いつか。そう、いつか。 わたしの隣につかさくんがいない日が訪れる。 頭ではわかってた。思ってた。避けられないと、構えている……つもりだった。 でも、わたしは本当にそんな時が来るなんて考えもしなかったのだ。 心のどこかでは、自分が望む限り、願う限り、諦めない限りは平気だと。 錯覚してた。馬鹿みたいな幻想を信じてた。 その方が傷つかないから、目を背けてた。 ……なのに。 そうじゃなかった、全然違ってたんだ。 わたしは思い出す。毎晩のように思い出す。 夕食に箸を伸ばしている時。お風呂で髪を洗っている時。机に向かって明日の予習をしている時。 歯を磨いている時。お父さんやお母さんと話している時。布団の中で目を閉じた時。 彼のことを考えて、彼との明日を考えて。 今まではそれだけだった。 あれからはそれだけじゃなくなった。 脳裏に浮かぶのは、あの一瞬の光景。 遠く、三階の窓際に立ちながら、彼に向かって微笑む少女の姿。 他の誰でもない、渡利つかさに微笑む姿。 ……そんなこと、これまで一度もなかった。なかったのに。 はっきり言うと、つかさくんは昔、大人に良く思われてなかった。 何故ならば、凄まじくやんちゃで悪戯好きな子だったから。 変な物を隠したり、置物の場所を変えてみたり、後ろから脅かしてみたり、今思えば妖精みたいな子供で。 先生とかは彼を要注意と見なしていたらしく、事ある毎に叱っていた。 少しはしゃぎ過ぎる、落ち着きが足りない、って。 それでも彼は止めなかった。そういうささやかな『悪戯癖』は高校生になった現在でも変わらない。 主に被害者はわたしだけど。仕方ないなぁ、なんて苦笑することが多い。 クラスメイトには適度に好かれて、面白い奴と見られてた、気がする。 実際はもっと何か色々あったのかもしれないけど、男子と女子の輪は違うから。 ただ、女子には友達として付き合う子はいれども、告白に至ったのはゼロだった。 わたしがずっと隣にいたから。それが一因であったかどうかはわからない。 けれどそのことを差し引いても、きっと一人もいなかったんじゃないかと思う。 決して格好良くないし、服に気を遣うわけでもないし、髪型だって平凡で、勉強もスポーツもずば抜けて出来はしなかった。 もともとそんなに目立つ人間じゃなかったのだ。彼のことを嫌う人も、幾人かは存在したはず。 他人の欠点を並べるのはとても簡単。 一緒にいればいるほど、嫌な部分は必ず目に入る。 ここがおかしい。あれは変。それをしないでほしい。そう、心の中で呟いてしまう。 でも、相手のいいところを、本当の長点を言える人が、果たしてどれだけいるだろう。 わかりにくい善意。隠された優しさ。目に見えない、そんなもの。 ―――― わたしは知ってる。 例えばいきなりくすぐられても、嫌がれば絶対途中で止めるって。 人が不快に思うようなことを、可能な限りやらないようにしてるって。 さり気なく世話好きで、公園で子供が転んでれば手を差し伸べ、棚の上の背が低くて届かない物を代わりに取ってくれて。 女の子が重くてちょっと持てない荷物を抱えてると、何で俺が、なんて小さく口にしながら運んであげたりするって。 勉強とかあんまり真面目にやらないけど、テニスが好きで、だから部活にも入って。 家ではちゃんと素振りもしてるし、ボール打ちの練習は迷惑にならないところでやってるし、 上手くなるための努力は惜しまない、人には見せない懸命さを、ひたむきさを持ってるって。 それはずっと、わたしだけがわかってる、つかさくんの素敵さだと。思ってた。思ってたんだ。 ……もう違う。 少なくともあの子は彼のそんなところを見抜いてた。 でなきゃあんな、ただの憧れじゃない、もっと複雑で、でも強くて、そして切なくも嬉しそうな、 ぎこちなくも愛しそうな微笑みは、決してできないから。 明日か明後日か、一週間後か一ヶ月後か。 いつか。そう、いつか。本当に変わってしまう。 その時が来たら、わたしは、この日常を繋ぎ止められる? 「…………………………」 布団の中で、わたしの手は震えていた。 考えただけでこんななのに。もし、もし―――― 「―――― つかさくんが、いなくなったら」 言葉にすると、みるみる空想が現実味を帯びてくる。 刃物のような鋭さで突きつけられた、彼の存在しない未来の可能性。 わたしひとりで。となりにいなくて。つかさくんは……あの子と一緒にいて、 「やだ…………」 思考が、ふっと唇から漏れた。 それが皮切り。溢れそうな量の感情が心をめぐる。 怖い。怖い。そうなってしまうのが怖い。 嫌だ。駄目。絶対に失いたくなんか、ない。 思えば思うほど痛みが強くなって。 気持ちが増していく。大きくなっていく。際限なく、膨れ上がっていく。 そしてそれは、 「……ふたりで、いたいよ…………っ!」 ―――― たったひとつの想いへと変わって。 わたしはようやく、気づいた。 滑稽だ。追い詰められて、そこまで行かないとわからなかったんだから。 自分以外に彼を理解できる人がいると知って、初めて辿り着けたんだから。 結局、答えは単純だった。 こんなにも失いたくないと思うのは。一緒がいいと思うのは。わたしと彼の日常を、守りたいと思うのは。 つかさくんが、好きだから。ただ、誰よりも好きだから。 back|next |