八月の終わり、薄く雲の掛かった、少し怪しい空模様の日だったのを覚えている。
家で残った僅かな休暇の使い道に悩んでいた時、彼女が電話で「山登りに行かない?」と言い出したのが始まりだった。
当時のわたしは今ほど逞しくはなく、人より運動はできたけれどあくまで多少、自分を鍛えるなんて習慣がなかったものだから、正直最初は気が進まなかった。 山登りというと、とにかく疲れるイメージが強い。汚れるし虫も出るし、大抵の女性は遠慮するだろう。そういう意味で、彼女は変わっていたのかもしれない。 まあもっとも、当人にそんなことを言えば「蒼夏の方がよっぽど変だと思うよ」なんて返されるけれど。
それが行く方向に決まったのは、言い出しっぺの紗智も含めたわたし以外の二人が妙に乗り気だったからだ。
大樹は大樹で、

「お前や紗智はインドア派だからな、たまには健康的に歩き回るのもいいだろう」

と遠回しにわたし達の不健康っぷりを指摘してきた。
よしじゃあやってやろうじゃないか、とつい言い返してしまい、結局貴重な一日を登山に費やすことになって、 何もかも二人の思惑通り動いている自分にちょっと嫌気が差したのは確か。
でも、いざ皆で行くとなると、わたしは誰よりその日が来るのを楽しみにしていた。
お祭りとか宴会とか旅行とか、誰かと騒いだり遊んだりするのは好きなのだ。気の置ける友人と一緒なら、尚更。

二日掛けて下調べをし(ほとんど大樹任せ)、前日に紗智と三人分の弁当の仕込みを終え、 朝早く起きて調理を済ませたものをリュックに詰め込んで大樹と合流したのが八時前。集合場所の駅から電車に揺られて五十分弱、 降りたところで丁度やって来たバスに乗り、荷物を膝の上に置いてわたしは一息吐いた。

「停留所が中腹の辺りにあるらしい。そこから順調に行けば、一時間ほどで山頂に辿り着けるそうだ」
「思ったよりも時間掛からないんだね」
「あまり厳しい山を選んだら、お前らは途中で音を上げる。断言してやる」
「……随分な言い草だな」
「大樹君酷いなぁ。……自分でも体力ないのはわかってるけど」
「なら何故山登りに行きたいだなんて言った?」
「それはほら、何となく。高いとこまで登って、そこで二人とお弁当を食べられたら気持ちいいかな、って」

ふにゃりと柔らかく笑う紗智に、わたしと大樹は揃って苦笑するしかなかった。
時折提案される唐突な誘いにも何だかんだで付き合ってしまうのは、彼女がこういう性格だからだろう。

三人が並んで座れるようにと一番後ろの席を陣取ったわたし達の他に、車内にはあと二人の乗客がいた。
運転席に近い奥から斜め右側の場所に座っている、見た目二十代後半の女性。乗り込んだ時、一、二歳くらいの赤ん坊を抱えているのを知ってびっくりした。 こんな寂れたバスでどこに向かうんだろうかと考えたけど、初対面の人の事情をあれこれ想像しても仕方ない。 ただ、これから登ろうとしている山がある霧ノ埼市、その西側の方まで走ってくれるらしいので、目的地はそこかもしれないと思った。
前の女性と子供に配慮し、大声を出すのは控えて会話しながら、わたしはちらちらと窓の外の景色を眺めた。
既に畑や家の姿はなく、視界に映るのは一面の深い緑。山を迂回するようなコースで進む大きな車体は、急なカーブで幾度もわたし達を揺さぶってくる。 道路こそちゃんとコンクリートで舗装されているものの、不定期に来る揺ればかりはどうしようもない。
最初に気分が悪いと言ったのは紗智だった。

「ごめん、窓開けるね。いい?」
「丁度わたしもそう思ってたところ」
「俺もだ。一応エチケット袋もあるが……使いたくはないな」
「同感」

とはいえ最後部の窓は開けられるようにできていない。リュックだけを置いたままひとつ前の席に移動し、鍵を外してスライドさせる。 僅かに空いた隙間から勢い良く風が流れ込み、二人でしばし清涼な空気を堪能する。

「……風が、少し湿っぽいな」
「あ、ほんとだ。ちょっと降りそうな感じだね」

不意に大樹がそう呟き、紗智が賛同した。
わたしも微妙な湿り気を感じ、頷く。

「さすがに雨の中で登山する気にはなれないんだが」
「降水確率は二十パーセントと言っていた。降るとしても通り雨になるらしいから、おそらく大丈夫だ」
「今日中止にしちゃったら、もう一回来るのは難しいしね……」

見上げた空は薄い灰色の雲で覆い尽くされていて、いつ雨になってもおかしくない雰囲気ではあった。
そうとわかっていて決行したわたし達も悪いのだが、この日を逃してしまうと次はない。 もうすぐ大学が始まるし、バイトやら何やらで予定を合わせるのは難しいからだ。 気休めにティッシュで簡単な照る照る坊主を作り、降るな、降るな、と祈ってみるも、願いに反して雫が落ちてくる。 それは次第に密度を増し、やがて濃い霧になって山の景色をぼやけさせた。
閉めた窓はあっという間に濡れ、さらに外の様子がわからなくなる。バスが明らかに減速したのを感じた。
ちゃんと晴れるだろうか、無事に着けるだろうかという不安でわたし達は無言になり、何かを話そうと思ってもいい話題が浮かばず、 微かな雨音と排気音を聞きながら再び外を眺める。
……遠く、前の方から別のエンジン音が近付いてくる気がした。

「っ!」

カーブに差し掛かり、車体が左に動いた瞬間、けたたましいブレーキの悲鳴めいた音が響いて、何か激しい衝撃が襲ってきた。
え、と声を出す間もなく傾く視界。身体が宙に浮き、わたしは反射的に掴む物を探しかけ、そこで隣の紗智がいないことに気付く。 迷いは一秒足らず、けれどその僅か過ぎる時間が、全ての後悔の始まりだった。

(紗智―― !)

わたしの頭上を、小さな人影が越えていく。
軽い彼女の身体はいとも容易く吹き飛び、どうにか座席の端に付いている取っ手を握ったわたしの目前で、 背中から窓を突き破り外へ投げ出されそうになっていた。驚いた表情のままこちらに腕を伸ばした姿勢で離れていく彼女に、 わたしも全力で手を差し出す。指に服の袖が触れ、もう少し、あと少しで掴めた―― そのはずなのに。

「あ、っ」

届かない。握り閉じた五指が、虚しく空を切る。
ガラスをぶち破る破砕音が聞こえ、スローモーションの世界の中、紗智がゆっくりと遠ざかり、視界から消えていく。
消えていって、しまう。
そして、わたしには叫ぶ暇さえ与えられなかった。
平常なら危険のない車内も、引っ繰り返って回転すれば人体を砕こうとするミキサーに変わりない。 設置されたあらゆる物が凶器となり、玩具のように弄ばれながら全身を強打する。激痛に重なる激痛が、あっさりと意識を奪い去った。
薄れゆく視界と思考で、わたしは最後まで紗智のことを考えていた。

―― 雨に濡れ、ぴくりとも動かず冷たくなった彼女を幻視して。










「……紗智っ!」

自分の声が思った以上に反響し、現状を理解するのにしばらく時間が掛かった。
ここはバスの中、ではない。清潔感漂う白い部屋、視界に入る天井には淡い光を発する蛍光灯が並び、 知らないうちにわたしは薄い寝間着姿で簡素なベッドに寝かされている。
上半身を起こそうとするが、節々が鈍い痛みを訴えてきたので諦めた。

「ここは……病院か?」

額に汗が滲むのを感じつつ、腕を動かして枕のそばにあったナースコールのスイッチを押す。
すると、一分も掛からず女性の看護師が病室まで飛んできた。如何にもな老齢の医師も付いてきていて、 失礼、という前置きと共にわたしの様子を確かめ、隣の看護師に何やら囁いてから、少し急ぎ足で出ていった。

「……慌ただしいな」
「優秀な方なのでお忙しいんですよ。それで、調子はどうです?」
「身体が痛くてまともに起き上がれやしない。正直、最悪だ」
「医師の見立てでは二週間ほどで退院できますから、治るまで安静にしててくださいね」
「言われなくてもそうする。……で、ここはどこだ? あれから、何日経った?」

目覚めた時からずっと気になっていた。わたしがこうして病院にいる以上、あの事故が夢だったとは思い難い。
記憶はおぼろげだが、鈍痛がするのは車内で激しく打ち付けた箇所と一致しているし―― 何より、悪夢より酷い現実が、未だわたしの瞼の裏に焼き付いている。
ベッドのシーツに触れた右手の指に、一瞬だけ掠った彼女の袖の感触が残ったままだった。
知らず左手で右の手首を握り締めたわたしを見て、僅かに躊躇った後、その看護師は教えてくれた。
救助されたわたしは一番近かったこの霧ノ埼の総合病院に搬送され、治療を受けたこと。 怪我自体は全身打撲で比較的軽傷だったものの、後頭部を何度も強打したためあまり楽観できる状態ではなかったこと。 事故から四日後の今日、ようやく意識が戻ったこと。
けれど、本当に聞きたいのはそんな話じゃない。無言で催促し続けるわたしに根負けし、ちょっと待っててくださいね、と言い残して看護師は退室していった。 一人残され、そういえば大樹はどうなっただろうかと今更ながらに考える。無事でいるのか。わたしと同じように、この病院に運ばれたのか。
それも訊いておけばよかったと自分の精神的な余裕の無さに失笑したところで、看護師が再び現れた。
そしておもむろに、どこかから持ってきたらしい新聞を渡される。

「市で出してる日報です。一面の下の方、そこに事故のことが載ってます。……私は職務に戻りますから、また何かあったら遠慮なくナースコールで呼んでください」
「ありがとう」

扉の閉まる音は、もう聞こえなかった。
二つ折りになっていた紙を両手で持って開き、他の記事には目もくれず、言われた通りの箇所を凝視する。
一面頭のものに比べれば見出しは小さく、現場の写真も掲載されてはいなかったが、 それでもわたしが必要な情報を拾い上げるには充分過ぎる量の文章が書かれている。内容を要約すれば、こういうことだ。

元々霧ノ埼の山周辺は、市の名の由来にもなっているように霧が発生しやすく、昔から何度か事故は起きていたという。 故に速度制限も厳しく、山道をよく利用する運転手は細心の注意を払っているらしいのだが、今回は軽自動車で都会から来ていた若者が、反対車線のカーブでハンドリングを誤りスリップ、一旦山の斜面に当たり、跳ね返った車体が丁度同じカーブに差し掛かっていたバスの右側面に衝突。その勢いで柵を破り、崖下に転落した。
雨が降っていたため、幸いにもガソリンへの引火、及び爆発は免れた。しかし転落時の衝撃で、 乗客の夢埼菊依(24)、松原紗智(20)の二名が死亡、バスの運転手他乗客三名が重軽傷を負った。なお、若者の方は軽傷。 霧ノ埼では実に数年ぶりの痛ましい事故となった――

「…………まさ、か」

新聞が、手から落ちてばさりと乾いた音を立てる。
わたしの脳裏で繰り返し再生される一行。死亡、死亡、死亡……死んだ? 紗智が? あの、紗智が?



誰の……せいで?



あの時わたしが掴めなかった手は、彼女自身は、もう決して掬い上げることが、できないのだ。
二度と、届かない。柔らかで他人を和ませるような、わたし達にいつも向けてくれた優しい笑顔は、見られない。

「……嘘だ」

視界が滲む。部屋の白い景色が、淡い光が、全てがじわりとぼやけていく。
頬を伝いぼろぼろこぼれる生温い雫を拭うこともせず、わたしは叫んだ。
夢であってほしい。こんなどうしようもない現実なんて、嘘なんだと。 情けないくらい表情を歪めて泣きじゃくるわたしを見かねて、何事もなかったかのように現れて「ごめんね」と言ってもらいたかった。
たったひとこと。ひとことでいい。他には望まない。だから、だから――

「ぐ、ぅあっ!」

渾身の力で起き上がる。全身を苛む痛みは激しさを増したが、気合だけで無視した。動かないわけじゃない。なら大丈夫だ。
五日も眠り続けていたからだろう、左腕には点滴の針が刺さっていて、栄養剤らしき液体の入った袋をぶら下げたキャスター付きの台が置かれている。 それを支えに一歩踏み出し、病室の扉を開ける。途端、廊下を歩く人間の視線がこちらに向けられた。 驚いた顔を浮かべる患者や外来の見舞い客を尻目に、人の流れに従ってわたしはエレベーターを目指す。
身体が、重い。本調子なら二分も掛からず歩ける距離が、こんなにも遠いとは思わなかった。

「ちょっと、白坂さん!?」

異変に気付いたのか、さっきの看護師が正面から走ってくる。点滴台と腕を掴まれ、それだけでわたしは動けなくなってしまう。
振り払おうと抵抗するも、予想以上に押さえる力が強く……いや、わたしの力が弱過ぎて、先には進めない。

「どうしてこんな無茶をしてるんですか!」
「紗智に……紗智に会って、確かめないと……!」
「病室まで戻ってください! あなただって軽い怪我じゃないんですよ!?」
「わたしのことなんて、どうでもいいっ!」

もう、縋るしかなかった。
震える足で立ち、空いている片手で看護師の肩を精一杯握り締めて、恥も外聞もなく懇願するしかなかった。
お願いだから行かせてくれと。松原紗智の居場所を教えてくれと。それまでは、絶対病室になんて戻らない、と。
でも、

「……ごめんなさい。そういうことは、私の一存では決められません。それに……」
「なら、誰に言えばいい? 医者か? お偉いさんか?」
「落ち着いてください。落ち着いて、よく聞いてください」

逆に肩を押さえられる。
看護師の、真剣な表情がそこにはあった。

「松原紗智さんの遺体は、臨終の後、警察の許可が下りてからご両親が葬儀のために搬送しました」
「え……?」
「ですから、ここには既にいないんです。式も、終えたと聞きました」

その言葉を、認めたくない。
だって、いくらなんでも―― ひどすぎる、じゃないか。
わたしは彼女を助けられなかったどころか、最期の瞬間にも立ち会えなかっただなんて。

「あ、ぁあ、ああぁ……!」

膝から力が抜け、床に手を付く。
全ての事実を受け入れた心が、ひび割れそうなほどに軋んでいた。
……そこからの記憶は曖昧だ。気付けば病室に連れ戻され、恐ろしいほどの無力感と絶望感で何もする気が起きず、ずっと横になって過ごした。 大樹が一度訪れたらしいが、あまりよく覚えていない。無表情なわたしを見てどんなことを言ったのか、 結局わからないままあいつは先に退院して、それからはこちらが避け続けた。
思えば多少怪我の度合いが軽かったとはいえ、大樹もほとんど同じ立場なのに。泣き言も漏らさず、 わたしをどうにか立ち直らせようと必死に頑張っていたのかもしれない。
今も昔も、友人だからという単純な理由で追いかけ回して……本当に、お節介焼きにも程がある。

かつて、紗智に「蒼夏は何でも背負い過ぎだよ」と言われたことがあった。
幼い頃に母が亡くなってからだろうか。仕事人間で家事のできない父と二人きりになり、 子供心に喪ったものの大きさを理解して以来、わたしは自らの弱さをはっきりと自覚した。
人は誰しも、失うことを恐れる。それが大切な存在であればあるほど、刻まれる傷も深くなる。
だから必死に手のひらの水をこぼさないよう足掻いて生きてきた。全部背負って、抱え切れるならいいと思った。
けれどもまたかけがえのないものを失って、苦しくて、辛くて、悲しくて、わたしはそういうものを受け入れるのが怖くなったのだ。
いわば大樹は、わたしを糾弾する告発者だった。紗智の死を責めようとする、過去の呪いだった。
それが何より恐ろしくて、会いたくなかった。

……わたしは、子供だったんだ。
現実を認めたくないと駄々をこねる、馬鹿な子供だったんだ。
そんな自分が今更都合良く全てを認めるのは、遅過ぎるとわかってる。
わかってる、けど……ここでちゃんと振り返れなかったら、きっとわたしは一生紗智に顔向けできない。



―― 紗智。この手は届かなかったよ。それでも……いい?



「………………」

静かに手紙を閉じる。
テーブルの上に置き、こちらが口を開くまで、大樹は何も言わずにいてくれた。

「……すまなかった。そして、ありがとう。陳腐だとは思うが、これ以上の言葉は見つからない」
「俺も同じ言葉をそっくり返す。すまなかった。そして、ありがとう」

せめてわたしと大樹の想いだけでも、紗智に届くのなら。
そう、願わずにはいられなかった。



ああ……久しぶりに、泣いたな。





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