四つに畳んで準備完了。

「ん……あー……」

 頭の上に畳んだタオルを乗せて、そっとあたしは湯船に入った。
 こっちは温度が高めで、十分も浸かり続けてたらのぼせちゃうくらいには熱い。
 肩まで沈み、我ながら女の子らしくない声を出して、縁に背中を預けた。
 タオルがずり落ちない程度に、天井を見上げる。
 ふわふわ昇ってく湯気。それをぼんやり眺め、もう一度ゆっくり息を吐く。

「気持ちいー……」

 ずっとこうしてられたらいいのになあ。
 なんて思ったりもするけれど、一回無理して長居した時にぶっ倒れたので、自分の限界はちゃんと見極めるようにしている。
 五分経ったら半身浴に切り替え。そっちも飽きたら露天風呂だ。
 誰もいないのをいいことに、ちゃぷちゃぷ水遊びをしていると、時間が過ぎるのはあっという間だった。
 頬の熱が強くなったのを見計らい、一旦静かに上がる。
 全身から湯気が立ち昇るけど、外に出れば程良い感じになるだろう。
 軽く頭上のタオルを絞り直し、奥の引き戸を開けて露天行きの通路へ。しばらく人が来てないのか、乾いた石の道を裸足で濡らしつつちょっと歩けば、すぐ辿り着く。

「んー、絶景絶景」

 切り立った崖の近くに位置してるから、見晴らしはすごくいい。
 冬になればこの辺も雪がどかどか積もるんだろうけど、夏の間はすっきりしたものだ。緑に囲まれたお風呂。中学校の頃は美術が2だったあたしでも、何となく風情の良さみたいなのを感じる。
 外気に晒されたお湯は、室内のと比べるといくらか温い。まあ、そっちの方がゆったり入ってられるし、天井見上げてぼーっとしてるよりは楽しいので、あたしは露天風呂派だ。
 ぷかぷか浮かぶ葉っぱを拾って、手遊びにぽきっと折ってみたりして。
 そんな風にしながら、ふとお母さんのことを考える。

 桜葉の家は母子家庭だ。
 あたしのお父さん、桜葉優都は、もう十年以上も前に交通事故で死んだ。
 別にそれをとびっきりの不幸だと思ったことはないし、そもそもお父さんの記憶なんてあんまりなくて、最初からお母さんだけだったって言われても不思議じゃないくらいなんだけど。
 やっぱり、女手ひとつであたしを育てるのは大変だったんだろう。
 昔は随分近所(といっても一番近くて徒歩二十分とか)の人達に助けてもらった、らしい。
 お父さんが遺した桜葉亭を一人で切り盛りして、しかも子育てまで頑張ったお母さんを、あたしは滅茶苦茶尊敬してる。
 小学生の時から、レジ打ちとかの簡単な仕事を手伝うようになった。
 さすがに仕込みはできないけど、今ではしっかり役に立ててるはず。
 霞さんが来てから随分楽になったとはいえ、お母さんの負担をなるべく減らしたいって気持ちに変わりはない。
 これからも。

「……ちょっと、のぼせてきたかも」

 何だか毎年同じことを考えてる気がする。
 ぐるぐる。

「お母さん、早く来ないかなあ」

 茹だった頭じゃもう上手くまとまらない。
 一度身体を冷ます前に、あたしはぶくぶく水面に沈んだ。





 すっかり温くなったお茶を飲み干したところで、控えめなノックの音が聞こえてきた。
 私が返事をすると、澄ました声で「失礼します」なんて言って、文が入ってくる。これでもこの旅館では一番のお偉いさん、普段は公私をしっかり分けてるみたいだけど、どうも私の前では女将の衣を脱ぐことが多い。
 実際今も、目が合った瞬間あからさまに気を緩めた。

「この歳にもなると重労働は辛いわ」
「去年も同じことを言ってたでしょう。まだまだ現役じゃない」

 かといって、隙までは見せない辺りが彼女らしい。
 さばけた口調ながら、隣に座る仕草は優雅なものだ。
 仕事柄必要なスキルだってことはわかっているけど、相変わらず見事だと思う。
 長年の反復で身に染み着いた、美しい立ち居振る舞い。
 いくつになっても、女としては羨ましくもある。

「それにしても、佳那ちゃん、大きくなったわねえ」
「……どうかしら。まだ背は伸びてるみたいだけど」
「いや、そういうことじゃなくて。ちっちゃい赤ちゃんだった頃と比べると、成長したなって」

 私と文は中学校時代に同級生だった。
 高校は別々で些か疎遠になったものの、お互いの近況をこまめに知らせる程度には付き合いもあった。
 成人してから、文は実家に戻り。
 私は優都さんと結婚して一緒に桜葉亭を開いた。
 佳那が生まれた時には、忙しい合間を縫って祝いに来てくれたし、こうして経営者特権で便宜を図ってもくれる。
 思えば、二十年以上の関係だ。
 歳だって取るし、時の流れを実感する。

「色くんは?」
「こないだふらっと顔出しに来た。ずーっと根無し草でふらふらしてたことを考えれば、マシになったわね」
「そう。元気みたいで安心したわ」
「あの子はあの子なりに上手くやってるんでしょ。母親としては、たまにまともな姿見せにくれば充分」
「充分……ね。玄関の方に飾ってる絵、また一枚増えてるみたいだけど」
「……雰囲気に合ってたからよ。他意はありません」

 彼女の一人息子、白夜色くんは、それなりに名の売れた絵描きだ。一度大きな賞を取って、彼の特異性も相まって話題になったことがあった。
 モノクロの風景画。
 全色盲の芸術家と言えば、確かに珍しいだろう。
 物静かで、けれど思慮深い子だった。
 彼が幼い頃から周囲に色々言われてきたのを、私は知っている。
 そんな環境に置かれれば、子を厭う親だっているのかもしれない。でも、文は変わらぬ愛情を注ぎ続けてきた。
 私がそうであろうとしたように。
 間違いなく彼女も、優しく強い母なのだと思う。

「いつか」
「ん?」
「いつか、子供は親の手元から離れていくものなのよね」
「私達だってそうだったもの。子供も同じよ」
「先達の言葉は重いわ」
「まあ、うちのは渡り鳥みたいなものだけど」
「帰る場所がちゃんとあるってことも含めて?」
「親としてはさっさと結婚相手でも見つけてほしいとこ」
「ふふ、根はしっかり生やしてほしいのね」

 なんて会話をしたところで、文は仕事に戻っていった。
 十分も経たない程度、長居とも言えない時間だったけど、それなりに中身はあった。
 考えるところも。

「……荷物の整理をしたら、お風呂、行きますか」

 娘と約束したのだから、破るわけにはいかない。
 自分のと、ついでに佳那の必要な着替えなりアメニティ関連の道具なりを取り出しておいて、種別に区分けし、使いやすいよう配置する。
 布団を敷くことを想定してバッグの置き場所も変え、それからバスタオルにハンドタオル、文が用意してくれたぴったりサイズの簡素な浴衣をひとまとめにして持つ。
 一階の温泉までは、階段を下りて少し歩く必要がある。他のお客さんはどこかに出かけているのか、あるいは部屋の中で何かをしているのか、誰ともすれ違うことはなかった。
 文の後ろ姿を思い出しつつ、足運びや手の振り、腰の動きを意識する。ここに来る度こっそり一人で試しているけれど、簡単に再現できれば苦労はない、ということがよくわかった。もっとも、これは日常生活には不要な技術。私が人知れず練習しているのは、軽い憧れに過ぎない。
 日々を楽しむための、ささやかなスパイス。
 脱衣所に着くと、逆さになった籠の中、ひとつだけ表に引っ繰り返されたものを見つけた。
 どうやら、入ってるのは佳那しかいないらしい。
 ……あの子、はしゃいで泳いだりしてるんじゃないかしら。
 家のお風呂では味わえない解放感が、こういうところにはある。他のお客さんがいないのなら尚更だ。
 微笑ましい気持ちと一握りの不安を抱え、早々に服を脱いで浴場に踏み入る。佳那の姿は見当たらない。

「……露天風呂の方ね」

 今すぐ確認したい衝動に駆られるけど、あの子だってもう分別の付く人間。過剰な心配をすることもない。
 小さく溜め息を落とし、ひとまず身体を洗おうと決めた。
 シャワーの手前、正面にある鏡と向き合って、ゆっくり、丁寧に。
 泡を綺麗に流した後、桶に溜めたお湯を立ち上がってざばりと浴び、水が滴る髪を軽く絞ってから外へ出る。
 避暑には向いた場所だけど、裸でいるには些か肌寒い。
 心持ち早足で通り抜けると、予想通り露天風呂には佳那がいた。
 私の足音に気付いたのか、すっと振り返る。

「お母さぁん、遅いよー」
「あら、そんなに待たせたつもりはなかったんだけど」

 頭の上に畳んだタオルを乗せ、だらしない格好で湯に浸かった娘の顔は、明らかに赤かった。
 近寄りがてら、その額と頬に手のひらを当てる。

「佳那……頑張って入り過ぎじゃない?」
「うー、自覚はあります」
「少し上がって身体を冷やしなさい。倒れたら一番困るのはあなたよ」
「はぁい……」

 強めの語調で窘めると、佳那は大人しく従った。
 若干荒い、言い換えれば余裕のない動きで腰を浮かせ、比較的座りやすい岩に落ち着く。
 どう見てものぼせる寸前。

「こんなになるまで、っていうのは久しぶりね」
「一回クールダウンはしたんだけどね……。何かぼんやりしてたらいつの間にか」
「体調でも悪いの?」
「ううん。ちょっとだけ、考え事してて」

 気怠そうに背中を丸めてぐったりした娘の言葉に、私は首を傾げる。
 そんな素振りはなかったけれど、もしかして何か悩みでもあるのだろうか。

「……ねえ、お母さん」
「ん?」
「お母さんの、高校時代の話、聞かせて」
「唐突ね。考え事に関係あるのかしら」
「まあそんなところ。で、いいかな」
「構わないけど……何が聞きたいの?」
「三年生になった時、どんな気持ちだったのか」

 ああ。
 なるほど、そういうことなのね、と納得する。

「たぶん佳那の参考にはならないと思うわ。あの頃にはもうお父さんと出会ってたし、進路も定まってたもの」
「そこをどーにか。こう、ちょっとくらいない?」
「……そうね、やっぱり多少の不安はあったわよ。色々、考えたり悩んだりもした。佳那と同じね」
「う、バレてましたか」

 思いの外真っ直ぐ育った娘は、嘘や誤魔化しが苦手だ。
 ただ、当人にも自覚があるから、さほど気にした様子もない。
 苦笑混じりで軽く頬を掻き、

「あたしもさ。ずーっと、桜葉亭を継ごうって、継げたらいいなって思ってて。それは今も変わらないんだけど」
「だけど?」
「たまにね、ほんとにそれでいいのか、とか。他にやりたいことはないのか、とか。考えちゃうともう訳がわかんなくなって」
「受験生だもの、考えない方がおかしいわ。むしろ安心しました」
「お母さん……もしかしてあたしのこと、もっと脳天気だとか思ってた?」
「子供は少しくらいお馬鹿な方が可愛いのよ?」
「ちょっ、そこは否定してよ!?」

 勢い良く起き上がった途端、ふらついた佳那が横に倒れかかった。
 慌てて上半身を支える。からかい過ぎたかも。

「ほら、横になってなさい」
「う……ありがと」
「……あのね、佳那。あなたの将来に関わる大事なことだから、私はじっくり悩んで決めてほしいと思ってる。ただ、ひとつだけ」

 上下する胸に手を当て、若干早い鼓動を確かめてから、私も足先だけを残して出た。仰向けでぼんやりした佳那の隣に座り、熱っぽい額に触れて撫でる。

「あなたが本当にしたいことを見つけたら、そのために頑張りなさい。私のことは気にしないで、私じゃなく、あなた自身のために。それを忘れないでほしいの」
「……うん」

“いつか”が例え今すぐ訪れるのだとしても、この子が私の娘で、私がこの子の親だという事実は変わらない。
 桜葉亭を継ぐにしろ継がないにしろ、一番望ましい形を迎えられればいいと思う。家を出ていった時にはきっと寂しくなるだろうけど、それでも。
 冷たく湿った髪を指で梳き、ぽんぽん、と頭を軽く叩く。
 もうだいぶ熱が抜けたようで、佳那は頭に乗った私の手を取り、静かに起き上がってきた。

「ふぅ……ん、よし」
「そろそろ出る?」
「最後に少しだけ半身浴してく」
「じゃあ付き合うわ」
「心配掛けちゃってごめんね」
「あら。掛けられてこその親よ」
「そっか」

 握った手を、そのまま佳那は離さずにいて。
 露天風呂のお湯とは違う娘のぬくもりに、まだまだ自分は“頼られる母親”でいられるのだと実感した。

「ところで佳那、あなた、好きな人とかいないの?」
「は? え、や、いやいやいやいや、いない、いないよ! というかいきなり何!?」
「進路の話が出たから、そういうこともあるのかって」
「全くこれっぽっちもないです! ……そりゃあまあ、あったらいいとは思うけど」
「できたらちゃんと連れてきなさいね」
「善処します……」

 今はまだ。
 可愛い可愛いこの子の、一番そばにいる。





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