最初に見た時の印象は、陰気な子、でした。
 目を合わせても逸らす。問いかけてもろくに答えない。もし教室の片隅にいたとしても、きっと無視してしまうような、そういう子でした。
 わたしと透さんの、全ての始まり。
 今でも、褪せることなく、記憶に残っています。










 窓の外へと落ちた雀――透さんが陽と名付けた小鳥は、結局その場所に埋めました。
 言葉にならない叫びと共に、左手を窓の縁に付き、靴も履いてない足で境を飛び越えて。
 透さんは、そっと小さな身体を拾い上げたけれど……一目見て、ああ、もう動かないんだな、とわかりました。
 魂が抜ける。
 そんな表現がぴったりなほど、だらりと全身が弛緩していたのです。
 命のないものは、とても軽いと聞きます。
 わたしもかつて祖父が亡くなった時、握った手の軽さと脆さに驚きました。
 何かを。
 慰めや励ましの言葉を掛けようかとも思いました。
 でも、両手に陽を乗せ、こちらに背を向けて俯く透さんを前にすると、唇は動かなくて。
 怖かった。
 割れてしまいそうで、怖かったのです。
 だから、努めて声を平坦にし、わたしは言いました。

「……せめて、お墓を作ってあげましょう」

 そう切り出した瞬間、振り向いた透さんの瞳は、酷く無感情でした。
 ――本当は、もうずっと昔から。
 そんな日が来るのではないかと、わたしは、わかっていたのかもしれません。

 庭いじりに使っているシャベルで亡骸を埋め、祈る。
 失われた命に対してできることと言えば、その程度です。
 墓代わりの小山に手を合わせていた透さんは、ゆっくり立ち上がり、土で汚れた指もそのままに、一足飛びで部屋に戻りました。
 わたしは慌てて流し場に向かい、濡らしたタオルを取りに行きます。開けっぱなしの扉から室内に身を滑らせると、いつの間にか椅子に座った透さんと目が合いました。
 一瞬だけ。
 揺らぎ、視線が彷徨い、それを隠すように顔を伏せ、

「ごめん。ちょっと、一人にさせて」
「……わかりました。濡れタオル、置いておきますから、汚れた手を拭いてくださいね」

 扉をぱたんと閉め、しばらくわたしはそこに立ち尽くしました。
 ノブを捻って押し込んで、数歩で届く距離。
 なのに、酷く遠い。
 こんな時に何も言えない自分が嫌で、悔しくて、けれど踏み出す勇気は持てませんでした。
 だって――これは。
 今の距離、わたしと透さんの関係は。
 他の誰でもない、わたしの意思で定まったものだから。

「……臆病な女」

 自虐の言葉も、今は虚しく響きました。
 先ほどより重い足取りで、リビングへ。
 片付けた食器を洗わなきゃ、夕食の準備もしなきゃ、と思うものの、身体は動いてくれません。
 力が抜けて、ソファに腰を下ろします。

「透さん」

 わたしの家は、本家の人の側付きになることが多かったそうです。父もそうで、小学校を卒業するまではわたしも本家で生活していました。
 本家の庭は裕福さに比例した広さでした。町の公園なんかとは比べ物にならないほどで、子供の遊び場としても最高の場所だったのです。
 日中勤める庭師さんや、他の使用人さんに迷惑を掛けない程度に、わたしは毎日庭を探検していました。
 大人を介さず、透さんと再会したのはそんな折。
 屋敷の影でぼんやり空を見つめる、男の子。
 実を言うと、最初は無視して通り過ぎたのです。
 でも、何故だか気になって、寂しそうな顔が頭から離れなくて、一度来た道を戻りました。
 一緒に遊ぼう。
 そう告げて差し出したわたしの手を、しばらく不思議そうに眺めていたのを覚えています。

 あの頃どんな風に思っていたか、もうはっきりとは覚えていません。
 たぶん、初めは単なる哀れみだったのでしょう。
 可哀想だったから構ってあげた。
 けれどいつの間にか、弟みたいに感じて。
 放っておけないな、って思って。
 俯いてばかりいた透さんは、笑うと可愛くて。
 結構優しくて。
 意外と負けず嫌いで。
 知らなかったことが、いっぱいで。

 父が体調を崩し、本家を離れて療養することになって、わたしは透さんとの別れを余儀なくされました。
 出立は昼だったから、最後に顔も合わせられず。
 あの頃のわたしはただ、彼をひとりにしてしまうことが心配でした。
 学校の友達と別れるのも辛かったけど。
 子供心に、危うさを感じていたのかもしれません。
 きっと彼はまた、あんな風に俯きがちになってしまうんだろうな、と。

 ……わたしは。
 透さんの笑顔が、好きでした。
 だからこれはおそらく、一目惚れなのです。

 大きくなって一人で生きられるようになって、それまであまり両親にわがままを言わなかったわたしは、父に頼み込みました。
 雪草本家への渡り。
 父と同じ仕事に就きたいのだと、頭を下げました。
 透さんのお父さん――現雪草グループの頂点に立つ、道司さんと初めて会い、話をしたのもその時です。

 どうすれば、透さんの隣にいられるのか。
 考えた結果の、選択でした。

「……透さん」

 陽。
 翼が折れた、一羽の雀。
 あの子を透さんが拾ったのは偶然だけど、少なくともわたしはそう思っていたけれど、透さんは運命めいたものをそこに見たのでしょう。
 飛べない鳥。
 鳥籠の中で生きる鳥。
 それはある意味、透さんの似姿です。
 だからこそ同情もしたし、翼の傷が治って飛べるようになった時は、我が事のように喜んだ。
 本当は――透さんも、飛びたがっている。
 自由に、生きたいと思っている。
 朝、窓から外へ羽ばたいていくのを見送る透さんは、いつだって複雑そうな表情をしていました。
 嬉しくて。
 羨ましくて。
 どこか誇らしげで。
 そして、少しだけ憧れも混じった、諦めの色。

 透さんのことを理解してる、だなんて言うつもりはありません。
 目を逸らしているのは、わたしも同じ。
 本当は何もかも勘違いで、全部的外れかもしれなくて、こんなに近くにいても、わたしは透さんをちっともわかってないのかもしれなくて。
 だけど。
 それでも。
 あんな顔はしないでほしい。
 もっと笑ってほしい。
 ひとりぼっちだなんて思わないでほしい。
 幸せで、あってほしい。

 わたしは、透さんの側付きです。
 一番近い場所に行くために、そうであることを選びました。
 こうして一つ屋根の下で暮らして、お世話をして、共にいられればそれだけで満足でした。
 同じ、籠の中で。
 小さな世界で、ふたりきりなら。

「透さん……っ」

 果たしてそれは、真実、透さんの幸せを願ってのことだったのでしょうか。
 彼の祈りを知っていながら、自分が現状を変え得ることを理解していながら、何故動かなかったのか。
 卑怯な女。
 ずるいやりかたです。
 それに、全然前が見えてない。
 だからこうして、破綻したのです。

 しばらくすれば、透さんは日常に戻るでしょう。
 喪失の感情だって、いずれは薄まっていくでしょう。
 けれど、たった一羽の小鳥の死を、ずっと引きずって。
 ああ、そうなんだ、と、色々なことを諦めてしまう。
 透さんはそういう人です。
 後ろ向きで、すぐへこんで、誰にも話さず一人で抱える。
 優しくて、不器用で、弱いひと。
 そんなあなたを、わたしは好きで。
 胸が痛くて、息苦しくて、張り裂けそうで。

「――このままじゃ、いられない」

 膝に重ねた手指を解き、わたしは立ち上がりました。
 服の袖をまくり、流し場に置いたコーヒーカップとスプーンを洗います。洗剤を含んだスポンジで念入りに擦ってから泡を流し、丁寧に水を切って拭き取り、食器棚へ。
 濡れて冷えた左手に、きゅっと力を込めます。
 右手は胸元に当て、深呼吸。

 これからやることは、正しくないのかもしれません。
 誰にも望まれないことなのかも、しれません。
 わたしには、透さんの気持ちだってわからない。
 見えないものばかりです。
 けれど――それは決して、立ち止まっていい理由にはならないから。
 必要なのは、少しの勇気。
 嫌われたって構わない。

 いつかのように――あの日みたいに。
 わたしが、透さんを連れ出しましょう。
 自由になれる場所。
 籠の外に。










 里が部屋を出て、まず僕がしたのは、籠の扉を閉めることだった。
 金属の軋む音。弱々しい鳥の鳴き声にも思えて、眉を顰める。
 空っぽの鳥籠は、持ち上げてみると軽かった。
 捨てようか、という考えが脳裏を過ったけれど、結局同じところに戻した。
 そうしてしまえば本当に、あの子の不在を認めることになる。
 所詮小鳥だ。たまたま拾った雀一匹。
 いなくなったからって、死んじゃったからって、そんな重く受け止める人間、普通はいないだろう。
 でも、陽は僕にとって――すごく、すごく大事な存在だったんだ。
 あの子は夢で、憧れでもあった。
 一度は翼が折れ、籠の中で動き回るしかなかった陽が、自由に空を飛ぶ姿を見る度、僕はそこに自分を投影した。

 何にも縛られずいられたら。
 あんな風に、どこへだって行けるかもしれない。

 いつでも、逃がすことはできた。
 飛び立って、そのまま戻ってこないという選択肢も、陽は選べたはず。
 なのに必ず帰ってきて、大人しく籠に入ってくれる。
 ……僕はそのことに、充足感を得ていた。
 羨みながら、捕らえて、離さなかった。
 優しさに甘えたまま、最後まで。

 勝手な都合で縛り付けなければよかった。
 翼が治った時、強引にでも逃がしてやればよかった。
 自由に、してあげればよかった。
 僕の人生は、後悔してばっかりだ。
 飼い殺しで終わる日々。
 一番嫌う父と同じことを、僕はしてしまった。

「……何、やってるんだろう」

 家との関係も、里とのことも、陽に対してだって。
 全部中途半端だ。向き合ってすらいない。
 目を逸らしている。

(けど……それで、いいかな)

 辛いのは、苦しいのは、嫌だから。
 逃げ続けたとしても、生きてはいける。
 なるべく他人と関わらず。
 欲張りにもならず。
 ただ静かに、暮らしていけるなら――

「透さん」

 二回、ノックの音。
 僕を呼ぶ声が、扉の向こうから聞こえた。
 一人にさせてって言ったのに。
 返事をしないで無視しようと、反射的に浮きかけた腰を戻した直後――がちゃりとノブの辺りから音が響いた。
 きっちり鍵まで閉めた扉が、あっさり開く。

「え……? さ、里、どうやって」
「家の合鍵は一通り持ってますから」

 たぶんその時の僕は、かなり間抜けな顔をしてたと思う。
 普段の里ならまず考えられないような行動。
 というか、里でなくても考えられない、常識外れな踏み込み方だった。
 こんな状況なのに、何故かしてやったりという感じの笑みを見せ、後ろ手で扉を閉ざす。そうして部屋には、僕と里の二人きり。
 里が一歩を詰める。
 形容し難いプレッシャーめいたものを感じて、僕は椅子ごと下がった。
 さらに二歩、三歩、四歩、五歩。
 あっという間に端へ追い込まれる。

「透さん、実はわたし、とても怒ってまして」
「そ、それは今言わなきゃいけないこと?」
「はい」
「……さっき、一人にさせてって言ったよね」
「だからってわたしが透さんに従う理由はないですよ」
「………………里は、僕の側付きじゃなかったかな」
「そのことについて、話があって来たんです」

 不意打ちだった。
 どういう意図だろう。
 わからない。
 陽の死に打ちひしがれていた僕には、それを推測する心の余裕もなかった。

「本日を持ちまして、透さんの側付きを離れようかと思います」
「離れ……り、理由は?」
「情けないからです。飼っていた小鳥が死んだくらいで、この世の終わりみたいに落ち込むなんて、どれだけ心が弱いんですか」

 無茶苦茶な物言いだ。
 何も、こんな時に、そんなことを言わなくったって。
 じぃっと僕の目を見つめてくる里が嫌で、顔を横に向ける。
 けれどそれを里は許さなかった。
 緩やかに上げられた右手が、頬に触れる。
 あたたかい。
 人の熱だった。

「あなたは、弱い人です」
「………………」
「昔からそうでした。いろんなことが辛くて、でもそこから逃げきることもできない。優柔不断です。そういうの、ずるいですよ」

 言葉は胸に刺さるほど鋭いのに。
 酷く、声色が優しい。

「ずるい。けど、わたしも同じです。透さんと一緒で、逃げてました。ちゃんと向き合わないまま、ここまで来ちゃいました」

 こつん、と。
 額が当たり、僕らは触れ合う。

「聞かせてください。今、どんなことを考えてますか?」
「……陽が、死んで、悲しくて。胸の奥に穴が空いたみたいで、どうしていいかもわからないんだ」
「何もかも、諦めたくなりましたか?」
「…………うん」

 逃げることさえも。
 初めからしなければよかったと。

「なら――わたしは、透さんにそうしてほしくないから。だから、絶対許しません。何度だって立ち上がれるよう、背中を押します。座り込んだら、その手を引きたいです。昔みたいに。初めて会った、あの時のように」

 そう意図した頷きを、里は否定した。
 頬を撫でて落ちた彼女の手が、投げ出していた僕の手を取り、握り、絡め、互いの間に置く。
 滲んだ汗の滑りを感じた。
 伝わる熱も、指の震えさえも。
 僕へと向けられた、里の全てがそこにある。

「側付きでは駄目なんです。そうじゃなくて、わたしは透さんと、対等の立場になりたい」
「何故かって……訊いてもいい?」
「ずっと前から、好きでした」
「こんな僕を?」
「そんなあなただからこそ」

 ――ああ、確かに。
 今までの関係を、心地良い逃げ道を粉々にしなければ、辿り着けなかった。
 後に残るのは、たったひとつのやり方だけ。

「里ちゃん」

 それは僕らが別れるまでの、懐かしい、子供の頃の呼び名。
 ここにいるのは、雪草傍系の側付き、雪草里ではなく――僕の手を引いて外に連れ出してくれた、楽しいことをいっぱい教えてくれた、一つ年上の女の子だ。

「ずっと前から、好きでした」
「……うん。ありがとう、透くん」

 触れた額が微かに離れる。
 代わりに、もっと柔らかなところで、僕と里は重なった。
 少ししょっぱかったのは、仕方ない。





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