思えば、ここまで足を運んだのは久しぶりだ。 最近の現場は薄霧の中でも西寄り、駅からもさほど離れていない場所で、あの辺りの賑わいと比べれば、今自分がいるところとは天と地ほどの差がある。 長閑と言えば聞こえはいいだろう。しかし、ざっと眺めた限り、人の姿が全く見当たらない。 よく都会の人間は田舎暮らしに憧れる、だなんて話を聞くものだが、少しでも都心部から離れた地域に住む者が味わう不便さを知ったなら、 二度とそんな戯言は口にできなくなるはずだ。一番近いコンビニまでが片道徒歩一時間弱となると、 ほとんど畑しかないような土地が過疎になっていくのも納得できる。俺だって、今日からこの辺で生活しろと言われたら難色を示す。 「……それなのに、何を思って畑仕事を始めたのか」 本当につい先日知った事実を呟き、苦笑した。 全く以ってあいつらしい。変に頑固で、これと決めたらやり通す、ある意味難儀な、だが美徳でもある性格。 人間、根っこの部分は滅多に変わるものじゃないらしいが―― なるほど、確かにそうかもしれない。 蒼夏は蒼夏。そのことが実感できて、俺の決意はさらに揺るがなくなったのだから。 ……偶然あいつの顔を見て以来、仕事の合間や空き時間を使って居所を探し始めたものの、そもそもの手掛かりがまず致命的なまでに少なかった。 服装からして旅行中とは考え難く、単車で移動していたことを考えても、遠くない範囲に住んでいる可能性は高い。 前籠に放り込んでいた荷物は小さかったし、おそらく簡単な買い物が目的だったのだろう。 極度の寒がりというわけではなかったはずだから、きっちり着込んでいたのは運転中に受ける風を避けるため。 ちょっとそこまで、程度なら準備を万端にして単車まで使う必要はない。 そして、走り去っていった方向は、東側だった。つまり小物を買うのにわざわざ単車を乗り回さなければいけないほどの距離が、 蒼夏の家と俺達が偶然出会った場所の間にあるということだ。 霧ノ埼市の東、一面畑しか見当たらないような区域に住んでいる人間はかなり少ない。 それも年配の者が大半で、蒼夏ほど若い奴はもうほとんどいないと言ってもいい、と以前信一に聞いたことがあった。 正確には、自分くらい若い人なんてもう全然、というような内容だったのだが、ともかくそこまでわかればある程度の目星は付けられる。 土地が広い分、虱潰しに探すのはかなり大変だが承知の上だ。休日を何日使っても、必ず見つけ出すつもりでいた。 しかし、 「蒼夏さん? 知ってますよ」 信一がこっちに来た時、駄目元で訊ねてみたらそんな答えが返ってきて、思わずあいつの前で間抜けな顔を晒してしまった。 あいつが昔からの夢だった古本屋を始められたこと、採算度外視で霧ノ埼の端っこに店を構えたことは、直接耳にして知っている。 故にもしかしたら、と淡い期待を抱いてはいたが、まさか一発で的中するとは想像もしておらず、聞いた瞬間我を忘れ、 信一の肩を掴みがくがく揺すって「本当か!?」と問い詰めたくらいには驚いた。 まあ、思い返せば蒼夏らしい人物の話も耳にした覚えがある。男みたいな口調で、酒飲みの宴会好き。そこは相変わらずだ。 とにかく蒼夏は昔からやけに強かった。父親に鍛えられたと言っていたが、それを聞いたのが二十歳の時だから、どう考えても未成年で飲酒していたことになる。 しかも止めるべき親が飲ませてる分、余計性質が悪い。 付き合わされる信一や他の人間も大変だな、と頬を緩ませ、ふと自分の心が随分凪いでいるのを感じた。 ……これは、俺も目を背け続けてきた過去に関わる問題だ。 あれから一ヶ月の間は、紗智のことを思い出す度に涙が溢れて仕方なかった。 半年もすれば多少は落ち着いたものの、彼女がもういないのだと日常の最中に認識しては、鈍い痛みを胸に抱えていた。 それは年を経る毎に小さく、弱くなっていったが、いざ正面切って向き合うとなれば、当時の感情をまた取り戻してしまうのではないかと考えていたのだ。 しかし、予想に反して足取りはいつも通り。心臓も無駄に跳ねない。 不思議なくらいに、恐ろしくない。 「……ようやく、本当の意味で向き合えたのかもしれないな」 蒼夏の情けない姿を見て、長らく閉じたままでいた引き出しを開けた瞬間から、俺は覚悟を決められた。 決断が鈍らずここまで来れたのは、紗智が背中を押してくれているからだと信じたい。 未舗装の道に苦戦しながらも何とか目的の家屋を発見し、邪魔にならないところに車を止める。 エンジンを切り、鍵は掛けずに降りて玄関まで向かうと、手書きのあまり上手くない字で『本日休業』の札が扉に貼られていた。 繰り返し使っているからか、陽に焼けてよれよれになっているのがどうにも間抜けで、つい笑ってしまう。 ……全く、これじゃ来る客も来ないんじゃないのか。 呼び鈴はないかと探してみたが、それらしいものは見当たらない。仕方なくノックをするも返事はなく、 もしや何かあったのかと心配し始めたところで奥から頭を思い切り地面にぶつけたような鈍い音が聞こえてきた。 しばらくしてから、目の前の扉がそっと開けられる。 「す、すみません、着替えてたらノックの音がしたので慌てて行こうとして……」 「転んだのか……。だいたい何で今になって着替えてるんだ」 「いや、すっごい真面目な用件みたいでしたし、さすがに普段着で付いていくのもちょっとまずいかなあと途中で思いまして、 マシな服を箪笥引っ繰り返して探してたらこんな時間に」 「……もういい。色々言おうと思ったが、馬鹿らしくなってきた」 額に痛々しいこぶを作った信一の、言い訳にもなっていない状況説明に毒気を抜かれて、俺は溜め息を吐いた。 蒼夏の家への案内と仲介役を頼んだんだが……選択、間違っただろうか。 とはいえ他に頼れる相手もいない。まあ、大事なところはちゃんとしてくれる奴だし、問題ないだろう。 「ここからはどれくらいの距離がある?」 「そうですね……徒歩で三十分、自転車なら十五、六分くらいですから、車なら十分程度でしょうか」 「……こっちが車で来たとは言ってなかったと思うが」 「エンジン音が聞こえてたんですよ。それに、薄霧からだと結構遠いですしね」 「相変わらず、ぼんやりしてるんだか鋭いんだかわからないな、お前は」 「あはは、褒め言葉として受け取っておきます」 そう言うと信一は玄関の鍵を閉め、 「じゃあ行きましょうか。どうして蒼夏さんに話があるのか、説明は車の中でしてくれるんですよね?」 「ああ。全部は言えないがな、付き合わせる以上、最低限のことは話そう」 「わかりました。それで充分です」 人の良い、柔らかな笑みと共に頷いた。 自分以外の人間と会うことがそもそも珍しいこの辺りで、自動車のエンジン音を耳にする機会は、一日に二度あるかないかだ。 舗装された道からは遠い家の前をわざわざ通るような物好きはいないし、いたとしても大抵の場合そのまま走り去っていく。 だから、突然近付いてきて家の隣で途切れたその音が気になって、わたしは飲みかけの麦茶をテーブルに置き立ち上がった。 ラフな服装だが、人前に出る分には支障ない。発信源は玄関側だったので少し足早に向かうと、丁度来客らしき人影が私の名前を呼び出した。 聞き覚えのあるその声に、どうしたんだろうか、と思う。 疑問を抱きながらも、警戒心を持たずに引き戸を開け―― そしてわたしは硬直した。 「蒼夏」 「大……樹」 思考が働くなった一瞬を見計らって、大樹が距離を詰めてくる。 無意識のうちに足が下がった。そんな私を彼は感情の窺い難い顔で見上げ、すっと俯く。 鉛でも込められているかのような重い息を口から漏らし、 「話がある。時間は平気か?」 「……お前と話すことなんてない」 「残念ながらこっちにはあるんだよ。邪魔するぞ」 「入るな! ……頼む、帰ってくれ。帰って、くれ」 「それであっさり引き下がるくらいなら初めから来ない。今日は何が何でも話を聞いてもらう。あいつだって―― 」 「その名前を、口にするな……っ!」 大樹の言葉を聞いた途端、頭に血が昇った。 自分でも止められないまま、手のひらに爪が食い込むまで握り締めた拳を振りかぶり、頬めがけて殴りかかる。 当たれば痛いだろうに、何故か、大樹は避けようとしなかった。……もしかしたらわたしを昔と変わらない非力な女性として見ているのかもしれないが、 だとすれば大きな勘違いだ。畑仕事にはかなりの体力と膂力が要求される。大学生の頃より一回り腕が太くなった今のわたしは、 単純な力だけで見れば下手な成人男性よりもよほど強いだろう。本気で殴ってしまったら、相手はおそらく無事で済まない。そしてこの拳に、手加減はなかった。 けれど、畳まれた肘が伸び、残り数センチで直撃する、というところで、横から出てきた手が私の腕を掴んで押さえる。 「ちょっと蒼夏さん、ストップ!」 「っ!」 「うわ、本当に止められるとは思わなかった……じゃなくて、事情はともかく、いきなり殴るのは駄目です。 大樹さんも、危ないんだからちゃんと避けましょうよ。自分は殴られても仕方ないんだー、とか考えてました?」 「あ、いや、まあ」 「蒼夏さん、私は大樹さんにここまでの案内と仲介役を頼まれて来ました。お二人がどういう関係なのか、 軽く教えてもらっただけなのでよくはわかってませんけど、とりあえず話を聞いてみてください。どうこうするのはそれからってことで」 こっちが反論する暇もなく、いいですね、と視線で問う信一くんにはどこか有無を言わせぬ迫力があった。 流されるまま背を押され、居間まで連れてかれる。その後ろに大樹も続き、さり気なく部屋を見回して「意外に片付いているんだな」と呟いた。 ……久しぶりに会って早々、いったいわたしを何だと思ってるんだ。 「今日はビールの缶も転がってませんね」 「信一くん、余計なことは言わなくていい」 「……変わってないな、お前は」 呆れた声を耳にして、わたしは再び殴りたい衝動に駆られたがどうにか自制する。 食器棚からコップを二つ取り出し、冷蔵庫の麦茶をもう片手に持ってテーブルまで戻る。 並んでわたしの向かいに座った二人へ薄茶色の水を注いだコップを渡すと、礼の言葉と共にまず信一くんが、すぐ後に大樹が口を付けた。 よく冷えた麦茶は、冬に飲むにはあまりおいしいものじゃない。しかし普段来客が皆無なのが災いして、他に出せるのは酒しかなかったりする。 さすがにそれはまずいだろう。だから代わりに、テーブルの隅に置いてあったリモコンで暖房のスイッチを入れ、他の部屋や廊下に繋がる引き戸を全て閉める。 これでしばらく待てば多少は暖かくなるはずだ。 どかりと些か乱暴に腰を下ろし、改めてわたしは大樹の顔を見た。 「それで、わざわざ信一くんを使ってまで何を言いに来た?」 「おおよそ見当は付いてるんじゃないのか?」 「………………」 「あの事故以来、お前は俺と一切口を利かなくなった。顔を合わせても無視するばかりで、卒業後は行き先も告げず引っ越したから、 結局話す機会を失ってしまったな。とはいえ俺も、お前を避けていた部分はあった。互いに逃げてたのは確かだ」 「だから……だから、何だ?」 「もう終わりにするぞ。俺達がこうして疎遠になっていることを、紗智は決して望まない」 「どうして!」 力任せにテーブルを両手で叩く。派手な乾いた音が響き、信一くんが肩を微かに強張らせた。 「どうして、そんなことが断言できる!?」 「あいつはそういう人間だったろう? 自分はそっちのけで他人を心配する馬鹿だった」 「でも……っ!」 「時間が経てば、お前だって忘れられるのかもしれない。五年後、あるいは十年後、また昔のように俺達は友人の関係に戻れるのかもしれない。 だが、俺は待つのが嫌になったんだ。先日偶然会った時、あんな顔をしたお前を見て、ようやく心を決められた」 大樹はそう言って、おもむろに懐へ手を入れる。 何かを探り当て、それをわたしの前に差し出した。 「……封筒?」 置かれたのは、特別珍しくもない白色の洋型封筒だ。けれども、わたしはその表面に書かれた文字に、釘付けになった。 『白坂蒼夏様へ』という簡素な、少し丸い筆跡には、見覚えがある。 ―― 長らく目にすることのなかった、懐かしい、彼女の字。 「これがわざわざ信一に頼み込んでまで来た理由だ」 「大樹、どこでこれを」 「その話をする前に、言っておきたいことがある」 封筒に触れた手が震え、心臓は鼓動を速めてわたしの息を乱れさせた。 ずっと忘れられなかった、忘れたかった過去がここにある。 今すぐにでも中身に目を通したい気持ちを抑え、わたしは頷いた。 見る前に聞かねばならないことなのだと感じたから。 「俺はずっと、紗智の最期を看取れなかったなかったことを悔やんできた。あの時隣にいたお前の後悔は、きっと俺以上だろう。 自分が助けられなかったせいであいつは死んだんじゃないのか、そう悩み続けてきたんだと思う」 「……ああ」 「そして、俺にはお前を赦すことができない。どんな言葉を掛けても、一緒に悔やんでも、俺じゃ駄目なんだよ」 何度も何度も、過去に戻れるのなら、やり直せるのならと考えた。 夢ならば醒めてほしかったし、他の現実が選べるならわたしは何だってするだろう。 いくら幸せな未来を想像したところで、結局どうしようもないのは理解している。 それでもわたしは、あの時から無力感を抱えたまま生きてきた。そんなことはないとわかっていても、どうして助けてくれなかったの、 と繰り返し問い詰める紗智の姿を夢に見て、深夜に魘されて起きたこともあった。 彼女と過ごした日々を思い出す度、未だにわたしの心は固くなる。……すごく、辛かった。苦しかった。 「紗智はふたつの手紙を残した。ひとつはここにあるお前宛てのもの、もうひとつは、俺に宛てられたものだ」 「……それは、読んだのか?」 「直接受け取ったわけじゃないが、その場で読んでくれってことだったからな。お前宛てのは、こっちの手紙に期を見計らって渡してほしいと書いてあった。 できれば渡さずにいられるといいとも」 「そうか。……全く、わたしは紗智に迷惑を掛けっぱなしだな」 「あいつなら、気にしてないよとでも言うだろうさ。さあ、読んでみてくれ」 軽く茶化した大樹のひとことに苦笑し、そっと封筒を手に取った。 裏の糊留めを静かに剥がし、中に指を入れる。摘まんで抜き出した二つ折りの紙は一枚のみ。軽いな、と思う。 けれど眼前にかざし、開こうとしたところで何故かわたしの指は動きを止めた。 ぽとり、手紙がテーブルの上に落ちる。 「蒼夏……震えてるのか?」 怖かった。真実を知ることが、どうしようもなく恐ろしかった。 わたしの手は意思に反して揺れ、拾い上げようとした手紙を弾いてしまう。 震えは収まらず、やがて全身に伝播して、思い通りにならない自分自身の情けなさに涙が溢れてくる。 慌てて袖で雫を拭い、何とか取り繕おうと首を横に振った時、先ほどまで沈黙を守っていた信一くんが不意に腰を上げた。 向かいから伸びてきた手が、紙を掴む。 「私は部外者だから、お二人がどんな問題を抱えて、悩んできてるのかはわかりません。 でも、偉そうに聞こえるかもしれないですけど……目を背けたままでは、真っ直ぐ歩けません。 苦しいこととか辛いこととか、そういうものも全部飲み込んで、ちゃんと前を見た方がいいんです。震えて手紙が持てないなら、私が開きます。 泣いてるのを見られたくないなら、読んでる間は部屋を出てます。だから、」 「……確かに、偉そうな言葉だな」 「はい。図々しい物言いをしてしまって、すみません」 しゅんと項垂れた信一くんからは、それこそ全く関係ないことなのに必死さが感じられる。 その姿が、在りし日の彼女と重なって―― いつの間にか、身体の震えは鎮まっていた。 「でも、わたしや大樹のために動いてくれた君の言葉なら、受け入れたいと思う」 覚悟をしよう。 何もかもを、ありのままに受け入れる覚悟を。 閉じ込めていた記憶の箱ごと、わたしは二つ折りの手紙を開いた。 back|index|next |