言うまでもないことだけど、飛空挺グングニルはライナーやシュレリアの私物ではない。
 名義上はプラティナ政府が保有するものであって、乗り回すにも色々と面倒な手続きとかが必要。つまり、目的地がいくら遠いからってひょいひょい気軽に使えるわけじゃない、ということ。
 ……まあ、全部長ったらしいシュレリアの説明で知った話よ。半分くらい聞き流したけど。
 わざわざそんな手間を掛けてまで行きたいところはなかったし、だからわたしは飛空挺の存在を綺麗さっぱり忘れてた。時折ライナーに付き合ってやってる導力プラグ周辺の巡回でも、あの巨大な機体を格納してあるギャザーに足を運ぶことはないもの。閉まりっぱなしの扉に興味を持つ理由もなく、クレセントクロニクルから戻ってきて、次はどうするべきかと考え始めるまでは、欠片たりとも思い出さずにいたのよ。

 ――空港都市ネモ。
 塔に隣接しているように見える街は、その実物理的に繋がっていないわ。
 極々短距離を往復している飛空挺のみがアルトネリコとホルスの翼を行き来できる唯一の手段で、本来それ以外にネモへ向かう術はない。仮にわたしがフリップフロップ変換で近い区画に飛んだとしても、結局はそういうものに頼るしかなくなる。
 イム・フェーナや天文台は同じ塔内にあるからいいけれど、ホルスの翼のどこかに行こうと思ったなら、どうしたって飛空挺を持ち出さなきゃいけない。次なる行き先をネモに定めたわたし(とライナー)は、シュレリアを介してグングニル使用の許可を得るのに、数日を費やした。いちいち徒歩であの距離を降りるのも大変だし、これからしばらくは色々と飛び回ることになるものね。
 ネモ側で着陸地点を確保してもらうための交渉は、シュレリアとレアード任せ。その間わたし達はのんびり待機ってわけ。

「ただいま戻りました」
「あ、おかえりなさいシュレリア様」

 夕方、ライナーがグラスメルクの作業を一通り終えて出てきたところで、微妙に疲れた顔のシュレリアが玄関の扉を開けた。
 健気に迎えるライナーを見やり、わたしはひらひらと手だけ振っておく。

「相変わらず貴方は人を労う気持ちというものが欠けていますね……」
「お疲れ様、って言った方がよかったかしら?」
「……別にいいです。もうとっくの昔に諦めてます」
「そう。で、首尾はどう?」
「要請は済ませました。後で簡略化した空港の地図に着地ポイントを記して渡しますから、ちゃんと見ておいてください」
「ライナー、聞いた?」
「聞いてるけど……そっちはまるで見る気ないんだな……」
「操縦するのはわたしじゃないもの」
「いや、確かにそうだけどさ」

 しばらくぶつぶつと呟くライナーは無視して、再びシュレリアと向き合う。

「そんなに面倒だったの?」
「交渉自体はさしたる問題もなかったんですが、肝心の通信機が上手く機能しなくて……」

 最近になって天覇の研究部が試作型の超長距離用通信機テレモを作成、プラティナ、イム・フェーナ、エル・エレミア教会、天覇の四箇所に置かれ、実験がてら連絡を交わしてるらしいんだけど。まああくまで試作、そんな完成度じゃ実用化には程遠そうね。

「とにかく、明日こちらが出向くという話になってますので」
「はいはい。面倒事はなるべく起こさないようにするわ」
「なるべくではなく絶対です」

 呆れ顔のシュレリアに生返事で答え、わたしは明日のことを考えた。
 次の行き先をネモにした理由。『贖罪の旅』に於いて、絶対に会わなければならない人物は、そこにもいる。
 仲間の所在を知るライナーの言葉が確かなら、ネモでコンタクトを取れるのは二人だ。

 ラードルフ・シュナイゼン。
 クレア・ブランチ。

 またひとつ、己の過ちと向き合うべき瞬間を思い、わたしの心は小さく震える。
 それが恐れから来るものなのかどうか、かつての自分であれば真っ先に否定できたのに、今はもう、わからなかった。










「それじゃ、行ってきます」
「はい、いってらっしゃい」

 シュレリアに見送られ、グングニルはギャザーを飛び立った。
 わたしにとって搭乗するのは二度目。コクピットから覗ける空は物凄い速度で流れていき、上下の状態を維持したまま、機体が高速で下降し始める。一瞬、身体がふわりと浮く感覚を得て、慣れないわね、と小さく呟いた。
 ブラストラインに突入。渦巻く導力に煽られ、幾度か姿勢が崩れるけれど、スイッチの押下と共に起動したもうひとつの動力がぐんぐんと機体を運んでいく。不規則に訪れていた揺れが治まり、視界も広く果てしない空の色に変わったことで、わたしはブラストラインを抜けたのを知った。腰を軽く持ち上げ座り直し、目前で操縦桿を握るライナーをじっと見つめる。
 普段雑で力押しなイメージの強いライナーだけど、意外に器用なところがある。グラスメルク中の手際の良さもそうだし、ある程度自動化されてるとはいえ、飛空挺を動かす姿にも危なげな部分はない。

「あとどのくらいで着きそう?」
「そんな掛からないはずだぞ。だいたい……そうだな、十分くらいか」

 氷の瞳を通過する。あっという間に遠ざかり、今度はイオンプレートと彩音回廊の六角板が近付いてくる。
 ぶつからないように塔から距離を置くと、再び安定した軌道で機体は下降していった。
 イム・フェーナと目立つシルヴァホルンが遙か上空に移り、眼下に出来損ないの翼めいた大地――ホルスの翼が見えるのと同時、ライナーの手がグングニルを徐々に減速させる。
 やがて辿り着いた空港では、明らかに他の飛空挺と別種のこちらを捕捉して、少し離れた場所に誘導する人影があった。ゆっくりと着地し、ライナーがコクピットを開きタラップを下ろす。シートベルトを外すのに手こずっているライナーを尻目にわたしはさっさと座席から抜け出し、軽く背筋を伸ばした。そんな長い間じゃなかったけど、座りっぱなしだと腰とか背中が痛くなるわね。
 一歩遅れて地に足を付けたライナーは、教会の人間らしい誰かといくつかの会話を交わし、

「ラードルフは仕事中だってさ。忙しいのはわかってたけど……大変だなぁ」
「随分人事みたいに言うのね。あなたも一応仕事って名目でここに来てたと思うんだけど」
「ちゃんとそこはやるよ。これでも俺、ちゃんと毎回来た時は仕事してるんだからな」

 プラティナにいるだけでは、遠いホルスの翼の情勢や状況はわからない。
 なのでこっそり視察して情報を持ち帰る……というのがグングニルを使うためにシュレリアがでっち上げた任務。
 とはいえあの子もライナーも変なところで真面目だから、律儀に調べるのよね。ま、わたしには関係ないけど。
 そういう面倒なのは全部任せて、目的を果たすことに集中する。

 足早に空港を離れ、賑やかな町の喧騒から逃げるように徒歩で移動。
 市場を背に何もない道へ入ると、途切れた大地の向こうに死の雲海が見えた。
 改めて、不安定な世界だと思う。振り返り、霧を纏って流れ落ちる水の末路を眺めるわたしに気付いて、案内役の青年は、いい景色でしょう、と言った。わたしはそれに答えず、足を踏み外す人はいるものなのかと訊ねる。

「年に数人ですが……そういう報告もあります」

 落ちれば助けようがなく、痕跡が残らないので事故が本当に起きたかどうかもすぐには確認できないという。
 いったいどれほどの人間が雲海の藻屑となったのか、想像しようとしたけれど無理だった。

「………………」

 ふと脳裏に浮かんだ過去の情景を振り払い、怪訝な顔をしたライナーの尻をおもむろに蹴飛ばす。
 抗議の声は無視。突然のことに困惑する青年に気にしないでと告げ、先を急いだ。



 ――エル・エレミア教会。
 実際目にするのは初めてだけど、プラティナ大聖堂ほど大きくないとはいえ、外からでも荘厳な雰囲気を感じる。
 何となく疎外感を覚えながら、前を行くライナーに続き礼拝堂の奥へ。
 途中幾人かとすれ違い、好奇の視線を向けられ鬱陶しく思いつつも、その感情を表には出さず頭を上げて歩いた。
 そうして進むこと二分ほど、先頭の青年が閉じた扉の前で立ち止まる。
 軽くノック、部屋の方から飛んできた声を確認して中に入った。

「お、二人とも来てくれたか。すまないな、こんな恰好で」
「いや、こっちこそ忙しいところに来ちゃって悪い」

 正面、机に向かってひたすら書類と格闘している大柄な人影。
 現司祭の彼、ラードルフ・シュナイゼンは、申し訳なさそうな笑みをわたし達に見せる。
 その間も両手は休みなく動き、チェックを済ませたらしい紙の山に次々と書類を積み上げていく。
 作業と並行して会話ができる辺り、これだけの雑務に追われるのも日常茶飯事なのかしら。
 忙しい姿を前にしていると、例え世界が滅んでもわたしはこんな風になりたくない、と思うわ。
 しばらく待ち、未処理の分が綺麗さっぱりなくなったところでラードルフが立ち上がった。
 精神的な疲労を吐き出すように、一息。それから、

「今すぐにでも腰を据えて話したいところだが、視察に行かなきゃならないんだ。待たせることになって本当に申し訳ない」
「へえ。司祭になったのに、そういう仕事もするのか」
「お偉いさんはだいたい嫌うんだがな。しかし俺は、上の立場になったからこそ直に人々の生活や実情を知ることが重要だと思う。何より、デスクワークは性に合わん。やっぱりこの足で歩き回る方が自分には向いているらしい」
「ふうん。大変に見えるのにあなた、楽しそうね」
「楽しいというよりは、充実してるよ。……と、時間だ。なるべく早く戻ってくるから、二人はここで待ってるといい」

 わたしは少し考える。
 無駄足にはならないみたいだけど、実際いつ視察を終えて帰ってくるかわからない彼を待っている間、手持ち無沙汰になるのは確か。見知った人間がまるでいないこの場所に残されても、正直退屈極まりない。
 ならどうするか。今日訪れた目的は、ラードルフからわたしに対する感情を聞き出すこと。それは別にどこでもできるわ。客室や応接間できっちり向き合わなきゃいけない理由はないもの。
 一瞬ライナーに目配せするも首を傾げられて、わたしは小さく、この馬鹿はどうしようもないわねと吐き捨てる。
 理不尽な扱いに抗議の視線が返ってくるのには構わず、身なりを整え終えて上着を羽織っていたラードルフを呼び止めた。

「その視察にわたしも付いていっていいかしら」
「……意外だな。そんな申し出をされるとは思ってなかった」
「それで、いいの? 駄目なの? さっさと答えなさい」
「手伝ってもらえるなら有り難いくらいだ。ミュール……と呼んで構わないか?」
「ええ、どうぞ」
「じゃあミュール、具体的に何をするかは道中話そう。ライナーはどうする?」
「俺も付いてく。心配だし」
「面倒なら来なくてもいいわよ。一人みじめに誰もいない部屋で座ってても」
「そう言われて余計残りたくなくなったよ……」
「ははは、決まりだな」

 完全に身支度を済ませたラードルフが、わたし達のやりとりに笑いながら部屋の扉を開ける。
 偶然通りすがった誰かが途端に縮こまったのを見て、彼の立場というものを改めて思い知った。

「行こうか」










 教会は民衆のためにあり、その救済や援助を最優先すべき。
 道行く最中、これからの説明を聞いていてふと疑問に感じたことをこぼすと、ラードルフはそんな文句を口にした。
 要約するとこうなる。そも、教会を成り立たせているのは人々の信仰だ。信仰故に彼らは神へ祈りを捧げ、懐を痛めて投資する。勿論そこには打算の類も存在するだろう。ホルスの翼全域に蔓延る異形の者、モンスターから身の危険を守るため、村や町の人間は天覇か教会のどちらかと契約しなければならない。いくつかの制約こそあるものの、比較的割安で町村の保護を行っている教会は、何かと重宝されている。……今は鳴りを潜めたらしいけど、以前の天覇はあまり褒められたものじゃなかったようだし。
 とにかく、そうして支払われる金によって、エル・エレミア教会という組織は続いてる。保護の契約は一種の取引、商売的な側面があるとはいえ、教会にとって最も大きな収入は民草からのお布施だ。そう、言い換えれば、彼らは守るべき人々のおかげで生活できている、ということ。
 しかしわたしは、ラードルフの言葉の裏から小さな不満の色を読み取った。
 何となく、想像はつくわ。プラティナ政府はシュレリアとレアードが厳しく目を光らせてるけど、優れた統治者はどの組織にもいるわけじゃないもの。いくら司祭だっていっても、ラードルフが教会のトップでない以上、彼一人で全てを纏めることは不可能。他人が寄付した物の上で踏ん反り返って満足してるような、役立たずのお偉いさんに目の敵にされててもおかしくないでしょ。
 金。権力。そういうわかりやすい現実の力に振り回されて、人間は今も昔も醜い争いをしている。
 本当、嫌になってくるわね……。

(……にしても)

 理想を語るラードルフは、誰かに似てる気がした。
 一瞬重なったその誰かを記憶の中から掬い上げようと意識を集中させる直前、目的地に着いてわたしは立ち止まる。
 仕方ない、とりあえず頭に留めておいて、手伝いとやらをしなくちゃ。

 市街に足を踏み入れると、人波が一気に増した。その流れを押し開くことはせず、しばし満足そうな面持ちで賑やかな人々の様子を眺めてから道行く一人一人に声を掛ける。……ここまででも視線を感じていたけれど、どうやらラードルフはネモの街じゃ随分な有名人みたいね。司祭なんて肩書きを持っているのに、権力を笠に着ず、気さくな態度を崩さない。そういうところが人気なのか、彼の周りにはすぐ人が集まってきた。
 例えば、買い物に来ていた妙齢の女性――まあ要するにおばさん達が投げかける他愛ない世間話にも、ラードルフはしっかり受け答えをする。通りに出ている店で諍いが起きたと聞けば迅速に向かい、進んで仲介役という名の面倒事を請け負って、なるべく穏便に片付ける。困っていた周囲の者達に礼を告げられると、人の良い笑みを浮かべながら、これも教会の責務ですからと言う。
 わたしとライナーの他に付いてきていた幾人かは、そんなラードルフを尊敬の眼差しで見つめ、小さな――取るに足らないような騒ぎや問題を収めるために、町の四方へ散っていった。
 つまり、

「これを手伝え、ってわけなのよね」
「ん? なんか言ったか?」
「何も。というかあなた、妙に手慣れてるわね」
「暇な時は手伝ったりしてたからなあ。おかげで結構色々な人に顔覚えられてるよ」

 てきぱきと動いて、今は如何にも重たそうな木箱を平然といくつも抱えているライナーが苦笑する。
 なるほど、正にボランティア、無償の奉仕だ。こうして働くことが直接の稼ぎに繋がるわけじゃない。けれど、それでも「誰かのために何かを為す」ということに、彼らは意味を見出している。
 わたしはメイメイを天文台から連れ出した時の、あの形容し難い気持ちを思い出した。
 未だに、適切な言葉は見つけられない。『それ』はわたしの知らないものだった。一度も触れたことがない感情だった。

「……ミュール?」

 ぼんやりと立ち尽くすわたしの耳に、ライナーの心配そうな声が飛んでくる。
 伏せていた顔を微かに上げると、いつの間にか聞こえなくなっていた喧騒が戻ってきた。

「ライナー。ひとつ、訊いてもいい?」
「え、ミュールがそんなこと言うなんて珍し……ごめん、悪かった、だから爪先に狙いを定めないでくれ!」
「次に茶化したら踏み潰すわよ」
「ちゃんと答えるって。で?」
「……わたしは、何をすればいいのかしら」
「………………は?」
「だから、わたしは何をすればいいの?」
「いや、何って……」
「どうしたらいいのかわからないのよ。あなたみたいに荷物を運ぶの? ラードルフみたいに話を聞くの? 他の人みたいにあっちこっちを駆け回るの?」

 わたしの不幸をひとつ、挙げるとするならば――それは、この身が道具として作られ、人間どもに『使われる』ために扱われ続けたことかもしれない。心と自由を得て、好き勝手に振る舞ってきたけれど、結局わたしはいつも自分を中心にして生きていた。
 レーヴァテリア、レーヴァテイルの理想郷を築こうとしたのは嘘じゃない。でも、突き詰めればそれだって余計なお節介だわ。戒めの檻から解き放たれた、今のわたしは知っている。他者に押し付けられた偽りの平穏を嫌う者もいることを。わたしがわたし自身のエゴでしか動いていなかったことを。
 こんな、誰かを助けるなんて生き方には、慣れてない。慣れて、ないのよ。

 投げかけた問いに、ライナーはしばらく困った顔を浮かべて答えなかった。
 そっか、と吐息をこぼして呟き、木箱を抱えたままの恰好でわたしと正対する。

「あのさ。メイメイをカナデに会わせようって思って、それがどうにかできた時、どんな気持ちだったか覚えてるか?」
「……不思議な感じだったわ。胸の奥が、少しだけ軽くなるような」
「じゃあ、どうしてそうしようと思った?」
「それは……わたしにできることだと思ったから――」
「ならミュールはわかってるよ。俺達は特別なことなんてしてない。自分にできそうなことを見つけてるだけなんだ」

 代わりに荷物を運んだり。
 ややこしい諍いの仲裁に入ったり。
 迷子の子供の親を探したり。

「一個一個は小さいことかもしれないけど、そういうものの積み重ねが大事なんだよ。ラードルフがネモの人達に信頼されてるのは、面倒だとか意味がないとか、そんな風に切り捨てないで頑張ってるからじゃないかな」
「自分には、何の得もないっていうのに?」
「その辺は俺が答えちゃいけないと思う。ミュールはラードルフに色々訊くつもりだったんだろ?」
「まあ、そうね」
「だったらあいつの口から教えてもらった方がいい。俺は俺、ラードルフはラードルフだし」

 ……なんて偉そうだな俺、と眉根を下げるライナーに、わたしは小さく、本当に小さく、そんなことないわよ、と囁いた。
 微かに俯いた頭が反応して上がったけど、二度は言わない。そっぽを向き、声には出さず繰り返す。
 ああ、もう。この馬鹿がちょっとでも自分より大人かもしれないと認めちゃったのが悔しいわ。

「いつまでも立ち止まってないで、さっさとそれ置いてきたら?」
「正直だいぶ腕疲れてきてたんだよな……。よし、んじゃ行ってくる」

 離れていく背中を無言で見送り、わたしを取り囲む風景に意識を向けた。
 探し出すこと自体は、決して難しくない。表情。仕草。判断に足る情報は容易く捉えられる。

 枯れ枝のように細い腕じゃ、ライナーみたいに重いものは運べない。
 信頼を得ているラードルフとは違うから、誰かの相談に乗れるわけでもない。
 それでも――

「ねえ、あなた」
「え……?」
「困ってるんなら、言ってみなさい。話くらいは聞いてあげられるから」

 ――わたしにできることは、間違いなく、ここにある。










 あれだけ広いネモの全区域を巡り終え教会に帰ってきた頃には、既に陽が沈みかけていた。
 随分長時間拘束されてたはずなのに、ライナーもラードルフも疲れた様子をまるで見せない。こっちは(絶対顔に出すつもりはないけど)結構消耗してる分、余計に互いの体力差が際立っているように思えた。……何か腹立つわ。
 行きと同じく先頭を歩くラードルフは、どこか晴れ晴れとした表情で真っ直ぐ前を目指している。少し後ろにいたわたしが早足でその横に並ぶと、さり気なく僅かに進む速度を落としてこっちに合わせてくれた。

「いや、今日は悪かったな。色々と手伝ってもらって」
「大したことはしてないわよ。あなた達に比べれば」
「行いの大小で優劣が決まるわけではないぞ。大事なのは、何かをしようという心掛けだ」
「……ライナーと同じようなことを言うのね」
「ははは、あいつに教わった部分もあるからな。立場や境遇に縛られず、己の意志を曲げない。ライナー達と旅をして、俺はそれを学んだ。おかげで司祭なんて大仰な肩書きを背負うことになったが、やっぱり俺には皆と同じ目線に立つ方が肌に合う」
「司祭らしくないって言われない?」
「勿論。お偉いさん方は実に口煩いぞ。特に年寄りは頭が固くて困る」

 ふとわたしはレアードの顰め面を思い出し、ついでにシュレリアも脳裏に浮かべて頷く。

「ふふ、違いないわ」
「出来る限り中から変えていきたいものなんだがな。これがなかなか難しい。俺をサポートしてくれる者も少なからずいるが、凝り固まった体制を崩すのにはまだしばらく掛かるだろう」
「シュレリアに助力でも頼んだら? あの子の正体バラしたら一発でしょ」
「かもしれん。しかし、そうしたら今度はシュレリア様に迷惑が掛かってしまう」
「別にいいわよ。押し潰すくらいに掛けなさい。……ま、肝心の神様があんな間抜けじゃ、篤い信仰心も醒めそうだけど」
「うむ……神らしくないと言えばそうかもしれない」
「上手く言葉選んだわね」
「司祭にもなると、政治家答弁も必要でな」

 信仰の対象は、超越者でなければならない。より力を持つ存在に縋るのだから、祈りを捧げるべき神であるには、人の範疇を超えていることが条件になる。そういう意味でならシュレリアも当てはまるし、かつてはわたしも崇められていた。
 もっとも、今となっては歴史の闇に埋もれた話。敢えて蒸し返すこともない。
 カイエル・クランシーが首謀者だったとはいえ、間接的にわたしが彼らを振り回したのも事実だし。

「……忘れてたわ。ラードルフ、訊きたいことがあったのよ」
「ん、何だ? 教会に入籍してくれるなら大歓迎だぞ」
「絶対嫌。というか、真面目な話よ」
「そういえば、今日はそういう目的で来たんだったか。わかった、俺に答えられることなら」

 途端に表情を引き締めるラードルフ。
 往路の時にも覚えた既視感を頭の隅に留め、言葉を選び、告げる。

「あなた、わたしを恨んだりとかしてない?」
「恨む? どうしてだ?」
「理由なら山ほど見つけられるでしょ。教会の人間がプラティナに侵攻したのも元を正せばわたしが原因だし、死人だって出たんじゃないの? そもそも、こっちはあなた達を殺そうとしてたのよ?」
「だが、結果的にそうはならなかっただろう。ミュールがしてきたことは褒められることじゃない、あるいは責められて然るべきなのかもしれんが、少なくとも俺は恨んだりしてないぞ。何故ミュールが人間を滅ぼそうとしたのか、その訳を知っているから、というのもあるとは思う。思うがそれはまた別の話だ。許せる……というのは傲慢だな。俺はもう、受け入れたんだ」
「……ライナーもあなたも、とんだお人好しね」
「そうでなければ、こんな仕事はやってられんさ」

 何が嬉しいのか、頬を薄く緩ませる彼を見て、わたしはようやく既視感の正体に気付いた。
 ライナーに、似ている。わたしに善意があると心から信じてるような、そんな笑みが。

「もうひとつ教えて。何の得もないのに、どうしてあなたは誰かを助けるの?」
「助けているつもりはないんだがな……。それに、何の得もないわけじゃないぞ」
「見返りがあるようには、見えなかったけど」
「俗な言い方をするなら、自己満足だ。手を差し伸べれば、感謝の言葉を聞けるかもしれない。笑顔を見せてくれるかもしれない。それで俺は幸せな気持ちになれる。誰かのために何かをするっていうのは、そういうことだと思う」
「……聖職者がそんなこと言っていいの?」
「自分に嘘を吐くよりはよっぽどいいさ。それに、己を犠牲にしてまで周りを助けるなんてのは綺麗事だろう」
「そうね。あからさまな美談で吐き気がするわ」
「手厳しいな」

 小さな苦笑が返ってくる。
 若干強張った空気を振り払うように、まあ、と前置きし、

「俺には俺の、君には君の理由がある。自分が本当にそうしたいと思った時手を差し伸べられるなら、それが一番だ」
「だからあなたは、そうしてる?」
「ああ」

 並べられた迷いない言葉に、ほんの少しだけど、ライナーが、ラードルフが伝えようとしていた何かを理解できた気がした。
 そう、誰に強制されるでもなく、わたしは自分の意思でメイメイを連れ出した。なら、面識のない誰かに助力を与えることも、躊躇う背中を押して歩かせることも、きっと全て同じ。わたしの自己満足が、他者に影響を及ぼす。

 わたしは、わたしのために。
 そして、わたし以外の存在のために、事を為せばいい。

「……一応言っておくわ。ありがとう、あなたのおかげで、少し先が見えた」
「礼を言われるようなことはしてないぞ。だがまあ、有り難く受け取らせてもらうよ」
「月並な台詞ね。もうちょっと気の利いた話はできないのかしら?」
「やめてくれ、そういうのは俺に向いてない。ライナーにでも……あ、いや、すまん。失言だった」
「あら、冗談は思いつくんじゃない」
「堅苦しいままなのも疲れるからな。……と、そうだ」
「なに?」
「親睦の握手だ」
「――は?」

 恥ずかしげもなく握手を求めてくるラードルフの右手を、しばしわたしは見つめた。
 脳裏を疑問符が過る。意味がわからない。

「いつわたしとあなたが仲良くしたのよ」
「仕事を手伝ってくれたなら、君は俺達の仲間だろう。だからこれは、俺からの感謝の気持ちだと思ってくれ」
「……それも、あなたのためにしていること?」
「勿論」

 一瞬迷い、戸惑い、躊躇ってからそっと、開いた手のひらを差し出す。
 触れたラードルフの手肌は固く、温かく、そんなところもライナーに似ていた。
 無言の時間は二秒にも満たない。仄かな熱が離れ、妙な気恥ずかしさを覚えてわたしは足を速める。

 ただ、悪くない、と。
 芽生え始めた感情を抱き、メイメイの時と同じように、口には出さず心の中で、呟いた。





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