ミシャが滞在するようになって五日ほど(ジャックは買う物を買ってすぐに塔を降りていった)、表面上は大人しい時間が続いた。ライナーは溜まり気味だったグラスメルクの依頼を消化し、それをわたしが、時折ミシャも加わって手伝った。
 おかげで……なんて自分で言うのも何だけど、依頼分は全て完了。少なくなってた材料を取りに行く余裕さえあったくらい。

「騎士の仕事なくなっても、これ一本でライナーはやっていけそうよね」
「結構いいんだよなあ、グラスメルクの報酬って……」
「依頼が来なくなったらおしまいでしょうけどね」
「そ、そうならないように頑張るさ」

 微妙に声が震えてたことには気付かなかったふりをしてあげた。
 ともあれこっちは比較的穏やかな日常を過ごしてたけど、シュレリアとレアードの二人はというと、ネモ及びほたる横丁との折衝でいつも以上の激務に苛まれていた。
 ――現状、あとわたしが会って話を聞きたいのはオリカ一人だけ。しかし、今はカルル村ってところの宿屋でオルゴール職人をやってるらしい彼女は、そもそも連絡を取ることが難しい。まあ、ホルスの翼でもかなり端の方にあるみたいだから、色々不便なのも理解はできるわ。
 そうなるとやっぱりグングニルで直接行くのが一番早いんだけど、これには問題がある。
 通常飛空挺が通るルートは、ネモ〜ほたる横丁間、ネモ〜塔区画間、ほたる横丁〜塔区画間の三つ。このうち前者は定期便も出ている、最も交通量の多いルートよ。
 当然定期便はきっちり時間が決められてるし、物資運搬目的の挺も許可なくしては渡れない。足場のない高空で衝突事故なんか起こしたら大惨事だもの。だから、予定外の運行があった場合、ややこしい責任問題に発展しかねない。それを避けるためにも、シュレリア達は予めグングニルの発進時刻と到着予定時刻、おおよその通過航路を打ち出して関係者各位に伝えてるというわけ。
 勿論このルールに例外はない。カルル村へ直接向かうにしても、必ずホルスの翼上空を通ることになる。事故の起こり得ない安全なルートを算出して、後で不審者扱いされないよう手回しをしてもらう必要があるわ。
 そういった諸問題が一通り片付いたのが昨日。夕方に帰ってきたシュレリアの話を受け、わたし達は出立の準備を夜のうちに終えた。
 明けて翌日の朝、先方に伝えた時刻に合わせて、ギャザーに集まる。さすがに三回目ともなると、緊迫感みたいなものは皆無よね。見送りに来たシュレリアとアヤタネも、いってらっしゃいのひとことで済ませて大聖堂と家にそれぞれ戻っていったし。

「これに乗るのも久しぶりね……」

 高所が苦手だというミシャは、座席に腰を落ち着けてから小さく震えた。別に足下が透けて見えるわけでもないのに、と思ったけど、単純に地面が遠い状況が駄目なのかもしれない。

「前みたいに着くまで目閉じてればいいよ。あれから改良してるらしいから、そんな揺れもしないしさ」
「うん、そうさせてもらうわ」
「歌でも歌ってれば気が紛れるんじゃない? 興味あるのよ」
「確かに気は紛れるだろうけど……二人に聴かせるのは、ちょっと恥ずかしいかな」
「詩姫やってるくらいなんだし、人前で散々歌ってきたんじゃないの?」
「それとこれとは話が別よ。ライナーもミュールも、見知った顔だもの。名前も知らない人達とは違うでしょ」
「俺もミシャの歌は聴いてみたいけどなあ」
「う……わかった。後で、一曲だけ」

 言質を取ってから、ライナーが機器に手を掛ける。鈍い機動音に続き、機体が軽く震えて動き出す。
 緩やかな浮遊感。ギャザーの中で軽く旋回し、開け放たれた短い滑空路の先、障害物のない空にグングニルは身を踊らせた。

「シートベルトは忘れてないよな?」
「大丈夫よ」
「こっちも問題ないわ」
「了解。それじゃ行くぞ、っと!」

 視線はそのままに、世界が落ちる。
 ナビゲーションシステムが示すルートに従って、ライナーは操縦桿を傾けた。










 木々のない拓けた場所に、飛空挺の巨体はゆっくりと下りていく。周りに被害が及ばないよう細心の注意を払いながら、ほとんど音もなく静かに着地。地面が水平じゃないから若干視界が上向きになってるけど、それさえ除けば大人しいものだった。

「ミシャ、目開けていいわよ」
「ん……ふぅ。もう着いたのね」

 シートベルトを外し、ようやく解放されたと一息吐く。あのお腹辺りを締め付ける感覚は何度味わっても慣れない。かといってしなければ危険なのもわかってるので、いつも飛空挺に乗った後は微妙な気分になる。
 動力を落としたライナーがハッチを開け、わたしとミシャが先に表へと出た。搭乗部は地面に隣接してるから、軽く飛び降りればいい。簡単な点検を済ませてライナーも続き、

「懐かしいな。俺が初めてオリカに会った場所だ」

 空を見上げて、ぽつりと呟いた。
 改めて周囲を窺うと、グングニルの着地点が大きく抉れてることに気付く。何か重い物で削ったような跡。土の見え方から言って、たぶん斜めに突っ込んだんでしょうね。微妙に機体で遮られてるけど、奥の方はより抉れが深くなってるもの。
 プラティナにはない、青い草の匂いと柔らかく澄んだ風の心地良さを感じる。

「村まではどのくらい?」
「十分も歩けば着くよ。たまにモンスターが出るけど、この辺のは全然怖くないから」
「じゃあ、何かあった時は任せるわ」
「何にも起きないとは思うけどな」

 すたすたと歩き始めたライナーの後ろに付き、わたしとミシャも足を踏み出した。危険はないという言葉通り、ライナーにあまり警戒してる様子はなく、おかげでこっちも気を抜いて景色を眺める余裕があった。
 舗装こそされてないものの、それなりに人の手が入ってるらしき道を行く。高い背の木々が邪魔をして、森の先がどうなってるのかはわからないけど、枝葉の隙間からうっすらと石柱のようなものが見える。

「ねえミシャ。カルル村ってどういうところなのかしら」
「うーん、そうね……ネモから遠い分、色々不便なところなのよ。村とネモの間には、チェロ森を突っ切る形で街道が敷かれてるんだけど、獣やモンスターが出たりして危ないの。だから、何というか」
「寂れてる?」
「そこまでは言わないけど、人が少ないのは確かよ。あと珍しいところを挙げるなら、ポチョマー先生っていうグラスメルクの達人がいることかしらね」
「俺はその人に基礎を習ったんだ。こっち来るのも久しぶりだし、オリカに会ったら挨拶してくるかなあ」
「別に宿屋に顔出さなくてもいいから、行ってくれば? ライナーがいなくてもオリカと話はできるし、わたしは困らないわよ」
「…………絶対オリカのとこ行ってからにする」

 退屈凌ぎにライナーを弄って満足したところで、わたし達は森を抜けた。
 踏み馴らされ露わになった土が作る道の先、歩いてる時にも見た石柱が幾本もまばらに立ち並ぶ、村の全景が視界に入る。
 今まで訪れたどの街とも趣が違う。建物や整えられた村道の合間に、密度の高い木の群が生えている。
 森の中に人が住む場所を作れば、こうなるんでしょうね。都市部と比べて利便性が低いことに目を瞑れるなら、のどかな暮らしを求める者にはいいところかもしれない。
 上空を通った飛空挺を目撃してたのか、ヴィオラ森から出てきたわたし達に、道行く村の人々は興味深そうな視線を向けてくる。中にはライナーやミシャの顔を覚えてるのもいるらしく、手を振ったり軽い会釈をしてくることがあった。

「お、あんたまた違う女の子連れてるんだね!」
「思いっきり誤解招きそうなこと言うのはやめてくれよ!?」
「でもライナー、ある意味事実よね」
「ミシャまで……」
「こないだの詩姫さんじゃねえか。次来るのを楽しみにしてるぜ」
「ふふ、そう言ってもらえると嬉しいです。いずれ、遠くないうちに」

 歩きながら二人が応対してる間、誰に声を掛けられることもなくぼんやりしていたわたしは、正面で数人の子供が走っていくのを見た。きゃっきゃとはしゃぎ、楽しそうにどこかへ向かう姿に、そうか、人間にはああいう時期があるのか、なんてことを思った。
 第三世代レーヴァテイルは、寿命を除けば成長の仕方は他の人間とほとんど変わらない。人の腹から産まれ、育ち、大きくなっていく。
 ……どれも、ベータ純血種として生まれた身には有り得ない境遇だわ。
 それが“幸せ”なのかなんて、わからない。力の有無で論ずるならば、人の生まれは不幸よ。わたしには常人が行使し得ない能力がある。そのアドバンテージを一種のマイナス要素だと考えたことは、これまで一度もない。
 だからきっと、今抱いてる気持ちは、憧憬とか羨望とかそういうものじゃなくて。
 わたしの知らない無邪気さを、決して持ち得ないものを、ただ、壊さずにいられればいい、と。
 ……我ながら似合わない思考だわ。
 気分転換も兼ねて、二人に会話を持ちかける。

「……そういえば、プラティナじゃあまり子供は見なかったわね」
「遊べる場所が少ないからな。でも、たまーに大聖堂でうちらの訓練の見学とかしに来たりしてるぞ」
「憧れる子も結構いたっけね。ライナーもそうだったし」
「騎士の仕事は志願制でしょ? 文字通り命懸ける職なんだから、それで引っ掛かってくれれば安いものよね」
「引っ掛かってくれればって……確かに、あんま子供に見せるようなものじゃないけどさ」

 若干憮然とした声色で、ライナーは唇を尖らせた。

「別に、あなたのしてることを馬鹿にするつもりはないわよ。プラティナ政府だけじゃない、教会も天覇も、やってることは同じでしょ。危険を排除するために、その道を選んだ人間を危険に遭わせてる。取り繕わずに言えば、意図的にその道を選ばせようとしてる」
「……ん、そうだな」
「そういう打算的な面はあるでしょうけど、だからって、あなたのしてきたことが否定されるわけじゃないわ。事実あなたのおかげで助かった者もいる。ならそれで充分なんじゃない?」
「巧妙に話をズラしてるわね……」
「ミシャ、何か言ったかしら」

 納得するライナーの隣、小さくこぼしたミシャが首を横に振る。
 ……棘のある言葉ばっかりで悪かったわね。ふん、この性格は変わらないわよ。
 なんて心中で毒づきながら、一応ライナーを窺う。難しい顔をしてるものの、特に不機嫌なようには見えなかった。
 しばらく無言で歩く。

「……あのさ」
「何?」
「騎士の本分は、やっぱりみんなを護ることだと思う。俺の動機は不純なものだったけどさ、今はそれを誇れるようになりたいんだ」
「………………」
「もし、そんな俺を見て憧れて、騎士になりたいっていう奴がいるんなら嬉しいし、有り難いことだよ。そりゃあ怪我したり死にかけたりもすることもあるけど、だったら俺はそうならないように努力するし、他のみんなにも頑張ってほしいと思ってる。世の中に、自分一人じゃどうにもならないことがいっぱいあるのは、旅をして強く実感したから」
「それで?」
「あー、だから何つーか、その、ありがとな、ミュール」
「……何でそこで感謝の言葉が出てくるのよ」
「言うことはきついけど、俺のこと考えてくれてるってのが伝わってきたからさ」

 不覚だった。
 無意識のうちにこの馬鹿を心配してたことが、じゃない。
 要らぬ感謝をされたのに苛立たないことが。
 それどころか、一瞬胸の奥にふわりとした感情が生まれたことが。
 いつもと変わらない脳天気な笑みをこれ以上見ていられなくなり、わたしはぷい、とそっぽを向いて足を速める。

「……先に行くわ」
「え、ちょっとミュール、場所わかるのか?」
「どうせもうすぐでしょ。迷ったらその辺の誰かにでも訊くわよ」

 勢い余って蹴り飛ばさなかった自分を、今回は褒めてやりたかった。










 塔の下亭、と書かれた看板のある建物の前に到着したのは、ほぼ同時だった。ライナーとミシャがすぐ後ろを追いかけてきて、結局こっちが急いだ意味は全くなし。こうなるともう変に意識するのも自意識過剰みたいになるので、溜め息ひとつで頭を切り替え、わたしは表の呼び鈴を鳴らした。

「あ、はーい、今行きますー」

 間延びした声と共に中で足音が響き、玄関の扉が開けられる。目が合い、その視線がわたしの背後に及んで、

「え? あれ、ライナー、ミシャちゃん、それに――」
「はじめまして、ではないわよね」
「ミウちゃん!?」
「誰のことよ」
「たぶんミュールのことじゃないかな……」
「オリカのネーミングセンスは独特だものね……」
「うわあ、三人ともよく来たね。上がって上がって。久しぶりだしゆっくりお話ししようよ」
「……その前に訂正しなさい。わたしはミュールよ」
「うん、知ってるよ。ミウちゃんだよね?」
「………………」
「ミュール、修正は無理だから大人しく受け入れた方がいいと思うぞ」
「屈辱だわ……」

 中はそこそこ広かった。全体的に質素な内装で、宿屋としては最低限の設備だけが揃ってる、という感じ。入って正面にあるカウンター奥には、大小様々な装飾の、金属製の箱が並べられている。
 オルゴール。どういうものか知ってはいたけれど、実物を見るのは初めてだった。

「もしかしてミウちゃん、興味ある?」
「ないとは言わないわ」
「どうして素直にあるって言えないのか痛ぁ!?」
「ライナーも学習しないわね……」

 呆れたようなミシャの呟きに苦笑しつつ、棚上のオルゴールをオリカがひとつ手に取る。ことん、とカウンターに置いて蓋を開けると、側面に付いているゼンマイを何度か回した。
 内部の筒がゆっくり動き出す。不揃いな突起を隣接した爪が弾き、柔らかく耳障りのいい音が響き始める。

「こういうのを作ってるんだ。あんまりお客さんは来ないけど、常連さんは何人かいるの」
「上手く行ってるんだな。後でちょっと見せてもらってもいいか?」
「勿論いいよ。何なら今からでも――」
「悪い、これから軽くポチョマー先生のとこに挨拶してくるからさ。まあ、そんな掛からずに戻ってこれるとは思う」
「あ、そうなんだ……。ミシャちゃんとミウちゃんは?」
「元々わたしはあなたに話があって来たのよ。ライナーがいなくても全く支障はないから、しばらくここにいるわ」
「私もここに残るわね。折角ライナーが席外してくれるって言うんだし、女の子同士でしかできないお話でもしましょ」
「そっか。わかった、じゃあ表は閉めておくね」

 鳴り止んだオルゴールの蓋が閉じられた。
 ライナーを送り出し、営業中と書かれた小看板を中に仕舞う。来客用らしいテーブルのところに椅子を一個追加して、座ってて、とオリカは近くの台所に引っ込んだ。
 一分ほどしてから、お盆を持って戻ってくる。

「ミウちゃんはお茶飲める?」
「よく飲んでるわ」
「なら大丈夫だね。お煎餅は適当に食べて。はい、ミシャちゃんも」
「ありがと。ん、いい匂いね」

 湯呑みを手に取り、軽く口を付ける。苦味と仄かな渋味が舌に染みた。
 胃に落ちる熱を感じながら、テーブルの中心、木の器に積まれた煎餅を一枚掴み、齧る。端を歯で割り、再度お茶で喉を濡らして、わたしは本題を切り出すことにした。

「オリカ・ネストミール。わたしはあなたに、謝罪しなければならないことがあるわ」
「え? そんなのあった……かな」
「いくつかあるわよ。まず、あなたの身体を乗っ取ろうとしたこと」
「…………ああ!」
「もしかしてオリカ、忘れてたの……?」
「ううん、そういうわけじゃないんだけど……色々あり過ぎたから」

 いきなり話が進まなくなる。
 欠けた煎餅でテーブルを叩き、続けるわよ、と溜め息を吐いた。

「次。これはクレアにも言ったけど、スクワート村の襲撃事件について。直接の関係がないとはいえ、ミシャが攫われた理由、根本の原因はわたしにあったと言えるわ」
「この辺の細かい事情は前に話したわよね」
「覚えてるよ。ミシャちゃんを連れ去った天覇の人達と、取り戻しに来たテル族の人達が争ってああなった、って」

 実行犯のボルドにそう指示したのは、当時既に教会の司祭となっていたカイエル・クランシー。といっても、本来の目的は星詠のミシャを殺すことだったみたいで、欲を出したボルドがその力を利用しようとした顛末があの事件なのよね。
 まあどちらにしろ、クレセントクロニクルからミシャを除くことでわたしを解放する、という目的は達せられたわけだけど。
 そういった思惑があった以上、望む望まないにかかわらず、わたしは無関係じゃない。良かれ悪かれ、こうしてここに来るまでのきっかけになったのも間違いないし。

「あとは、最初の話にも関わることね。あなたの精神世界に入り込んで、ティリア神の生まれ変わりとか嘘吐いたのもわたしよ」
「……何となくわかってたけど、やっぱりミウちゃんだったんだ」
「ええ。第三世代であるあなたがヒュムネコードを持っていて、ヒュムノスをダウンロードできるのも、スペクトラム遺伝子――レーヴァテイルとしての性質が、わたしに酷似してたから。要するに、塔はあなたを“ミュール”として認識してるのよ。だから普通は外からアクセスできない精神世界にも、簡単に侵入できた。さすがにもうするつもりはないけど」

 通常、レーヴァテイル個人個人のコスモスフィアは、境界門で明確に区切られてるわ。ファイアウォールの役目も果たすそこを通り抜けるのは難しいし、強引に門を壊して侵入した場合、そのレーヴァテイルの精神が異常を来す可能性も充分に有り得る。
 でも、オリカとわたしは塔が同一個体と誤認識してるから、そもそもファイアウォールがまともに働かない。実際境界門もほとんど素通りに近かった。

「仮にもレーヴァテイルのための世界を目指してたわたしが、そのためにレーヴァテイルであるあなたを散々利用した。我ながら本末転倒だとは思うわ。……今更だけど、本当にごめんなさい」
「い、いいよそんな謝らなくても! それにミウちゃんはもっとこう、不服そうな顔でそっぽ向いて『……悪かったわね』って言う方が似合ってるよ!」
「言い返すところそこなの!? しかも今すっごい似てたし……」
「だって、素直なミウちゃんって何か違和感あるような気がして」
「……随分言うわね」

 天然で毒舌だとか言葉に遠慮がないとか、ライナーとミシャから事前に聞いてはいたけど。
 折角真面目に行こうとしてたのに、もうぶち壊しじゃない。
 らしくもない殊勝な態度取ろうとしてたさっきの自分が馬鹿らしくなってきたわ。

「ともかく、これだけは直接伝えておきたかったのよ。わたしなりの“けじめ”として」
「んー……でもそれって、ミウちゃんが自分で納得するためにやってる、みたいに聞こえるよ」
「否定はしないわ。謝罪や贖罪なんて、どこまで行っても自己満足だもの。でも、何もしないよりは遙かにいいわ。お互いにね」
「……そっか。うん、ごめんね。ちょっと意地の悪い言い方しちゃった」
「それこそお互い様、でしょ」

 両手で煎餅を真っ二つにして、分かれた片方をさらに砕く。一口サイズになったものを舌の上に乗せ、言うべきことは言った、とわたしは態度で示した。
 そこからしばらくは取り留めのない会話が続いた。オリカは先日訪れた奇特な客の話をし、ミシャは旅の途中で少しの間一緒になった楽士との競演についてを喋り、わたしは如何にライナーが配慮の足りない唐変木であるかを滔々と語った。

「そうそうミュール、あなたに訊きたいことがあるのよ」

 器に入っていた煎餅がなくなり、オリカが台所に行って控えめな補充を済ませた後。二杯目のお茶を注いだミシャが、唐突にこっちへ矛先を向けてきた。
 その時わたしは湯呑みに煎餅を入れたらおいしいのかしら、なんてことを考えていて、小指の爪程度にまで割った欠片を水面に落とそうとしながら適当に先を促し、

「もしかしなくても、ライナーのこと、好きなの?」

 勢い余って砕いた。
 乾いた音と共に、摘んでいた親指と中指の間から、湯呑みの中と周りに粉状の煎餅がばら撒かれる。

「……やっぱりね」
「違うわ。ない。世界が滅びても有り得ない」
「そんなムキになって否定しなくてもいいのに」
「だから違うって言ってるでしょ。だいたい――」
「だいたい?」
「――わたしには“これ”が何なのか、わからない」

 ひどいことをするニンゲンはきらい。
 しいたげられてるレーヴァテイルはかわいそう。
 憎悪と憐憫の感情はあっても、特定の誰かを好意的に捉えたことは一度しかなかった。そしてそれも、決して恋や愛なんてのに分類されるものではないと断言できる。
 確かに、悪くは思ってない。脳天気で、鈍くて、勉強嫌いで、暇な日は半日くらいずっと寝こけてるような馬鹿だけど。
 やる時はちゃんとやる。自分の意思を曲げない。相手を理解しようと努力して、愚直なほど真摯にぶつかって、その結果傷付いても苦笑ひとつで済ませてしまう、とんでもないお人好し。
 ……少なくとも、わたしはライナーを高く評価してる。
 でも、それが“好き”に繋がるかと言われれば、やっぱりわからないのよ。
 わたしは知らない。自分が今抱えているものの正体を知らない。

「あなた達は、あの馬鹿のことが好きだったのよね」
「またストレートに訊いてくるわね……。とりあえず一箇所訂正。好きだった、じゃなくて、今でも好きよ」
「ミシャちゃんに同じく。あたしもまだ、ライナーのことが好き」
「シュレリアにかっ攫われたのに?」
「だからって簡単に振り切れたら苦労しないわよ。こういう気持ちって、もっとどうしようもなくて、どうにもならないものなの」
「他の人を探そうとも思うんだけどね。ついついライナーと比べちゃったりして、ここがダメとか、ライナーならこうしてくれるのに、とか余計なこと考えちゃうんだ」
「……理解できないわ」
「まあこの際私達の話はいいのよ。ただ、これだけは覚えておいて」

 テーブルの上に置いていた手を、ミシャは自分の胸に当てる。
 オリカに目配せし、何かを想起するかのように瞳を閉じて、

「心は嘘を吐かないわ。必ずどこかに“答え”がある。……本当はライナーをどう思ってるのか、改めて自分自身の気持ちと向き合ってみるのもいいかもね」

 二人が浮かべたのは、やけに透き通った笑みで。
 後にわたしは、その言葉と表情の意味を思い知ることになる。










「あのね、これからお父さんとお母さんのところに行くつもりなんだけど……みんなも来る?」

 戻ってきたライナーを加えた雑談も一段落した頃、唐突にオリカがそんな提案をしてきた。
 目的地はスクワート廃墟、彼女の故郷の跡地。位置的には最東端、かつてホルス右翼があった場所に程近い。わたしも一度そっちに足を運ぶ気ではいたので、さして迷わず同行を決めた。
 とはいえ、今から出ても着くまでには相当な時間が掛かる。オリカは普段ネモで一泊して向かうらしく、往復だと急いでも丸二日か三日は必要。こっちの帰還予定は明朝で、それをズラすには面倒な交渉をシュレリアに頼まなければいけない。
 よって、スクワート廃墟への道程は短い空の旅になった。

『……わかりました。おそらく問題ないでしょうが、一応確認が取れるまでは待機していてください』

 グングニルの操縦席には、試作型の通信機が設置されている。名目上は緊急時に連絡できるよう取り付けられたものだけど、シュレリアの職権乱用な気がしないでもないわ。可能な限りこまめに報告をお願いします、とかこっちが出る度ライナーに言ってるし。
 今回はそいつが役に立った。さすがに無断で飛ぶわけにもいかないから、シュレリア経由で向こうにルートを伝える。
 航路は単純。シルヴァホルンの影響範囲から外れない程度に、塔を中心として半円状に迂回する。これなら空港付近の飛空挺とも衝突する心配は皆無だわ。直進するよりは若干到着が遅れるけど、十分が二十分になるようなものよ。さして変わらないでしょ。

『ライナー、聞こえますか?』
「あ、はい」
『申請が通りました。提示したルートを守るようお願いしますね』
「了解です。夜にはカルル村の方に戻ってこれると思います」
『その際はまた一声掛けてください。私かレアードがいるはずですから。では、気を付けて』

 通信が切れたのに合わせ、慣れた指の動きでライナーがスイッチを入れる。背の高い木々はすぐに視界の下へ消え、百八十度の方向転換をした機体が、数秒でトップスピードに乗った。
 後ろで「久しぶりだねー……」と呟くオリカに、来る時似た台詞を口にしたミシャが目を瞑ったまま苦笑する。
 緩やかな右向きの曲線軌道を描きながら、聳え立つ塔を軸に空港都市ネモがあるラインまで到達。そこからは徐々に大地側へと寄り、高度を下げていく。
 着陸場所は、遠目に見えた廃墟から少し離れたところだった。降りて歩くこと数分、風化し始めた瓦礫の山がわたし達を迎える。
 荒れ果てた光景を前に、僅かにオリカが表情を固くした。けれどそれも数瞬、行こう、と告げて足を進める。
 入口から続く広い道の左右には、かつて村人が住んでいただろう痕跡がそこかしこに残っていた。中途半端に形を留めた家屋。焼けて煤に塗れた家具や壁、砕けた塀と崩れた床板。その隙間を縫うようにして小さく頭を覗かせた雑草が、やけに目に付いた。
 オリカの家は、村の奥にあった。前面の半分ほどがごっそりとなくなっていて、もう住居としての役割は果たせていない。剥き出しになった内装の中で、ひとつのぬいぐるみと写真立てが綺麗な姿のまま大事そうに置かれていた。

「ごめんね。ここまで付いてきてもらってこんなこと言うのも何だけど……今は、ひとりにしてほしいんだ」
「……俺達はしばらくその辺歩いてるからさ、終わったら呼んでくれ」
「うん。みんな、ありがとう」

 興味本位で見てていいものじゃないことくらいはわかる。
 わたし達はさっきの通りまで戻り、別の道から入口の方を目指した。
 ライナーもミシャも、いつもと比べて歩く速度が遅い。微妙に二人より歩幅の小さいわたしが、ともすれば先を行きそうになるくらいだった。
 意識して足運びの速さを緩め、改めて瓦礫を観察する。
 ふと。
 薄い花の匂いを感じた。

「……?」

 出所を探り、すぐに見つける。
 辛うじて家の形を保った建物の奥に、萎れかけた花束が横たわっている。

「そう。オリカだけじゃ、ないのね」
「……ミュール、いきなり立ち止まってどうしたんだよ」
「大したことじゃないわ。こんなところでも花が咲くのかって思っただけ」

 一瞬だけ向けた視線を外し、止めた足をまた動かす。
 ……次に訪れた時は、わたしもそのくらい準備しておこうかしらね。
 それが、感傷でしかないのだとしても。










 オリカと合流してスクワート廃墟を出たわたし達は、グングニルのある場所とは違う方角へ向かった。徒歩で十分弱、咲き乱れ一面を覆う白い花の群れる道を抜けると、大地の果てに辿り着く。
 追憶の尾翼。第一期の終わり、グラスノインフェリアで失われた命を悼んでここに巨大な慰霊碑が置かれた。けれど今となっては、いったい何のためにあるのかさえ知る者は少ないところよ。

「三人とも、ここに来たことはあるの?」
「グングニル造る時にソレイユストンって材料が必要になって、ちょっと石碑の欠片を持ってったんだよな……」
「オリカとミシャも?」
「あ、あたしは違うよ! 村に近いから何度か来たけど、特別何かあったってわけじゃないし」
「私はライナーと一緒に……」
「……二人で何やってるのかしらね」
「他に適切な材料はなかったんだもの、しょうがないじゃない……。それに、前にもライナーと来たことがあるのよ」
「石碑を壊しに?」
「お願いだからそこを引っ張らないで。前に来たっていうのは、星詠の務めに関係する話なの」
「星詠? わざわざこっちに下りてきて、何の用事があったのよ」
「やっぱりミュールは知らないのね。星詠は世代交代する際に、ここでプラティナからイム・フェーナのテル族に引き渡されるの。その時、ライナーもレアードに連れられて参加して……私にとってはすごく大事な思い出だったんだけど」

 ミシャが言葉を区切った辺りで、あからさまにライナーが視線を逸らした。

「もう一回ここに来るまで、ライナーってばすっかり忘れてたのよ。何とか思い出してくれたからよかったものの、もし完全に頭から抜け落ちてたら、あの時ライナーを突き落としてたかもしれないわ」
「命拾いしてたみたいね。よかったじゃない」
「よくない、全然よくないんだけど、どう考えても悪いのは俺だから弁解の余地がない……」
「まあ、ライナーだしね。しょうがないよ」
「オリカまで……」

 がっくり膝を付いたライナーは無視。
 一歩を詰めて石碑に触れ、少しざらついた表面を指でなぞる。

「その儀式は、どうしてわざわざここで行われてたのか、ミシャは知ってる?」
「いえ、そういえば……直接イム・フェーナでやればいいのに、何でかしら」
「わたしはわかるわ。おそらく、ではあるけれど」

 手は石碑から離さないまま、右手に回った。
 周囲を覆い尽くして咲き乱れる花を踏み越えながら裏側へ。
 ここからだと、雲海がよく見える。
 強い風が途切れた大地の下から吹き上げてきて、わたしの髪を煽った。

「ちょっ、ミュール、危ない!」
「足を滑らせるようなヘマはしないわよ。それより、この先」
「この先がどうしたの?」
「第二期の終わり、わたしがホルス右翼を落としたって話は聞いてるわよね。ライナーには直接話した覚えがあるし、オリカもミシャも、シュレリアかアヤタネに教わったでしょ」

 三人が肯定の声を返し、それに頷いてわたしは続ける。

「丁度ここが切れ目なのよ。本来はずっと向こうにも大地があった」
「見ただけじゃ全然わからないな……」
「でしょうね。元々ホルスの翼自体、雲海の下の大地を引っぺがしたものらしいし。千切れた箇所の見分けはつかないと思うわ」
「じゃあ、この場所は“名残”なのね」
「ええ。だから、さっきの星詠の儀式と話が繋がるのよ」

 当時テル族のトップだったのは、既にクレセントクロニクルと一体化していたタスティエーラ。
 星詠のシステムを考えたシュレリアと合わせれば、世代交代の儀式に追憶の尾翼を選んだ理由が見えてくる。

「ここは本来、グラスノインフェリア……第一紀の大災害で亡くなった人間を弔う場所よ。けれど、わたしが落としたホルス右翼に最も近しい場所でもある。シュレリアもタスティエーラも、それを忘れないために、ここへ来るようにしたんじゃないかしら」
「……星詠が、当時の惨事を引き起こさせないための存在だって忘れないように?」
「そう。そして、わたしが失わせた命も、ここで弔えるように」

 イム・フェーナでフラウト達テル族は、クレセントクロニクルに今はいなくなったタスティエーラの名残を見出した。
 この慰霊碑も同じ。後付けであっても、彼らは確かに悼まれてる。
 悼まれてると、信じる。

「……今更よね」

 手のひらに伝わる冷たい感触。
 硬い石の塊は、何も答えない。
 わたしは目を閉じ小さく祈って、三人のいるところに戻った。

「さ、帰りましょ。もう用事はないから」
「みんなに訊かないのがミュールらしいっつーか……オリカ、ミシャ、大丈夫か?」
「うん。元々あたしはこっちに寄るつもりなかったから」
「私も充分よ。いい話も聞けたしね」
「わかった。それじゃ行こう」

 いくら向き合ったところで、過去と完全に決別出来はしないわ。
 わたしの罪は、生きている限り永遠に付き纏う。
 誰にも責められないまま、抱え続けていくしかない。
 きっと、それがわたしに課せられた罰。振り返る度に心を苛むだろう、記憶の底に潜む小さな棘。

「あ、そうそう、今日のご飯、あたしが作ろうと思うんだけど……」
「待ってオリカ、折角だし二人で作りましょ。私も久しぶりに腕を奮いたいし」
「ライナーは参加しないの?」
「俺が混ざったところで邪魔になるだけだろうからなあ……」
「なら皿でも並べてればいいんじゃない?」
「ミュールは?」
「味見役をやってあげるわ」
「……俺と一緒に配膳係な」

 一歩前に出たオリカとミシャがくすくす笑う。
 わたしは溜め息混じりのライナーに軽く蹴りを入れかけ、しかし浮かせた足をそのまま正面に落とした。
 胸の奥で響く、微かな軋み。痛み。
 それを飲み込み、ライナーの左手を右手で取る。
 繋がった肌から伝わってきた動揺の震えは、黙殺。気持ち強く握ればすぐに治まった。

「ミュール……?」
「いいから。少しだけ、大人しくこうされてなさい」

 ――心は嘘を吐かない、ね。
 悔しいけど、確かにその通りだわ。

 自分の中で定義する。見つけた“答え”に、感情に名前を付ける。
 棘の痛みは、いつの間にか和らいでいた。





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