「……よし、下準備は終わり」

受話器を置く。あとは適当に明日の用意をして眠るだけ。
今度は寝坊しないように、と自戒する。

わたしが電話していたのは、渡利家だ。
相手はつかさくんじゃなくて、おばさん。彼のお母さん。
本人に聞かれるとまずい、と最初に口止めをお願いしたので、向こうではきっとわたしが電話相手だとは知られていないはず。

……渡利家で料理ができるのはおばさんしかいない。
それはつまり、彼の昼食、お弁当もおばさんが作ってるということ。
要するに、もしわたしがつかさくんにお弁当を作ろうと思った場合、先に伝えておかなければならない。
重複を避けるため。わたしの分だけを食べてもらうため。
その旨を伝えたところ、

「あらあら、いいわよ。つかさには私から上手く言っておくわ」

と助力までしてもらうことになった。正直彼に待ち構えられる形になるのは少し恥ずかしい。
これで明日のお膳立ては完了。今度こそ寝坊なんてせず朝頑張ればいい。
目覚ましをいつもより、ちょっとだけ早めに設定しておいた。


夢に見たのは、たぶん彼の笑顔だったと思う。










ジリリリリ、と鳴り響くベルの音。
聞こえた瞬間ほとんど同時にわたしは目を覚ました。
すぐにキッチンへ向かう。時間はあって困ることはない。できる限りの余裕が必要だ。

「……よいしょ」

昨日の夜に下準備した分も含めたものを広げる。
包丁、まな板、フライパンを使って野菜を切りつつ炒め物、卵焼きなどを作っていく。
大事なのは手を止めないこと。そして、注意深く根気強く進めること。
熱いうちにフライパンを洗いながら研いだ米が炊けるのを待つ。
洗い終わったら油を流し込み、火にかけ温度を上げてあらかじめ用意した唐揚げの種をそっと沈める。
タイマーでは計らない。しっかりと揚がるまで、引き上げるタイミングは見ていた方がいい。
ここだ、と思ったところでひとつずつ箸で摘まみキッチンペーパーで油を切れば完成。
一番大変な作業がこれだから、残りはさほど時間も労力もいらない。
ちゃっちゃと盛りつけをして使用済みの油を処理すればお弁当の出来上がり。
冷めるまで蓋を開けっぱなしで置いておく。時間は七時半。つかさくんが来るのは八時前後だから三十分はまだある。

「お風呂入ろ」

少しだけ残っている眠気を吹き飛ばすために、わたしは風呂場へ向かった。
あまりゆっくり入ってはいられないけど、髪を洗って整えるくらいなら十分。

制服を部屋に取りに行きながら、思う。
わたしの作ったお弁当を見て、彼はどんな顔をするだろうかと。
考えて、頬が緩むのを抑えられなかった。










チャイムが学校中に響き渡る。
昼休みの時間。教室に残る人もいれば購買目当てで走っていく人もいて慌しい。
そんな中、昨日と同じように近づいてくる足音。
わたしは振り返って、つかさくんの姿を捉えた。

「おーい、稚紗ー……。朝お前が言ってた"心当たり"って何だよー……」

子犬みたいな視線を向けられて、思わずちょっと笑ってしまう。
昨日と全く逆の状況。立場。それが何だか不思議に感じて、可笑しい。

登校の途中に、当然ながら彼はおばさんがお弁当を作らなかった理由を掴みかねていた。
「お前に訊けばわかる、って言われたんだけど」と眉を顰めた表情で問われ、わたしは心当たりがあるよ、と誤魔化して。
そうして昼になるまでの間、答えを教えられないまま待ってもらった。

鞄の底には弁当箱がふたつ。自分の分と、つかさくんの分。
早起きして作ったそれを、昨日の埋め合わせだと渡せばいいだけ。

「…………つ、つかさくん」
「ん?」

……でも。
たったそれだけの、本当に簡単なことのはずなのに。
どうしてだろう、こんなにもドキドキして、心臓の高鳴りが激しくて。
声を絞り出すのが難しい。顔が赤くなってくる。頭がくらくらしてくる。

「……どうした? もしかして、体調悪いのか?」

心配する言葉と共に、大きな手がわたしの額に触れた。
そのあったかさがあんまりにも心地良いから。少しずつ、少しずつ落ち着いていって。
平気だよ、と笑いかけて、もう一度、彼の名前を呼ぶ。

「つかさくん。あの、あのね……こ、これっ!」
「お、…………これ弁当か? もしかして、」
「……うん。わたしが作ってきた」
「そっか、なら安心だな。稚紗の料理はよく食べてるし」
「…………うん」

わたしは痛いくらいに緊張してるのに、彼は全然意識していない。
当たり前のように受け入れて、笑いかけてくれている。

つかさくんの両親の帰りが遅い時なんかは、わたしが台所を借りて夕食を作ったりするけれど。
お弁当っていうのは全くの別物だ。目の前で作るんじゃなくて、作ってきたものを渡す、そんな違い。
勿論普通の料理と比べても色々な部分で差がある。冷めてもおいしいものを選ぶ必要があるし、他にも工夫を求められる。
そして何より、自分が食べるためじゃなく、相手に食べてもらうためのもの。
何度作っても、何度口にしてもらっても、おいしい、と言ってくれるかどうか自信なんてなくて。

わたしが見ている前で、彼は箸をつけて一口。
もぐもぐと咀嚼し飲み込んでから、

「ん、うまい」
「……ほんと?」
「嘘つく必要どこにあるんだよ」

その言葉を聞いた瞬間、わたしはようやく安心できるのだ。
早起きの辛さも調理の面倒も、全てがここで報われる。
十分ほどで、渡した弁当箱の中身は綺麗さっぱりなくなった。

「ごちそうさま」
「お粗末様でした」

入れ物は返してもらう。
軽い、と感じて、嬉しくなった。
それは確かなものだから。残さず食べてくれた、何よりの証拠だから。

「………………」
「どうした? まだなんかあるのか?」
「え、えっと、あの、うん、その、ね…………」

不意にわたしは、あることを提案しようと思った。
だけど、何故だかまた声に出すことができなくて、喉が詰まって言葉が続かなくて。
きっと昔なら容易く話せた内容も、いつの間にか簡単には伝えられなくなって。
結果、言えなくなってしまう。何でもない、と誤魔化して、そのまま昼休みが終わった。

放課後、彼は部活で忙しいのでわたしは先に帰ることになった。
本当は最終下校時間まで待つつもりだったけれど、今日は帰れとつかさくんに言われたから。
一人で通学路をゆっくり歩く。色気のないアスファルトの道を真っ直ぐ進みながら、ぼそりと呟いた。

「……なんで言えなかったのかなぁ」

ただひとこと。
―――― つかさくんさえよければ、また作ろうか、って。

溜め息は空に消えていく。
夏の暑さももう完全に薄れて、肌寒い、木枯らしの吹く秋。


明日は言えるだろうかと、考えても答えは出そうになかった。



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