紙束というのは、結構重い。
 デジタルに依らない資料としてはかなり取り扱いの簡単なものだけれど、何分量が量だから、いちいち運ぶのが酷く面倒なのよね。
 一際厚いバインダーをばたんと閉じ、わたしは椅子の背もたれに背中を預け、後頭部を乗せる。三百年ぶりに肉体を取り戻してまず困ったのは、精神体の時には全く感じなかった疲労感。細かい文字を追っていれば目が痛くなるし、頭もぼんやりしてくる。紙をめくれば手は上がらなくなり、肩も回らなくなる。バインドされて限りなく不自由ではあったものの、クレセントクロニクルの下にいた頃は楽だった、と思わなくもない。
 机の横に積んだ荷物は後でライナーに運ばせよう。
 そう決めて、天井を見上げたままわたしは息を吐く。
 先日持ち帰った有形無形の資料は、これで一通り確認できた。いくらか収穫はあったけど、特別わたしの興味を惹くような情報はなし。
 レーヴァテイル・コントロール計画の失敗作も、ミディール、メフィール、アルメディア以外には資料上存在しないことがわかった。
 それで終わり。もう、彼女達の痕跡はほとんど残ってない。

「……はじめて、ね」

 ホルス右翼を落とした時も。
 ウイルスをばら撒いた時も。
 わたしが直接手を下した、人間やレーヴァテイルを殺したことはなかったわ。
 シュレリアの身体を乗っ取った時や、クレセントクロニクルでライナー達と対峙した時は結局未遂。殺しても構わないという意思は持っていても、実行に至らなければそれはしていないのと同じよ。
 今なら理解できる。
 命を奪うというのは、その命を背負うことでもあるのね。
 メフィール。アルメディア。
 彼女達は、わたしが殺した。
 例えそれ以外に選択肢がなかったんだとしても、おそらく救いに繋がることだったとしても――

「まあ、今更よね」

 我ながら似合わないポーズだわ。
 過去に浸り続けるなんて馬鹿らしい。悩んで、嘆いたところで、取り返しはつかないんだもの。だったら先のことを考えた方がよっぽど建設的。
 一晩寝ればこの鬱屈とした感情も沈むだろうと、頭を上げ、椅子から立ったわたしは、そこで控えめなノックの音に気付いた。
 ライナー、ではない。あれはもっと強く叩く。
 半ば確信にも近い嫌な予感を覚えながら、少し荒く扉を開けてやれば、予想通りの相手がいた。
 うさぎ柄のパジャマを着た、シュレリア。

「やはりまだ起きていましたか」
「あなたがわたしの部屋を訪ねてくるなんて珍しいわね。雪でも降ってるのかしら」
「降ってません。……珍しい、という部分には同意しておきますが」
「そう。で、何の用事? そろそろ寝るつもりだったんだけど」
「少しだけ時間をください。長くは掛かりません」

 ばっさり切り捨てなかったのは、思いの外シュレリアの表情と声が固かったから。
 廊下で話すのは避けたいと言うので、渋々室内にシュレリアを招いた。
 椅子は机とセットの一人分しかない。わたしがそっちに腰を下ろし、シュレリアはベッドに座らせる。

「……持ち帰ったものには、全て目を通したんですか?」
「ええ。碌なことが書かれてなかったわ。もうわたしには必要ないけど、処遇はどうするの?」
「軽く選別をしてから大聖堂で厳重に保管する予定です。技術的にも道徳的にも、あまり表沙汰にしたいものではありませんので」
「でしょうね。また妙なことに使われないとも限らないし」
「そうならないよう努めるのが私の責務です。今更面倒事が増えたところで、ミュール以上に厄介なものはないですから」

 言うじゃない。

「それにしても、まさか貴女とこうやって話をする機会が訪れるとは、思ってもみませんでした」
「同感ね。こないだまでは殺し合ってたわけだし」
「……ライナーの、おかげです」

 敢えて、わたしはそこで頷かなかった。
 俯いたシュレリアが顔を上げたのを見て、ここからが本番だと悟る。
 何を吹っ掛けられても対応できるように身構え、

「ミュール」
「何?」
「あなたは、ライナーをどう思ってますか」
「………………は?」

 予想外の問いに、間抜けな声を返してしまった。
 わざわざこんな時刻にやって来て、シリアスな空気散々出しといてそれ?
 平和ボケにも程があるんじゃないの?
 軽く額を押さえ、そういう意図を込めた視線を向けてみたけど、シュレリアは一切動じない。どころか、早く答えろとばかりに立ち上がって迫ってきた。
 普段の融通利かなさそうな表情ではなく。
 この頃よく見る、酷く柔らかい表情でもなく。
 真剣で、切実で――気のせいでなければ、今にも泣きそうな。

「お願いです。あなたの正直な気持ちを、教えてください」

 適当に誤魔化してやろうか、と考えもしたけれど。
 嘘は吐けない。この状況でそれは、他の誰でもない、わたし自身が許せなかった。

「“嫌いじゃない”わ」
「……言葉通り、ではないのでしょうね。わかりました。やはりあなたは、私の敵です」
「ならどうする? 別に今から殺し合っても構わないわよ」
「そんなことはしませんよ。ライナーとアヤタネに怒られてしまいます」
「じゃあ何、わかりきったことを言うためにわざわざ会いに来たのかしら」
「それもありますが……私は、再戦を申し込みに来たんです」
「……再戦?」

 意図が読めない。
 どう反応すべきか掴めず、仕方なく出方を窺うわたしに、この雰囲気には似合わない笑みを浮かべたシュレリアが、真っ直ぐこっちを見据える。

「はい。あの時無効になった勝負をもう一度。わたしと貴女、どちらがライナーにとって魅力的かを、競いましょう」

 それは、静かな敵対宣言だった。










 私の部屋には、大きな姿見があります。
 自分で着飾るのを覚えたのはつい最近の話で、ライナー達と一緒に暮らす前までは、こうして鏡とにらめっこすることもなかったのです。
 箪笥の奥から引っ張り出したとっておきの服と、先日買い物の時ふと目に付いた、白い花を模した髪留め。シックな色合いのフレアスカートは膝丈より少しだけ短く、代わりに両足は膝上まであるハイソックスが包んでいます。
 うなじ辺りに手を回し、髪留めで軽く結って位置を確認。微妙なズレが気になって何度も直し、ようやく満足の行く出来になって、私はくるりとターンしました。
 銀色の房が揺れ、広がったスカートが落ち着いたのを眺めてから、試しにちょっと笑いかけてみます。
 鏡の向こうの私がにこっと頬を緩め、けれどすぐに表情を戻しました。
 知らず、左手が胸元に触れました。

「……ライナー」

 弱気に寄った心を、頬を叩いて叱咤して。
 私は平常を装い、部屋を出て居間に足を運びます。

「あ、シュレリア様」
「お待たせしました。じゃあ、行こう?」

 一瞬驚いたように見えたのは、もしかして見蕩れてくれたからでしょうか。
 だとしたら嬉しいですね、と思いながら、何気なくライナーの手を取って引きました。
 時間は待ってくれません。
 できるだけ長く、一緒にいたいから。
 困惑するライナーを冗談半分で急かして、靴を履いて。
 デートの、開始です。

『明日一日、ライナーを“貸して”ください』

 勝負を持ち掛けた後、私はミュールにいくつかの条件を伝えました。
 時間が来るまでは手出し無用なこと。勿論アヤタネや塔の設備を使った間接的な監視や尾行もしないこと。こちらのライナーに対するアプローチはあくまで一般的なデートの範囲に留めること。
 あの子が何を考え、結論付けたのかはわかりません。
 ただ、どちらかと言えば私の方に有利な提案を、一切の反論なく飲んだところに、心の一端が透けて見える気はします。
 ちなみに政務は先んじて消化し、レアードにも正規の手順で休暇を申請しました。引き継ぎもしっかり済ませましたし、仕事面での不安はありません。ライナーは普通にお休みなので、それ以上の手間もなく、お膳立ては割とあっさり整えられました。
 ……ライナーとは、些か強引に約束を取り付けましたけど。
 苦笑しつつも受け入れてくれたのが、ある意味では救いでした。

「ねえ、ライナーは今日の夕食、どんなのがいい?」
「ちょっと気が早くないですか?」
「ううん、そんなことない。今のうちに考えておけば、準備もスムーズにできるでしょ?」
「なるほど。なら……さっぱりした感じのもので」
「その指定は大雑把過ぎると思う……。でも、さっぱりした感じね。帰りは食材買っていくから、荷物持ちはお願い」
「わかりました。それくらいお安いご用です」
「ふふ、ありがとう」

 まだ昼前ということもあって、さほど人通りの多くないアプサラニカ広場を抜けます。いくつか頭に浮かんだレシピをキープしておきつつ、階段を下りて塔内部へ。
 巡回当番の騎士達とすれ違うことなく、導力プラグに一旦寄ります。

「ここも前よりウイルスの出現率が下がりましたよね」
「ミュールが暴れなくなったんだもの。自然発生する分と駆除し切れなかった分、両方合わせても、多く見積もって半数以下じゃないかな」
「騎士の仕事も減っちゃいません?」
「なら作ればいいだけだよ。下界との垣根がなくなって、世界はきっといい方向に変わっていく。そのために騎士達には頑張ってもらいたいから」
「……シュレリア様も色々考えてるんですね」
「ライナー。私が何も考えてないと思ってた?」
「え? あ、いや、そんな風には全然!」

 ちょっとからかうと面白いくらいに反応するライナーは、可愛いものです。ミュールが事ある毎に弄るのも何となくわかります。
 微笑ましい気持ちのまま導力プラグを後にして、上へと続く昇降機に。いくつかを梯子し、昼食のための休憩を挟みつつ、ブラストラインの区域を越えます。途中数度戦闘する羽目になりましたが、念のため剣を持ってきていたライナーが軽く退けました。
 謳う暇さえないのは頼もしい反面、寂しくもあります。
 ……武器を腰に納めるライナーの、凛々しい横顔。
 私は永い時のほとんどを、塔内で過ごしてきました。正式にプラティナ政府が発足したのはミュールを封じてしばらく、情勢が落ち着いた頃ですが、以来私は三賢人の一人として、ずっと彼らの行く末を見守ってきたのです。
 入れ替わり立ち替わり、多くの者が私と共に在ってくれた。ですが、誰もが例外なく私を置いて逝きました。
 それは、仕方のないことです。
 仕方のないことだと、もう過ぎ去ったことだと割り切れるように、ただ感情を伴わず、記憶としてのみ振り返られるように――私は、そういう風に、造られたものだから。

 嬉しかった思い出も。
 悲しかった思い出も。

 いずれ色褪せ、私の中で無機質な情報に変質してしまう。
 けれど、わかっていても、積み重ねることを無意味だとは思いません。
 だって私は、今を生きている。
 人より長い命を持つだけで、忘れていくのは同じです。
 昔と変わらない、瑞々しい感情がそこになかったとしても。
 私が見て、聞いて、感じたものは、揺るがないのですから。
 覚えています。
 まだ年若いレアードが息子を得たと知った時、私は我が事のように喜びました。それから間もなく彼の妻が亡くなり、不幸に嘆く暇もなく、レアードは政務とライナーの世話、両方に追われることになりました。
 幼いライナーは、実に可愛い子供でした。
 政務に取り掛かるレアードのそばで育ち、徐々に大きくなっていくライナーの面倒は、半分ほど私が見てきたと言ってもいいでしょう。
 果たしていつからだったのか、今となってはわかりませんが――考えてみれば、おむつを取り替えたことさえある相手に惚れるというのも、不思議な話です。
 それでも、私は確かにライナーを好きになりました。
 特別になりたいと願った。ライナーの“たったひとり”でいたかった。
 いずれ薄れていくものであっても、どうしようもなく痛くて苦しいものであっても、こんな気持ちにならなければよかったなんて、絶対に思いません。
 そう。
 だからこそ。
 中途半端なまま、終わらせたくない。

「到着、っと!」
「シュレリア様……っ、いきなり走り始めたからびっくりしましたよ」
「ごめんごめん。何だか楽しくなっちゃって」

 ブラストプレートを経由して、辿り着いた天文台。
 両足を揃えて着地した私は、遅れて上がってきたライナーに振り返って笑いかけました。
 手は後ろに、身体を軽く前に倒し、踵でとん、と地面を叩き、一歩下がります。
 さらに二歩、三歩。拓けた場所の中心で、私は立ち止まりました。
 ここが、終着点です。

「いい景色だよね」
「はい。プラティナよりも空が近いというか……」
「ずっと高いところにあるんだもん。近いのも当たり前だよ」

 たった半日ほどのデートですが、私にとっては充実したものでした。
 本当に――ずっと、続いてくれればいいのに、と。
 そう、思いたくもなります。
 けれど。

「ライナー」
「……シュレリア様?」

 私は。
 決着をつけるために、ここまで来たのです。

「貴方のことが好き。ライナー、私は、貴方が好きなの」
「………………」
「何でも一生懸命で、頑固だけど芯が強くて、勉強嫌いだけど毎日の鍛錬は怠らなくて、諦めが悪くて、いっつも他人のことを考えてて、世話焼きで、どこか抜けてて、でも格好良くて……そんな貴方を、好きになったの」

 胸が痛い。声を絞り出す度に息苦しく、心が軋むような気さえしました。
 込み上げるものを抑え、背中に回していた右手を、そっと前に差し出します。
 指先の微かな震えは見なかったふり。

「聞かせて。ライナーの、答え」

 もしもあの時、ミュールの正体が広まらなければ。
 もしもあの時、私がもっと早く勇気を出していれば。
 あるいは、もっと違った未来が訪れていたのかもしれないけど――夢は、夢でしかありませんから。
 だから。

「……俺、シュレリア様のこと、すごい尊敬してます。凛々しくて、頭も良くて、色々なものを背負ってるけどそれに負けないくらい強くて、なのに可愛い、女の子らしいところもちゃんと持ってる。素敵な人だって、今も思います」
「うん。……うん」
「けどやっぱり……ミュールの奴を放っておけないんです。危なっかしいあいつの隣にいてやりたい。それが、俺の答えです」

 目前に伸ばした私の手は、何も掴まないまま。
 優しい拒絶の言葉に、一瞬頭の中で膨らんだたくさんの感情を全部閉じ込めて、堪えて、ありがとう、と返しました。
 希望がほんの一欠片もなかった、とは言いませんが。
 元々最初から、わかっていた結果です。
 身を切るような痛みも、喉を焼く切なさも、許容範囲の内。

「ありがとう。ちゃんと答えてくれて」

 もう一度そう伝え、私はライナーに背を向けます。
 振り返った先、そこに立つ人影は、どことなく不機嫌そうな顔でこちらを見ていました。

「お待たせしました」
「別に。さっき来たところよ」
「まるでデートの口上ですね」
「笑えない冗談だわ。自分でもそう思うでしょ」

 ――では、私の戦いを始めましょう。










 さっき来たところ、というのは嘘じゃない。
 けれど、丁度シュレリアが告白するタイミングに鉢合わせたことまでは言わなかった。
 昨日の夜、この話を持ち出された時から、薄々予想できてた展開。なのにどうにも落ち着かなくて、似合わない不安まで抱いてしまった。
 ライナーは断るだろう、と信じていても、当人の口から聞いたわけでもなし。絶対でない以上、それは簡単に振り払えるものじゃなかった。
 弱くなったわ。
 こんな些細なことで苛つくなんて、昔の自分じゃ考えられないもの。
 まあ、でも。
 今のわたしは、それさえ悪くない、と思える。

 一つ目の“再戦”はこっちの勝ち。
 そして、次の“再戦”にも負けるつもりはない。

「言っとくけど、本気でやるわよ」
「辺り一帯を吹き飛ばさない程度にしてください。私もそう心がけますから」
「善処するわ。ついでにライナーも吹っ飛ばさないように」
「はい。……こうして対峙するのは、実質二度目ですね」
「あの時はタスティエーラの横槍で無効試合だもの。今回で、白黒付けてあげる」
「こちらこそ、貴女を叩きのめしてみせます」

 未だ状況を掴めてないライナーに「離れてなさい」と一喝し、身構えるのと同時。
 リンゲージを装着したシュレリアが、バイザーに覆われていない口元を緩め、呟く。

「……っ!?」

 瞬間、数歩分あった距離を手の届くところまで詰められ、私は反射的に後ろへ跳んだ。
 ――通常詩魔法は、長い時間を掛けて詠唱する。謳うほどに塔から引き出せる力は増すし、加速度的に上昇していくものよ。
 レーヴァテイルは矢面に立つことがほとんどない。つまり、そうそう邪魔の入らない安全な状況で、一撃必殺の火力を紡ぐスタンスが基本だわ。しかしそれだと、もし前衛に頼れない時、貧弱さを露呈してしまうことにもなる。
 ならば、相手に近付かれた場合はどうするか。
 簡単な話。
 詠唱時間を極端に短くすればいい。

fhyu風よ!」

 シュレリアと同じ単語を選択。一音節のヒュムノスが大気の流れを生み出し、本来の着地点よりさらに遠い場所まで私の身体を運ぶ。
 先ほど向こうがやったのは、風による移動補助。こっちの回避がワンテンポ遅れてれば、次の一手で痛い目に遭わされてたかもしれない。
 油断はなし。端からそのつもりだったけど、今のシュレリアは怖いくらいに“本気”だわ。
 ……ちょっとでも気を抜けば、用意に足を掬われる!

rana zeeth駆けよ鎖!」
grard守護を

 あまり猶予はない。最低限の詠唱で射出した四本の鎖が展開された障壁に弾かれたのを確認しつつ、間髪入れず別の詩魔法で迎撃する。
 今度は炎。それを自分の前面、半円上に撒き、さらに一歩下がって長めの詠唱を準備。切り替えれば炎は消えるけど、ほんの僅か時を稼げたなら充分よ。
 燃える赤色を吹き散らし、私の頬と髪を撫でた風が治まると、予想通り、シュレリアの姿は正面にあった。
 敢えて。
 そこから動かなかったあの子の意図を悟る。

「早く倒れなさいよね!」
「それはこちらの台詞です!」

 掲げた手を振り下ろし、短い間に溜めた赤魔法が激突した。わたしの闇球とシュレリアの光球は丁度互いの中間で相殺し、どっちにも抜けることなく消える。
 あとはもう、単純なせめぎ合いだった。
 精神力と集中力を削りながら、持てる能力の全てをぶつける。
 似合わないわね、と思う。
 こんなにも泥臭い戦い方なんて、今まで一度もした覚えがない。
 頼れる前衛、無防備な自分を任せられるパートナーはなく、貧弱で持久力皆無のこの身体は既に限界間近。息が上がって、酷く辛い。足は重いし、さっき掛けた加護が切れればまともに動けなくなる予感さえある。
 ……負けるのは簡単だわ。
 膝を付けばいい。そうすれば楽になれる。
 けれど、その選択肢だけは絶対に選ばない。

「つ、ぁっ!」

 頬を掠めた風に構わず、わたしは身を前に倒した。
 二歩先、固く結ばれたシュレリアの唇が薄く開く。僅かな焦りを滲ませながら、短縮魔法のために掲げていた右手を下ろし、代わりの左手をこっちに向けてくる。
 詩魔法はわたしたちの意識の産物。どうやって撃っても同じ効果を発揮するけど、よほど広域にわたるものじゃない限り、射出の方向を決めてやらなきゃいけない。ましてや単純な、短い詠唱なら尚更。
 なけなしの体力を振り絞って、片足を投げ出す。
 踏ん張り、崩れかけた姿勢を保たせ、体当たりに近い形で突き出した手のひらが、シュレリアの腹に触れる。
 タイミングはほとんど一緒だった。
 わたしの胸元にも、開かれた五指がある。

「……続ける?」
「いえ、止めておきましょう。これなら相打ちです」
「どうかしらね。処理速度ならわたしの方がコンマで早いわよ」
「貴女を吹き飛ばすだけなら大差ありません。だいたい何ですか、さり気に殺す気でいたでしょう」
「酷い言いがかりだわ。そういうあなたこそ殺る気満々だったんじゃないの」

 睨み合う。
 だけどそれも長くは続かなくて、わたし達は二人揃って吹き出した。
 ぱたん、と背中から倒れる。シュレリアもリンゲージを転送し、こっちの隣で仰向けになった。

「ちょっ、え、ミュール、シュレリア様ー!?」

 どうやら最後まで観戦に徹してくれてたらしいライナーが、慌てて駆け寄ってくるのを横目で捉えつつ、視界いっぱいに広がる空を見る。
 汗で湿った身体に、緩い風が心地良い。

「引き分けね」
「引き分けですね」
「……本当に勝つ気だった?」
「当然です。端から負ける戦いに挑むほど、私は無謀ではないつもりですよ」

 そう。

「そういうことに、しておくわ」










 結局わたしはまともに起き上がれず、ライナーの助けを借りてどうにか帰宅した。全身汗まみれで物凄く不快だったから、シュレリアと一緒に風呂場へ直行。どっちが先に入るかで争うような気力もなく、アヤタネが用意してくれてた湯船にわたしが一足早く浸かる頃には、お互いこれ以上ないくらいにだれていた。

「疲れが抜けてく感じがするわね……」
「もう少し体力を付けた方がいいですよ。貴女はスタミナが無さ過ぎです」
「だって必要ないもの。雑事はアヤタネに任せればいいし、ELMAに乗れば移動も楽だし。シュレリアこそどうなのよ。リンゲージに頼り過ぎてるんじゃない? 最後の方なんて思いっきり息切れてたわよ」
「……貴女よりは遙かにマシです。最近はリンゲージなしでいる時間も多くなりましたし」
「その分転ぶ回数も増えてるみたいだけど」
「私だって、転びたくて転んでるんじゃありませんっ」
「じゃあ足下だけ見て歩いてみたら?」
「それでは前が見えないでしょう……。壁にぶつかると痛いんですよ、あれ」
「……既に実行済みなのね」

 わたしもシュレリアもいくらか小柄とはいえ、二人で入ると少し窮屈に感じる。
 身体を洗い、湯に髪が落ちないようアップでまとめたシュレリアは、縁に背を預けるわたしに「もうちょっと寄ってください」と視線で語った。仕方なくずりずり動いて場所を空けてやる。
 ちゃぷ、と肩まで沈む音の後には何も続かない。しばらく、微妙な静寂が漂う。

「……時折、あなたが羨ましくなります」

 唐突に、そんなことをシュレリアが言った。
 湯の中で姿勢を変え、両腕で膝を抱えて、俯きがちに呟く様子は、それこそ年頃の少女みたいだった。

「慰めてはやらないわよ」
「わかってます」
「ならさっさと本調子を取り戻しなさい」
「……わかって、ます」

 わたしは縁から背を離し、足を組み替えて反対側に寄り掛かった。両手を枕にして顎を乗せ、溜め息を吐く。
 肩に張り付く髪を指でくるくる巻いたりしながら、水面に沈みかけているシュレリアを敢えて無視した。
 しゃくり上げるような、声。
 微かな雫の落ちる音とそれが聞こえなくなるまで、わたしは無言を貫き通した。

「ミュール」
「なに?」
「ちゃんと大事にしないと掻っ攫いますからね」
「言われなくても隙は見せないわよ」

 先に出ます、とシュレリアが立ち上がる。
 細く白い背中はやけにか弱くて、けれど今は、しっかり伸びていた。
 扉が閉まる。湯はだいぶ温くなってきたけど、もうしばらく入ってようと思う。

「……馬鹿よね、あの子」

 わざわざ敵に塩を送ることもないでしょうに。
 まあ、でも。
 ここまでお膳立てされて、何もしないままってわけにはいかないでしょ。
 湯船に首まで浸かり直し、わたしは計画を練り始めた。
 ――勝負は、夜が更けてから。










「入るわよ」

 ライナーの部屋に訪れたのは、日が変わる直前の時間だった。
 いつもよりはだいぶ遅い。もしかしたら寝ているかもしれないと考えてもいたけれど、ベッドで仰向けになっているライナーは、どうやら読書中らしかった。
 本当に読んでるのかはともかくとして。

「相変わらずノックしないな……」
「してほしいなら鍵を掛ければいいじゃない」
「まあそうなんだけどさ」

 こっちの姿を認め、開いた本を枕の横に伏せてライナーは起き上がる。
 特に何も言うことなく、昨日と同じ場所に自然と落ち着いた。

「で、どうしたんだ?」
「別に。用がなければ来るなとは言わないでしょ?」
「そりゃあなあ……。でも、てっきり今日は来ないもんだと思ってたから」
「あら、何故かしら」
「普段ならもっと早いだろ。だからもう寝たか、何か他にやることあるんだろうなって」
「ふうん。つまり、わたしが来るのを期待してたのね」
「そんなことは……いや、ないとは言わないけど」

 口にしてて恥ずかしくなったのか、尻すぼみになった声を誤魔化すようにそっぽを向いたライナーの肩に、わたしは軽く頭を乗せる。
 嫌がられはしない。
 ライナーは、わたしを拒絶しない。

「あなたがシュレリアに何て答えたかは知らないわ」
「………………」
「ただ、忘れないで。わたしがここにいるのも、あの子がああしたのも、全部自分で選んだこと」

 一転、

「もしシュレリアを振ったことを気にしてるなら、それはあの子に対する侮辱よ。わたしはあの子が嫌いだけど、今日の勇気には敬意を表したい。だから」

 地に付けた足に力を入れ、腰を浮かせて百八十度身を回す。両手で肩に触れ、突然のことで反応できていないライナーを押し倒す。
 ベッドの上で、わたしはライナーのお腹辺りに跨った。
 呆然としたその顔を、見下ろす。

「今は、わたしを見なさい。わたしだけを見なさい。わたしがあなたを選んだように、あなたもわたしを選んだんだと、心の奥底にまで刻みつけて」

 ゆっくりと、鈍い馬鹿の表情に理解の色が広がっていくのを確かめてから。
 ――わたしはそっと、唇を落とした。



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