「へくしゅん!」

巨大な雪玉から這い上がるのに五分を要し、日の目を見られた頃には身体が冷え切っていた。
もう寒くて仕方ない。またくしゃみをひとつして、少し震える肩を片手で抱えながら俺はある場所に向かっている。

そこは――― 温泉だ。
一応来る前にチェックしておいたが、混浴ではない。
効能は疲労回復、肩こり、神経痛、その他諸々。どちらかというと年寄り向きのアレだが気持ちいいことに変わりはないだろう。

「確か、誰もいないんだったっけな」

誉が来るってことで旅館は大騒ぎだったらしく、何故だか宿の施設全てが貸し切り状態になっている。
それもそのはず、他に客は泊まっていないらしい。……いったい何があったのか、余計な詮索をするつもりはないが。

暖簾をくぐり、少し進んだところにある籠に衣服を放り込んでいく。
バスタオルを出てからすぐ取れる位置に掛け、一枚小さいタオルを持って浴場へ。
スライド式の扉を開けると、中で広がっていた湯気が足元を通っていった。

形式としては完全な露天で、建物の外に位置する。
無論仕切りも完備。壁の高さは結構なものだから変質者の類が登ってくることもないだろう。
……まぁ、それは俺よりも女性陣がするべき心配なんだが。
ちなみに俺にはそんなことをする度胸など微塵もない。犯罪者扱いも変質者扱いも、勿論ロリコン扱いも勘弁だ。

「はぁ……あったまる……」

髪と身体を備えつけのもので洗い、俺はゆったりと温泉に浸かった。
全身に伝わる程良い熱さ。疲れが湯に溶けていくようで、思わず目を細める。
誉の家の温泉と比べるのは難しいだろう。どっちも素晴らしい、と本気で思う。

……それに、今回は一義の奴もいないことだし。

何よりもそのことが一番有り難い。
はぁ、ともう一度幸せの溜息を吐いて、俺はしばしの休息を楽しむことにした。




一方その頃女湯で。

「ふぃ〜。気持ちい〜……」
「ホマレの家のと遜色ないね」
「そうかな……。やっぱり温泉の本場とは違うと思うけど」

久斗が湯船にいるのとほぼ同時刻、女性陣も揃って温泉でくつろいでいた。
雪合戦で当たった雪玉の欠片が服の隙間に入り込んだりして、皆一様に身体は冷えてしまっていたのだ。
被害の少ない誉や杏はともかく、割と前線で頑張っていたヒカル、ナギ、そしてまりりんは特に温泉行きを望んでいた分、入った時の喜びも大きい。
思い思いに手足を伸ばし、湯の温かさを満喫していると、不意にまりりんが小さくひとつの事実を口にする。

「……そういえば、今、ひさちーが男湯にいるんだよね」

一堂は見た。確かに見た。
まりりんの瞳がキラリと輝いたところを。
そして、次に彼女が取る行動をすぐにヒカルとナギが察する。

「わわっ、まりりんちゃん、そんなことしちゃだめー!」
「何よタマー。まだ何もしてないじゃないのさー」

ギロリ、とキツい視線で見据えられ、ヒカルは口を閉じた。
その隙を狙い、まりりんは散歩ほど後ろに下がって助走幅をつける。

「待っててひさちー! 今まりりんが行ぐぇっ」
「……まりりん、廊下は走らない」
「えっと……ここ、廊下じゃなくて温泉なんだけど……」
「い、いま……すごい音がしました……」

ダッシュしかけたまりりんの後ろ髪を、ナギが掴んで止めた。
蛙が潰れるような声を発し、まりりんは後頭部を露天風呂の縁の石に強打する。
誉と杏のツッコミをさらっとスルー、半ば昏倒状態のまりりんを、ナギは湯船に連れ戻した。

「ぶくぶくぶく……」
「ほら、まりりん、起きて」
「はにゃっ!? ……ナギ、まりりん寝てた……?」
「うん」

断言したナギを、ヒカルは初めて恐ろしいと思った。

「こ、こうしちゃいられーん! 待っててひさちー、目指せ夢の混浴っ!」

まりりんは諦めず、今度は間仕切りをよじ登ろうとする。というかよじ登る。
奇しくも小鳥遊家の温泉の時とは逆の立場なのだが、無論そんなことを気にするような自称魔女っ娘ではない。

「……まりりん、ちょっとこっち見て」
「なーに、ナギ……はっ!」

いつの間にか、プチプチプリンが計五個、まりりんの目の前に並べられていた。
一瞬、戸惑うまりりん。
プリンを取るかひさちーを取るか、心の天秤は右へ左へ揺れている。

「ナギちゃん、いったいどこからプリンを……」
「……企業秘密。さ、まりりん、降りて」
「むぅ……むむむむむ、む……」

十個に増えた。

「う……うううう……」
「……まりりん」
「ひ……」
「ひ?」
「ひさちーが、待ってるんだーっ!」

プリンの誘惑を断ち切り、まりりんは物凄い勢いで壁を登った。登りきった。
そして男湯の湯船に向かってダイブしようとしたところで、

――― まりりん」
「へ?」

デス先生が、仕切りの上に座っていた。
驚き、まりりんは手を離してしまう。

「あ、」

ぐしゃっ。

「きゃーっ! まりりんちゃんがーっ!」
「あわわわわ……ど、どうしましょう……」

ちなみに、仕切りの頂上付近は温泉の湯気によってよく見えない。
一連の出来事は、当人達のみが知る。

「……なんか女湯の方が騒がしいんだが」

勿論、被害者候補の久斗に、仕切りの向こうで行われていたことなどわかるはずもなかった。


「驚かすつもりはなかったんだが―――

デス先生の呟きを聞く者もまた、誰もいなかった。










「温泉! 浴衣! そして勝負といえば!」
「……いえば?」
「卓球だーっ!」

一人アッパーテンションのまりりん。
皆はそのノリにいまいちついていけず、困惑した表情を浮かべている。ナギ除く。
ちなみに俺もコメントに困っていた。どこからそんな知識を。

「というわけで、優勝者には―――
「……プチプチプリン十日分」
「ナギ、今どこから出した」
「……トップシークレット」

明らかに理不尽かつ不条理な状況だ。色々な意味で。
そしてあれよあれよという間に試合内容が決まり、流されるまま俺達はラケットを握ることになってしまった。

ゲーム形式は1セット11点マッチ。
サーブは三回交代で、シングルスのトーナメント戦。
組み合わせはクジ引きで決め、結果、俺は第一試合でまりりんとやることになった。
……つーか、運悪いな俺。いきなりか。いきなりなのか。

「ああ、まりりんとひさちー……愛する二人はそれでも戦わなくちゃいけないのね……」
「………………本当にやるのか?」
「勿論! まりりんにはプチプチプリンが懸かってるから!」

人を動かすのは愛より餌らしい。

「そう! 例えひさちーが相手でも、勝負に情けは不要っ!」

まりりんがラケットを振りかぶる。
左手でボールを高く上げ、強いスイングと共にラケットがボールを捉えた……っ!

すぱぁぁん!

「…………え?」
「ありゃ?」

――― そして、あっさり俺の横を通り過ぎていくオレンジ色の弾。
背後の壁に当たり、ぽとりと落ちて虚しく転がった。

「なぁ、まりりん。……ルール、わかってるか?」
「えっと……相手のコートにボールをぶち込めばいいんじゃないの?」
「違うって」

そもそもルールを知らなかった。



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