次の日も、慌しく。 どこからかやってくる客の相手をしているうちに、あっという間に時間が過ぎて。 「二人ともお疲れ様」 「は、はいぃ…………」 ぜえぜえと肩で息をする青海。 蓮華は割と平気そうなのだがよく見れば汗だらだらだった。 昼時になる前までの仕事であるにも関わらず、出入りは昨日より多かったという結果。 初めてのバイトにしては、両者共に良く頑張った方だろう。 「はい、これ、昨日のと合わせたバイト代」 「ありがとうございます……って、こんなに!?」 「よく働いてくれたからね。実際助かったよ」 「でも……かなり多いですよ? 頂いちゃって、いいんですか?」 「遠慮しなくていいって。また頼みたいくらいさ」 二人は何度も頭を下げる。 そして、厚かましくもお願いがあるんです、と青海が切り出した。 「更衣室を、貸していただけたらなって。あ、勿論お金は支払います!」 「いいよ、無料で使って構わない。ただし条件がある」 「え? ……何ですか?」 「帰ってきたら、少しだけ、時間をくれないかい?」 「いいですけど…………」 「なら交渉成立だ。楽しんでくるといい」 「…………はいっ!」 "条件"の内容に戸惑いながらも、許可がもらえたことに安堵する。 蓮華の手を引いて駆け出していったその背中を見つめて、海の家の主人である彼は人知れず苦笑した。 「青海ちゃん、どうやら僕のことは覚えてないみたいだし。……さて、なんて言ったものかなぁ」 霧ノ埼は海に隣接していない。 つまり、そこから出ない人々は海を知らないということだ。 青海と蓮華もその部分に関しては例外ではなかった。 「間近で見るとやっぱり違うなぁ……」 「…………すごい」 ―――― それは、あまりにも壮大な景色だった。 灼けた砂浜。眩し過ぎる陽射し。地平線の先まで続く青色。 海水浴をしにやってきた無数の人が思い思いに散っているけれど、何よりも、何よりも大きかった。 この島国が海に囲まれてるって言われても、こんなの、想像なんてできるわけない。 初めての場所。初めての世界。 二人は迷いなく、足を踏み出す。 「サンダルは履いたままでいいのかな……」 「わからない」 「流されないように気をつけないとね」 「うん」 さくさくと砂の上を歩く感覚。 近づいて、まずは少し、浸かってみる。 「冷たぁ……っ」 「ひんやりする」 「不思議な匂いがするね。何て言えばいいんだろ」 「……うみのにおい?」 「そうかも。それ以外思い浮かばないし」 「あしもと、へんなかんじ」 波が寄せては引き、足元の砂をさらっていく。 何度も往復するその様子を見ているうちに、蓮華が転んだ。 「わっ、蓮華くん大丈夫!?」 「へいき」 「……なんで転んだの?」 「バランス、くずした」 手を引いて立ち上がらせる。 蓮華の身体は、その勢いで持ち上がりそうなほど軽かった。 「……はやかわさん」 「何?」 「………………ひとがおおい」 「……うん、多いね」 「…………………………」 「やっぱり、駄目?」 こくん、と返ってくる頷き。 俯く彼の表情は、見え難いが、やや暗い。 ……雑踏に、慣れないのだそうだ。 それは単に喧騒を嫌う性格だからなのかもしれないけど。 繋いだままの手が、少しだけ握る強さを増す。 「じゃあ、向こうを目指そっか。あっちなら人もいないよ」 青海が指差したのはかなり離れた場所。 岩場の目立つ、建物も辺りにはない区域だった。 着くまでだいぶ歩かなければならないが、それくらいは我慢しよう。 蓮華の笑顔を見られるならいいと思う自分は、きっと甘いんだな、と青海は苦笑した。 静かだから、波音が殊更良く響く。 岩にぶつかっては弾け、白く濁りまた遠ざかる。 「気持ちいいね……」 「うん」 はしゃぎ疲れた二人は平たいところに座り、空と海を眺める。 時々跳ねる飛沫が冷たい。でも、心地良くもあった。 他に誰もいなくて。世界はこんなにも大きくて。 徐々に沈む夕陽は全てを橙色に染めていく。 ……綺麗な、色。美しい色。 「……はやかわさん」 「ん?」 座ってからずっと、変わらない横顔。 「ここにいると、ほっとする。やさしい、かんじがする」 「そうなの?」 「はやかわさん、みたい」 それが、微かな笑顔になった。 滅多に見せない、青海以外の誰も知らないその微笑み。 「蓮華くん。私の名前、言ってみて」 「はやかわさん」 「違う。名字じゃなくて、名前の方」 「…………あおみ」 「うん、そう。青い海、って書いて、青海」 ―――― 青海は嬉しかった。 海が全てを包み込む母だというのなら。 きっとそこには優しさがある。ぬくもりがある。幸せがある。 自分はそのような人であるだろうか。 胸を張って生きてもいいんだろうか。 そうなろうと思いながらも、青海は自信が持てずにいた。 けれど、彼は。 そんな自分をこの広く青い海みたいだと、言ってくれたのだ。 「私は、ちゃんと頑張れてるかな。しっかりやっていけてるかな」 「だいじょうぶ。……ぼくはそうおもうから」 「そっか。それなら、大丈夫だね」 大丈夫。 これからも、頑張っていけるから。 もっと、もっと強くなっていけるはずだから。 「蓮華くん」 名前を呼ぶ。 寂しがり屋で、怖がりで、小さくて可愛くて、か弱いけど素敵な、世界で一番大切な人。 「今まで一度も言ったことないけど、言うね。ようやくわかったんだ」 「………………?」 「私、蓮華くんのことが好き。凄く好き。誰よりも、何よりも好き」 「…………ぼくの、ことが?」 「うん。蓮華くんはどう? 私のこと、好き?」 「……わからない」 「あったかくて、少し切なくて、だけどどうしようもなく嬉しいような、そんな気持ち、私に感じる?」 「…………うん。なんだかふわふわしてる」 「ならきっと、それが"好き"って気持ちだよ」 「………………ほんとう?」 「だって、私も一緒だから」 これがただの「愛しい」気持ちなら。 私の胸はこんなにも、高鳴ったりしない。 抱きしめたいなんて思ったりは、しない。 夕陽が彩る幻想的な世界の中で。 影がふたつ、ゆっくりと近づき重なる。 それは一瞬で離れてしまうような、僅かな時間のものだけれど。 その日、確かに、青海と蓮華は、互いの想いを知ったのだ。 back|next |