「鈴波さん、もし夜に時間があったら、一緒にお花見しませんか?」

日曜の正午前、すっきりと晴れた青空を縁側で見上げていると、遊びに来てお茶を淹れてくれた星宮さんがそんなことを言った。
といっても、近場に桜並木の類はなかった気がする。薄霧まで行けば、広めの公園でビニールシートを敷いたりして、みんなでわいわい騒ぐこともできるだろうけど……徒歩で行くには些か遠過ぎるところだ。
それとも他に隠れた名所なんかがあるのかと首を傾げ、ふと私は思い出した。

「ああ、もしかして、星宮さんの家で?」
「そうです。よく覚えてましたね」
「何度かそっちでご飯頂いてるし、最初に行った時星宮さんが嬉しそうに話してたから」
「……嬉しそう、でした?」
「うん。宴会みたいに、親しい人がたくさん集まるのが好きなのかな、って」
「あ、はい。人混みは苦手なんですけど、賑やかで楽しそうな雰囲気は好きです」

なるほど、星宮さんらしい。
しかし、この様子だと別の知り合いにも声を掛けたのかもしれない。

「発案者は蒼夏さん?」
「いえ、お花見は私とお父さんがいつも主導してます。自分の家でするわけですし、いつ花が咲いて見頃になるかは私たちじゃないとわからないですよね。佳那は頻繁に顔を出しに来るので、わざわざ時期を教えなくてもいいことが多いんですけど」
「じゃあ、そこまで酷い展開にはならない……といいなぁ」
「心配しなくても平気ですよ。蒼夏さんも、雅に欠ける振る舞いをするつもりはないって言ってました」
「酔っぱらったら雅も何もない、と」
「でも、散り様を眺めて呷る酒は格別だ、とも」

星宮さんの切り返しに私は苦笑した。花見がメインなのか花見酒がメインなのか、蒼夏さんの場合はいまいち判別が付かない。
何となく「両方だよ」と答える姿を想像して、また少し頬が緩んだ。
楽しいことになるのは間違いない。なら、参加しない方が勿体無いだろう。
行く旨を伝え、私以外の参加者について訊ねる。

「蒼夏さんの宴会と変わらないですよ。佳那と灯子さん、霞さん、透さんに里さん、蒼夏さんと私達にお父さんを加えた九人です。灯子さん、里さんの二人は早めに来て準備を手伝ってくれると思います」
「その辺も普段通りなんだ」
「私も加勢しますけど、どうしても二人じゃ九人分用意するのに時間が掛かっちゃうので」
「こっちが手伝えることはある?」
「申し出はすっごく有り難いんですけど……」

……まあ、料理のフォローは無理だよなぁ。
一人暮らししてる癖に家事スキルが乏しいって、我ながらどうしようもないというか、言い淀むのも仕方ないというか。
最年少の星宮さんと比べられても勝ち目がないのは理解しているので、ここは大人しく引き下がることにした。
ただ、代わりに別の案を挙げてみる。

「ご飯の準備で手一杯なら、私が会場設営をするってのはどうかな。足りないものがあったら買い出しにも行くよ」
「え、そんな、こっちが誘ったんですから」
「灯子さんや里さんは手伝えてるのに、自分だけ仲間外れなのも寂しい……って言ったらわかってくれる?」
「だけど、その……め、迷惑じゃ、ないですか?」
「嫌なら最初からこんな提案しません」

畳みかけるように押した結果、僅かに逡巡する仕草を見せながらも、星宮さんは「それじゃあ、お願いします」と頷いた。
どうもこの頃負け続きだったからか、妙に嬉しい。手元のお茶を一気に飲み干し、おかわりを取りに立ち上がる。
と、いい気分の私に、さっきまでの話とは全く関係のない疑問が飛んできた。何の前振りもなく、

「そろそろお昼時ですけど、ご飯、どうするつもりなんです?」
「………………あ」

―― 冷蔵庫がすっからかんなのを、すっかり忘れてた。










「本当にすみません……」
「いやいや、二人分も三人分も変わりないからね。それに、鈴波君が来ると陽向も喜ぶんだ」
「だといいんですけどね。……ん、ごちそうさまでした。食べた分はちゃんと働きますので」
「はは、なら遠慮なく頼らせてもらうよ」

平伏して明成さんお手製の昼食をいただき、早速私は荷物を運ぶことにした。
台所で慌ただしく動き回る星宮さんに必要なものがある場所を訊いて、小走りで明成さんの部屋の近く、陽射しが届かない奥に位置する物置へと向かう。薄暗い空間の入口で蛍光灯のスイッチを探し、触れた右指で切り替えると、低く細い音を響かせて明かりが点いた。眩しさにちょっと目が眩む。
物置というと色々雑多に詰め込まれたイメージを思い浮かべるけれど、星宮家のそれは程良く整理されている。たぶん二人が定期的に掃除してるんだろう。埃もさほど積もってはおらず、お目当ての物はすぐ見つけられた。
わかりやすいところに置かれてたから、事前に星宮さんが引っ張り出してくれてたのかもしれない。

「ビニールシートと重石、あとは……あれ、これだけか」

食器は全部足りてるらしいし、あくまでお花見のメインは桜と食べ物だ。蒼夏さん主催の宴会が賑やかさ重視なら、こっちはおそらく風情重視。誰か(佳那ちゃんとか)が酔って暴れるようなこともないんじゃないかと思う。
会場設営なんて言ってもシートを敷いて重石を乗せるだけで、つまり私は早くもお役御免みたいだった。
釈然としない気持ちになるも、とりあえずは庭まで持っていく。途中漂ってくるおいしそうな匂いに期待を募らせ、そんな自分の現金さに落ち込みつつ縁側へ出る。外の景色が目に入った瞬間、何かが視界をふわりと横切った。
―― 淡い、桃色の花弁。頬を一際強い風が撫で、庭のほぼ中心に据えられた一本の樹がまた花を散らす。

「……咲いてるのを見たのは、初めてだけど」

冬の寒々しい姿と比べれば、感慨めいたものがある。
若干蕾も残っていて、それでも充分四方に伸びる枝は鮮やかだ。八分咲きくらいか、今日中に落ち切ることもないはず。
なるほど、こんないい景色を前にしてご飯が食べられるなら、みんなが集まるのもよくわかる。
久々にお酒を飲むのもいいかな、と、似合わないことも考えた。

「んじゃ、さくっと敷いちゃいますか」

会話の相手もいないので一人寂しく呟き、ビニールシートを適当なところに広げる。
結構な面積だから、二枚でもかなり余裕を持って座れそうだった。隣り合う部分をほんの僅か重ね、それぞれの四隅、計六箇所に不揃いなサイズの重石を置く。どこかで拾ってきたのか、その辺に転がってる大きめの石にしか見えない。正直かなりの重量で運ぶのに苦労した。インドア派の私には些かきついものがある。
まあとにかく、簡単な準備はこれで終了。そして早くも仕事がなくなった。
手持ち無沙汰になって、次は何かないか星宮さんに訊きに行く。

「えっと……お皿、はまだ出してもしょうがないし、洗い物も今は必要ないし、他に用意しなきゃいけないものも……」
「まさか、もう私役立たず?」
「そういうわけじゃないんですけど……」

微妙な空気が場を満たし始めた時、玄関の方から呼び鈴の音が聞こえてきた。
咄嗟に動こうとした星宮さんを制止し、こっちは手が空いてるんだからと私が応対しに飛んでいく。
表を開けてみれば、予想通りというか灯子さんと里さんが並んで立っていた。話によると近くで偶然合流したとか。
二人が加わって台所の男女比は二対三。和気藹々とした輪の外で、ぶっちゃけ使えない私は猛烈な疎外感を覚えた。
どうしよう。顔出しても仲間外れなのに変わりない。
何だか切ない気持ちを抱き、私は足音を殺してそっと台所を抜け出した。あの調子なら出番はないだろう。みんな手際いいし。
他にできることといったら飲み物やおつまみの買い出しくらいだけど、明成さん達は抜かりないと思うしなぁ……。
頬杖を突いて見つめた桜樹は、風が吹く度ビニールシートの上に花弁を積もらせている。
その様は確かに綺麗で、けれども今心行くまで眺めたら後の楽しみが薄れてしまうような気がした。
溜め息ひとつ。暇潰し用に本を持参しなかったのが悔やまれる。

「あっちが終わるのは、いつなのかな」

縁側に腰掛け、ぱたりと上半身を仰向けに寝かせて目を閉じていると、緩やかに眠気が訪れ始める。
いつしか意識が離れていって、花の香りを最後に記憶はぷっつり途切れた。










「鈴波さん」

呼び声と共に身体が揺さぶられて、すうっと思考が輪郭を形作る。
瞼の裏からも感じる陽光の明るさに、目を細めたまま私は起き上がった。
ふぁ、と欠伸を噛み殺すことなく漏らし、横に視線をやる。やっぱり、声の主は星宮さんだった。

「あー……どのくらい寝てた?」
「一時間ほどです。こっちはだいたい片付いて、お父さんと灯子さんが最後の仕上げをしてます」
「じゃあ星宮さんは」
「調理器具とお皿を洗い終わったら、お仕事、なくなっちゃいました」

微笑みを浮かべてそう言うと、隣に座らずしゃがんでこちらの顔を覗き込んでくる。
まだ瞼が開き切ってなくて、見つめられるのはちょっと恥ずかしい。
そんな私の心の機微を察してか、軽快な足音を響かせ星宮さんは背後に回り、

「あとちょっとで……おおよそ五時前後にはみんな集まると思います。それまで暇な者同士、お散歩、行きません?」
「散歩かぁ。んー、いまいちお腹空いてないし、簡単な運動になるかも。よし、行こっか」
「はい」

重い腰を上げた私の手を取った。
気を遣わせちゃったようだけど、魅力的な誘いを断る理由もない。
引っ張られるまま玄関で靴を履き、お花見日和の空の下へと一歩踏み出す。

星宮さんの家は、どちらかといえば霧ノ埼の東側にある。縁側は南向きで、玄関は西向き。だからまず視界に入るのは、見渡す限りの畑と散逸する木々だ。薄霧のビル群も地平線の付近で辛うじて判別できる。家屋から遠ざかって振り返れば、春になって緑に色付いてきた山々も窺える。三月は山頂辺りに白が残っていたけれど、さすがに桜が咲く時期になるとどこにも見当たらない。溶けた雪は川の流れに混ざり、海を目指していったんだろう。
散歩故に行き先はなく、適当に目的地を決めず歩く。霧ノ埼の空気の澄み様を改めて実感しながら、私と星宮さんは清々しい春の陽気を味わった。肌に刺さる鋭く冷たい冬風と違い、今の季節の風は柔らかく温かい。
過ごしやすい温度なのも相まって、うつらうつらと舟を漕ぎたくなるのも当然……なんて言ったら怒られるか。
星宮さんに問いかけたら「鈴波さんの場合は春だけじゃないですよね」と返される予感がする。

不思議と、会話がなくてもぎこちない雰囲気にはならなかった。
お互いに同じ景色を見て、そこに思いを馳せるだけで、何となく満たされた気分を得られた。

携帯で時刻を確認し、傾いた陽が黄昏色を帯び始めた頃に戻る。
玄関に並ぶ靴の数は倍近くまで増えていて、既に奥から賑やかな声が聞こえてくる。たぶん、佳那ちゃんと蒼夏さん。
雅に欠ける振る舞いをするつもりはない、とのことだけど、あの調子じゃ勢い余る可能性もないとは言い切れないような。

「配膳くらいはやらせてね。どうせお酒はほとんど飲まないし」
「結構忙しいですよ?」
「大丈夫。星宮さんこそ目回さない?」
「慣れてますから」
「なるほど」

顔を見合わせ、全く同時に笑う。
大変でも、疲れるほど濃密な時間でも、こういうのは嫌いじゃない。私達の小さな共通点。



―― 楽しいお花見の幕が上がった。



五時半過ぎ、無事に全員参加で乾杯する。拍子を取ったのは明成さん。毎年恒例らしい。
ビニールシートの上に次々と置かれる豪勢な夕食は、揚げ物にお菓子、おつまみに凝った一品料理などなど、目移りしてしまいそうなほど多種多様だった。事前準備を頑張った四人に感謝しつつ、満遍なく箸を付けていく。案の定、最初の大皿はあっという間に空になり、早くも私が駆り出された。
しばらく食事に専念していると、お腹が膨れて食べる速度が落ちてくる。そこからは飲酒が中心だ。空のビール缶やら瓶が周囲を埋め尽くさないように、私達がちょこちょこ片付ける。談笑が絶えない輪の中で、私はマイペースにちびちびと飲んでいた。
これでだいぶ落ち着いたかな、と一息吐いた瞬間、ざわめきを割いて呼び鈴が鳴った。

「私が行ってきますね」
「うん」

星宮さんが席を立ち、駆けていくその背中を私は眺める。
しかし、いったい誰だろう。営業関係にしては時間帯が遅いし、わざわざこんなところまで足を運ぶとも考えられない。
一人首を傾げているうちに、足音が近付いてきた。何故か二人分。
そして星宮さんと一緒に現れた人物を目にした時、私の口から無意識に間抜けな声がこぼれた。

「え、あれ、大樹さん? え?」
「随分な驚きようだな……」
「いやだって、来るなんて全然聞いてないですよ。どうしてここに?」
「そりゃお前、蒼夏に誘われたからだ」

思わず振り向いた先、ほろ酔いといった感じで頬を赤くした蒼夏さんが、してやったりな笑みを浮かべていた。
ちなみに大樹さんを知ってるのは私と蒼夏さん以外にいないはずで、何というか、明らかにピンポイントなドッキリだった。

「大樹さん……でいいですか?」
「ああ。構わん。そっちは、陽向ちゃん、だったか?」
「はい、そうです」
「ぷっ……陽向ちゃんってお前、その顔でちゃん付けは似合わないだろう……っ」
「黙ってろ蒼夏」
「えっと、鈴波さんと蒼夏さんとはお知り合いなんですか?」
「信一は元職場の同僚というか部下で、今もたまに手伝ってもらってる。あそこの馬鹿とは腐れ縁だ」
「酷い言い草だな。わたしと大樹の仲じゃないか」
「こないだまで疎遠だった奴が何を言う」
「お二人とも仲がいいんですね」
「どこが」「どこがだ」

星宮さんの言葉に揃って答える様が、大樹さんと初対面の人が多いこの場の空気を弛緩させた。
あまり人見知りしないタイプの佳那ちゃんが続いて質問を浴びせ、他のみんなも後に続く。
私がそうだったように、それこそあっという間な時間で大樹さんも受け入れられる。
勝手ながら少し心配してたけど、余計なお節介らしかった。

視線を逸らし、ひらり、ひらりと静かに舞い散る花弁を目で追う。
悠然と月光を浴びて咲き誇る桜の姿はどこか神秘的で、昼とは別の美しさがあった。
口に含んだ微量の酒が喉を焼く。熱っぽい吐息をゆるゆると漏らして、アルコールが齎す高揚感に浸る。
気まぐれに、グラスに張った水面へと花弁の一枚を落としていると、不意に星宮さんが座ったまま軽く身を寄せてきた。

「お酒、おいしそうに飲んでますね」
「たまにはいいかなって。星宮さんは飲まないの?」
「……二度も痴態を晒したくはないです」

去年の夏、彼女が一杯でダウンし熟睡したのを思い出す。
今は自宅だから誰かの手を煩わせることもないとはいえ、酔って記憶が途切れるのはいい気分じゃないのもわかるので、そっか、と頷くだけに留めた。可愛らしい寝顔を再び目にできないのは残念だけど、仕方ない。

「そういえば、意外に蒼夏さんが大人しいなぁ」
「言った通りでしょう?」
「確かに。大樹さんもいるからかもね」
「いい人ですね。落ち着いてて、お父さんや灯子さんに似たものを感じます」
「蒼夏さんとは同い年だったと思うけど」
「……実はさっき知った時、ちょっと信じられませんでした」
「あはは、二人が聞いたら怒るよ」

大樹さんが老けてると取るか、蒼夏さんが子供っぽいと取るか。
どちらにしろ角が立つのは間違いない。余計なひとことは表に出さないのが吉だ。

「今日は、楽しめてます?」
「勿論。前にも言わなかったっけ。こういうのは大好きだから」
「初めて聞きました」
「ありゃ」
「でも、よかったです。みんなが笑って、楽しんでいるなら、頑張って色々準備した甲斐がありました」

報われれば、嬉しい。
そんな当たり前の、けれど得難い素敵な気持ちがここでは容易く見つけられる。

「星宮さん」
「なんですか?」
「お疲れ様」
「……まだ早いですよ。全部終わってからです」

一際強い風が吹き、星宮家の庭に展開する、桜色の空。
ちっぽけで尊い幸せを、酒の仄かな苦みと共に私は噛み締めた。



only understand/two.桜散り風に舞う・了





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