教会に戻ってから飛空挺に関する確認と手続きを行い、わたし達は再び事務仕事に取り掛かったラードルフに別れを告げた。
 空港で一時管理してもらってるグングニルは教会の管轄に置かれるらしいから、手続きというのは要するに、いつ頃ネモを発つかを先方に伝えるためのあれこれだとか。まあ、わたしはライナーにほとんど任せっきりだったからよくわからないけど。
 元々こっちには一日泊まる気でいた。夜の暗い空を飛ぶには危険が伴うみたいだし、あまり急いで帰る必要もない。それに、今回の目的であるもう一人――クレア・ブランチは、宿屋と同じ家屋内に酒場を構えている。
 ……宿泊ついでに話が聞けると考えれば、丁度良いと言うべきなのかしらね。
 同行していた教会の兵士数人と途中で別れ、空港の手前で左に曲がる。賑やかなほしのせ通りを真っ直ぐ抜ければ、その先にあるのが『宵の奏月』という宿屋。陽が暮れる少し前に到着して、とりあえず二人分の宿泊料金を払っておく。基本的に諸経費は全てプラティナ側、つまりレアードとシュレリア持ちで、単純に泊まるだけならライナーの懐は痛まない。勿論、何か余計な物を買ったりしようと思ったら、それはポケットマネーから、ってことになるけれど。

「頼むからあんまり高いのは食わないでくれよ……」
「随分と信頼の足りない台詞ね」

 そもそもわたしは財布自体持ってないのよね。
 別にあれが欲しいこれが欲しいだなんて言う気もないし、大抵ライナーに頼んで買わせるから困らないんだけど、子供扱いされてるようでちょっと癇に障る。
 軽食も出している酒場で、嫌がらせに値が一桁多いやつでも注文してやろうかしら、と眺めていたメニューに、すっと影が差した。
 正面のライナーが「お」と頭を上げる。振り向くと目の前には、さっきまでカウンターにいた女性が立っていた。
 一瞬。
 その表情に、驚きが浮かぶ。

「あら……ふふ、久しぶりね、ライナー。可愛いお連れさんも一緒に、今日はここで?」
「……一応言っておくけど、任務で来てるんだよ。簡単な視察というか、そんな感じ」

 浮かぶも、すぐに薄い笑みで取り繕われた。
 ――わたしを知っている? いや。それは有り得ない。彼女と出会ったことはないはず。
 小さく細い、棘のような謎。わたしがそのことについて考えを廻らせている間に、ライナーは会話を終えてしまっていた。

「積もる話は後にしよう。ひとまず注文いいか?」
「わかりました。今日なら……そうね、これと、他にはこれなんかがお勧めかしら」
「じゃあそれで頼む」
「はい、しばらくお待ちください。飲み物はすぐに持ってくるわね」

 冗談めかした口調で切り上げて、ひらりとドレスの裾を翻しながらカウンターの方に戻っていく。
 わたしはメニューを閉じて端に置いたライナーの脛を、テーブルの下で蹴飛ばした。

「痛っ!?」
「勝手に人の分も注文しないで」
「だからって脛蹴るか普通……。別にいいだろ、ミュールは初めてなんだし、お任せなら外れもないしさ」
「自分で選ぶのがいいんじゃない。他人に決められるのは嫌」
「そっちで決められても碌なことにならない気が……」
「何?」
「なんでもないです」

 腹が立ったのでもう一回蹴った。

「ほらライナー、そんなぷるぷるしてるとみっともないわよ」
「誰のせいだと……思ってるんだ……」
「さあ。で、今更だけど、彼女がクレア・ブランチ?」
「ん、ああ。オリカの姉代わりっていうか幼馴染で、昔は天覇に所属してたらしい」

 クレア・ブランチ。
 彼女に関する情報は、最低限しか持ち合わせていない。
 しかし、スクワート村出身というその一点に於いて、わたしと浅からぬ因縁があるのは確かだった。
 襲撃事件の生き残り、第三世代のレーヴァテイル。
 詩魔法の紡ぎ手でありながら、塔の力を借りず、超常の現象を引き起こさない、ただ聴かせるためだけの詩を謳う女性。
 ……わたしとは、全く正反対だわ。
 ひっそり嘆息していたところで、クレアがグラスをふたつ運んできた。
 丁寧な手付きでわたしとライナーの前に置き、つい先ほど来た新たな客の注文を取りに行く。
 この調子だと、話ができるのは当分先になりそうね。
 グラスを右手に、傾けて一口。

「……甘い」

 仄かに広がる甘味が舌を刺激した。
 冷たさが喉を潤し、存外疲れていたことに気付く。
 見れば隣のライナーも、四分の一ほどを飲み干して緩く息を吐いていた。

「ま、ゆっくり食べてくか」
「本題はそれから、ね」

 賑わいが落ち着くまではどうしようもない。
 時間には充分余裕があるわけだし、まずは早めの夕食を済ませることにした。










 一通りの食事を終え、賑わっていた酒場がだいぶ落ち着いてきたところで、グラスを片手にクレアがこっちへ寄ってきた。
 お疲れ様、と労いの言葉を掛けるライナーに微笑みかけ、軽くグラスに口を付けて、薄い琥珀色の液体で唇を濡らす。
 そういった所作がやけに艶めいていて、つい好奇の目で見てしまう。
 わたしの身の回りの女性って言ったらシュレリアくらいしかいないけど、あの子は色気とは縁が遠いのよね。
 よく転ぶし。胸もないし。外見変わらないのをいいことに年齢詐称したがるし。
 ……本当、あんなんで今までちゃんと管理者やってこれたのが不思議だわ。

「ライナー、少しお邪魔しても?」
「勿論」
「ありがとう。……あなたとは、はじめましてよね。名前を訊いてもいいかしら」
「ミュールよ」

 別に隠す必要もないので素直に答える。
 プラティナならともかく、ウイルスの存在すら知らない人間も多いというこのネモでは、わたしの名も特別な意味を持たない。余計な騒ぎが起きない分、それは有り難いことなんだろうけど、正直に言えば、どこか釈然としない気持ちもあった。
 だって……結局、わたしの憎悪は、全ての人間に届いてなかったんだもの。
 あんなにも憎んで、恨んで、滅ぼそうとしていたのに。
 馬鹿らしくもなるわよ。
 そんなわたしの嘆息を不機嫌さと勘違いしたのか、クレアは窘めるような目をライナーに向けて、

「相変わらずライナーは女の子泣かせなのね」
「え、ちょっ……違うって! つーか相変わらずって何だよ!」
「あなたも、彼と付き合うのは大変でしょう?」
「そうね。空気が読めない、頭が悪い、気が効かないの三拍子が揃ってるから」
「ミュール、お前俺のことをそんな風に思ってたのか!?」
「まだ言ってほしい?」
「…………いや、もういいです」

 いつも通りのわたし達のやりとりに、くすくすと笑みを漏らす。
 物腰は落ち着いていながらも、ところどころに茶目っ気のようなものを感じる。

「二人とも、随分仲が良いのね」
「そう見えてるんだとしたらあなたの目は節穴だわ」
「あら。これでも人を見る目はあるつもりよ? それに、ライナーとは知り合って結構経つもの」
「まあ確かに、ミュールよりは長いよなあ」
「だから、彼が気を許してるかそうでないかくらいはわかるわ。あなたに対してはどうか、というのも」
「……あんまり馴れ馴れしくされるのは、好かないわ」
「ふふ、そういうことにしておきましょうか」

 柔らかい響きの声で、クレアは会話を一旦切り上げた。
 何だか少しイラっと来たのでライナーの脛を蹴っておく。
 無言の抗議は聞こえなかったふり。さっきさらっとクレアに話を合わせてたの、忘れてないわよ。

「………………」

 一息の後、改めて。
 わたしは彼女を見つめる。

「どうしたの?」
「……あなた、スクワート村の出身だったわよね」
「ええ、そうだけど……」

 こちらに向けられた表情に、翳りの色は窺えない。
 それでも、わたしは知っている。一度付けられた爪痕は、決して完全には消えないのだと。
 直接手を下したわけではない。正確な情報を持ち合わせているわけでもない。襲撃事件に関して、伝え聞いた以上のことはわからない。リューンの系譜――ミシャをクレセントクロニクルから攫った天覇側と、奪還に走ったテル族との交戦、その現場として選ばれたのがスクワート村だった、程度の知識。
 安易に考えれば、引き金を引いたのは天覇の馬鹿。けれどそもそも、クレセントクロニクル襲撃はわたしの復活を目論んでたらしいカイエル・クランシー、あの胡散臭い神父の指示によるものだという。
 最終的に捨て駒にしたわたしが言うのも何だけど、とんだありがた迷惑だわ。
 わたしは、人間を滅ぼせればそれでよかった。他には何も望んでなかった。
 レーヴァテイルを道具扱いして、それで恩を売られたって、全く嬉しくない。
 彼女達のための理想郷を謳ったわたしが、結果として庇護しようとしてた者を傷付けたのよ。
 だから、多分に自己満足も含んでいるけれど、その償いというのがひとつ。
 もうひとつは、オリカの件。
 ミシャが行方不明になって、仮初の自由を得た当時のわたしには、とにかく余裕がなかった。いつまたバインドされるかという状況の中で目的を果たすために、荒っぽい手段をいくつも取った。精神世界でオリカに干渉したのもそうだし、身体を乗っ取ろうとしたのもそう。ああ、あとシュレリアの方も。
 今になって考えると、有効ではあったけど短慮よね。我ながらレーヴァテイルを守る気がないと言われても仕方ない。
 ともあれ、あそこまでやっておいて開き直れるほど厚顔無恥じゃないわ。
 本人にも後々会うつもりだけど、オリカの姉代わりだったというクレアにも、話しておかなきゃフェアじゃないでしょ。
 ……それに。
 少し、気になることもある。
 最初に顔を合わせた時の、微かな驚きの表情。
 わたしにとって有用な何かを、彼女は持っているかもしれない。
 故に、切り出す。

「わたしが、襲撃事件に関わってる……と言ったら、どうする?」
「それは……どういう意味かしら」
「言葉通りよ。もっとも、直接的にではないけれど」
「……そうね。もしあなたが間接的にでも関わっていたとして、別にわたしはあなたをどうしようか、とは思わないわ」
「理由を訊いてもいい?」
「だって、今更責めても何も戻っては来ないもの」

 時を遡れないのと同じように。
 失われたものは、決して還らない。

「あの頃の私とオリカは、まだ子供だったから……親を殺されて二人だけ残されて、初めは途方に暮れていたわ。当然村を襲った人達を憎んだりもした。でも、生きていくのに必死で、そのうち恨み辛みも忘れていった。ああ、仕方なかったんだな、って。そう思うようになったのよ」
「復讐したいとか、そういう気持ちはなかったの?」
「勿論なかったと言えば嘘になるわね」
「なら――」
「――それでも。大人になるにつれて、そんな感情は薄れていくものなの」
「………………」
「だいたい、恨む理由がないわ。私にはあなたの事情はわからないけど、きっと、悪い人じゃないでしょうから」
「どうして?」
「ライナーと一緒にいて、信頼されてる。それで充分過ぎるわよ」

 わたしは。
 そんな風に、生きられなかった。
 閉じた世界の中で縛られたまま、濁った憎悪を抱き続けてきた。
 今も、消えたわけじゃない。この胸の奥底で、微かに蠢いている。
 けれどもそれが、わたしを突き動かす原動力のひとつであることも、確か。

(……なるほど、ね)

 無理に捨てようとしなくてもいい。
 憎しみも、切り離せないわたしの欠片なのね。

「……クレア。あなたと話せてよかったわ」
「お役に立てたのなら何よりね。あ、ついでに売り上げにもいっぱい貢献してくれると嬉しいわね」
「いや、俺あんまり懐あったかくないんだけど……」
「ライナーの財布の中身が寒々しくなっても、わたしは一向に構わないわよ」
「俺が構う!」
「もうひとつ訊いてもいい?」

 また無視されたと落ち込むライナーには取り合わず、興味半分の疑問を投げ掛ける。

「最初にわたしを見た時、一瞬だけ驚いたような顔をしたわよね。何か気になるところでもあった?」
「気になる……というよりは、覚えがあった、って方が近いかしら。ミュールさん……って呼んでも?」
「どうぞ」
「ミュールさんとは今日が初めてだけど、以前よく似た人と会ったことがあるから」

 よく似た人、ね。
 普通それだけで驚いたりはしないと思うんだけど。

「逆に質問。ミディールって名前に聞き覚えはある?」
「ん……残念ながらないわね」
「メフィール、アルメディア。この名前は?」
「それもないわ。ただ、前にどこかで見た気もする」
「……文献か何かで?」
「ちょっと待って」

 目を閉じ、記憶の細い糸を手繰る。
 書籍の類ではない。おそらく、見かけたのはかなり前。まだわたしがクレセントクロニクルに封じられていなかった頃のはず。
 可能性があるとすれば、塔内の文書データかしら。第二期まで情報の取り扱いはそっちが主流だったし。
 ハッキングその他諸々で収集した知識の中から、総当たりに近い形で三つの名前を探し出す。
 ――果たして、わたしは答えに辿り着いた。

「レーヴァテイル・コントロール」
「え?」
「四百年近く昔に馬鹿な人間がやらかした研究の成果よ。意思や感情を持たず、自分達に都合のいいように使うことのできるレーヴァテイルを生み出すための、傲慢な計画」
「ミュール、それってお前、」
「その三体は失敗作の名前でしょうね。少なくともわたしは、わたし以外の成功例を知らないもの」

 彼女は「以前よく似た人と会ったことがある」と言った。
 勿論それだけなら違和を感じなかっただろうけど、具体的な名前が出てきて、しかもこっちの情報と合致した。さすがにここまで来ると、偶然で片付けるのは難しいわ。
 そもそも問いかけ方がおかしい。指摘もピンポイント過ぎる。
 つまり、彼女の持つ情報には明確な出所があるということ。そして、

「教えて。あなたはどこで、彼女達のことを知ったの?」

 ……わたしにとって、大事な話を聞けるかもしれないということ。










 今の時代、第三期に於いて、ベータ純血種についての知識を持っている者はほとんどいない。
 人間とレーヴァテイルの合いの子とも言える第三世代しかいない、とされている現状、存在すら知られていないのも当然。わたしやシュレリアが把握してる限りでも、ソル・シエールにはシュレリアが生み出したリューンの系譜、ミシャとわたしの二人だけだ。
 ベータ純血種が、レーヴァテイル・オリジンたるシュレリアのクローンであることも。
 本来、第二期に猛威を奮った異形の者に対する対策としてシュレリアが人間達にその技術を提供したことも。
 意図的なんでしょうけど、歴史としては残っていないわ。
 しかし、だからこそ。
 過去の栄華の残滓を目敏く見つけ、縋ろうとする人間もいた。
 クレアの話を要約すると、レーヴァテイル・コントロールに関する文献を発見した天覇の研究者が、割と好き勝手に非人道的な実験を繰り返してた、という感じになる。重要なのは、彼……クルーアッハって奴らしいけど、そいつが塔の施設から『本物』を移送して実験の中枢に据えていたってことよね。
 ミディール。計画過程で破棄されたであろう、わたしの出来損ない。
 確認されているうちのあと二体がまだ生きてるかどうかは定かじゃないけれど、少なくともミディールは処分されていなかった。わたしが起こした反乱でそれどころじゃなかったからか、単純に惜しかったのか――まあ、時期を考えればたぶん後者でしょ。
 ともかく、そういう裏側の事情を一切知らない馬鹿が暴走した結果、危うく世界が滅びかけたとか。何というか、ほとんどわたしの時の焼き直しだったみたいで全く笑えなかった。一部の愚かしい人間が踏み外して周りの怒りを買って、しかも従順だと思ってた人形に全力で手を噛まれてるんだもの。オチまで似たり寄ったりじゃ、そりゃ呆れるしかないじゃない。
 興味深かったのは、月奏が未だに現存しているということ。クルトシエール律はもう廃れてて情報もあんまり見つからないし、塔の力を借りずに『奇跡』を起こす彼らの詩、聴いてみたくもあったけど……もう難しいでしょうね。

「あなたから見て……彼女はどうだった?」

 ミディールの姿は、およそまともなものではなかったらしい。
 辛うじて人の形を保っていたとしても、普通に生まれてくることさえ叶わず、人間達の都合で作られ、捨てられ、忘れ去られ、眠り続けて無理やり目覚めさせられて。
 わたしにはわかる。わたしだからこそわかる。その唇から漏れただろう、あらん限りの呪詛の言葉が。ヒトを憎み、不条理を憎み、世界を憎んだ彼女の気持ちが。深く、暗く、澱んだ底無しの憎悪が。
 決して他人事ではない。あるいは、わたしがそうなっていたのかもしれないのだから。

「恐ろしかった。でもそれ以上に、可哀想だったわ。今になって思えば、だけどね」
「そう。……そっか」

 同情はしない。哀れむつもりもない。
 ただ、彼女の救われなさを胸に刻み込む。

(わたしには、ライナーがいた)

 きっと、それだけなんでしょ。
 たったひとつの、大きな差。

「ありがとう、クレア。思ってた以上の収穫だわ」
「ふふ、どういたしまして」
「ミュールが素直に感謝するなんて痛たたた!」
「毎回ひとこと多過ぎるのよ」

 念入りにライナーの爪先をぐりぐり踏んづけておく。
 折角ちょっと評価上げてやったのに、自分で台無しにするのよね、この馬鹿は。
 手元のグラスを傾け、一息吐いてからふと周囲に視線を向けたわたしは、いつの間にか少なくない人が集まり始めているのに気付いた。席に座るでもなく、入口の辺りを囲むようにして、何かを待っている。
 店内に残っていた僅かばかりの客が、こっちを、正確にはクレアを見ていた。

「あら、もうそんな時間なのね。二人ともまだ帰る予定はない?」
「いつも通り宿はここだし、閉店間際まではいるよ。しっかし、クレアさんの詩を聴くのは久しぶりだなあ」
「……そういえば、あなたは“歌う”んだったわね」
「今は酒場での余興みたいなものだけどね。おかげさまでそこそこ評判は頂いてます」

 ふうん。なるほど、だから観客が増えてきてるのね。
 この人数が彼女の詩目当てに来てるんだとすれば、相当のものなんでしょ。
 元々興味はあったけど、こうなると俄然気になる。

「わたしも聴いていっていいかしら」
「ええ。……そうね、ミュールさん、もしよければあなたも歌ってみる?」
「は……?」
「あなたの詩を聴いてみたいの。今日の話のお代……って言っちゃうとずるいかもしれないけど」
「期待には添えないわよ。ヒュムノスならともかく、普通に歌ったことなんてないもの」
「それでもいいのよ。上手い下手は関係なしに、あなたの声で、あなたらしく歌ってくれれば」
「………………」
「一人でとは言わないわ。勿論私と一緒に。……どう?」

 思わぬ申し出に、悩む。
 詩魔法を扱うんだからレーヴァテイルはみんな歌が上手い、と勘違いされがちだけど、そもそもヒュムノスとただの詩は全くの別物。レーヴァテイルにも音痴はいるし、学ばなければ楽譜は読めない。全体から見ればクレアの方が異端なのよ。
 かくいうわたしもヒュムノスでない詩を人前で披露したことはないし、詩だってほとんど知らない。
 どう考えても恥を晒すだけだってのは、クレアもわかってるでしょうに。
 何とも言えない気持ちを抱えて、ライナーを見やる。
 けれどその口から制止の言葉は出ず、気の抜けた笑みが返ってきた。
 ……まさか、目の前のお気楽能天気男は、わたしがまともに歌えると思ってるんじゃなかろうか。
 ああもう。
 仕方ないわね。

「十分頂戴。その間に一曲、簡単なのを教えなさい。何の準備もなしにやりたくはないから」
「じゃあカウンターの奥に行きましょ。お客の皆さんにはもう少し待ってもらうことになるけれど」
「ライナー、何かあったら説得よろしく」
「面倒な役割を……はあ。了解、何もないことを祈ってるよ」

 苦笑しながらも請け負ったライナーにひらひらと手を振り、厨房の方に引っ込む。
 食材やワインボトルが並ぶ棚を背に、クレアはすぅ、と息を吸い、控え目な声量で音を響かせた。
 それはまだ詩とも言えない、しかし澄んだ風にも似た綺麗な音色。
 こんな声が出せるものなのか、とわたしは内心で驚いた。

「とりあえず簡単な発声練習ね。今のと同じ高さで歌ってみて?」
「……わかったわ」

 わたし達が“謳う”時は、意識的に声を出しているわけじゃない。レーヴァテイルにとっての詩は人間が呼吸するのと同じ、できて当然のこと。練習してどうとか、そういうものじゃないのよね。
 だから最初は感覚が掴めなかった。
 自分の喉から漏れた、あ、という音は想像していたよりも遙かに不安定で、途端に羞恥心が込み上げる。
 早くも投げ出したくなったけど、再度クレアはわたしに手本を聴かせた。
 透き通った高音は少しもブレない。狭い空間にすっと溶けて、しばらく心地良く耳に残る。
 もう一回。
 吸った息を腹に留め、喉で細く絞る。高低の調整は反復で覚えるしかなさそうだった。繰り返し繰り返し、それを探して辿る。
 何の意味も持たない音の連なりが、やがて確かな音色に変わっていく。

「そう、その調子よ。ここからが本番、あなたに教える短い曲。譜はないから聴いて頭に入れてね」

 クレアの艶やかな唇が、今度こそ詩を綴った。
 初めて聴いたその歌詞からは、ありがちで陳腐な物語しか感じられなかったけど――それでも、震える。
 そこには“想い”がある。
 明確な形はなくとも、言葉に、声に感情を乗せ、詩を通して心の在り様を伝える。

 忘れかけていた。
 詩の本質は、想いの伝播だ。
 届けたい気持ちを持っているからこそ、わたし達は歌い、謳う。

 数度の練習を終え、二人で酒場に戻る。
 カウンターの下に置かれていたリュートを手に取ったクレアが、人の輪の中心に椅子を二つ並べて座り、わたしも隣に腰を下ろす。
 初めは弱い爪弾き。十秒ほど慣らしてから、柔らかな音色を奏でる。
 裏ではこうして合わせなかったのに、不思議と歌い出しのタイミングはわかった。
 すぅ、とゆっくり息を溜めた瞬間、視界の先にライナーを見つける。
 返ってくる、微妙な心配を含んだ、気の抜けた笑み。

 その時、どうしようもなく思った。
 ライナーに聴かせたい。
 聴いてほしい、って。

 ……披露した歌声はところどころ調子外れで、我ながら無様なものだったけど。
 観客の拍手を、そしてライナーの「お疲れ様」というひとことを耳にして、まあ、いっか、と苦笑した。










 ベッドに一人包まって、思考の海に沈む。
 夜も遅い時間、少し離れたもう一台のベッドではライナーがぐっすり眠っている。たまに寝返りでも打ってるのか、掛け布団をふっ飛ばしたり引き戻したりと忙しい。

「部屋、別々にした方がよかったかしらね」

 とはいえ、相部屋で構わないと言ったのはわたしの方。
 眠気も徐々に重くなってきてるし、しばらく経てば物音も気にならなくなるでしょ。
 そう結論付けて、今日の出来事を思い返してみる。
 ネモを訪れたそもそもの目的――ラードルフ・シュナイゼン、クレア・ブランチの両名には予定通り接触できた。話をした限りで判断すれば、どちらもまともな人格者。少なくとも、わたしが過去に抱いていた人間のカテゴリからは外れるわ。
 ある意味では諸悪の根源とも言える“ミュール”をどう捉えているかについてもそれなりに聞き出せた。
 何というか……どいつもこいつも甘いわよね。
 二度目がないなんて保障、どこにもないじゃない。
 なのに、そんなの当たり前のことだっていうようにこっちを信じて、赦しちゃって。

「……ほんと、馬鹿みたい」

 口にして、誰よりも自分自身が馬鹿みたいだと気付く。
 だってわたしはもう、世界を滅ぼす気なんてこれっぽっちも持っちゃいないのよ。
 わかってる。
 確実に、ライナー達と関わってから、わたしも変わってきてる。
 決して嫌ではない。でも、それが少し、怖かった。

「………………」

 まだ結論を出すには早い。
 信じたい、という気持ちだけを、今は噛み締める。
 もぞり、とさらに布団を被り、外に漏れないくらいの小さな声で口ずさむ。
 クレアに教わったひとつの詩。覚えたての歌詞を反芻しながら、わたしは静かに目を閉じた。



 今日、得た“想い”を。
 心の奥底に、秘めておく。





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