霧ノ崎の秋は、都会以南に比べると短い。
 十一月にもなればもうほとんど冬と言っていい寒さになるので、秋らしさを感じられる時期は、実質二ヶ月程度だ。
 山の緑が色を変え、そしてその紅葉も少しずつ散り始める頃。
 窓から入る、落ち葉を運ぶ木枯らしの冷たさに目を細めながら、僕はじっと外を見つめていた。
 こんな日は昔を思い出す。
 僕と里が、雪草の家を出た日のこと。

 あるいは嫌味に聞こえるかもしれないけれど、僕の実家はとても大きい。資産家、と言ってもいいだろう。
 雪草グループ。日本でも有数の複合巨大企業として名を馳せる僕達の家。その血筋を辿ると、古くは江戸の頃まで遡る。
 商才のあったらしい祖先が莫大な富を築き、明治にはその手を様々な分野に広げ、一度は財閥解体の煽りを食らったものの、今では当時と遜色ない経済力を持っている。
 長い年月を経て、雪草の系図は複雑化していった。本家、分家という枠組みが生まれ、傍系に関しては最早誰も全容を把握できていない。昔の家系図から、ある程度の推測が立つくらいだ。
 僕は、雪草の本家筋――その長男だった。
 過去形で語ったところで、自分の名前や境遇が変わってくれるわけじゃない。それはわかってる。
 でも確かに、僕にとって雪草の名は呪いに近かった。
 父、雪草道司は幼い頃からとても厳しく、帝王学と称して僕にあらゆる分野の知識を叩き込もうとした。おかげで僕は、人並みの学校生活や友達との遊び方をあまり知らない。
 雪草本家の教育は、幼少のほとんどが箱庭の中で完結する。
 七つ上の姉も、少し下の妹と弟も、小学校卒業の時期までに中学卒業レベルの勉強をさせられた。男女性別関係なく、習い事の類も山ほど強制された。続く続かないはともかくとして、どれもそこそこにはできるようになったのが、幸いと言えば幸いかもしれない。
 中学からは一応学校に通わせてもらえたけど、いやに肩身が狭かったのを覚えている。おそらくそれは、僕だけが感じるものだったんだろう。授業は全部わかるから退屈だったし、みんな僕とは距離を置いているようで(今にして思えば錯覚だったと思う)、誰の輪にも入れなかった。入ろうと、しなかった。
 高校に行っても、何も変わらなかった。
 大学だって同じだ。
 一度形成された人格は、簡単なことじゃ揺らがない。
 僕は自ら孤立する道を選んだ。
 ひっそりと、静かに、一人でいることを好んだ。
 それでもよかったのだ。
 あの時まで僕には、里がいた。

 里はいわゆる分家筋の人間で、親等で見れば十くらいは離れている家の一人娘だった。
 両親が僕の実家で働いていたから、顔を合わせる機会も多かった。
 一つ年上の、元気な女の子。
 勉強や習い事で疲れた僕の手を引いて、色々な遊びを教えてくれた。
 くたくたになるまで庭を走り回ったり。
 一緒に虫を捕ってみたり。
 昔の里は男勝りなところもあって、可愛いというよりどこか格好良くて、そして何より明るい笑顔が眩しかった。
 有り体に言えば、春の陽射しみたいな。
 けれどいつの間にか、里の姿を見なくなった。
 両親が定年で仕事を辞めて、越してしまったのだと後で知った。
 姉とよく話をするようになったのも、丁度その時期だ。
 人間的な能力で跡継ぎを選出するなら、明らかに僕より姉の方が適役だった。それなのに僕が父に選ばれたのは、長男という性差故だ。
 雪草の家は古い。
 男尊女卑とまでは行かずとも、血筋のことが絡めば男の方が優先される。
 僕が雪草の名と富を継ぐ際には、姉が補佐に付くことも決められていた。

 ずっと。
 そういう何もかもが、嫌で仕方なかった。
 予め敷かれた道を言われるままに歩かされて、そのまま生きて、死んでいくような日々が定着してしまうのが、我慢できなかった。
 だから僕は、逃げ出したのだ。

『これより透さんの側付きになります、雪草里です』

 およそ十年ぶりに再会した彼女に、当時の面影はほとんどなかった。
 大学卒業後、父に系列会社の経営を任された頃。
 使用人にして秘書という名目で、他ならぬ父が紹介したのが、里だった。
 敬語なんていいと言っても、昔みたいにしてくれていいと説いても、決して里は頷いてくれなかった。いいえ、と静かに首を横に振って、あくまで“側付き”の立場として接するだけ。
 だから正直、今でも里とは距離を置いているところもある。
 時折僕に向ける笑顔も、どこか陰を含んでいて。
 昔には戻れない。
 僕らの関係は、変わり果ててしまった。

 それでも、彼女は付いてきてくれたけど。
 父に命じられてなのか、自分の意思でなのか――里の考えていることが、本当の気持ちが、何もかもが、僕にはわからない。

「……あなたの後なんて、継ぐつもりはない」

 あの時も。
 吐き捨てるように父へそう言って、僕は実家を飛び出した。
 霧ノ崎に土地と家を買い、里と共に暮らし始めた。経営はほとんど電話やメールでのやりとりで済ませ、どうしても必要な場合のみ直接足を運んだ。
 子供じみた抵抗だ、という自覚はある。
 結局、住居を買うのに使ったお金は父から出たものだ。僕が経営を任された会社だって、父の力がなければ関わることさえなかっただろう。
 これを呪いと言うならば。
 僕は未だ、祓えないままでいる。

「透さん」
「……里」
「あまり窓の前にいると、風邪をひいてしまいますよ」

 外に落とした溜め息を聞いたのか、苦笑混じりの表情で、里は持ってきたコーヒーカップをデスクの上に置いた。
 慣れた手付きで、音も立たない。
 黒に限りなく近い色の水面が、微かに揺れる。
 僕は席に戻らず、立ったままでカップを手に取った。
 一口。
 目が覚める、程良い苦さ。

「だいぶ、寒くなりましたね」
「冬も近いからね。窓開けっぱなしは辛いかな」
「毛布を持ってきましょうか?」
「いや、大丈夫。これくらい平気」
「そういう油断で体調を崩すんです」

 結局里は足掛け毛布を取りに行ってしまった。
 その背を見送ってから、再び窓に寄りかかる。
 肌を泡立てる冷風が室内に入り込んでくるけれど、窓は閉めない。閉められない。
 それは、日課だ。
 朝になれば、部屋の傍らにある鳥籠の口を開ける。
 僕の指を伝う一羽の雀が、外の世界へ羽ばたけるように。
 そして夜の帳が降りる前には、帰ってこられるように。

「陽」

 ……言ってしまえば。
 あの子は、僕の希望で、憧憬で、代わりだった。
 叶わないだろう気持ちを託しながらも、檻の中に閉じ込めて、縛り付けていた。

 だから気付けなかったんだ。
 小さなサインにも。
 来るべき、可能性にさえも。










 食事の量が減ったかな、と思った。
 けれどそれは、元々ある程度ブレのあるものだったし、一見では特に問題があるようにも感じなかった。
 帰りの時間が少しずつ早くなってきた。
 去年も冬は家に留まることがよくあって、きっと今年も同じだろうと考えていた。

 暗い、厚い雲が空を覆った日だった。
 家の中では静かな陽の、酷く忙しく羽ばたく音で僕は起きた。
 ベッドから出て、鳥籠に近寄る。
 扉の辺りにちょこんと居座り、小指の先ほどもないくちばしで、鉄の骨組みを何度もつついていた。
 こんな風になるなんて珍しい。
 そう思いつつ、外に出たいんだろうな、と扉を開けるや否や、陽は僕の指を経由せず、そのまま飛び立とうとする。

「あ……窓」

 寝起きで窓は閉めていた。
 枠に足を引っかけ、陽がガラスをこんこん叩く。
 慌てて鍵を外し開け放つと、今度こそ寒々しい秋空へと飛んでいってしまった。
 寝間着の襟元に、朝の冷たい風が滑り込む。
 無意識のうちに両腕をさすりながら、僕は首を傾げた。
 いつもなら、あの子を放つのは十時前後だ。
 自分から空の散歩をせがむようなことは、覚えている限り、今まで一度もなかった。
 ――それに。
 何だか焦っていたような。
 どこか必死さを感じた、気がする。

(焦ることなんて、ないはずなのに)

 じりじりと、胸の中で燻る感情。
 得体の知れない、形容できない思いに蓋をして、僕は里のいるリビングに向かった。
 大丈夫。
 不安なわけじゃない。
 ただ、偶然が重なって過敏になってるだけだ。

「……もしかして、朝食はおいしくなかったですか?」
「え? あ、ごめん、違う、ちょっと考え事があって」

 朝の席では、上の空になってしまっていたのを里に指摘された。よくない傾向だ、と気を引き締め、仕事の消化に励む。
 物事に集中している時は、余計なことが頭から抜けてくれる。
 昼は片手で食べられるものにしてもらい、三時過ぎまでひたすら書類の作成をこなした。
 最後のひとつをメールに添付して送信し、一息。
 強ばった肩を軽く回し立ち上がろうとした、そのタイミングを見計らったかのように、里が冷めきったコーヒーのおかわりを持ってくる。

「ありがとう。丁度淹れに行こうとしてたんだ」
「いえ。そろそろ落ち着く頃かと思いまして」
「毎度のことながら、よくわかるね」
「そんな透さんを頻繁に見てますから」

 茶目っ気混じりの言葉に、頬を緩める。
 まだ熱いコーヒーを少し啜り、

「夕方から雨が降るんだったっけ」
「天気予報でも言ってましたし、この空模様だと外れはなさそうですよ」
「なら、陽も早めに戻ってくるかな」

 人間よりも遙かにそういうところは鋭い。
 帰ってきたら窓を閉めよう、と何とはなしに外へ視線を向けた時、聞き慣れた羽ばたきの音が近付いてきた。
 こちらを真っ直ぐ目指してくる、小鳥の姿。
 僕は、昨日と同じように手を伸ばした。
 そこに足を付けてくれたら、一撫でして籠に戻そう。
 水も新しく取り替えて、疲れを癒してあげよう。
 だから。
 こんな不安なんて、気のせいだから。

「おかえり」

 人差し指の中程に、陽の爪が食い込んだ。
 跳ねる動きで、腕を辿り、肩に乗り、細い声で鳴く。
 くちばしが僕の頬に触れた。
 いち、に、さん。痛くはない。ただ、優しかった。

 それで最後。
 柔らかな羽音。籠ではなく、窓へ――曇り空へ身を飛ばし、ふらつき、傾き、力なく、落ちた。
 本当に呆気なく。
 僕の小鳥は、飛ばなくなった。
 永遠に。





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