わたしが所持する交通手段は、徒歩を除けばふたつある。
ひとつは自宅の畑で採れた野菜を運ぶために使うトラック。もうひとつは、個人的な用事がある時に利用する単車だ。
いくら畑を持っているからといって、全ての食糧を自給自足できるわけではない。野菜以外のものは定期的に買ってくる必要があるし、勿論他の―― 日用品に限らず、人間的な生活をするための諸々だって無くなり次第補充しなければいけない。
そういう意味で、霧ノ埼は暮らし難い場所なのだろう。
薄霧の方ならまだしも、見渡す限り緑か土の色しかないこの辺りでは何より不便さが際立つ。
例えばドラマで都会の人間が当たり前のように通うコンビニも、スーパーも、歩いて目指そうものなら悠に片道一時間以上は掛かってしまう。舗装された道路すらないのだから、人口が減るのも当然と言えば当然だった。

「本当に、難儀なもんだ」

普段は家の横に雨ざらし状態で置いてある(一応ちょこちょこ点検はしている)単車を駆り、凹凸のない綺麗なアスファルトとは行かないまでもある程度は均された道まで出て、そこから飛ばして三十分強。
辿り着いた薄霧の雑然とした街並みの中、さっさと目的の買い物を済ませ、わたしは閑散とした喫茶店に寄った。
別に理由はない。自分がそういう柄じゃないことも知っている。ただ、何となくコーヒーを飲みたい気分になっただけだ。
初めて入ったその店は、客が見当たらない分程々に落ち着いていて、注文を聞きに来た店員も物静かながらちゃんと礼儀ができていた。頼んだのは最も安価なブレンド。五分も経たず運ばれてきたカップを手に取り、軽く冷まして口を付けると、適度な熱さと苦味を感じた。正直に言えば、悪くない。
メニューを見た限り軽食の類も取り扱っているようで、また機会があれば次は昼食を摂りに来るのもいいかもしれない、と思った。さらに一口飲み、ほうと熱の篭もった息を吐く。冬のこの時期、身体を芯から温めてくれるコーヒーは、最高の嗜好品だ。

「……そういえば、あいつもこれが好きだったな」

ふと、昇り行く湯気を眺めてわたしはとある人物を脳裏に浮かべた。
昔と比べ多少歳を取った今でこそ、この独特の味が楽しめるようになったが、大学生の頃まではブラックなんて人類の敵だと公言していた。そんなわたしに「いずれお前にも良さがわかるようになるさ」と苦笑を向けた男。異性ながら恋愛感情を抱くこともなく、普通に友人として付き合い、学科も違うのに何かと顔を合わせてはくだらない話を交わした相手。
決して賢人ではなかった。ただ、他人の悩みを見透かすのが嫌味なほど上手く、不器用な面もあったものの、やたら面倒見のいい奴だった。後輩には慕われていたらしいがその辺はあまり聞いていない。自分のことを語るのが苦手だと言っていた。

……今は、何をしているのだろうか。

一瞬でもそう考えてしまったわたし自身が嫌で、残りのコーヒーを一気に飲み干した。
窓際に座っていたからか、いつの間にか湯気が立たないくらい冷めてしまっていて、すんなりと喉を通った。
胃に落ちて沈む液体の流れを感じ、一息吐く。コーヒーのものではない苦い何かがわたしの思考を満たしていた。

例え機会が訪れたとしても、会いたいとは思わない。
定職には就いているだろうが、どこでどんな仕事をしているのか、もうそんなことさえもわからないわたしには、友人を語る資格もないな、と失笑混じりの吐息を漏らし、勘定を済ませるために立ち上がる。
ブレンド一杯三百円、この値段であの味なら充分安い。

「御馳走様でした。美味しかったです」

レジで釣り銭を受け取り、カウンターのマスターらしき男性に声を掛ける。
見た感じでは還暦を過ぎた、如何にも老紳士然としたその人物は、温和な表情を浮かべて小さく頷いた。

外に出ると、冬の到来を嫌が応にも実感させられる寒風が全身を叩く。
単車で来るからにはきっちり防寒しておかないと話にならないのでさして辛くもなかったが、メットを被っていない分、耳やら顔やらが冷えて仕方なかった。煙る息が尾を引くのを眺めながら、単車が置いてある場所を目指す。
片手に持った荷物は軽く、家さえ近ければ徒歩で買い物に来ているところだ。
どうしても必要だったからわざわざ遠出をしたのだが、今更他と一緒に纏めて買った方がよかったかもしれないと後悔した。
そして、無事に盗まれることもなく停められていた単車に鍵を差し込み捻り、前籠に手荷物を放り入れて、



「……蒼、夏?」



振り返った。わたしを呼ぶその声が誰のものか、理解しながらも認めたくなくて、半ば祈るような心持ちで。
しかし、視界に入った声の主が予想通りの人物だったことを知り、幻聴かもしれないという可能性はそこで消えた。
昔より筋肉質になり、髭も目立つが、見間違えるはずがない。
……長らく会っていないとはいえ、わたしが彼を忘れたことは、一日たりとてなかったのだから。

田中大樹。
二度と会うまいと、そう思っていたのに―― 霧ノ埼に、来ていたのか。

「……っ!」

冷めた思考とは逆に、身体は無意識のうちに動き出していた。
スタンドを蹴り飛ばすようにして上げ、無言で、その場から走り去る。……逃げた、と言ってもいい。
おそらく大樹の目にはそう映っただろう。事実、わたしはあいつから少しでも早く離れたかった。
同じ場にいれば、顔を合わせればまず『あのこと』を問われると簡単に想像できた。
それに対し、わたしは答える言葉を持っていない。答えたくも、ない。
絶対追ってこられないところまで来て、ふと顔や頬、耳が随分冷たくなっていることに気付いた。

「……そういえば、ヘルメットを着け忘れていたな」

どれだけ自分が混乱していたのかよくわかる。その滑稽さに、知らず自嘲の笑みがこぼれた。
道路脇に停車し、座席下からヘルメットを取り出して被る。
再び車の流れに戻り、薄霧の区域を抜けた辺りで、少し余計なことを考えた。

今までの人生で一番楽しかった時期は、と訊かれれば、迷わずわたしは大学生の頃と言うだろう。
二人の親友に囲まれ、おぼろげな将来を見据えながらも能天気に日々を過ごし、時折馬鹿をやっては笑い合っていた。
だが、どんなに輝かしい時間も、いずれ終わりを迎える。わたしに……いや、わたし達にとって、それは最悪の形だった。
非情で残酷。現実なんて、そんなものだ。二十歳を越して、わたしはようやく学んだ。

「っ、と」

石か何かに引っ掛かり、僅かに前輪が跳ねて一瞬バランスを崩しかける。
我に返りハンドルをしっかりと握って制御した。心の中で冷や汗を掻く。
―― 全く、考え事をしてたら事故りました、だなんて、冗談にもならない。
後ろ向きな気持ちは連鎖する。暗いままでいるのは止めようと思い、頭を振って振り払った。
その程度で大樹と出会った衝撃が吹き飛んでくれるわけもないが、何もしないよりは遙かにいい。

「………………」

帰ったら、すぐに寝よう。
次に起きた時、この憂鬱な気分ごと忘れていることを願って。










踏み出しかけた足を止め、俺は茫然と遠ざかっていく後ろ姿を眺めていた。
近くで聞いた時は耳障りだったエンジン音も、街の喧噪に紛れてしまうと逆に惜しくすら感じる。
それほどまでに彼女との出会いは唐突で、また少なからず求めていたものでもあった。

「蒼夏……」

数年来に見た友人は、肌が焼けてスタイルも良くなって、けれど根本的な部分は何ひとつ変わっていなかった。
だが、俺達の関係はどうしようもなく壊れている。あいつは連絡先も教えず、そもそもどんな仕事をして暮らしているのかもわからなくて、住所も電話番号も知らない以上、こちらの現状を伝えることもできなかった。
……俺を認めた瞬間、蒼夏が浮かべた表情は、酷く歪んでいて。話すことなど、語り合うことなどないと、全身で拒絶していた。
逃げるように走り去ったのだから明白だ。未だにあいつは俺を避けている。この口から放たれる言葉を、恐れている。
ならば、こんな風になってしまった原因は、何か。

(……わかってるさ)

蒼夏は過去に縛られ続けている。以前俺が見つけた簡単な答えにさえ気付けないまま、思い出を閉じ込めている。
『あいつ』はそんなこと、望んじゃいなかったのに。蒼夏を不幸にしたくて俺に全てを託したわけじゃなかったのに。
迷う暇があるなら、渡してしまえばよかったのだ。他ならぬあの時、悲しみと痛みに打ちひしがれていた彼女に。
だから間違いがあるというのなら、それは、俺自身も過去を忌避してきたことだろう。
どんなに取り繕っても、傷は完全に消えちゃくれなかった。今も思い出す度、胸の辺りが小さく軋む。

まるで呪いだ、と苦笑した。
彼女が最も望まない形で、俺と蒼夏の中にはあの姿が刻まれている。

「なあ紗智。間に合うと思うか?」

一人、応える者がいないのを承知で呟く。
ただあいつなら、きっと「大丈夫」と言ってくれるだろう。そういう奴だ。
そういう奴だからこそこうなってしまっているというのは、皮肉以外の何物でもないが――

「決断するには、いい日だ」

寒空の下、どことなく晴れやかな心持ちで仕事場へと戻った。
いつも通り夜が更けるまで働き、寄り道もせず帰宅して、妻も娘も眠りに就いた静かな家の中を歩く。
起こさないよう気を付けながら、風呂を済ませ自室の机の前に座る。
引き出しをそっと手前に動かすと、雑多な物の奥にふたつの封筒が仕舞われていた。
そのうち片方を取り、既に開いた口から中身を抜く。『田中大樹様へ』と書かれた手紙は、かつて幾度も目を通したものだ。
一語一句とまではいかないが、内容はほとんど覚えている。女らしい、少し丸い筆跡の文章。
それを机上に置き、俺はひっそりと薄闇に染まったフォトスタンドを見やった。
自分と、蒼夏と……もう一人、快活そうに屈託なく笑う女性が写っている。

松原紗智。
彼女が、全ての始まりだ。

「すまん。お前の願いを少し無碍にすることになる」

もう片方、封を切られていない側は、蒼夏に宛てられている。ずっと俺が保管していたものだ。
何が記されてるのかはわからない。ただ、想像通りなら、紗智らしい言葉が残されているのだろう。
渡さずにいられればいいと思っていた。時間が彼女を癒してくれれば、と。しかし、

(あんな顔を見たら、放っておけん)

―― お互い、逃げるのは止めにしよう。
全てが風化するのを待つにはあまりにも長過ぎる。そして、俺はそこまで気楽な性格をしていない。

「……この手紙、渡すぞ」

おそらく、蒼夏は霧ノ埼近辺に住んでいる。
日数を掛ければ、必ず居所は探り当てられるはずだ。
その時になって……決断が鈍らなければいいと、思った。





indexnext