家にいると、季節の移り変わりを実感する。 広めの庭に悠然と生え立つ桜の木は、春が近くなるにつれて枝に蕾を付け始める。 冬の寒々しい様相を知っている側からすれば、嬉しくなるような光景。 毎日背伸びしては淡い緑色を見つけ、いつ咲くのかな、と思いを馳せながら私は学校に行く。 佳那もそうだけど、私達が住む場所から通う先、市立霧ノ埼高等学校まではすごく遠い。 徒歩で片道一時間前後、自転車でも四十分以上。予鈴前に着こうと思うなら、家を七時前に出る必要がある。 そんなわけで私の朝はクラスメイトと比べてかなり早く、毎日起床は五時半。四月に入るともうその時間でも外は明るいけど、冬の頃はいつも起きると真っ暗だった。 目覚めてまずするのは、洗面所で顔を洗うこと。冷たい水のおかげでまだ少しだけ残っている眠気が吹き飛び、気持ちのいい朝を迎えられる。それからまだ寝ているお父さんを起こさないよう静かに歩き、表のポストをチェック。朝刊とたまに入ってる時は手紙や封筒を抱えて、居間のテーブルに置いておく。あと、炊飯器のスイッチをぽちっと。 霧ノ埼は土地が広い上に住居の位置がばらばらで、もし全部の家に配達しようとすればバイクでも間違いなく三時間以上は掛かる区域だ。だからこの辺を担当している配達員さんは何人もいて、大変な分時給も高い……という話を、以前丁度ポストに新聞を入れようとしていた人に聞いた。また会えたら、いつもありがとうございます、と言いたい。 次は一旦部屋に戻り、お布団を畳んで押入れに仕舞う。週に一度、よく晴れた日は布団叩きで埃を掃ってから干すようにしてるけど、その辺は天気予報と相談して休日の前後にすること。一昨日やったばっかりだし、今日はまだ干さなくても平気。 ついでに生徒手帳とか筆記用具とか、持っていく物の整理をする。昨日の夜にも一応見てるので、主に何か忘れてないかもう一度確認するための作業だ。一緒に着替えを箪笥から出し、鞄と合わせて運ぶ。前者はお風呂場の脱衣所、後者は居間まで。 だいたいそこで六時をちょっと過ぎるくらい。すぐ洗濯機に入れちゃうから汚れてもいい寝間着姿のまま、今度は朝食作りを始める。基本は炊き立てご飯とお味噌汁、そこにあんまり重くないおかずを一品。お米がない時は桜葉亭で買ったパンを食べるけど、私もお父さんも和食が好きだから、なるべくちゃんとしたのを用意するようにしている。 「おはよう、陽向」 「おはようお父さん」 どんなに仕事が大変な時期でも、お父さんは六時半前に起きてくる。私のご飯を無駄にしないために。 ……本当はお父さんが作った方がおいしいものができるけど、そういう信頼は素直に嬉しい。 盛り付けが終わり、その間にお箸とかを並べてもらって、最後に炊き上がったご飯をお茶碗に盛って完成。 二人で「いただきます」と手を合わせ、会話を挟みつつゆっくり食べ進める。 ちなみに、朝食を作った代わり……ってわけじゃないけど、お皿を洗うのはいつもお父さんの方だ。 ご飯が済んだら、洗面所で歯を磨きお風呂へ。 とはいえ夜にまた入るので、髪も身体もさっと洗うだけ。水はなるべく無駄遣いしたくない。 出た後はバスタオルで念入りに雫を拭き取り、ドライヤーで軽く髪を乾かし整えて着替える。 居間に戻ると、さっき淹れたらしい緑茶を啜っていたお父さんが私に声を掛けてきた。 「そういえば、今日は始業式だろう?」 「うん。だから家出るのはもうちょっと後」 「ならもう少し寝ててもいいのに。私は今日仕事ないし、朝食が遅くなっても構わなかったよ」 「規則正しい生活って大事だよ。それに、何かこうしていつも通りの時間に動いてないと落ち着かなくて」 「なるほど。陽向は律儀だな」 そうなんだろうか。曖昧な笑みを返答とし、お父さんの向かいに座ってニュースの天気予報を見る。 一日晴れるでしょう、というキャスターの言葉を聞き、私は安心した。 これだけ通学路が長いと、雨の日はすっごく憂鬱になるから。 壁に立てかけられたアナログの時計とテレビの左上にあるデジタル時計は、どちらとも七時五分前を指している。私達二年生の登校時刻は九時二十分だから、まだ一時間弱の余裕があった。さすがに二時間掛けて歩いていくのは難しい。 じゃあ折角だからと、簡単な掃除をしておくことにする。自分の部屋と、お父さんの部屋。窓を開け、はたきで埃を浮かせ、しっかり空気が入れ替わるのを待って掃除機を掛ければ、それだけでも結構綺麗になるもの。 心なしすっきりした部屋の様子に満足し、居間でもう一度見た時計の針は四十分ほど進んでいた。 あとはゆっくり寄り道しつつ歩いていけばいい。予鈴のかなり前に着けるだろう。 「それじゃお父さん、行ってきます」 「行ってらっしゃい。お昼は要る?」 「ううん、大丈夫。鈴波さんのところに寄ってから帰るね」 「わかった。遅くなるなら連絡するように」 玄関で靴を履き、もう一度行ってきますと呟いて外に出る。 だいぶ陽が昇った空は薄い白色の雲がふわふわと流れていて、心地良い暖かさだった。 道行く中、畑仕事をしている顔馴染みのご近所さん(何キロも家が離れてるけど)と挨拶を交わしながら、私は普段と違うルートを選択した。ちょっぴり足取り軽く、目指す先は見慣れたあの場所。 「……やっぱり閉まってる」 そうして私は、星見堂の前で立ち止まった。 鍵を掛けられた玄関口に触れ、開かないことを確かめて、ぐるりとお店兼住居の周囲を時計回りに歩く。 縁側の方から入れないこともなかったけど、きっと鈴波さんはぐっすりおやすみしてると思うので止めておいた。そもそも、もし実行したら立派な不法侵入だ。私だって犯罪者になるつもりはない。 「今日は、いつ開くのかな」 開店は十時頃、だなんて言っておいて、実際その時間に開いたことはほとんどないと思う。 そんな調子で大丈夫なのかな、と心配してしまうくらい適当な鈴波さんを見ていると、私は何となく放っておけない。 お父さんとまではいかないけどずっと年上なのに、子供みたいな人。 佳那にも似てるところがあって、ついつい世話を焼いてしまうのだ。 今も、朝ご飯は食べるんだろうか、また前のように寝過ごしたりしないかなんてむくむく不安な気持ちが膨らんでくる。 ……余計なお節介だって言われるかもしれないけど。私は、鈴波さんを家族に近い人として認めていた。 結局五分ほど立ち尽くして、星見堂を後にした。 以降は特に気になるところもなく、寄り道せずに学校へ辿り着く。 予定通り教室の自席に座ったのは九時ちょっと前で、それでも既に来ているクラスメイトは結構いた。 勿論と言うべきか、佳那はまだいない。あの子はいっつも特訓だー、とか言ってギリギリに出てずっと走りっぱなしで来る。 だから、 「はぁ、はぁ、はぁ……お、おはよー、ひなちん」 「おはよう。今日の記録はどのくらい?」 「三十九分、二十一秒……新記録まで、あと、少しだった……はふー、しばらく休むー」 息を切らして教室に現れるや否や、くたりと机に突っ伏した姿を見ても、私はさほど驚かなかった。 こうなった佳那はホームルームが始まるまで絶対起き上がらない。実際あれだけの距離を走り続ければ疲れるのも当然なので、私も無理に話しかけたりはせず見守ることにしている。 ……一年の時は違っていたけれど、昨年度は同じクラスだった。 そして今年も、表の各教室に貼り出されていた紙を見た限り、私と佳那は一緒だ。 互いに文系だし、もしかしたら、という気持ちはあった。それでもやっぱり嬉しくて、ほんの少し私は頬を緩ませる。 と、教卓側の方から見慣れた長身の女性がやって来た。立ち話をしていた生徒が慌てて自分の席に戻っていく。 「みんなおはよう。まあ知ってる人の方が多いと思うけど、わたしが今日からこのクラスの担任になる柚鳴倉樹です。去年もそうだった人は改めてよろしくね。今年初めての人はさっさと先生のことを覚えて慣れるように。はいじゃあ外に並んでー」 「……担任も同じだね」 「うん」 些か気の抜けた号令でクラスメイト達が動く中、復活した佳那の囁きに私も頷く。 現代文担当の柚鳴先生は、去年の私達のクラスを受け持っていた。学校内では比較的若いからか生徒の人気が高く、どこか打ち解けやすい雰囲気もあって、よく相談役になっているところを目にしたりする。あれでまだ教師歴二年目なんだからすごい。 同じく教師を目指している弟さんがいるって話だけど、何故かそのことを訊くと言葉を濁してしまう。 ただ、信頼できるいい人なのは確か。私達をちゃんと見ていてくれるってわかるから。 教室の外に並び、先生の先導で体育館まで行く。 既に着いていた二年の横に整列し、全生徒が入り終えると始業式が開式する。 といっても、内容は校長先生の長い訓示と新任教師の紹介、それに各クラスの担任、副担任発表だ。 他のクラスは誰が担任になったのかを、ここで知ることができる。去年受け持ちのなかった先生が就いていたりして、その辺どうしてなんだろう、と考えてみるのは意味がないけどちょっぴり面白い。 時間にしてみれば三十分ほど、退屈で眠そうに目を擦る生徒も出てきたところで閉式。 ぞろぞろと行きよりもだらしない流れで教室に戻り、全ての席に生徒がいることを確認して柚鳴先生がプリントを配る。 授業は明日以降。その時間割が書かれていた。 「だいたいこのプリント通りだから、明日は教科書とか忘れないでね。特に現文。で、もう今日は終わりだけど、みんな早上がりだからってあんまりはしゃがないこと。部活ある子は怪我しないよう頑張って。一応最高学年なんだし、校長先生の言葉じゃないけどその辺ちゃんと自覚持ちなさい。じゃ、解散! 帰って良し!」 こういうさっぱりしたところが、生徒に好かれる要因なんだろう。 思い思いにクラスメイトが散らばっていくのを眺め、私も立ち上がった。 「佳那は陸上部?」 「そうそう。春休み中も張り切ってたしさ、あたし達もう後輩しかいないから世話焼かないといけなくてね。だからごめん、今日は一緒に帰れないや。ひなちんは信一さんとこに?」 「何か、放っておいたらお昼も食べずに寝てそうな気がするから……」 「あはは、ひなちんって信一さんの保護者みたい」 冗談めいた佳那のひとことには、苦笑を返すしかなかった。 一階で別れ、我先にと玄関に雪崩れ込む人の波が落ち着くまで待って下駄箱から靴を取り出す。 静かな場の方が好きだけど、私はこんな騒々しさも嫌いじゃない。他人と関わることが煩わしいものだけではないように。 玄関口と校門の間には、桜の木が幾本か植えてある。東北のこの地域は、南に比べれば少し遅咲きだ。 私の家のと何ら変わらず、ここもまだ蕾しか見つけられない。 花が咲くのを待ち焦がれている自分がいて、でも同じくらい、足早な時の流れを寂しく感じる自分がいる。 あと一年。たった一年で、もう私達は卒業。……それはどこか遠い話みたく思えていたけど、こうして学校が始まってしまうと急に実感が出てくる。桜の蕾が花開き、散って葉を茂らせ、それも枯れ落ちて裸になった姿で冬を越す頃には、ここを去らなきゃいけない。季節の廻りは、過ぎてみればとても早かった。 「……行こう」 でも、今はまだ。 遠い話のままでいてほしい、と思う。 「あ、星宮さん、こんにちは。今日は随分来るの早いね」 「こんにちは。始業式だったので、授業がなかったんです。だからお昼もまだですよ。お邪魔しますね」 「はい、どうぞ」 十一時過ぎ、星見堂はちゃんと表を開けていて、店内では鈴波さんがいつも通り腰を下ろして読書していた。 その姿がいつも通りというのは問題なはずなんだけど、あまりにも自然にそうしてるから何となく注意し難い。 私は溜め息を吐き、お店と居間の境目になっている段差のところで靴を脱いで踏み入る。 案の定、台所には食事を作ろうとした痕跡は一切なかった。おそらく私が来なければ、だらだらして昼を抜く可能性が高い。 困ったことに、鈴波さんはそういう人だった。自分に執着しないというか……いつか倒れるんじゃないだろうか。 「星宮さん……何してるのかな?」 「冷蔵庫の中身を見てます。見事に物がないですね……」 「今は結構懐具合ギリギリだし、何か明日薄霧でタイムセールがあるみたいだから買い出しはその時でいいかなー、と」 「わかりました。勝手にご飯作っちゃいますから」 「はーい。毎回ありがとうございます。星宮さんには頭が上がりません」 本気なのか軽口なのか、私に向き直って土下座する鈴波さんを見て、佳那の時とはまた違った気持ちで苦笑い。 仕方ない。食材は少ないけど、ある物で何とかしよう。 冷凍してあるご飯を取り出し、フライパンに油を張って火に掛ける。ご飯は電子レンジで解凍。 万能ネギと使いかけの野菜を細かく包丁で刻み、卵を溶いて、しっかりフライパンが温まったところで先に野菜の方を炒める。充分熱が通ったら一度別の皿に除け、卵をフライパンに流す。ほとんど間髪入れず解凍したご飯も投入。ぱらぱらになるまで絡めて塩胡椒で味付けし、最後にさっきの野菜を放り込んでざっと引っ繰り返すように混ぜれば完成。 お皿に盛り付けたチャーハンを前に、鈴波さんは「おおー」と感嘆の声を漏らしてくれた。 「私の父親も料理が上手かったけど、星宮さんも負けず劣らずだなぁ。んー、おいしい」 「頑張れば誰でもできますよ。鈴波さんは単純にやってこなかっただけです」 「う、手厳しいお言葉で。精進します」 最近、私は鈴波さんに料理のあれこれを教えるようになった。 毎週学校が休みの日は午前中から星見堂に足を運び、お昼ご飯に色々なレシピを試しながら作っている。 決して覚えが悪いわけではなく、結構すらすら習得していくので、段々コーチが楽しくなってきてたり。 ちなみに、チャーハンは鈴波さんももう作れるけれど、まだ私ほどにはならないらしく苦心しているみたいだった。 教授の見返りは、ご飯を一緒に食べられることと、店内の本をここで好きなだけ読んでもいい権利。 それがあるからついつい遅くまで居座ってしまう。……勿論、気に入ったものは買うけれど。 三時を回った頃、開いていた本を棚に戻し、私は鈴波さんに帰る旨を告げた。 少しばかり早い帰宅の理由は、お父さんのお手伝いをするため。 柔らかい笑顔に見送られ、軽い鞄と共に帰路に就く。ふわりと風が花の香りをどこかから連れてきて、心地良い。 星見堂と私の家を往復するのに、だいたい徒歩で四十分くらい掛かる。片道ならその半分、約二十分。 だから「ただいまー」とちょっと大きな声を張り上げて居間に顔を出すと、お父さんが煎餅をぼりぼりと食べていた。 「おかえり。手洗いとうがいを済ませたら、陽向も食べるかい?」 「じゃあ、お茶、お願いします」 厚意に甘えてそう頼み、洗面所まで行って手を洗う。 もうほとんど習慣付いているから言われなくてもすることだけど、それはお父さんの優しさなんだと思っている。 「はい、もうだいぶ冷めちゃってるけど」 「ありがとう。いただきます」 言葉通り温くなってしまったお茶を一口、広がる苦味に、ほう、と息を吐いてお皿の上の煎餅を一枚取る。 欠片をこぼさないよう下にティッシュを敷いて、そっとかじった。仄かに漂う醤油の風味。決して高級品ではない、スーパーに行けば売ってるような物ではあるけど、肥えてない私の舌にはそれで充分だ。 点けられたテレビに映る、昔のドラマの再放送を親子でしばらく観賞し、終わったところで同時に席を立った。 今日の夕食のおかずは餃子。一度に食べ切れる分しか作らないので量は控えめ。 お父さんが具を作り、邪魔にならないよう髪を縛った私が、お昼のうちに用意していた皮(これも市販のじゃなくてお父さんの手作り)で包んでいく。時間はいっぱいあるから、急がずゆっくり、丁寧に。 出来た物はお皿に置いてラップで覆い、冷蔵庫に仕舞ってご飯の時に焼けばいい。 あとは早めにお米を研ぎ、六時くらいまでのんびりして、中華風のスープを用意する。 炊飯器のタイマーが鳴り終わる直前に餃子は火を通し、昨日の残りの生野菜も出して、七時には食卓に夕食が並んだ。 以前、鈴波さんと三人でテーブルを囲んだ時、久しぶりだけどこういうのってやっぱりいいね、と言われたのを思い出した。 当然昔は鈴波さんも家族と一緒に暮らしていたんだろう。両親との仲がどうだったのかは知らないけど、久しぶり、ってくらいだからきっとよかったのかなと想像する。でも、いつかは私だって手放さなきゃいけないもので―― そんなことを考えていたら不意に寂しくなった。お昼前のこともあったから、かもしれない。 食器を片付けていても、お風呂に入っていても、結局漠然とした不安は消えなかった。 そうして私は、自室で布団に包まりながら呟く。 「……もう、三年生なんだよね」 言葉にすると、ああ、そうなんだ、と強く思える。 ほんの少し前までは不透明なはずだった将来とか、そういうものが急に圧し掛かってきたようで、何だか少し、息苦しい。 「私、どうしたいんだろう」 道はたくさんある。あるはずなのに、一歩踏み出す先が真っ暗で見えなくて、心が勝手に急いていく。 こんな気持ちを、佳那も、クラスのみんなも感じてるんだろうか。私だけなんだろうか。 ……考えても答えの出ないことだってわかってるけど、胸の辺りがきゅうっと縮んでいくように感じた。 これからは、そういうことをきちんと決めていく必要がある。 いつまでも浮かれてるわけにはいかないと自分を叱咤し、目を閉じた。 明日から頑張っていこう。とりあえずは、色々なことを。 back|index|next |