ピースが足りない。
 何とはなしにベッドで寝転んでいたけれど、ぼんやり考えていても答えは出そうになかった。

「難しいわね……」

 あれから。
 こっちがやらなきゃいけないこともほとんど片付き、ライナーの騎士の仕事に同伴したり、グラスメルクを手伝ったりするだけの日が続いている。
 腑抜けたわけじゃない。けれど、色々肩の荷が下りて、正直どうすればいいのかわからない、という思いもある。
 ……大聖堂の演説広場で啖呵を切ったのも、もう随分昔のことみたいだわ。
 わたしがあの時誓った言葉は、まだ果たされてない。
 信じることはできた。世界を巡り、ライナーだけじゃなく、多くの人間やレーヴァテイルと会って、話して、解り合える余地を見つけた。
 だからあとは、人々に提示するだけ――なんだけど。
 具体的な方法となると、これがなかなか定まらないのよね。

「わたしは、謳いたい」

 かつて生まれた小鳥の詩は、人の幸せを願ったもの。
 ヒュムノスとは言わば、純粋な想いの形よ。感情言語で綴られる以上、そこに嘘は介在しない。
 自分そのものが、詩には込められる。
 とはいえ、そう簡単にできるものでもないわ。意図的にヒュムノスを作成することは、酷く難しい。例外としてヒュムネクリスタルを用いる手もあるけれど、それには骨子となる想いが必要だもの。
 何を謳い、何を伝えたいか。
 その辺りをはっきりさせないと、どうにもならない。
 もう少しで掴める気もするんだけど。

「……仕方ない、か」

 こうして考え込むのには限界がある。
 ベッドから起き上がり、わたしは部屋を出た。
 向かうのはリビング。とりあえず喉を潤すために冷蔵庫を目指してみれば、どうやら風呂から出たばかりらしい寝間着姿のシュレリアが、椅子に座って水を飲んでいた。
 互いに一瞥し、すぐ視線が外れる。
 わたしも新しいコップに取り出した冷水を注ぎ、シュレリアの対角線上に腰を下ろす。隣も正面も嫌だし。身体を外側にやって、静かに唇を濡らした。

「はぁ……。多少なりとも愛想良くできないのですか、貴方は」
「隔意はないけど、馴れ合うつもりもないのよ」
「でしょうね。こちらとしても必要以上に歩み寄る気はありませんから」
「助かるわ」

 ことん、とコップをテーブルに置く。
 薄く浮いた表面の水滴を指で拭いながら、もう片手で頬杖を付き、むすっとしたシュレリアの顔を斜めに見る。
 ……ふと、思いついた。

「ねえ」
「何ですか」
「あなたとオリカとミシャで、前に詩を作ったことがあったわよね」
「ファンタスマゴリアのことですか?」
「そう、それ。作った、ってことは、ヒュムネクリスタルを用意したんでしょ? またできる?」
「できるかと言われれば可能ですが……もしかして」
「ご想像の通り、よ」

 実のところ、ヒュムネクリスタルの作成方法は知ってるのよ。ただ、わたしには知識はあっても技術がない。
 結局他人に頼る以外の選択肢がないのなら、開き直った方がいいわ。幸いこの件に関してはシュレリアが先達。効率の面から言ってもこれ以上はないはず。
 ――それに何より。
 シュレリアとの共同製作という部分に、大きな意味が見出せる。
 勿論そんなこと絶対口にはしないけど。

「で、協力してくれるかしら」
「……わかりました。こちらの関与しないところで勝手にされるよりも、私が見ていた方が色々と安心ですし」
「あなたもいちいちひとこと多いわね」
「お互い様です。では、明日中にヒュムネクリスタルの方を用意してきますから、込める“想い”をしっかり考えてきてください」
「ええ。そっちもちゃんと手伝いなさいよ」
「わかってます。今回は、協力を惜しみませんから」

 一気に水を飲み干したシュレリアが立ち上がる。
 さっとコップを洗い、几帳面にも食器布巾で拭いて棚に仕舞った後、まだ微かに湿った髪を靡かせて部屋に戻っていった。
 一人になると、やけに静けさが耳に染みる。

「……やっぱり、いけ好かないわ」

 それでも。
 いないよりは、いてくれた方がいい、と思った。










「レーヴァテイル達の様子がおかしい?」

 翌日、言葉通りシュレリアが持ってきたヒュムネクリスタルを前にして、詩に付与する機能はどうするべきか、という論議を繰り広げて一旦落ち着いたところ、不意にそんな話が出てきた。
 手慰みに作ったらしい焼き菓子を木皿から取り、ぱくりと一口で食べつつ、わたしは聞いたことをそのまま問い返す。

「はい。明確にこうだ、という根拠はないのですが、不安感めいたものを覚えているらしいのです。それも皆一様に」
「ふうん……。一部ってわけじゃないのね?」
「私が把握している限りでは。もっとも、あなたには影響がないようですが」
「さっぱりね。原因にも心当たりはないわ」

 推測するにも情報が少な過ぎる。
 元々こっちの返事には期待してなかったのか、シュレリアは小さく頷くと俯いて溜め息を吐いた。

「ともあれ、心に留めておいてください。未だにあなたへ敵意を向ける者も多くいます。以前のこともありますし、そうそう大事に発展しないとは思いますが――」
「ま、警戒くらいはしておくわ」
「随分殊勝ですね」
「厄介事にわざわざ首突っ込むような趣味はないもの」
「……一応教会と天覇にも確認は取っておきます。状況次第では、あちらに足を運ぶことになるかもしれません」
「下手は打たないようにしなさいよ」
「言われなくとも」

 雑談はそれで終わり。
 夕食時が迫るまで、詩を紡ぐ作業は続いた。
 ――実のところ、シュレリアの話にわたしは微かな引っ掛かりを覚えたんだけど、たぶん大したことじゃないだろう、と忘れちゃったのよね。
 だから数日後、ライナーのフォローで騎士の巡回仕事に混ざった時も、すぐには気付けなかった。

「ライナー、やけに空気がピリピリしてない?」
「ああ、俺もそれは感じてた。何か雰囲気悪いっていうか、レーヴァテイルの子達が妙にこっち見て睨んだりしてくるんだよな……」
「着替えでも覗いたんじゃないの?」
「誰がんなことするか! マジで理由がわかんないんだって」

 困り声を上げるライナーの周囲をそれとなく観察してみると、なるほど確かに、いくつか視線が向けられている。
 どこか粘ついた、暗い色の意思。

「……ひとつ質問。こうなったのはいつから?」
「ちょっと前から、だと思う。急にってわけじゃなくて、ある時期からじわじわ変わってったみたいな」
「睨んでくるのはレーヴァテイルだけよね」
「ミュールについてはもう今更だしな。まだ納得できてないのもいるだろうけど、表立ってお前のことを悪く言う奴は最近出てきてない」
「そう」
「えっと……ミュール、思い当たることがあるのか?」
「ない、とは言わないわ。ただ、まだ確証が持てないから」

 明言を避け、唇をそっと指でなぞる。
 これがもっと別の、どうでもいい人間相手だったらスルーしてもよかったんだけど。
 ライナーを対象にしている以上、わたしに喧嘩を売ってるのと同じよ。
 昨日のシュレリアの話とも絡んでるのは間違いないし、この視線に込められた、不安の中に潜む感情を、わたしは知っている。
 敵意。
 わからないのは、何故それがわたしではなくライナーに向けられてるのかよ。
 プラティナ政府内に、ライナーの敵はほとんどいない。優れた政治家、統治者であるレアードの一人息子な上、世界を救った英雄――なんて大仰な呼び名はプラティナにも広まってる。当人も馬鹿だけど真面目だし、強い。騎士の中では最も頼れる人間として一目置かれている。
 なのに、この短期間でそういった評価が引っ繰り返るとは考え難いわ。つまり、何がしかの外的要因が存在する可能性が高い。

「まあ……どちらにしろ、いつも通りでいるべきでしょうね」
「了解。変に事を荒立てたくないしな」

 囁きでやりとりを済ませ、わたし達は巡回を始める。
 しこりのように沈んだ気懸かりが晴れることは、最後までなかった。










 その日の夜になって、リビングにはアヤタネ以外の三人全員がいた。
 夕食と食器の片付けも終わり、今はシュレリアが淹れた温かいお茶を飲みながら、帰ってくるまでにあった出来事を話し合う。
 わたしとライナーは大聖堂で感じた違和について。
 そしてシュレリアは、教会と天覇から聞いた状況について。

「結論から言えば、これはプラティナだけの問題ではありません。微妙な違いこそあれど、ホルスの翼でも同様ということでした」
「でもシュレリア様、世界中のレーヴァテイルがそうなることって、有り得るんですか?」
「あなたね……。わたしのコスモスフィアで言われたりしなかった? レーヴァテイルは、塔を介して繋がってるの」
「レーヴァテイルと塔の関係は、切り離せるものではないですからね。仮に塔内で何らかの異常が発生した場合、接続されている全てのレーヴァテイルに影響が出ることは充分に考えられます」
「となると、あとは原因の特定ね。こっちは明日辺りバイナリ野を調べてみるわ」
「私はネモとほたる横丁に行きます。どちらもあまり良くない情勢になっているようなので、その調査も含めて」
「なら俺は、もうちょい騎士の方に探り入れてきます。何人かに話を聞けば、見えてくるものがあるかもしれませんし」
「では、夕刻に結果を報告し合いましょう。通信機はレアードに言えば使えますから、そちらで」

 煮詰まってたとはいえ、ヒュムネクリスタルに触れる余裕がなくなったのは少々痛い。けれど、いつ顕在化するかわからないことを考えれば、極力早く解決したい問題だわ。
 まだお茶を飲み切ってなかったシュレリアを残し、一足先に部屋へ戻る。
 扉の前で別れる時に、ふとライナーが訊いてきた。

「そういえば、シュレリア様は気にしてないみたいだったけど、アヤタネって今どうしてるんだ? 朝から姿見てないぞ」
「調べ物を頼んだのよ。先行してホルスの翼に下りてもらってる」

 どうせシュレリアはラードルフや亜耶乃との会談がメインになるだろうし、たぶん細かい情勢までは見てられないはず。最近アヤタネにはこういうことばっかりやらせてる気もするけど、使えるものがあったら使うべきでしょ。

「ともかく、明日は頼むわよ」
「わかってる。解決策、出るといいな」
「出るんじゃなくて、出すわ」

 そうして。
 わたし達にとっての、長い一日が始まる。










 ある程度は既に聞いていましたが、実際足を運んでみると、かなり良くない状況のようでした。
 ネモでは、小さな事件の件数が、ここ数日の間に倍増しているとのこと。ほとんどどれもレーヴァテイルが被害者、もしくは加害者で、現在活動方針が定まらず揺れている教会内部でも、精神的に不安定な子が多く見られます。
 天覇はさらに酷く、待遇に不満を持つレーヴァテイルの職場放棄が十数件。また、これは亜耶乃社長も先ほど知ったことらしいですが、人事部の独断で離職を強要された者が相当数いるそうです。

「申し訳ない。背景を把握するのに、すっかり時間を取られてしまった。直接の要因はやはり、先日打ち出した延命剤の件だ」
「なるほど、誤解の種があったということですね」
「社員にも説明はしたのだがな……。こうも曲解されるとは思わなかった」
「仕方ないでしょう。固定観念を崩すには、得てして多大な時間を要するものですから」
「そう言ってもらえると助かる」

 以前ミュールが交渉した結果として、亜耶乃社長は天覇が流通をほぼ独占していた延命剤、ダイキリティのレシピ公開と、その材料を安価に市場へ提供する旨を宣言しました。
 延命剤の入手が容易になれば、決して職環境が良いとは言えない教会や天覇に所属する必要はなくなる――そんな意図があっての政策ですが、それを一部の社員が拡大解釈。「依存しなくてもいいなら辞めさせても支障はない」として、ここぞとばかりに首を切った、という話でした。
 今やレーヴァテイルは市井に広く溶け込んでいます。しかし、彼女達を得体の知れないものとして恐れる人々は、未だに少なからずいるのです。
 世界は確かに、良い方向へと向かっているのでしょう。
 それでも、まだまだ解決しなければならない課題は多い。
 何事も簡単ではない、と、私は嘆息しました。

「しかも、問題は他にあるんですよね……」

 教会と天覇、それぞれの組織に異を唱えたレーヴァテイルが集団となって、スクワート廃墟に集まっているという報告を、わたし達は受けました。
 本社にいた亜耶乃社長が急ぎ足でこちらに来たのは、言ってしまえば大規模な抗議運動を鎮圧するために、亜耶乃社長を通さずネモの駐留軍隊が出動したからです。
 どうも教会側でも一悶着あったようですが、結局腰の重い上層部を振り切って、ラードルフが騒動を治めに向かいました。本音を言えば私も付いていきたかったのですが、飛空挺のある亜耶乃社長に同行した方が早い、という結論に達したので。……さすがにこの状況で迷子になりたくはないですし。
 現地が一触即発の状況であることも想定し、リンゲージを着用。ネモの空港から出発した飛空挺の中で、私はひとつの推測を立てました。
 世界中のレーヴァテイルに起きている症状。
 そして、彼女達が口にしていたらしい「人間なんて」という言葉。
 ……もし、私の考えが正しければ。
“それ”はライナーにも牙を剥きかねません。

(どうか、無事でいてください)

 目的地に着くまでの間、私はひたすら、祈るように目を閉じていました。










 アクセスする場所には天文台を選んだ。プラティナじゃ何が起こるかわからないし、万が一向こうで揉め事があれば、すぐに導力プラグまで飛んでいける。
 そういうわけでメイメイにサポートを頼み、わたしは久しぶりに深いデータの海へと入り込んだ。
 手始めに監視プログラムをジャック。導力プラグ周辺の状況をいつでも把握できるようにし、推測と直感に従って塔の中を駆け巡る。
 ……シルヴァホルン経由ではあるけれど、わたしもリソースを共有している身だわ。一割とはいえ結線したシュレリアほどではないものの、意図的になら感覚で導力の流れを知ることもできる。
 世界中に無数のレーヴァテイルがいる以上、必ずどこかしらで詩は謳われている。塔はほぼ無限のエネルギーを生み出すものだけど、それでも最大使用量には制限が存在するわ。限界が高過ぎてまず振り切らないというだけで。
 わかるのは、どのくらいの人数が謳ってるかではなく、どれほどの導力が消費されてるか。当然謳う子がたくさんいれば消費量も増えるし、一人でも強力な詩魔法を使えば引き出す導力も多くなる。

(けれど、いくら何でも)

 今の消費量はおかしい。
 尋常じゃないリソースの使われ方だわ。
 ……これは、かなり切羽詰まった事態になってると見るべき、でしょうね。あとはシュレリアの方がどうなってるかだけど――。

(っ、ライナー!?)

 ギャザー周辺の監視域に、ライナーの姿が映った。
 真剣な表情。時折背後を振り返りつつ、鎧と腰に下げた剣を揺らして走っている。
 逃げるように。
 そして、少し遅れて巨大な影が追随している。若干荒い映像でもわかる、異形の何か。
 わたしの頭の中で、全てが繋がった。
 ……そういうこと。よりにもよって、その形を取るなんて。
 最早躊躇う時間も惜しい。天文台に置いてきた肉体に戻り、案の定寝惚けてたメイメイを叩き起こして、すぐさま導力プラグへ向かう。フリップフロップ変換。
 転送から実体化までは一瞬、出現した先では、武器を構えたライナーが既にいた。

「後で事情は説明してもらうわよ」
「最初からそのつもりだ。今はこいつをやるぞ!」

 入口を塞いだ醜悪な巨体は、その長い腕でわたしを的確に狙ってくる。こっちから見て左側、風切りの音を立てて迫る鋭い爪は、身を滑らせたライナーの斬り上げが弾いた。
 正面から受けたにもかかわらず、わたしの身長近くある太さの腕が衝撃で跳ね上がる。さらにそこへ、勢いのままに飛んだライナーが大上段からの振り下ろしで一閃。手首までをあっさり切断し、低い唸りと共に巨体が少し退いた。
 目前に、広い背中が見える。
 ライナーがいる限り、こっちに被害が及ぶことは決してないと、そう思える。
 ならばわたしは後衛の、レーヴァテイルの本分を果たすだけよ。

「五分保たせなさい!」

 返事代わりの剣撃音に口元を緩め、始めていた詠唱に意識を傾ける。巨大ながらも鈍重ではない相手に、ライナーはそれ以上の速度で当たっていた。足を止めたわたしの盾になり、倒し切れはしないものの、その上で着実にダメージを与えていく。

「ライナー!」
「おう!」

 短い声を合図に、ライナーが大きく退いた。
 溜めに溜めた力に方向性を与え、放つ。
 アルトネリコ。塔の名を冠する最大出力の詩魔法は、降り注ぐ光の柱となって目前の標的を跡形なく消し飛ばした。
 微かに残った欠片も、淡い光燐に分解されて溶ける。
 数秒、変化がないことを確認して、ようやくお互いに一息吐いた。

「お疲れ様、ミュール。助かった」
「こっちに来てなかったら危なかったわね。いい判断だったわ」
「なるべく人気のないところに誘導しようとしたんだよ。他の小さい奴はみんなに任せてきたんだけど、あいつだけはあからさまに俺を狙ってきてたから」
「そう……にしても」

 ピンポイントな嫌がらせにも程があるでしょ。
 誰がどう見ても、怪物、としか言えない異形の姿。
 ――あれは、わたしがライナー達とクレセントクロニクルで戦った時のものだわ。凝り固まった憎悪の具現。そして、詩の産物でもある、命のない存在。
 形式で言えば、ELMA-DSやアヤタネに近い。

「とりあえず、回復してあげる。結構ボロボロみたいだし」
「途中まで乱戦だったからなあ……」
「で、何があったの? 確か、大聖堂の方で聞き込みしてたんじゃなかったかしら」

 軽く青魔法を謳いながら促すと、ライナーは頭を掻いて経緯を話し始める。

「まあ、最初の方は普通に色々聞けたんだよ。でもさ、だんだん空気が妙になってきて、そこかしこで口論に発展したんだ。しかも何故かこっちに飛び火して、ミュールのことであれこれ言われた」
「あれこれ、ね。何となく予想はつくけれど」
「最終的には、みんな口を揃えて『人間なんて信用ならない』って。それで済めばまだよかったんだけど、いきなりレーヴァテイルの子達が全員詩魔法を唱え出した。そしたら――」
「あの怪物が出現したのね」
「でかいのだけじゃなかったけどな。あと、みんな自分の詩を制御できてないみたいだった」
「……戻らなくてもいいの? 他にも出てきたんでしょ」
「いや、さすがにもう大丈夫だと思う。優秀な騎士も結構いるし、こっち来る時に住民の避難をしたからさ。今以上の大事にはならないはずだ」

 なんて言いながらそわそわしてる辺り、つくづくお人好しよね。
 ともあれ、わたしも様子は見ておきたい。シュレリアとの通信もしたいし、ここは大聖堂に行くべきでしょうね。
 ……予想が正しければ、おそらく下界でも同じようなことが起きてる。
 その対抗策が、わたしの中では形になりつつあった。










『ライナー、無事だったんですね!』

 大聖堂に着いてすぐ、レアードに簡単な報告をしてから通信機の前に立ったわたし達への、シュレリアの第一声がそれだった。
 ちなみに背後にはアヤタネの姿も見える。どうやら上手いこと合流したみたいね。

『レアードから話を聞いた時は、さすがに血の気が引きましたよ……』
「殺しても死なないような馬鹿なんだから、心配するだけ無駄でしょうに」
「ひでえ言い草だな……。まあ、ミュールが来てくれたんで何とかなりました。それよりシュレリア様、そっちでも同じようなことがあったって本当なんですか?」
『はい。詳細は既にレアードに伝えましたが、戻ってから改めて話しましょう。今はひとつだけ』
「“残響”でしょ」
『……やはり気付きましたか。私もそれで間違いないと思います』
「残響?」

 さっぱりわからない、という顔のライナーに、わたしとシュレリア、アヤタネは揃って苦笑した。

「まあ、わからなくて当然よね」
『だからライナー、そんな拗ねないでください』
「別に拗ねてないですよ……。ただなんていうか、俺だけ仲間外れにされてる気がして……アヤタネだってわかってるみたいだし」
『こっちはライナーよりも持ってる情報が多いからね』
「微妙なフォローだ……」
「落ち込んでもしょうがないでしょ。そうね、簡単に説明するなら、残響ってのはわたしが閉じ込められてた時の名残よ」
『積もり積もったミュールの“人間に対する憎悪の念”は、詩となって塔内に響き続けていました。それがレーヴァテイル全体の“負の意識”として混ざり合ってしまっているのです』
「じゃあ、みんなが暴走したのは」
「何かの拍子にトリガーを引いたのね。そうして漠然とした不安や懸念が増幅された。要するに今のレーヴァテイル達は、過剰に怒りっぽいのよ」
『その形容は些か乱暴な気もしますが……』
「別に間違ってないんだからいいじゃない」
「えっと……一応現状は何となく理解できましたけど、これからどうすればいいんですか? その“残響”ってのを消すためには」
『難しいですね……。負の意識は実体のないものですから。あるいはバイナリ野に入ることができれば、打開する術もあるかもしれません。ですが、仮に可能だったとしても、生きて帰れる可能性の方が低いので――』
「シュレリア、それなんだけど、ひとつ手があるわ」

 視線がわたしに集まった。
 とんとん、と爪先で地面を叩く。現象の正体に気付いた時からずっと考えていたことを、頭の中でまとめながら口に出す。

『手というのは?』
「詩」
『……ミュール、まさか』
「あのヒュムネクリスタルに、今から効能を追加して完成させる。そしてそれをわたし達が謳うことで、残響を中和すればいい」
『なるほど……確かに、その方法なら危険度はかなり下がりますね。成功する保証はありませんが、やってみる価値はある』
「ええ。だからシュレリア、アヤタネと一緒に早く戻ってきなさい。あとライナー」
「お、俺も?」

 困惑するライナーの目を真っ直ぐに見て、わたしは告げる。
 万感の気持ちを乗せて。

「手伝って。あなたも一緒に、あの詩に想いを込めるのを」

 そして、過去の自分に教えてあげるのよ。
 わたしがどれだけ、人を――この世界を愛しているのか。
 言葉よりも強い、詩の力を以って。










 朝方、わたし達は全ての作業を終えた。
 机の上には薄い光を湛えたヒュムネクリスタルが二個。これをライナーにダウンロードしてもらうことで、謳う準備は完了する。
 実行は今日の昼。起きた事件の規模を考えればあまり猶予はないし、市井のレーヴァテイルにも順調に不安な空気は広まっている。いつまた同じようなことになるかもわからない。
 こっちとしてはリンカーネイション辺りで人知れずやってもよかったんだけど、シュレリアがごり押ししてプラティナ大聖堂演説広場での公開コンサートみたいな形になってしまった。
 ……ある意味、以前の演説の続きね。
 この詩は、世界を旅したわたしが出した“答え”だわ。「いずれ示してみせる」と言った、その証明。
 多く集まるだろうプラティナの住人が、果たしてわたし達の詩をどう捉えるのか――昔の自分だったら、きっと欠片の期待も持たなかったんでしょうね。
 でも。
 わたしはもう、信じてしまってる。
 積み上げてきたものは、決して無駄にはならないと。
 想いに応える者達も、必ずいるのだと。

「じゃあライナー、お願い」

 正面に立ったライナーが、手に取ったヒュムネクリスタルを掲げる。
 互いに向き合って目を閉じ、息を吸う。

Fou paks ra exec hymmnos risonancia
 Was yea ra chs hymmnos yor
 en chsee fwal fwal yor
 exec drone hymmnos risonancia
 enter muleteiwazartonelico


 朗々と響くヒュムノスワード。
 わたしの中に、膨大な詩の“想い”が展開されていくのを感じる。
 泣きたくなるような、愛しさ。
 ……そう。これが、わたしの伝えたいこと、なのね。
 揺さぶられた感情の波が穏やかになる。
 ダウンロードの終わり。瞼を上げて、胸に手を当てる。
 ほんの一瞬、ライナーと視線が絡み合った。
 自然に口元が緩む。

「ふふ、また初体験ができたわ」
「初体験って」
「あなたは本当に、わたしの“はじめて”を奪っていくわね」
「おまっ、ひ、人聞きの悪いことを言うなよ!?」
「事実じゃない」
「……こほん。ライナー、次が控えているんですけど」
「うわあ! すみませんシュレリア様、今すぐ!」

 慌ててもうひとつのヒュムネクリスタルを掴んだライナー。
 不機嫌そうな表情で溜め息を吐くシュレリア。
 それを見て嬉しげに目を細めるアヤタネ。
 少し意識を広げるだけでも、わたしのそばにはこれほどの他者が存在する。
 例えどんなに世を厭おうとも、生きている限り“それ”は切り離せないものだわ。だからこそ、すれ違ったりいがみ合ったりする。そして同じくらい、解り合える。愛し合える。
 ただ、あるがままの世界を、ありのままに受け止めればいい。
 想いを紡ぐって、きっとそういうことでしょ。
 それをわたしは、高らかに謳ってみせよう。
 真っ暗な部屋で沈み続けている、籠の小鳥にも届くように。










 ――最後の幕が開く。










 プラティナの演説広場に集まった人々は、そこに立つふたつの人影を見た。
 重厚な装甲を脱ぎ、かつては一部の者しか目にしたことのなかった姿を晒した塔の管理者、シュレリア。
 それと、先日この場所で衝撃的な発言をした、恐ろしく長い髪と病的一歩手前の白い肌を持つ、世界を混乱に陥れたウイルスの根元たる少女、ミュール。
 誰もが訝しみ、疑問を抱いた。
 重大な発表があるという政府の知らせによって集まったのに、これはいったいどういうことかと。
 ざわめきは徐々に声量を増し、中には戸惑いや抗議、怒号の色も混じり始める。それらをミュールは無表情で一瞥し、歩を前に進めた。

「黙りなさい」

 決して大きくはない声は、しかし恐ろしく鋭利で透徹としていた。水面を雫が打つように、氷の冷たさを思い出したかのように、すうっと静寂が広まる。
 舞台の主役たる彼女を、そこにいる全ての者が見る。
 真剣さを宿したシュレリアが、ミュールの隣に並んだ。

「昨日、ひとつの騒動があったことを、皆さんはご存じかと思います。幸いにも騎士達の尽力により大事には至りませんでしたが、このままではいつまた同じことが起きるともわかりません。故に、私達はこれより、その根源である問題を解消するための、詩を謳います」
「そしてこれは、以前わたしがこの場所で言った“わたしの全て”でもあるわ。どう捉えるかはあなた達の自由。ただ、耳だけは塞がないでいて。心のままに感じて、改めてわたしを判断してほしい」
「伝えるべきことは以上です」
「あとは詩が言葉の代わり」

 誰もが、困惑の最中にあった。
 時間にすれば僅かなもの。けれど、二人にとってはそれで充分。

「さあ、始めるわよ、シュレリア。準備はいい?」
「大丈夫です。あなたこそ、ここで怖じ気付いてたりはしてませんよね」
「当然」

 背中を合わせ、ミュールの右手とシュレリアの左手が宙に掲げられる。
 始まりを告げる、鐘の音が響いた。










Was yea ra murfanare chs hymmnos, fountaina ciel. わたしの想いは詩となり、世界に響く










 護衛として広場の後ろに控えていたライナーは、全身を走る震えを抑え切れなかった。
 一瞬で観客を飲み込んだ詩。それが、あんなに仲の悪かった二人が協力して紡いだものだと思うと、言いようのない喜びが胸に溢れる。
 誰より近くでミュールを見てきた。凄惨な過去と向き合い、自分の為したことから目を逸らさず、ついには“答え”を出してここに立つまでを、ずっと。
 逃げることだってできただろう。
 静かに生きるのも、難しくはなかったはずだ。
 けれど彼女は戦った。戦って、勝ち取った果てに今の光景がある。
 ライナーは人間で、レーヴァテイルではない。ヒュムノスを謳うことも、理解することも叶わない。
 それでもひとつ、はっきり言える。
 身体が、心が震えるほどに――すごい、詩だ。

「……初めて聴きましたが、これがヒュムノス、なんですね」

 横に並ぶ騎士の、呆然としたような呟きに、ライナーは強く頷いた。
 嬉しさと誇らしさを抱いて、尊敬する上司と愛しい少女を見守る。

「頑張れ、シュレリア様。頑張れ、ミュール」










籠の中の小鳥 空を知らず


謳うために 啼き続ける


Sarla valwa, sarla ieeya, 浄化の詩を 希望の詩を

Wee ki ga yehar yor zeeth. 貴方の鎖を私が解く










 ……どこかで、詩が聴こえる。
 机の上でオルゴールに手を加えていたオリカは、ふと顔を上げた。
 昼を過ぎた中途半端な時間、一人だと些か広い部屋にオリカ以外の人影はない。元々さして人が訪れるわけでもなく、この静けさが常だった。
 集中するために締め切った場所で、外からの音も入ってはこないはず。なのに今も、オリカには詩が届いている。
 手を止め、座ったまま意識を澄ませた。

「あれ、もしかして、これって」

 気付く。
 微かに響く詩声は、錯覚でなければ、オリカの内からこぼれている。
 ぽつり、ぽつりと心を揺さぶる、想いの波。

「……ミウちゃんだ」

 ヒュムネコードを同じくするオリカだからこそ、かもしれない。
 脳裏に浮かぶ映像がある。人がいっぱい集まった場所で、白い少女と共に謳う、真剣で、純粋な気持ちでいる黒い少女。
 オリカは立ち上がった。
 流れてくる感情に自身を委ねれば、初めから知っていたかのように旋律が溢れ出してくる。
 誰より早く、彼女は波紋を投げかけた。










籠の中の小鳥 世界を知らず


謳うだけが 彼女の全て


Yorr vianchiel en houd zadius walasye, 無垢故に貴方は人間を憎んだ

gauzewiga en hartes oure walasye. 誰よりも人間を愛していたからこそ絶望した










 見上げた空の青さと眩しさに、目を細めた。
 次の街へと向かう最中、拓けた道の端で、たまたま同行することになった商人からもらった茶で唇を濡らし、ミシャは一息吐く。
 もうホルスの翼にある街や村は一通り巡り終え、そろそろ一旦プラティナへ戻ろうかと思っていた。
 カルル村では偶然ライナー達と会えたが、やはりできることならもっとじっくり話してみたい。あの時はいなかったシュレリアや、オリカと二人で色々せっついたミュールがどうしているか、どうしたのかも少し気になる。

「……ふふ」

 何だかんだで息の合ったライナーとミュールを思い出し、小さな笑いが漏れる。
 いきなりまた顔を出したら驚くだろうか、と考え、

「――え?」

 急に切なさが胸を襲った。
 普段ならば引っ掛かりもしないだろう、本当に僅かな感情の揺れ。しかし、そのイメージにミシャは覚えがあった。
 ハーモニウス。あの詩をダウンロードし、謳った時のものに近い。
 知らず、胸元を両手で押さえる。
 今も心の奥底――おそらくは精神世界の深い場所から響いてくる詩を、しっかりと感じられるように。
 先ほど茶をくれた商人が、ミシャの様子を心配して駆け寄ってくる。それに「気にしないでください」と無言の微笑を返し、身体の力を抜いた。
 いつも謳う時にする、彼女なりの前準備。
 そうして街道に、詩姫の澄んだ声が広がる。










いつしか小鳥は 詩さえ忘れた

たったひとり 取り残されて










 ネモの宿屋の階下に位置する酒場で、クレアは濡らした布巾を絞っていた。
 手に付いた雫を払い、カウンターの上と客席のテーブルをひとつひとつ丁寧に拭いていく。それを全て済ませると、汚れた布巾を再度水で濡らし、今度はさっきよりも強く絞る。
 さすがに早いうちから酒を出すわけにもいかないので、昼は宿に泊まった客向けに食事を提供しているのだ。料理の腕はそれなりに評判になっているくらいで、受けも良い。忙しさに目が回ることもあるが、閑古鳥が鳴くよりはよほどいいと、クレアはむしろ有り難く思っていた。
 とはいえ、最近は一人だと限界を感じてきているのも確かだった。そろそろ何人か雇おうかしら、と具体的な計画を練り始めたところで、訳もなく温かい気持ちになっている自分に気付いた。
 似た感覚を、つい最近クレアは得ている。

「でも……こっちは、悪いものじゃないわね」

 人間に対する、強迫観念めいた憎しみの感情。それとは相反した、けれど決して心を塗り変えるものではない、柔らかな想い。
 天覇を辞した事件以降、塔の力を使う詩魔法を、クレアは全くと言っていいほど謳っていない。直接的な武力、暴力に頼らずとも、詩には人の心に響く、世界を変えるだけの能があると信じているからだ。
 だからこそ。
 ただその“想い”によって訴えてくる詩に、共感を抱いた。
 きっとこれは、人間には聴こえないのだろう。何となくではあるがわかる。レーヴァテイルとして生まれて、多くの不自由を感じてきたけれど、久しぶりにクレアは、自分がレーヴァテイルでよかった、と思えた。

「助けに、なれたのかしら」

 一人の少女の姿を思い出しながら、クレアの意識は旋律を紡ぐ。
 そうするのが、今は一番いい気がした。










Yorra whai cenjue polon anw mea? どうしてみんなわたしをひとりにするの?










“それ”はいつも怯えていた。
 人間はみんな敵。わたしをいじめるやつばかり。
“それ”はいつも恐れていた。
 わたしはずっとひとり。誰も優しくしてくれない。
“それ”はいつも、叫んでいた。
 おねがい、わたしを――





Was yea ra messe yor, ならば私は貴方に伝えよう

her ciel fountaina sarla en infel, 詩が、愛がこの世界には満ち溢れていることを

van yor hartes re waats hes. 貴方もまた、大切な人に愛されていることを





 閉ざされぬ限り、いつか声は届く。
 本当は誰だって、そのことを知っている。










Alroetsue kierre iem. 今こそ贖罪の時










 ――その時確かに、ライナーは聴いた。
 幼い小鳥の、泣きそうな声を。











Wee jyel ga enerel firle nozess fwal, この翼は失ったものだと、ずっとそう思っていた


slepir etealune biron ween shellan. 永遠に籠の中で眠り続けるのだと
高い高い塔の上 人の至らぬその場所に

鎖された籠の小鳥がいた

自らは外にも出られない

萎えた翼で 窓の外を見る










 デスクワークをしていたラードルフの下には、ネモの街中でレーヴァテイルが突如謳い出したという報告が多数入ってきていた。
 教会内でも同じような状況のため、特に上層部には混乱が広がっていたが、ラードルフは大した心配をしていなかった。
 彼のそばでは、書類整備を手伝っていたフェイマが穏やかな声を響かせている。

「“想い”を返している、か」

 何故こうなっているのかを、断片的ながらラードルフは彼女から聴いた。
 胸の奥で誰かの詩が響いている。そこから伝わる“想い”に、彼女達は応えているのだという。
 それは決して、謳うことを強制するものではない。
 自らの意思で選び、その“誰か”に共鳴しているのだ。
 おそらく、今日の朝に来たシュレリアからの連絡にも関係があるのだろう。悪いことにはならない、と言っていたが、なるほど確かに、芸術の善し悪しなどには疎いラードルフでもわかる。
 心が温かくなる旋律。
 書類仕事ばかりで荒みかけていた気持ちを緩め、しばしフェイマの即興詩に耳を傾けた。












Yorr yerwe sik pitod mea, 一緒に飛ぼうとあなたは言うけれど

Fou touwaka wa sonwe na sarla en famfa na ciel, わたしは謳うことも、羽ばたくこともできない

den yor, yehar anw mea elle shellan? それでもあなたはわたしを連れていってくれるの?
ある日外から 一羽の鳥が訪れた

いつか聴いた小鳥の詩を

もう一度謳ってほしいと

白い翼で 窓の外に立つ










「おいクルシェ! 何かそこら中の女が一斉に謳ってるぞ!?」
「うるさいなあ……。ボクは謳ってないでしょ。レーヴァテイルだけだよ」

 ノックもなく室内に飛び込んできたジャックに、今の今まで仮眠を取っていたらしいクルシェがむくりと起き上がり、据わった目で不機嫌な声を投げた。
 こういう時の彼女は怖い。腰の引けた調子で「わ、悪ぃ」と謝り、クルシェの機嫌を損ねないよう足音を潜めながら、備え付けのコーヒーを淹れる。
 パシられがてら散々入り浸っているせいで、この程度のことはジャックも覚えてしまった。どちらかと言えば亭主関白的な関係の方がいいのだが、その辺りは惚れた弱みと言うしかない。
 ぼさぼさの髪を手櫛で整えつつ、眠気覚ましのコーヒーにふうふうと息を吹きかけて一口。あとは少しずつ唇を濡らし、落ち着いてからクルシェはジャックに向き直った。

「亜耶乃社長に朝呼ばれてね。色々報告してた時に、シュレリア様から連絡があったんだ」
「あー、そういや通信機があるんだっけか」
「ミュールと一緒に謳うって言ってた。それで、もしかしたらレーヴァテイル達に少し影響があるかもしれないって」
「影響ね……どういうことなんだろうな、あれ」
「さあ。ボクには皆目検討付かないけど、怪我人が出てるわけでもないし。ホントに問題あるならシュレリア様が何とかすると思うよ」
「それもそうだな。ま、困ったことがあったら遠慮なく言ってくれ」
「他のところは仕事に支障出てるかもしれないけどね。……ところでジャック」
「おう、どうした」
「着替えるからさっさと出てって」

 慌ててジャックが反転した。
 ぱたんと扉が閉まるのを見送り、適当に畳んでおいた服を拾い上げる。
 右の袖を鼻に寄せ、少し匂いを嗅いで、汗臭さに眉を顰めた。ちょっと女性としては酷い状態だという自覚もあったので、仕事を再開する前にお風呂へ入ろうと決める。
 彼女にはやるべきことがあるのだ。
 そのためにも、立ち止まってはいられない。










Na orviclle, pilt hopb. 大丈夫、さあ勇気を出して


Was zweie ra irs mea pitod yor. あなたはひとりじゃない
Was yea ra irs mea pitod yor. わたしはひとりじゃない










 そうなるかもしれない、という推測を立てておきながら、私は目の前に広がる光景を信じ切れずにいました。
 騎士と共に護衛へ回っていた子が、観客としてこちらを窺っていた女性が、広場の後ろに控えていた数人が、視線の届く範囲にいる多くのレーヴァテイル達が、それぞれに謳っています。
 ――ヒュムノスエクストラクト、リゾナンシア。
 私とミュールの共同製作であるこの詩は、塔のデータ領域、バイナリ野に“詩の想い”を響かせるためのものです。
 そうすることで“残響”を中和するのが目的ですが、副次的な作用として、不特定多数のレーヴァテイルに影響が出る可能性も考えられました。
 とはいえ、百年単位で蓄積されていった“負の意識”と違い、想定上リゾナンシアの持つ効能はそこまで強くありません。境界門を通して朧気にこちらの想いが伝わる程度。少なくとも私は、そう判断していたのです。
 なのに、今。
 こんなにもたくさんのレーヴァテイルが、ミュールの紡いだ詩に、想いに応えている。

(……奇跡、と呼んでも、いいのかもしれませんね)

 ミュール。貴方は誇っていい。胸を張っていい。
 みんながこうして貴方の想いを受け取り、共鳴していることを。
 貴方自身とも言えるこの詩が、認められ、そして赦されていることを。
 視界が薄く滲んだのには、気付かないふりをしました。
 もう少しだけ。
 小鳥のさえずりが鳴り止むまで。










錆びた扉を開ける音 広げた翼で羽ばたく小鳥

優しい籠に 別れを告げて 高い空へと 自由を謳う


Briyante! 歓喜の声を!










 初めは、何をすればいいのかもわからなかった。
 人間の都合で造られ、謳わされ、使われてきたわたしは、結局いつだって自分のために生きてきた。けれど降って湧いたような自由を手にして、過去の罪と向き合って、償ってみよう、と決めて。
 旅の果て、多くを知って得た先の終着点に、ようやくわたしは辿り着いたんだと思う。思える。
 これは間違いなく、わたしにしかできないこと。
 謳える。
 謳えるのよ。
 喜びを分かち合い、痛みを解り合い、想いを響かせ合う。
 嬉しい。
 自分の心がどこまでも広がっていく感覚。
 ……生きて、謳ってる!










小鳥は 生きている

世界と 共にある










 怖がらないで。怯えないで。
 大丈夫。あなたは愛されてるから。

「だから、もう、いいのよ」

 わたしと一緒に、飛び立ちましょう。










Faura crushue murfanare willie hynne, 枯れた声で、小鳥は想いを紡ぐ

wearequewie yehah Metafalica. それは幸せを願う希望の詩

Faura endia sarla en werlwe titilia. 謳い終えて、小鳥は静かに涙した

Was yea ra knawa wael forgandal melenas vianchiel ciel. この美しい世界を愛していると知ったから

Presia rete na murfanare. どうかその想いを忘れないでいて

Was yea erra afezeria hartes omnis. わたしの愛する全てのものに祝福を!










 ――ありがとう。わたしはもう、ひとりじゃないよね?










 余韻を噛み締めるように、舞台の二人は目を閉じる。
 空に掲げられた手が下げられ、緩く息を吐いたそのタイミングで、静寂を破る拍手の音がひとつ聞こえた。
 それを皮切りにして、音は増えていく。共に謳い終えたレーヴァテイル達が、後ろで見守っていた騎士達が、観客たる人間達が、最初は控えめに、徐々に大胆に、最後には激しく両手を叩く。
 万雷の祝福を前にして、二人は小さく礼をした。

 彼方に響いた赦しの詩。
 やがて遠くへ飛び立つ小鳥の、それは希望の詩でもあった。



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