レーヴァテイルにとって、顕在意識の及ばない領域――つまり第六階層以降にダイブさせるということには、そこまでとはまた違った意味がある。
 そもそもわたしは、仮想世界に近いものを構築、維持することで、意図して自分の潜在的な面を見せないようにしてきたわ。人間を憎む気持ちが未だに存在する以上、精神世界でライナーが死にかねないからってのもあるけど……やっぱり、自覚できないところ、否定しようのない“わたし”の本心を晒すのは恥ずかしいって思いの方が大きかったのよ。
 だから、ほたる横丁での用件を終え、戻ってダイブさせて昔の話をしてから数日の間、わたしは微妙にライナーを避けてきた。なるべく違和感を出さないよう気を配ったつもりだったんだけど、そういうところだけ目敏いあの馬鹿はしょぼくれた顔で「なあミュール、もしかして俺、また何かやったのか?」とか面と向かって訊いてくるのよね。
 さすがにちょっと気の毒だったから、別にライナーが悪いわけじゃない、と言っておいたけど、そうしてると今度はシュレリアが横槍を入れてくる始末。ちなみにこっちはライナーの部屋の扉が壊れるだけで済んだ。
 結局二人してアヤタネにやんわり窘められて、その翌日に扉を直す羽目になった。……本当によくできた子だわ。まさか息子に叱られる日が来るとは思わなかったわよ。
 三分の二くらいが欠けた扉の蝶番を外して、新しいのを取り付ける。一人じゃ持てない重さだから、渋々シュレリアと協力して運んだ。

「……ところで、何故あそこまでライナーを避けてるんですか?」
「しつこいわね……」
「うやむやにされてはたまりませんからね。どうせライナーには言えないんでしょう。せめて私には教えてください」
「あなたに教える義理もないでしょ」
「最近ライナーが毎晩相談してくるんですよ。いい加減解決してもらわないと嬉し過ぎて……いえ、可哀想で困ります」

 今本音漏れてたわよ。
 ……でも、確かにライナーには話せないのよね。
 上部の蝶番を固定するネジをドライバーできゅっと回し、足場代わりにしていた椅子から降りる。

「こないだ、第六階層にダイブさせたのよ」
「ああ……そういうことですか。貴方のことです、ギリギリまで隠してきたんでしょう。ここまで来て内面を見せるのが恥ずかしくなったとか、そんなところだと思いますが」
「……自分でもよくわからないのよ」

 何かがいい方向に変わった、という感じはする。
 するけれど、その変化を肯定し難いわたしがいるのも事実。

「まあ、貴方は子供みたいなものですからね」
「随分な言い草じゃない。その歳でどこ行っても迷子になる癖に」
「そ、それは関係ないでしょう!? だいたい、貴方もほたる横丁で迷子になったって聞いてますよ!」
「迷子にはなってないわよ。ちゃんと目的地に着いたし」

 というか、あの馬鹿シュレリアに話したわね。

「……不毛なのでこの話はやめましょう。ともかく、あんまりライナーを避けないようにしてください。ヘコんでるライナーを見るのは心苦しいですし、変に意識してる貴方を見るのも調子が狂います」
「そうね。確かに、わたしらしくないわ」
「ええ。いつも通りでいてくれた方が、こちらも気を揉まずに済みますから」

 わたしに少し遅れる形で蝶番のネジを締め終えたシュレリアが、背筋を伸ばしてすっと頭を上げる。
 遠回しなつもりなのかはわからないけど、気遣いが見え見え過ぎて腹も立たない。
 椅子をライナーの部屋に戻し、扉がちゃんと開閉するかどうかを確かめてから、わたしは手元のドライバーをシュレリアに放った。

「じゃ、あとはよろしく」
「全く貴方は……。あ、ちょっと待ちなさい」
「小言ならもう要らないわよ」
「残念ながら違います。連絡事項ですよ」
「連絡事項?」
「明日、ミシャがこちらに帰ってくるそうです」

 自室に向かいかけてた足が止まる。
 振り返らず、けれど聞く姿勢を取ったわたしは、無言で続きを促した。

「具体的にいつ頃かは不明ですが、大聖堂の方には挨拶に来るでしょう。ちなみにこの件、ライナーには既に伝えてあります」
「……お膳立てはもう済んでるってわけね。わかったわ、丁度良い機会だもの。わたしも行く」
「貴方ならそう答えると思ってました」

 シュレリアの思惑に乗るのはかなり癪だけど、実際これは狙ったかのようなタイミングだわ。
 所在の知れてるオリカと違って、各地を回ってるというミシャは探すのに手間が掛かる、と踏んでたところに今回の訪問。元々会う予定ではいたけれど、向こうから来てくれるなんて、運が良い。

「詳しいことは後で聞かせて」
「そうですね、では夕食時にでも」

 それじゃ、迎え入れる準備をしましょうか。










 明けて翌日、昼前にライナーと大聖堂へ足を運ぶと、何度か目にした後ろ姿を見つけた。レアードとシュレリアがまずこっちに気付き、それから来客――ミシャも振り向く。軽く驚いた表情でわたしを注視してきたので、とりあえず「元気そうね」と言っておいた。

「ミシャ、おかえり」
「うん。ただいま、ライナー。……あと、ミュールも」
「おいおい、俺には何かないのかよ」
「あれ、どうしてジャックがいるんだ?」
「お前な、久しぶりに顔合わせてそりゃねえだろ……」

 微妙に離れた場所で手持ち無沙汰にしていたもう一人は、確か、ジャック・ハミルトン……だったかしら。
 物々しい銃型の義手が目立つ、軽薄そうな男。
 ライナーに呆れた声で答えた彼と、視線がぶつかる。

「……話にゃ聞いてたけど、マジで居着いてんのか」
「ん、まあ、色々あって今はうちに住んでる」
「うちってことは、シュレリア様とも?」
「アヤタネも一緒だぞ。今日は用事があるってどっか出かけてったけどさ」

 敵意……じゃないわね。
 認め難い、というような、複雑な感情をわたしは見て取った。
 最近こっちから会いに行ってた相手が、底抜けのお人好しや妙に割り切りの早い人間ばっかりだったからか、こういうのは逆に新鮮だわ。

「ちょっとアル兄、どうしてミュールを睨んでるのよ」
「睨んでるわけじゃねえよ。ただ、こいつがこんなところにいるのは違和感あんなって思ってただけだ」
「奇遇ね。わたしもここに長居したいとは思ってないの」
「………………」
「………………」
「いや、あの、ミュール、ジャック?」

 悪くない。そう、これは決して悪い状況じゃない。
 予定外の状況ではあるけれど、対象が二人に増えただけ。やることは変わらないわ。
 だからわたしはカードを切る。
 シュレリアとライナーに目配せをし、ジャックではなくミシャの方に。

「しばらくは滞在するのかしら」
「ええ、そのつもり。宿屋で部屋を取ろうかと考えてるんだけど――」
「うちに来れば? まだ空室もあるはずだし、そうすれば安く済むでしょ。あなたとは一度、腰を据えて話したいしね」

 こっちの提案に、ミシャは考える素振りを見せる。
 不利な条件は出してない。さほど時間を掛けずに小さく俯いていた頭が上がり、じゃあそうさせてもらうわ、と頷いた。
 
「……ライナー、俺もそっちに泊まらせてもらうぜ」
「え、ああ、別にいいけど……シュレリア様、大丈夫ですよね?」
「構いませんよ。空いてる部屋は後で掃除をしましょうか」
「……ミュールも、大丈夫だよな?」
「問題ないわ」

 予想通り乗ってきた。
 呆れ混じりで苦笑するシュレリアを尻目に、弱くライナーの袖を摘んで引き、

「それじゃさっさと帰りましょ」
「了解。シュレリア様はどうします?」
「レアードと少し政務を片付けるので残ります。お昼は適当にお願いしますね」
「わかりました。ミシャ、ジャック、案内するよ」
「何か物凄い所帯染みてるのね……」
「ライナーも随分慣れてんのな……」

 ここまで上手く状況が動いてることに満足しながら、大聖堂を後にする。
 ライナーに対する恥ずかしさは、いつの間にか消え去っていた。










 本来いるはずのないジャックが何故プラティナを訪れたのか、道中話を聞いたところによると、偶然イム・フェーナでばったり会ったからだという。

「ちょいとクルシェに買い物頼まれててな。下じゃ手に入んねえ物だから、リルラへの顔出しも兼ねてこっちまで探しに来たんだよ」
「そういや今一緒にいるんだっけか」
「体のいいパシリね」
「うるせーよ! あいつもう結構な立場だし、あんまり職場空けられねえんだって」
「ミシャは?」
「俺の言い分は無視か!?」
「まあまあアル兄……。私はフラウトさんとリルラに挨拶をしにね。あと、クレセントクロニクルを改めて見ておきたくて」
「……そう」

 わたしが以前自分の中で決着をつけたように、ミシャもまた、あの場所について思うところはあったんでしょうね。星詠の使命から解き放たれた後でも、クレセントクロニクルが彼女にとって特別な意味を持っているのは変わりないはずだもの。

「フラウトさんに、あそこを残したいって言われたわ」
「あなたはそれになんて答えたの?」
「構いません、って。もうわたしがいる必要のない場所だし、今更壊したってしょうがないから」
「同感ね。もう一度封じられるのは御免だけど」
「こっちはそんな気ないから大丈夫よ」

 若干打ち解けた辺りで家に着き、帰ってきていたアヤタネに迎え入れられる。居間で四人揃って椅子に腰を下ろし、アヤタネが淹れたお茶で唇を濡らして一息。

「アヤタネ、悪いけどしばらく下がってて」
「はい、母さん。ライナー、後は任せたよ」
「わかってる。無茶なこと言い出したら止めるさ」
「……ひとこと多いこの馬鹿は置いといて、ジャック――でいいかしら」
「他の呼び方もねえだろ。それでいい」
「わたしはミシャと話がしたい。できればそこに、あなたも同席してくれる?」
「……同席? いや、つーか話って、何するつもりだよ」

 僅かな不審と疑問が、低い声から滲んでいる。
 もっとも、その警戒心を拭おうとはこっちも考えていない。
 わたしは斜め向かいに座るジャック、続いて正面のミシャを見つめ、一呼吸置いてから口を開いた。
 簡潔に、けれど全てを包み隠さず、伝える。ライナーとシュレリアのところに転がり込んだことから、エレミアの騎士の一人にシャドウの話を盗み聞かれたこと、プラティナの住人に自分の正体を公表したこと。
 ライナーにダイブを許し、人間、テル族、レーヴァテイル――これまでライナー達が旅の途中に縁を得た者を訪ね、話を聞き、わたし自身の過去や罪と向き合っていること。
 
「……以上よ。何故わたしがここにいるのかも、今ので納得してもらえると思うんだけど」
「そういうことか……。“取引”についてはあいつから聞いてる。今回の探し物もそれ絡みだしな」
「ふうん。信頼されてるのね」

 僅かにぴくっとジャックの目尻が動いたのは、見なかったことにしておく。
 ま、言えなかったり言いたくなかったりする事情もあるんでしょ。そこに干渉する気はないわ。

「ともあれ、こっちが訊きたいことはひとつよ」
「私達が、ミュールをどう思ってるかね」
「ええ。身勝手で自己満足なのはわかってる。でも、わたしは自分があなた達にとって“どういうもの”なのか、はっきりさせたいのよ」

 過去の人間に都合の良い人形として生み出され、一般的な観念からすれば非道な扱いを受けてきた。これは真実。失われるものを省みずホルス右翼を落とし、結果的に多くの命を奪った。これも真実。
 相反する二つの要素は、けれど合わせてもプラスマイナスゼロにはならない。わたしの不幸と罪は不可分であり、そして別々のものだわ。
 だからこそ、禍根は残る。
 それをわたしは、きっちり受け止めなければいけない。

「……物心付いた時には、自分は“星詠”になるために生まれてきたんだ、って教えられてきたわ。小さい頃はライナーがいたし、大きくなってもアル兄がいてくれた。それでも、私はずっと自分の生まれを呪ってきた。使命なんてどうでもいい、いっそなくなっちゃえばいいのにって思ってきた。結局、ほんとになくなっちゃったけどね」
「………………」
「あなたほど悲惨じゃなかったけど、私も色々なものに縛られてたから。ミュールには結構、共感できるところもあるのよ」

 作られた命。与えられた役割。定められた生き方。
 細部の違いはあれど、わたしとミシャは、確かに似ている。

「ミュールがいたから私は星詠として生まれたの。それって、悪いことばかりじゃないから」
「……そう言ってもらえると、助かるわ」
「ううん。私だってミュールをあそこに閉じ込めてたんだし、そういう意味じゃおあいこだもの。だから私は、今更あなたを恨んだりなんてしない」

 ことん、と持ち上げた湯呑みを置いて、そうミシャは言い切った。
 私を真っ直ぐ捉える瞳からは、嘘も迷いも感じられない。全く揺れなかった。

「何となくわかってはいたけど――つくづく、ライナーもあなたもお人好しね」
「そう? 私なんてライナーと比べたらまだまだよ」
「微妙に褒められてる気がしないのはどうしてだろうな……」
「馬鹿ね。そこは素直に喜んでおけばいいのに」
「だってミュールが言うと裏があるようにしか痛ぁ!?」

 ライナーの滑りやすい口を物理的に閉じさせて、さっきから憮然とした表情を崩さないジャックに意識を移す。

「あなたは、納得できないっていう顔をしてるみたいだけど」
「……ミシャとは長い付き合いだからよ。こいつがどんだけ辛い思いをしてきたか、俺はよく知ってる。それでも逃げなかったのは、そうしてなきゃ世界が滅ぶって言われてたからだ。こいつはずっと、どこにも捨てられねえような、滅茶苦茶重いもんを背負って生きてきた」

 彼についての情報も、いくらかライナーには聞いていた。
 ジャック・ハミルトンの名前は、彼がホルスの翼に降りた時より使い始めたものだという。偽名ではない、その本名は、アルモニカ・デ・パメリ。タスティエーラと同じ、念願成就アルカの流派に属するテル族。
 七年前のスクワート襲撃戦にも参加していた彼は、そこでミシャを奪還し損ねている。長い付き合いというくらいだもの、おそらく星詠としてクレセントクロニクルにいた頃から知ってるんでしょ。
 使命とか力とか、そんなものに振り回されてきたミシャの、ある意味ではライナー以上の理解者とも言える存在。

「なあミュール。お前がどんなひでえことを人間にされてきたかは俺もちゃんとわかってる。でも、それとこれとは話が別だろ。結局、お前の存在がミシャを苦しめてたことに変わりはねえんだ。やっぱ、そこだけは許せそうにねえよ」

 理屈じゃない。理性で片付けられる問題じゃない。
 わたしが人間への憎しみを捨てられないように、どうしようもない“感情”が彼の中にもある。
 それを解消できるのは、たぶん、時の流れだけ。
 ――何もかもをクリアできるだなんて、思ってはいないわ。
 なのに、このままでいいのかと、心の奥底で問いかけてくる自分がいる。
 贅沢になった。今まで要らないと切り捨ててきたものも、割り切ってきたものも、放ってしまうのは惜しくなった。
 だって、全部救いたいと欲張って、頑張って、走り抜いた馬鹿をわたしは知っている。そんな夢物語みたいなことも、決して不可能ではないのだと、わたしはもう、わかってしまっている。
 贖罪とは、許されるための行為ではない。
 過ちを認めた上で、自分に何ができるかを探すことよ。

「ごめんなさい……と言ったところで、当然あなたには響かないわよね」
「ああ。つーか、そっちも本気で言ってねえだろ?」
「上辺だけの言葉なんて、何の価値もないでしょ。だからここまでは、予行演習みたいなものよ」

 そう。言葉をいくら弄したところで届くわけがない。
 ならば、もっと簡単で原始的な、相互理解の方法を選べばいい。

「ここからが本番。……四人で勝負しましょう」










 プラティナ大聖堂の中には、騎士達が訓練に使っているスペースがある。数十人単位が利用することも想定されてるらしいその空間に、審判役として引っ張り出したシュレリアとアヤタネも含めた六人で足を踏み入れた。

「午後いっぱいは貸し切りにしてあります。思う存分、とはいきませんが、実戦想定の模擬戦レベルであれば充分でしょう」

 ルールは単純明快。わたしとライナー、ミシャとジャックがタッグを組んで相対し、最終的に立ってた方の勝ち。
 詩魔法は周辺の壁や床を破壊しない程度のもののみ。頭部への攻撃は反則扱い。ジャックの主兵装、つまり銃器に関しては、模擬戦用の非殺傷弾を使うことになった。ライナーの武器も同じく刃を潰した訓練用。死にはしないし血も出ないけど、勿論当たれば痛い。
 広々とした空間に、地を擦る足音が響く。
 わたしの右手で、騎士甲冑を着たライナーは準備運動をしていた。手足の筋を伸ばし、両刃の剣を軽く振るって身体を温める。
 向かいでは、ジャックが義腕の調子を確かめていた。その奥で深呼吸をしていたミシャと一瞬目が合う。仕方ないわね、というような表情。それでも、あっちに負けるつもりがないのは明確に伝わってきた。

「何つーか、結構二人ともやる気っぽいな」
「昔の仲間だから気が進まない?」
「いや。やるからには本気出すよ。それに、ジャックとは一度も真剣に戦ったことないからさ。正直、ちょっとわくわくしてる」
「ふうん。精々蜂の巣にならないようにしなさい」
「実弾じゃないんだから……とはいえ油断はなしだ。貰わないように気を付けるよ」

 声量を抑えたわけでもないライナーの発言に、ぴくりとジャックが反応する。

「――ほう、この野郎、暗に俺の弾なんかにゃ当たらねえっつってるみたいだな。随分な見栄張るじゃねえか。ミシャ!」
「ええ、わかってる。やるからには全力で、ね」

 お互い準備は終わり。
 二十歩弱の距離を挟んで、わたし達は対峙する。
 場の空気が緊迫の度合いを増し、ライナーとジャックがそれぞれ武器を構えた瞬間、それは最高潮に達した。

「ではこれより、ライナー・ミュール組対ジャック・ミシャ組の模擬戦を開始します。……始め!」

 シュレリアの声が響くのと同時、視界の先で弾ける火薬の炸裂音。こっちを向いた銃口から発射された弾丸が、明らかにわたしを目掛けて飛んでくる。
 それを把握しながら、けれどわたしは動かなかった。迷う必要もない。既に詠唱し始めた詩魔法に意識を集中。平行して、ここから予測できる複数の状況に合わせた対応法を検討する。
 わたしの前に立つライナーは、前衛としての役割を完璧に果たした。飛来する模擬弾の全てを剣の腹で受け、一瞬かつ繊細な重心移動で左右に流す。本来軌道を読むことすら難しい速度に反応できたのは、ライナーの並外れた動態視力と反射神経の賜物でもあるけれど、それをわたしの詩魔法でさらに向上させているから。
 今のライナーは、間違いなく現存するエレミアの騎士の誰よりも、速い。

「はっ、やっぱ一筋縄じゃいかねえってか!」
「初っ端からやられるわけにもいかないだろ!」

 叫ぶような応答と共に、ライナーが地を蹴った。
 剣を正面に構えた状態で、一直線にジャックの方へと走っていく。
 鉄の左腕が跳ねた。猛烈な勢いで回転する銃身がライナーを足止めするべく弾をばら撒き、その度にわたしとミシャの間でスタッカートが連続する。
 ライナーは怯まなかった。常にジャックの射線上で謳うわたしを護りながら、じりじりと、確実に距離を詰めていく。

「アル兄!」

 残り数歩で届く、と思った直後、ミシャとジャックがアイコンタクトを交わしたことに気付いた。詩が途切れる――違う、詠唱が終わったのか。ミシャの頭上で膨らんでいた光の球が、振り下ろす腕の動きに合わせて前方、ライナーに向かって射出された。
 その僅かな隙をカバーするかのように、無数の銃撃がライナーを釘付けにする。迫る詩魔法。直撃すれば、ライナーでも耐え切れない。
 判断時間は一秒にも満たない。わたしは即座に防御用、衝撃緩和の青魔法に詠唱を切り替えようとし、
 ――ピン、と、何かを引き抜くような音を聞いた。

「ミュール! 目を閉じろ!」
「っ!」

 反射的に下ろした瞼の向こうで、暴力的なまでに激しい光が周囲を灼いたのがわかった。いったい何が、と戸惑い、すぐに思い至る。
 閃光弾スタングレネード。確かに殺傷力はないけれど、随分な手を使ってくれるじゃない……!

「この詩で……っ!」

 薄目で捉えた前方に、わたしと同じく閃光をやり過ごしていたミシャの詩魔法が着弾する。足止めを食らい、一時的に視界も奪われたライナーに、それを回避する術はないはずだった。
 あの二人は、基本にして理想的な前衛と後衛の役割を果たした。ジャックはその場でミシャを護り、牽制することで相手の動きを可能な限り制限。そうして得た時間でミシャが詩を紡ぎ、レーヴァテイルらしい大火力で逃れようのない一撃必殺を叶える。
 元々個々の能力も高い上、相当息も合っていた。並の相手、並の戦い方であれば、何もできずに封殺されてもおかしくない。

(――でも、まだ)

 足りない。届かない。届かせない。
 さっきのでライナーが沈んだかなんて、確認するまでもなかった。
 それは、信頼とも違う、確信。
 わたしは知っている。そう、知っているのよ。
 あの程度で倒れるほど、わたしの“パートナー”は柔じゃない。だから、今はただ、勝つことを考えればいい!

Ma num ga neee zash en zadius memora.苦痛と憎悪の記憶を呼び覚ませ

 詠唱中の補助魔法を中断。該当詩魔法に変更、詠唱開始。推定所要時間は約四十秒。

Cupla mea chs zeeth tie gyajlee.わたしの穢れは罪人を縛る鎖となる

 紡いだ旋律が、わたしの頭上に深いうろのような闇を形作る。
 ミシャの反応は早かった。響くわたしの詩が切り替わったことに気付いた瞬間、攻撃用の詩魔法では間に合わないと判断して、即座にジャックのサポートに入る。
 先ほどまでライナーを狙っていた銃口が、再びわたしを捉えた。この身体は痛みにさほど強くない。当たれば集中は途切れる。安全を取るならば、回避すべき状況。
 それでもわたしは、詩を止めなかった。
 勝ちに行くために必要な、たったひとつのこと。

「ライナー! もう少しだけ時間を稼いで!」
「了解っ!」

 ……使えるものは全て使え、よ!
 薄煙が晴れた視界の向こう、回避の体勢から身を起こしたライナーが二歩を踏み込んだ。一の足で剣を掬うように振り上げ、二の足でそれをジャックの義腕先端に当てる。
 金属音と火花が散り、大きく銃口が逸れた。僅か遅れて撒かれた弾が、審判役のシュレリアとアヤタネの方に飛んでいく。ちょっとくらいシュレリアにとばっちり行かないかしら、と思ったけど、残念ながら簡易防御魔法であっさり受け流していた。軽く舌打ち。
 ここまでで残り二十秒弱。耳聡いシュレリアの罵声を無視しつつ、徐々に肥大化していく詩魔法の制御に意識を傾ける。
 一度生まれたチャンスを、ライナーは決して見逃さなかった。間合いを離さず、返す剣で左肩を狙い、辛うじてジャックが避ければさらに追う。一つ一つの動作は直線的でありながら、それは流麗な、移動と攻撃を兼ね合わせた、洗練された立ち回りだった。
 距離を保てなければ遠距離戦は成立しない。迫るライナーの剣戟をいなし、足下への射撃を混ぜて、どうにか状況を好転させようとするジャック。ミシャの補助もあって、徐々にライナーが近寄れなくなっていく。
 ――けれど、確かに。
 ライナーは、望み得る限り最大の時間稼ぎをしてくれた。

「これで、」

 留め、抑えていたものを緩めて、解き放つ。
 詩魔法の発動を察したライナーが真横に飛び退き、瞬間、闇から溢れ出た数十本単位の鎖がわたしの前面を侵食した。のたうつ蛇のように伸び、ライナーに追従して回避しかけていた二人の四肢を絡め取る。
 鉄鎖呪縛。つい先日紡いだばかりの、わたしの力。

「チェックメイトよ」

 ライナーが腰に剣を仕舞う。
 シュレリアの一声により、模擬戦の結果はわたし達の勝利で決した。










「かーっ、参った。完全にこっちの負けだな」
「ちょっとアル兄、マント汚れるわよ」
「今更だろ」

 音もなく消え去った魔法の鎖から解放され、床に落ちた二人へ歩み寄ると、おもむろにジャックが後ろに倒れ込んだ。仰向けの格好で、悔しそうに苦笑する。
 ミシャの方はさほど堪えていないみたいだったけど、額にはじんわり汗が浮いていた。
 まあ、それはこっちも同じ。動いてなくても、精神的な疲労感はあるわ。

「四人ともお疲れ様。いい勝負だったと思うよ」
「そうですね。ともすれば、地に膝を付いていたのはライナーとミュールの方だったかもしれません」
「あなたもいちいちひとこと多いわね……」
「ミュールほどではないですよ」
「うわ、シュレリア様もミュールも、抑えて抑えて!」

 睨み合うわたし達の間にライナーが入る。
 わたしはふん、と鼻を鳴らし、シュレリアの横を抜けて敗者二人に歩み寄った。

「立てる?」
「別に手助けは要らねえよ。そこまで疲れてるわけじゃないしな」
「そう。ミシャは?」
「私も大丈夫。……それにしても、結構自信あったんだけどね」
「こっちだって、そこまで余裕はなかったわよ」
「涼しい顔してよく言うぜ」

 倒れていたジャックが、上半身を一気に起こして立ち上がった。
 ミシャも腰を浮かし、後ろ手でぱっぱと塵を払う。

「……ライナーを最初に突っ込ませたのは何でだ?」
「あなたは遠距離戦が得意みたいだったから。離れたままじゃ一方的になぶられるだけでしょ」
「にしたって、護りが手薄になっちまうだろ」
「狙われるのはわたしとライナーしかいないもの。わたしから離れても、あなたの射線をライナーが塞いでいれば問題ない。近付きさえすればそっちは自由に動けなくなるし、ミシャの詩魔法でまとめられずに済むわ」
「なるほどな……てっきり連携が取れてねえのかと思ってたけど、ちゃんと裏で作戦は立ててたってわけか」
「でもミュール、私があなたを狙ってたらどうしてたの?」
「その時は後退して体勢を立て直すだけよ。もっとも、ライナーはそんな余裕与えてくれてなかったでしょうけど」
「……ったく、ただの引きこもりじゃなかったのかよ。随分悪辣な策士でいやがる」
「褒め言葉ね」

 とはいえ、策だけで勝てる相手じゃなかったことは間違いない。
 ライナーの強さと、あの状況にぴったりな詩魔法がなかったら、攻略は難しかったでしょうね。

「――で、そろそろ教えてくれねえか?」
「何を?」
「わざわざ模擬戦なんて提案した理由だよ。しかも、あんな条件まで取り付けて」

 四人で勝負しましょう、と。
 そう言ったわたしに、ジャックとミシャは揃って怪訝な表情を見せた。ライナーはいつものことだ、みたいな顔をしてたから蹴っておいたけど、ともあれ、その場にいた誰もがこっちの正確な意図には気付いてなかったと思う。
 だからわたしは何も教えず、代わりにある交換条件を提示した。

『そうね、あなた達が勝ったら、ひとつだけ何でも言うことを聞いてあげるわ。勿論、わたしにできる範囲で、だけど』
『……こっちが負けたらどうすんだ?』
『わたしの“お願い”を聞いてもらう。もっとも、嫌なら断って構わないわよ』

 敢えて、わたしにだけ不利な形で持ちかける。
 勝てば御の字、負けても拒否できるのなら損はしない。リスクとリターンの差を考えて、思惑通り、二人はわたしの提案を飲んだ。
 だから、そうなった時点で目的の半分は達成していたのよ。

「戦ってみて、何となくでもわかったんじゃない?」
「……そういうことかよ。確かにな、あれこれ言われるよりはよっぽどわかりやすかった」

 さっきの戦いは、今のわたしがライナーと一緒にいる意味を見せるための、一種のパフォーマンス。
 そして同時に、ミシャを星詠として引っ張り出すことはもうないという証明でもあるわ。
 既にクレセントクロニクルは機能を停止しているけれど、仮にわたしが再び人間に牙を剥けば、ミシャもまた封じ手としての使命を迫られるかもしれない。その可能性をまずは否定した。ライナーのそばにいる限り、あなた達を敵に回すことにはならない、と。
 ミディールの存在を知り、惑星再生の取っ掛かりを掴んだ時から、わたしの心は、決まっている。

「“お願い”。ジャック、これからいくつかあなたに問うわ。正直に答えて」
「俺に答えられることならな」
「それでいいわ。……やっぱりわたしのことは許せない?」
「ああ」
「クルシェに協力してって言われたら、全力で手伝える?」
「え、何でここであいつの名前が出てくるんだよ」
「いいから答えなさい」
「……できる限りはそうしてやりてえ。あんなんだけど、結構女らしいっつーか、弱いところあるしな」
「そう。じゃあ、これが最後よ」

 大柄な彼を見上げる。
 わたしはすっと手を差し出す。

「ミシャとのこと、わたしのことは許せなくてもいい。だからそれは別にして、あなたの利のため、したいこと、叶えたいことのために、わたしに協力して」

 全ての問題、全ての過去を、今すぐ解消する必要はない。
 時間でしか解決し得ないのなら、そうなるまで待てばいい。許されなくても、わだかまりが残っていても、それが手を取り合えない理由にはならないわ。

「お前、そりゃもう“お願い”じゃねえだろ……」
「拒否権はあるわよ?」
「なあライナー、いっつもこんな調子なのか?」
「今日はまだ可愛い方だと思う」
「マジかよ。ったく、丸くなったって聞いてたのに、周到っつーか何つーか……怖えところは全然変わってねえ」
「で、どうするの? 早く決めてくれないと、手が辛いんだけど」
「わかったわかった。俺の負けだ。そういう風に言われちゃ、折れないわけにもいかねえだろ」

 悪い条件じゃないしな、と。
 苦笑しながら言い足して、ジャックはわたしの手を握った。

「交渉成立ね」
「先手打っとくが、こっちは基本クルシェ絡みの部分でしか手伝わねえからな」
「元々他では期待してないわ。それで充分。……ミシャ」
「え、私?」
「あなたも負けたんだから、わたしの“お願い”を聞いてもらうわよ」
「う……無茶なことでなければ」
「大丈夫。そんな難しい要求じゃないから」

 どうして頬を引き攣らせてるのかしら。
 嫌なら断ってもいいって伝えたはずなんだけど……まあ、その気がないのなら、わたしとしては楽ね。
 右足の爪先を上げ、とんとん、と地面を叩く。

「近いうち、オリカに会いに行こうと思ってるの。積もる話もあるでしょうし、ライナーだけじゃ頼りないからあなたも付き合いなさい」
「おい、頼りないってどういう意味だよ」
「言葉通りだけど。それとも、もっと具体的に言ってほしい?」
「……遠慮しときます」
「ぷっ、く、ふふ、ちょっと見ない間に、ライナーってばミュールの尻に敷かれちゃってるのね」
「こいつが傍若無人なだけだって。滅茶苦茶苦労してるんだぞ……」
「でもすごく仲良さそう。いいことだと思うわよ」

 物凄い顔をしたライナーに後で何してやろうかしらと念を送りつつ、ジャックの時と同じように、どうするの、と確認する。

「勿論、一緒に行くわ。久しぶりにオリカにも会いたいしね」
「シュレリア、ライナー、そういうことだから」
「本当にあなたは自分本位ですね……。まあいいでしょう。ミシャ、私は行けませんので、オリカさんに伝言を」
「はい」
「いずれこちらに遊びにでも来てください。歓迎しますよ、と。お願いしますね」
「わかりました。ちゃんと伝えておきます」

 これで話は終わり。
 まだ政務が残ってる(途中で抜けてきたらしい)シュレリアを置いて、五人で帰路に就く。
 気のせいでなければ、わたし達の間に横たわる空気が、ほんの少し緩まったように感じられた。

「そうだ、ミュール、今日は一緒にお風呂入らない? 女の子同士でゆっくり話しましょ」
「悪くない提案ね。なら、夕食の後に」
「裸の付き合いってやつか。よし、じゃあ折角だから俺もごふっ!」
「さすがにそれは見逃せないよ?」
「ジャックのそういうとこ、本気なのか冗談なのかわからないんだよな……。あー、アヤタネ、二発目はストップ。気絶したら運ぶの俺達なんだから」
「お前ら……模擬戦の時よりよっぽど容赦ねえな……」

 アヤタネに殴られた腹を抱えながら、おぼつかない足取りで歩くジャックを置いて、わたし達はすたすたと先を行く。
 ――さて、入浴剤はどうしようか。
 そんな“つまらないこと”を考えるのが、何故だか妙に楽しかった。





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