昔も昔、小学校に入るより前から。 当たり前のように稚紗は俺の横に立っていた。 泣き虫だし、すぐ転ぶし、間抜けだし、とにかく情けなくて弱々しくて。 だから、彼女を妹みたいなものだと思っていたのだ。 ……そうじゃなくなったのはいつからだろうか。 それが変わってしまったのは、いつからだろうか。 きっと、あの日。 俺が大切なことに気づいた、あの日だ。 あれは小学校四年くらいの頃だった。 みんなの価値観とかが、少しずつ大人に近づいていく時期。 男と女が一緒にいる、というのが当たり前じゃなくなってくる時期。 自然な流れと言うべきか。 幼馴染としての俺と稚紗の関係は、特に男子の冷やかしの対象になった。 何せ朝から晩までほとんど離れずにいたのだ。その理由を、彼らは理解できなかった。 俺達にとっての自然は、他の人間にとっての不自然だったから。 勿論、好奇や軽蔑の視線は俺だけに向けられるはずもなく。 二人並んで登校するのも、同じように一緒に帰るのも、他愛ない話をするのでさえいけないことのように言われ。 しかし、それで終わってしまうほど俺と稚紗の繋がりは弱くなかった。 元より家族ぐるみの付き合いだ。一日中顔を合わせる時もある。 両親同士も仲が良かったし、何より俺はあまり気にしていなかった。 そんなことで、何かが揺らぐとは思っていなかった。 ―――― 普段と変わらない、平凡な日。冷やかされ続けてしばらく経った頃。 稚紗が、ぽろっと泣いてしまった。本当に唐突な出来事だった。 その時彼女をからかっていた男子は当然ながら驚き、けれど後に引けなくなったのか、 自分の非を認めず言い訳めいたことを口走っていて。謝罪もなしに、ただ己を正当化しようとしていた。 確かそいつは俺達に目をつけていたグループのガキ大将的な存在で、子供なりに体裁だとかを気にしていたのかもしれない。 女の子を泣かせる方がよっぽど格好悪いだろうに。おれのせいじゃねぇ、なんてうそぶきやがって。 ……そんな酷い状況下にいても、あいつは、文句のひとつも言わず。 零れた涙を拭い、しゃっくりみたいな泣き声も抑えて、誰にも助けを求めず、たったひとりで耐えていた。 あんなにも弱いのに、あんなにも小さいのに、それは稚紗自身にもよくわかってるはずなのに。 一人で完結しようと必死に頑張って、自分だけ辛い思いをして何になるというのか。 周りも周りで誰も手を差し伸べようとしない。助けようとしない。 俺にはそのことが、どうしようもなく頭に来た。悪いけど、稚紗ほどには耐えられなかった。 ―――― その日、初めて俺は他人の前で怒り、初めて人間を殴った。グーだった。殴った拳は、痛かった。 立ち尽くし、動かない彼女の許へ行き、そっと肩に手を置く。 微かにまだ震えているのがわかって、やりきれない気持ちが胸に湧いた。 潤んだ瞳がこっちを見上げる。もう俺と稚紗の背は頭半分くらいの差があったから、自然と俺が僅かに下を向く形になる。 見つめ合ったままひとつだけ、問いを口にした。 どうして我慢したんだ、と。彼女は俯いて、 「つかさくんに迷惑掛けたくなかったから」 そう、答えたのだ。 自分よりも何よりも、俺に迷惑掛けたくなかったからと。 「…………ばか」 とりあえず頭をはたいた。 それから優しく撫でて、撫で続けて、しばらくそうしていた。 完全に涙が止まるまで。稚紗が笑ってくれるまでは。 あの日を境に、彼女は滅多なことじゃ泣かなくなった。 本当に強くなろうとした証拠なのかもしれない。頼られることも少なくなっていった。 変わったのは稚紗だけじゃない。 俺も。言葉にしない、態度にもしない、ただ心に留めるようにしたことがある。 彼女の隣に例え誰もいなくとも、俺だけは味方でいようという、ひとつの誓い。 もしかしたら、そんな想いを抱いた時から、稚紗が好きだったのかもしれない。 今となっては確かめる必要もない気持ちなのだけれど。 文化祭のあった日―――― 告白の日から数日が経って。 わたしとつかさくんとの間に、劇的な変化なんてものはなかった。 これまでと違うところを挙げるとするならば、ふたつだけ。 彼のお母さんに許可をもらって、わたしが自分とつかさくん、二人分のお弁当を作るようになったことと、 少し、並んで歩く距離が近くなったこと。それくらいだ。 周りはというと全然気にはしなかった。 どうやらもともと傍目からすれば立派な恋人同士だったらしい。 「らぶらぶだねー」とは、友人の一人、芳賀円の弁。 まあ他のみんなもおおよそこんな評価で、最初から付き合ってるんじゃないの、と思っていたとか。 ちょっと可笑しいくらい、変わりない日々。 でも、わたしにとっては……きっとつかさくんにとっても、有り難い、幸せなもの。 だってそれは、お互いが願う限りずっと続いていくのだから。 もっと距離を縮めることに急がなくてもいい。焦らず、慌てず、ゆっくり行けばいい。 それだけの時間はきっとあるだろう。 わたしも彼も、まだ高校生。人生はこれからといっても過言ではない。 「つかさくん」 「……ん」 夕焼けの中、帰り道。 そっと指を絡め、握る。手を繋ぐ。 身体が触れるほど近くに寄ってみる。背が全然違うから、わたしの肩が彼の肋骨の辺りに当たる感じ。 代わりに頭はちょうど肩と同じ高さだ。軽く力を抜いて預けると、あったかい気持ちが伝わるような気がした。 「……なんか、いいよね」 「だな」 言葉はなくとも十分で。他には何もいらなくて。 今感じているものがあれば生きていけると心から思う。 まだ微かに、けれど確実に。わたし達は、近づいていく。 back|next |