プラティナからイム・フェーナへ行くのには、些か面倒な道を選ぶ必要がある。
 アーデルベルク緩衝帯――そんな小難しい名称を知らない人は『氷の瞳』って呼んでるらしいけど、ともかくそこを境界線にして、塔は物理的に分断されているから、移動用のゴンドラも通ってない。かといっていちいち飛空挺を持ち出そうとすると面倒な手順を取らなきゃいけないし、別に急いでもいない……ということで、わたし達は単純に歩いてくことに決めた。
 巡回と同じルートを通って導力プラグを過ぎ、A7区画に続く隔壁の前で起動されてる転送装置を利用、アーデルベルク緩衝帯のすぐ下に位置するA6区画へ。ストレス解消ついでに襲いかかってくるウイルスやガーディアンを詩魔法で吹き飛ばしつつ、イオンプレートを降っていく。

「そういえば、フェーナ門って閉まってなかったかしら」
「プラティナまで戻るために開けてもらったんだよ。あの時は飛空挺も壊れて使えなかったし……」
「ふうん。大変だったわね」
「……元凶はミュールじゃなかったか?」
「気のせいじゃない? ま、そうだとしてもわたしのおかげで通れるようになってるんだから感謝しなさい」

 何とも言えない表情を浮かべるライナーを無視し、さらに歩くことしばらく。
 どこか生物的な印象を受ける扉の先に、プラティナやホルスの翼で見るような建築物とは明らかに一線を画したイム・フェーナの街並みが広がった。……よく考えてみれば、実際に来るのは初めてね。

「……何してるんだ?」
「感触を確かめてるのよ。不思議ね、見た目も手触りも石そのものなのに、成長するなんて」
「確かに、ここ以外で石木の家とかは見たことないなあ。すごい貴重なんだっけか」
「ねえライナー、交渉したら少しもらえない? 一度これで住居を作ってみたいんだけど」
「いや、さすがに無理だと思うぞ……」

 予想通りの答えにつまらないわね、と返して、わたしは今一度眼前の光景を瞼の裏に焼きつけた。
 楽しい観光はもうおしまい。わざわざ手間を掛けて訪れた目的は、他にある。

 クレセントクロニクル。
 忌まわしい、過去のしがらみと決別をしに――。










 大本願の入口で警備に当たっていたテル族の一人に、長と話がしたいことを伝えると(その辺はわたしがやるよりライナーの方が何かと都合が良さそうなので任せた)、少し待たされてから中に案内される。
 入り組んだ道を抜け、長い赤絨毯の通路が見えてきたところで、導きは必要なくなった。
 彼方まで続く雲平線が窺える拓けた空間の奥、太い根にも似た黄色の石木が幾本も集まり、傘めいた形を構成している場所に、黒い外套の人影が立っている。目元と手指以外の露出がない、何とも窮屈そうな姿。あんなの着込んでたら、わたしなんて十秒も耐えられそうにない。鬱陶しいし暑苦しいし。
 眼光鋭く、立ち居振る舞いにも隙のないその人物こそが、わたしとライナーが会いに来たテル族の長、フラウト・ロス・ロリア。何というか、話に聞いた通り真面目でお固そうね。レアードとはまた違う、一筋縄じゃ行かない感じ。
 ライナーの話によれば、今は昔ほど頑なでなくなったらしいけど、初対面のわたしには実際どうだかわからない。
 気だけは抜かないように身構えて、とりあえず会話を始めることにした。

「あなたがフラウト?」
「そうだ。そちらは……」
「ミュールよ。あなた達もよく知ってると思うけど」

 名乗った瞬間、整った眉が微かに顰められたのを、わたしは見逃さなかった。
 当然っちゃ当然よね。テル族は星詠の守護もしてたみたいだし、ウイルスの被害を受けたのは人間だけだなんて有り得ない。エレミアの騎士にレーヴァテイルが加わっているのと同じように、クレセントクロニクルや他の重要施設を監視、警戒していた彼らの中にも死人は出たんでしょうから。……全く、我ながらどれだけ遺恨を振り撒いてきたのかしらね。
 ひっそり嘆息すると、こういう時だけ目敏いライナーが心配そうな視線を向けてきた。
 余計なお世話なので気付かないふりをしておく。ほんの僅か心持ちが軽くなったとは、決して口にしない。

「……客人として訊ねてきたのなら、歓迎しよう。敵意はもうないとも聞き及んでいる」
「今のところはね。暴れるのも疲れるのよ。それに、この馬鹿に付き合うのも案外悪くないものよ?」
「おい、ちょっと待て、馬鹿って何だ馬鹿って」
「言葉通りだけど。ねえ、あなたもそう思うでしょ?」
「…………うむ」
「そこで目を逸らすなよっ!」
「まあそんなことはどうでもいいわ。今日は別の用事があって来たのよ」

 いじけ始めたライナーにはノータッチで本題を切り出す。
 フラウトもようやく真面目な話に入ったのがわかったのか、再び聞く姿勢を取り戻した。

「タスティエーラが消えてから、どこかに墓でも建てた?」
「いや。我らは墓を残さない。いずれ死するも運命ならば、それを受け入れるのがテルの思想だ」
「……テル族には転生の概念もあるんだったわね。また生まれ変わるなら、死を悼む必要もない、ってことかしら」
「それも少し違う。死から受ける悲しみは我らにとっても同じだ。ただ、心に留めておけばいい。形に残すことはない」
「なるほど、ね。ここに墓地の類がない理由もわかったわ」
「……オババ様に、何か用があるのか?」

 怪訝な色を含んだ声が、わたしの耳に届く。
 けれどその反応は予想済み。初めから、信頼されるとは思ってない。

「生きてれば色々話をしたかったんだけど、当然不可能じゃない? だからせめて、自己満足くらいは果たしたくてね」
「呆れるくらいに馬鹿正直だな。もしや、」
「ライナーの影響か、なんて言ったら怒るわよ。とんでもない侮辱だわ」
「リアルタイムで俺が侮辱されてるような気がするんだが」
「よかったわね、その通りよ」
「何と言えばいいのか……お前達の関係は、親しいのかどうかも判別し難いな」
「ああもう、ライナーのせいで話が逸れたわ。ともかく、そう、墓参りをしに来たのよ」
「ならクレセントクロニクルが適切だろう。最後にオババ様と別れを告げたのも、あの場所だ。構わないか?」
「ええ。折角だから案内もお願いするわね。あなたがいれば無駄に戦闘しなくても済みそうだし」
「フラウト、あの、図々しくて悪い。でも、こう見えてもそこまで酷い奴じゃないんだ」

 口を開く度にひとこと多いライナーの爪先を全力で踏んで黙らせ、先導を促す。
 フラウトは一瞬気遣う素振りをするも、関わらないのがいいと判断したのかすたすたと歩き出した。
 マスクに隠れてて表情は窺えないけど、案外いい性格してるんじゃないかしら、あれ。

「す、少しは手加減してくれよ……」
「ライナーなら大丈夫だって信じてるもの」
「そんな信頼は要らないな……。で、大丈夫なのか?」
「何が?」
「ミュールにとって、クレセントクロニクルってあんまり行きたくないとこじゃないかなと思ってさ」
「……正直、今はね。前はそこまで感じなかったんだけど」

 諸々の小細工を弄した後、シュレリアとライナーに改めてちょっかいを出した時には全然平気だった。
 アヤタネがいたし、永い間封じられてきたことを考えても、忌々しさ以外の思いは抱かなかったわ。
 だけど、事情が変わった。プラティナでの一件があってわたしは一度過去を振り返り、自らの罪の在り処と向き合った。
 例えばプラティナには、ウイルスによって傷付けられた人間が数多くいる。天文台のメイメイは、ホルス右翼をわたしが落としたことで二人いた妹の一人を失った。なら、クレセントクロニクルには、何がある――?

「とにかく、さっさと行くわよ。面倒事は一秒でも早く片付けたいから」
「はいはいわかったわかった。しょうがないなあ、お前は」
「ふん」
「…………っ! に、二回も、踏むな……っ!」

 うっすらと涙を浮かべるライナーの様子に、わたしは小さな満足感を覚えた。
 たまに我が儘な子供をあやすような態度を見せるけど、こうやって上下関係だけははっきりさせておかないといけないわよね。
 片足で跳ねる馬鹿を置いといて、若干離れた先を行くフラウトの背に駆け寄って追いつく。
 目的地に辿り着くのはすぐ。シリアス入るのは、それからでも許されるでしょ。










 フェーナ門を抜け、行きと同じくイオンプレートの長い階段を、今度はひたすら上る。塔内に繋がる入口があるので、そこから無機質で機械的な上貫洞へと踏み入り、二分も歩かないうちに隔壁に到達する。セキュリティの都合でロックが掛かっていないそのゲートを通れば、第二期の終わり、A5区画に急遽造られた魔法機械を最奥に置いた、クレセントクロニクルの区域。
 タスティエーラがいた頃はもっと厳重に通路も封鎖されていたらしいけど、以前ライナー達が頼んだり破壊したおかげで最短ルートを選べた。寄ってくる獣やガーディアンは三人で適当にあしらい、祭壇に続く一際広い空間で、フラウトが足を止める。
 わたしは閉じた扉を凝視して、先ほどから鳴り止まない幻聴と戦っていた。

「……ミュール」
「あなたがそんな情けない顔してどうするのよ。こっちは気にしないでさっさと先行きなさい」

 本当に、余計なところだけ勘が鋭い。隙を見せたくないという一心で背中を蹴り飛ばし、重たげに開いた隔壁を越える。
 そうして視界に広がる、幾本も束ねられた金管を中心に据えた、荘厳ささえ感じる装置。
 わたしを封じるためだけに必要とされ、犠牲を強いた、不幸な存在を生むシステムの、役目を終えた姿が眼前にあった。

 詩が聴こえる。ずっと、ずっと響いている。
 この身を、精神を凍らせ眠らせる、悲しい音色の子守唄。
 込められた想いは優しいのに、数百年もの間縛られてきた記憶が、わたしの鬱屈とした感情を揺り起こす。

 ――かつて、全てを穢す泥のような憎悪が胸の中に渦巻いていた。
 人間を殺し、世界を壊し、肉体をグラスノ結晶に閉じ込められても、データ化した精神体を抑え付けられても、憎しみは決して薄まらなかった。あらゆる感覚から切り離され、思考しか許されない、年月の経過も察知できない絶対的な孤独に晒されてもなお、想像の内で殺戮を繰り返した。……言うまでもなく、そんなつまらない一人遊びは長続きしなかったけれど。
 過去のわたしを突き動かしていたのは、ただそれだけで。
 だからこそ、穏やかな微睡みを望む彼女達の詩が、リューンの系譜が奏でるクロニクルキーが、嫌いだった。
 心を持たない人形であれと願われたわたしにとって、獲得した感情とはある意味、憎悪でしかなかったから――憎しみを奪われたらもう、わたしには何も残らない。人間を滅ぼすことを、存在理由にして生きてきたのよ。
 自分が不幸だなんて、今まで一度も思いはしなかった。他人の不幸も、理解できなかった。
 レーヴァテイルに抱いていた気持ちだって、結局は憐れみでしかない。例え一側面では正しい評価だとしても、勝手な押し付けであることに変わりない。事実、わたしは人間に従う彼女らも殺してきた。全てを救うつもりなんて、最初から、なかったわ。

 今のわたしは知っている。ミシャを除いたリューンの系譜は、星詠の任を継いだ以降、寿命が尽きるまでこの場所で謳い続ける使命を負わされていたことを。バインドを確実なものにするため、タスティエーラは身体を捨てて自らクレセントクロニクルのプログラムそのものになったことを。シュレリアも、そうするしかない現実に歯噛みし、後悔の念を抱いていたことを。
 言うなれば、それら全てが、暴力という報復の手段を選んだわたしの罪でもある。
 互いが互いを束縛し、自由を失い、小さな檻の中で生きていかざるを得ない道しか、取れなかった。
 わたしが縛られていたのと同じように、リューンの系譜も、タスティエーラもまた、わたしに縛られていたのね。

 なら。
 ここで、自分にできることは――


Faura yerwe murfun anw sol ciel


 祭壇の中心で、ライナーとフラウトが見ているのにも構わず、心の奥底に眠る想いを取り出す。
 幻聴に負けないように、もうどこにもいない彼女達へと届くように、半ば祈りながら、幸せを謳う鎮魂の詩を響かせる。
 謝りはしない。わたしは誰かのためでなく、自分の意思でここにいる。
 だからただ、この詩でおやすみなさい。せめて安らかであればと、願うわ。

「……感傷ね」

 謳い終えると共にそっと呟く。
 そう。こんなのは感傷よ。ほとんど何も知らないわたしが、死に触れて抱く気持ち。
 けれども、たぶん、痛むことも、悼むことも、無意味なわけじゃない。
 もしかしたら、あるいは……本当に、届いたのかもしれないもの。

「今の詩は……いや、深くは言うまい。少なくとも私には、良きものとして聴こえた」
「アンコールは受け付けないわよ」
「構わん。オババ様を慕っていた全てのテル族に代わり、感謝しよう。あの方が成してきたことも、無駄ではなかったようだ」

 淡々とした声に少しだけ微笑の色が窺え、こっちも苦笑を返す。
 そしていきなり、フラウトは頭と口元の覆いを自ら剥ぎ取った。

「あら、随分な美形じゃない。優男の面立ちね」
「我らは総じてテルの証を見せることを好まない。しかし、誠意には誠意で応えよう。客人の前で顔を隠したままというのも失礼に当たる。これまでの非礼、ご容赦いただければ有り難い」
「別に気にしてないわ。事前連絡もなしに訊ねてきたのはこっちだし、堅苦しいのは嫌いなの」

 さらりと流れる金糸の髪、その隙間から突き出ている硬質な角を確認して、わたしは心中で頷いた。
 レーヴァテイルでいうインストールポイントと似たようなものなのかしらね。それなら隠したがるのも納得なんだけど。

「で、わざわざ素顔を晒して何を言うつもり?」
「ひとつ、頼みがある」
「……受け入れるかどうかは聞いてから判断させてもらうわ」
「クレセントクロニクルを、このまま残させてほしい」
「どうしてそんなことをわたしに? 許可なんて必要ないじゃない」
「そちらにとって、ここはあまり望ましい記憶のない場所だと聞いている。存在していることが苦痛というのなら、少なくとも私個人は、その意思を尊重すべきと思う。生きていれば、オババ様もそう言うだろう」
「死者は消えれば語らないでしょ。勝手に想像したって、結局答えを出すのは生きてる側よ」
「……その通りだ。だが……いや、これも感傷か。偉大な長老であったあの方の痕跡を、私は残したいのかもしれない。オババ様が……タスティエーラ様が世界のために成したことを、いつでも顧みられるようにしたいのかもしれない」
「自分勝手ね。……でも、そういうのは嫌いじゃないわ」

 つまらない、くだらない偽善的な理由よりはよっぽどいい。

「残したければどうぞ。あとはシュレリアにでも訊ねてみなさい」
「再度、感謝する」

 手をひらひら振ることで答えとし、わたしは祭壇の天井を見上げた。
 あれほど耳鳴りのように響いていた子守唄は、もう聞こえない。
 どこにでも転がっているありふれた静寂が、今のクレセントクロニクルの全てだった。










「さっきは随分大人しかったわね」

 イム・フェーナに戻りフラウトと別れてから、ふとわたしは疑問を口にする。
 てっきり途中で口出ししてくるものと思ってたんだけど、ライナーは終始無難な言動でほとんど会話に加わらずにいた。
 お節介焼きにしては珍しい。空気読まずに首突っ込んできたら、今度は小指を踏んづけてやろうと待ち構えてたのに。

「……前にさ、テル族はどれくらいの寿命かって話を聞いたことがあるんだ」
「約二百年、じゃなかったかしら」
「ああ。まあ人間に比べたら充分長いけどさ。それでもやっぱり、終わりは来る。確か、クレセントクロニクルができたのってかなり昔だろ? もしタスティエーラがシステムにならず、普通に生きてたら、フラウトもそうだし、俺も出会って話したりとかすることはなかったんだろうなって」
「何が、言いたいの?」
「そりゃあ、ミュールを封じ込めるために、タスティエーラは犠牲になったのかもしれない。ミシャだって、ボルドに攫われたりしなければ星詠としてずっとあそこで謳い続けてたのかもしれない。だけど、ミュールがいなかったら二人とも幸せになれたのかって言われたら、そうじゃない気がするんだ。ミュールがいなかったら、俺はみんなに会えなかった。ここにも、いなかったんだと思う」
「……詭弁ね。わたしが不幸をばら撒いたのに変わりはないわ」
「それでもだよ。いいことばっかりじゃない。ただ、悪いことだけでもない。だったら俺はいいことの方を信じる」

 この能天気男は、いつもいつも理想論を振りかざして、楽観的な考えを主張する。
 なのに不思議と笑い飛ばせないのは、馬鹿じゃないのと一蹴する気になれないのは、どうしてなのか。

「あなた、いつか騙されて手痛い目に遭うわよ」
「かもなあ……。でもその時は、みんなに助けを求めるさ」
「他力本願?」
「違う違う。仲間なんだから、困った時はお互い様の精神だ」

 きっと実際に騙されても、ライナーは相手を信じようとするんでしょうね。
 それが美徳だとは思えない。愚直とも取れる、間抜けな性格。

「だから、か」
「ん?」
「一生馬鹿なままでいなさい、って言ったのよ」
「……もしかしなくてもミュール、俺のこと嫌いか?」
「さあね。自分で考えなさい」

 その愚直さを悪くないと感じてしまう辺り、わたしもこいつに毒されたようで、ちょっぴり可笑しかった。





backindexnext