ネモから一度プラティナに戻ったわたし達は、ひとまずシュレリアとレアードに簡単な報告をした。まあ、報告といっても元々視察は名目上、形だけのものだし、大した内容じゃない。現状の治安や情勢に関する説明を終えると、そこからはもうお土産話みたいなものだったわね。
 シュレリアは特にクレアのことが気になってたみたいで、ライナーが相変わらず元気でしたよと告げた時には、そうですか、なんて嬉しそうな顔を見せた。
 いつ知り合う暇があったのかと疑問に思ったけど、後でさり気なく理由を聞いて納得。なるほど、あの子に料理を教えたのはクレアだったわけか。ライナーは全く気付いてないみたいだけど。ちなみにラードルフのことはほとんどノータッチ。……少しだけあの老け顔には同情したわ。
 本音を言えば、さっさと次に行っておきたいところだったけど、グングニルをあからさまにこっちの都合で乗り回すのは体裁が悪い。ということで、数日の間わたしは気楽な時間を過ごした。朝起きて、適当に食事を摂って、気まぐれにライナーのグラスメルクに付き合ったり、軽く塔のデータを漁ったり。もっとも、最後のは情報整理の意味も含めてのこと。
 レーヴァテイル・コントロール計画について、わたしが知っていることはさほど多くない。計画の概要は理解していても、具体的にどのくらいの規模だったのか、いくら予算が掛かってたのか、そういう細かい部分はさっぱりだったりする。
 これまでは興味なかったし、わざわざ嫌な記憶を掘り返す必要もないから深くは調べないでいたけれど――

(ミディール、か)

 感情の抑制と処理性能の向上、この二点を両立させたわたしは、計画に於ける唯一の成功例。だとすれば、わたしを生み出し調整する課程で廃棄された個体は、おそらくかなりの数に上る。そしてその中でも、かなり完成に近かった数体がサンプルとして残されていたんじゃないかしら。クレアが見たというミディールも、たぶん研究の終盤で造られたんでしょうね。
 区画は確かシルヴァホルンの辺りにあったはずだし、セキュリティレベルは中の上といったところ。第三期の技術力でも、時間を掛けさえすれば侵入できる。
 つまり。
 名前が確認されてる他の二体も、まだ塔のどこかに保管されてる可能性は、高い。
 もっとはっきりした証拠が集められればよかったんだけど、残念ながらそれらしいデータは見つからなかった……というか、塔内の資料って全然整理されてないのよね。保存場所を探すのも面倒だし、機密の問題で物理的にしか残されてない情報も結構多いから、ハッキングして調べるのも限界があるわ。
 なら、わたしはどうするべきか。

「……決まりね」

 クレアは以前、天覇に所属していたという。
 あっちにはライナーのお仲間もいるみたいだもの、丁度良いわ。この機会を逃す手はない。
 少しだけ思案して、わたしはライナーについさっきまとまった考えを話すため、部屋を出た。
 ――次の目的地は、ほたる横丁。










 その日、私はいつもの一番街じゃない、少し足を伸ばした先で籠を片手に立っていた。かもめみなとの方に続く階段のすぐ近く、薄暗く陽の当たらない場所で、道行く人達に籠の中の猫飴を売る。
 あらゆる物資や人員が運ばれてくるだけでなく、交通の最大拠点でもある港付近は、常に人の流れが絶えない。そういった中でも特に普段見ない顔、観光客を狙って声を掛け、なるべく愛想の良い態度で笑みを振り撒いて些細な売り上げを得るのが、私の表向きの仕事だ。
 二本ほど購入してくれた子供連れの女性にお礼を告げ、去り際、飴を舐めながら手を振ってみせた隣の女の子に小さくこちらも振り返す。二人の姿が見えなくなったのを確認して、静かに息を吐いた。
 ここ数日はどうも実入りが悪い。訪れるのは真っ当な客ばっかりで、お得意様も今のところほとんど来ていなかった。折角色々有用な情報を仕入れてきたのに、このままじゃ腐らせてしまう。
 ちょっと巡りが悪いのかしらね、と一瞬沈みかけた気持ちを戻した時、ふと私の視界に細身の人影が入った。
 ただ物珍しいだけの容姿だったなら、注視することもなかっただろう。けれど、彼女はどこか浮いていて、それが私には何となく気になった。
 ぱっと見では十四、五歳。黒い薄手のシャツと膝丈まである緩いズボンにショートブーツを履いた格好で、剥き出しの手足は病的に青白い。ともすれば地面に付きそうな長さの黒髪を、結ぶこともせず遊ばせている。
 ほたる横丁ではほとんどの拓けた場所で煽るような風が吹く。一番街も例外ではなく、彼女は不規則にばらける自身の髪を鬱陶しそうに片手で押さえつけていた。かもめみなとの方から来たのか、階段を下りたところで立ち止まり、不機嫌さを滲ませた瞳で周囲を見回す。
 誰かを捜してるのかもしれない。そう思い、しかし声を掛けようかどうか迷った私が頭を上げると、丁度こっちを向いた彼女と目が合った。
 こうなれば、もう見過ごすわけにもいかない。
 数歩で距離を詰め、笑顔を作って、

「そこのあなた、どうしたの? 迷子?」
「……いきなり失礼な人間ね。迷子になったのは連れの方よ」

 問いかけた途端、冷たく睨まれた。
 折角営業モードで優しい対応をしたのに、この苛烈な態度はいったいどういうことなのか。
 こめかみの辺りがひくつきそうになるのを抑え、我慢我慢、と自分に言い聞かせる。リトライ。

「じゃあ、その連れの人の見た目がどんな感じか教えてくれる? もしかしたらここで見かけたかもしれないし、力になれるかもしれないわ」
「助力は要らないからいいわ。どうせ今頃慌てて捜し回ってるだろうし、放っておけばあっちから見つけてくれるでしょ」
「……やっぱりあなたが迷子なんじゃないの」
「だから違うって言ってるじゃない。港に出てすぐ姿を消したライナーの方が悪いのよ」

 そう呟いて、彼女は苛ただしげに眉を顰めた。
 第一印象は礼儀を知らない小娘という感じだったけど、意地を張るような微妙に可愛いところもあるらしい。自分にもこんな時期があったのかしら、と思い返しかけて、先ほどの彼女の発言に、聞き覚えのある単語が混ざっていたことに気付いた。

「……ライナー?」
「あら、あいつのことを知ってるの?」
「私の知ってるライナーと同一人物かどうかはわからないけど……もしかして、ライナー・バルセルトのことかしら」
「確かフルネームはそんなのだったわね」
「金髪のツンツン頭で白い鎧を着ててエレミアの騎士やってるっていう?」
「そこまで合ってれば間違いないと思うわ」

 少なくない驚きと共に、改めて彼女を見る。
 私にとってライナーは、とびっきりの上客だ。当時は高値のグラスノ結晶を色々買ってくれたし、面白い情報もかなり仕入れることができた。とはいえここしばらくは全く会っていないし、彼は塔の遙か上層に位置するプラティナの住人だというから、そうそう顔を合わせることもないだろうと思っていた。
 そのライナーがほたる横丁に、しかも私の全然知らない女の子と一緒に来ている。ナチュラルに呼び捨てる程度には親しいみたいだし……これはちょっと、いや、かなり興味が沸いてきたわ。
 考える。
 より多くの情報を引き出すために、私はどうするべきか。

「あなた、名前は?」
「……ミュール」
「ミュールね。私はスピカ。迷子のライナー捜し、私も手伝っていい?」










 スピカ、と名乗った人間は、どうやら本当にライナーの知り合いらしかった。
 周辺の地理にも詳しいというので、今回の目的地である天覇本社前まで案内してもらうことになったんだけど、徒歩で行くのは無理だなんて初めて聞いたわよ。

「ほたる横丁は人工都市だから、限られた区域を有効活用するために、三次元的な構造を持ってるの」
「ふうん。上にも下にも長いのはそういうわけね」
「まあ、そのせいで所構わず家が建ってたりして、実際隅から隅まで把握してる人はいないんじゃないかってくらいごちゃごちゃしてるんだけど」

 かもめみなと一帯だけを見ても、階段や昇降機が随分多く、複数の階層に分かれてるのがわかった。住居区や商業区はもっと複雑に入り組んでるそうで、一部ではロープやゴンドラを使った上下移動が必須だとか。
 住み慣れた人間でも迷うっていうんだから、わたしがわざわざ他人の手を借りなきゃいけなくなったのもある意味当然の流れよね。一度も来たことなかったのに、天覇本社への行き方なんて知ってるはずないじゃない。

「市電が通ってるのは、そういう交通事情があるからね。あと、区画を拡張した時のやり方の問題だかで、他のブロックへは簡単に移動できないようになってるのよ。だから基本的には区画毎に分かれてるけど、だいたいどの市電も隣のブロックと重なる駅があるわね」
「ややこしいわね……。もっと単純な構造にはならなかったの?」
「当初はここまで人が集まることを想定してなかったんだと思うわ。今でこそ居住制限掛けてるけど、昔は来る者拒まずだったらしいから」

 鉄と木枠で作られた一見ぼろい車両は、歯車が噛み合う音を立てながら進んでいく。座れるような席はなく、わたしとスピカは備え付けの手すりを掴んで揺られていた。
 車両の側面には柵があるだけ。ちょっと危なっかしいけど、代わりに外の景色がよく見える。居住区らしき建造物群の辺りを何かが飛んでいて、指を差して彼女に訊いてみると、たぶんグライダーじゃないかしら、と答えが返ってきた。

「珍しいわねえ。あれすごく高いのよ」
「あなたは買える?」
「買えなくはないけど、無駄金を出したくないもの」

 他愛ない会話の中に紛れ込んだ、微かな毒。
 ライナーやシュレリアとはまた違う、このどこか食えない人間に、わたしは小さな興味を抱いていた。
 ……不思議ね。
 ほんの少し前まで、こんな風に窮屈な服を着て塔の外に出て、憎んでいたはずの人間達が住む世界に混ざって、しかも初対面の相手とどうでもいいような話をすることになるなんて、欠片も想像してなかったのに。
 今はもう、慣れ始めてる自分がいる。

「スピカ」
「今度はどうしたの?」
「次が降りるところじゃなかったかしら」
「あ、そうね。そこからちょっと歩けば天覇本社よ。勿論ちゃんと最後まで案内するから、安心して」
「方向音痴扱いされてるみたいで心外なんだけど……そっちから申し出てるわけだし、折角だからそこまで頼むわね」
「………………」
「何、その意外そうな顔」
「だってあなた、最初に助力は要らないとか言ってたじゃない。いったいどういう心変わり?」
「別に。余計な手間を省きたいだけ。それに、あなたにはまだ訊きたいことがあるから」
「無料より高いものはないわよ?」
「なら、わたしもあなたの質問に答えてあげる。それでどう?」
「いいわ。交渉成立ね」

 車両が徐々に速度を落とし、甲高い金属音と共に停止する。出入口に張られた鎖の片側を駅員らしき男が外して、わたしとスピカは市電から降りた。
 人の流れに従い、大きめの通りに出る。
 ここから続く道の先に、天覇本社はあるという。
 視界に移る一際大きな建物を見上げて、わたしはうんざりした気持ちを吐息に乗せた。

「遠くない? ちょっと歩けば着くとか言ってた気がするんだけど」
「見た目よりも近いわよ。十分くらいで行けるから」
「面倒臭い……。ELMAでも連れてくればよかった」
「エルマ?」
「ペット兼乗り物よ」

 塔内ならまだしも、これだけアクセスポイントから離れてると実体化させるのは無理なのよね。あの子の背中に乗って走らせればあっという間でしょうけど、ま、愚痴言っても仕方ないか。
 目前のなだらかな坂に一歩を踏み出し、疲れない程度の速度で足を進める。正面から来る風が頬を撫で、重い髪を靡かせた。
 何とも煩わしい。邪魔だから今度切ってやろうかしら。

「縛っても鬱陶しそうね。三つ編みにでもしてみる?」
「三つ編みって、あなたみたいに?」
「ええ。それなら風で飛ばないし、詰めれば多少は短くなるわよ。編むのに時間は掛かるけど」
「時間掛かるならやめておくわ」

 あんまりにも風に煽られるので、見かねたスピカから市電の中で髪留めの紐をもらい、今はそれで根本をまとめている。
 そもそもほたる横丁は至るところで強風が吹くらしく、肩より長い髪の持ち主は必ず結うか留めるかしているという話を合わせて聞いた。言われて注意してみると、なるほど確かに伸ばした髪を流しっぱなしにした女性は見当たらない。
 こんな大事なことをどうしてライナーは教えなかったのか、と考えてみたものの、あの馬鹿のことだから素で知らなかった可能性もないとは言えないのよね。全く、シュレリアだって髪長いんだし、気付いてもよさそうなものだけど。
 軽く心中で悪態を吐きつつ、うなじの方から辿って揺れる髪の尾を掴み、胸の前に持ってくる。
 ……最初からこうしてればよかったわ。

「髪は落ち着いた?」
「三つ編みにする必要はなさそうね」
「あら残念。で、私としてはそろそろ質問を聞いておいたいんだけど……まだ考え中かしら」
「内容はとっくに決めてあるわよ」
「それじゃ着く前にどうぞ」

 歩は止めないまま。
 心に置いていた問いを、わたしは表に出す。

「やりたいこと」
「……やりたいこと?」
「そう。あなたにはそういうものがある? 夢とか未来の展望とか、そんな感じの」
「思ってたより普通の質問ね」
「期待外れだった?」
「簡単だから助かるわ。答えはイエス。子供の頃から目指してる夢があるの」
「内容は秘密?」
「基本的にはね。でも、どうせライナーはもう知ってるし、隠してもしょうがないだろうから教えましょうか。私は、裏世界の女王になりたいのよ」

 思わず、何それ、という目をスピカに向けた。
 けれどこっちの反応は予想の範囲内だったのか、苦笑の形に表情を崩して、彼女は続ける。

「この話をすると、だいたいみんな同じ反応をするのよね」
「言葉の意味がわからないわ」
「まあ、魔王みたいなものよ。自分一人で何でもできて、手に入らないものなんてない、そういう存在」
「不可能じゃないの、それ」
「だから近いのになろうと思って。今はまだまだだけど、いずれは天覇も相手取れるようになりたいわね」

 俗なんだか壮大なんだか、いまいちよくわからない。
 ただ、わたしの目には、夢を語るスピカはどこか楽しそうに映った。

「そういうあなたは……あ、待って、今のなし。もっといい質問考えるわ」
「長くは待たないわよ」
「もう、急かさないで。……決めた。ミュール、あなたいったい何者なの?」
「レーヴァテイルよ」
「そうじゃなくて。ライナーがあちこち飛び回ってた頃のことは私もそれなりに知ってるけど、あなたみたいな子、見た覚えがないもの。最近知り合ったにしては妙に親しいみたいだし」
「親しくはないわね。人間としての興味はあるけど、前は殺し合ったくらいの仲よ」
「そんな見え透いた嘘信じられるはずないでしょ。というか何であなたとライナーが殺し合うのよ」
「……わたしがラスボスだったから?」
「は? ラスボス?」
「……まあともかく、わたしとライナーは元々敵同士だったの。で、色々あって今はちょっとこっちの事情に付き合わせてる。一緒に来てるのはわたしじゃ飛空挺を操縦できないからっていうのと、ライナーの人脈を使って天覇の社長とクルシェって人間に会うため。こんなところでいい?」

 嘘は言ってない。
 もっとも、わたしの全てを明かすつもりはないわ。
 理解できるとは思えないし、そこまで信用してるわけでもないもの。
 
「クルシェ……クルシェ・エレンディア。今は確か、飛空挺開発部門の技術顧問だったかしら」
「そうなの?」
「立場だけで言えば結構なお偉いさんよ。忙しい身でしょうし、普通なら簡単に会える相手じゃないでしょうけど……ライナーならアポイントメントも取れるか。なるほど、あなたがここに来た理由はわかったわ」
「じゃあ質問は終わりね」
「いや、まだこっちのにはちゃんと答えてもらってないわよ」
「あれで満足できないの?」
「勿論。あれじゃちっともわからないもの」
「要求が多いわね。……なら、具体的に何を聞きたい?」
「基本的なところで、年齢、住居、職業辺りかしら」
「年齢はおおよそ四百。住居はライナーとシュレリアの家と同じ。職業は……特にないわね。強いて言うならライナーの付き添い」

 適当に噛み砕いた事実を並べていく度、スピカはわたしを睨むように注視してくる。
 折角ちゃんと教えたのに、結局返ってきたのは疲れたような溜め息だった。

「……あなたが真面目に答える気がないのはわかったわ」
「自分から訊いておいて、酷い言い草ね」
「だって四百歳とか、信じられるわけないじゃない」
「そんなこと言ったらシュレリアなんて七百歳越えだけど」
「シュレリアさんは神様なんでしょ。でもあなたは見た感じ普通のレーヴァテイルだし」
「普通じゃないわよ。ミシャと同じベータ純血種。人間との混血である第三世代とは別物よ」
「……それは初めて聞く話ね」
「今はもうわたしとミシャしかいないから、知られてないのも無理はないけど。もっとも、ベータ純血種の限界稼働時間は約百五十年。だからわたしは特例みたいなものね」

 一応納得してくれたのか、腕を組んでスピカは小さく頷く。
 弾みで腕にぶら下がった籐の籠が揺れて、中に入った棒状の物が軽く跳ねた。
 ……よく見るとちょっとおいしそうね。後でライナーに買わせようかしら。
 なんて考えてたら、スピカが籠から一本取り出してこっちに差し出してきた。

「猫飴、食べたいの?」
「……くれるならもらうけど、餌で釣ろうとしてるなら無駄よ」
「そこまでがめつくはないわよ。はい、どうぞ」

 そんな物欲しそうに見てたつもりはないんだけど。
 手渡された飴を目の前に掲げて眺める。艶のある濃い橙色の外側と、デフォルメされた猫の模様が描かれた内側。なかなかに凝ったデザインで面白い。
 ひとしきり観察してから、わたしは先端をぱくりと咥えた。触れた舌に薄い甘味が伝わる。

「結構いけるでしょ」
「ん、ほうへ」
「……やっぱりこどもみたいよ、あなた」

 くすくすと。
 おかしそうに口元を綻ばせるスピカに、何故か今回だけは、怒る気になれなかった。



 猫飴がお腹の中に消えた頃、ようやくわたし達は目的地に辿り着いた。
 無駄に広々とした玄関に、ライナーの姿はまだない。とはいえこれ以上動けばすれ違いで会えない可能性の方が高いだろうし、大人しくしてた方がいい、というスピカの意見はもっともだったので、とりあえず不審にならない程度に距離を置いて待つことにする。
 そうして暇潰しにシュレリアの失敗談を語ること十分弱、横合いから短い間隔の足音が近付いてきて、聞き慣れた声がわたしの名前を呼んだ。

「はあっ、はあっ、ミュール、さ、捜した……」
「今いいところだから後にして」
「お、おま……! 自分で迷子になっといてそれはないだろ!」
「わたしは迷子になんてなってないわよ。いつの間にかライナーがいなくなってたんだもの」
「あのなあ……はー。わかった、そういうことにしとくから、さっさと行くぞ。もう時間ギリギリなんだ」

 呼吸を整えたライナーは、おもむろにわたしの右手を掴む。
 乱暴な扱いが癪に障ったので、その手を解こうとしたけれど、思いの外強く握られててびくともしなかった。

「うわ……手のひらべたべたじゃないか」
「その子、さっきまで猫飴食べてたからねえ。ふふ、ライナー、久しぶり」
「ああ、久しぶりだなスピカ。本当はゆっくり話してたいところだけど……」
「亜耶乃社長を待たせちゃまずいものね。私は一番街の方に戻るから、帰る時にでも寄ってちょうだい」
「そうさせてもらうよ。それじゃ、行くぞミュール」

 文句を言う間もなく、わたしを引っ張ったままライナーはエントランスの受付らしき場所に向かって歩き始める。
 去り際、一瞬だけ振り返った先で、スピカが「また会いましょ」と笑んでいた。

「かなり焦ってるわね」
「そりゃ焦るに決まってるだろ……。かもめみなとの辺りなんて十周くらい捜し回ったんだからな。まさかスピカと一緒になってるとは思わなかったけど」
「たまたま知り合ったのよ」
「その割には随分打ち解けてたみたいだよなあ。今着けてる髪留め、スピカからもらったやつだろ?」
「束ねたのなんて初めてだから、何か変な感じだわ」

 というか、もう屋内なんだし結んでなくてもいいのよね。
 それに気付いて結び目を解きかけたわたしは、けれど一旦指を戻して訊いてみる。

「あなたはこのままの方がいい?」
「え、あー、えっと……うん、今の感じもいいんじゃないか?」
「どうして?」
「そりゃあ、その、こう、いつもと違って新鮮に見えるというか」
「じゃあ解こうかしら」
「………………」

 からかわれたと知って何とも言えない複雑な表情を浮かべたライナーの反応に、わたしは少しだけ満足した。
 結局髪留めは外さず、時間なかったんじゃないの、と握られた手に爪を立てて移動を促す。
 ここまで散々走ってきたからか、濡れて汗ばんだ手指は仄かに温かい。
 見れば額にも、うっすらと汗が滲んでいた。

「……悪かったわね」
「ん? 何か言ったか?」
「何も。それよりいい加減離しなさい」
「っと、ごめん」

 ついでにポケットから皺だらけの布切れを取り出して、ライナーはこっちに放り投げてきた。
 べたつきをこれで拭え、ということらしい。
 しばし右の手のひらを見つめ、わたしはそこに舌を這わせる。
 溶けた飴の甘さと汗の塩気が混じった、微妙な味がした。





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