二人が戻ってきたのは、陽が沈み切った後だった。 互いに顔を背けながらも、手を繋ぎ続けて離さない。 それは絆の強さを表しているようで、そして孤独でないことを示すものでもあった。 水着から着替え終わり、青海は蓮華を待たせて歩いていた。 更衣室を借りる条件として提示された、主人の話に少しばかり付き合うためだ。 指定された部屋に入ると、そこには彼だけがいた。 自然と向かい合う形になって、僅かに緊張する。 そんな青海の様子を見て彼は苦笑した。 「ああ、そこまで構えなくてもいいよ。取って喰おうってわけじゃないから」 「は、はい」 「まぁ、話というよりは、助言というか尻拭いというか……」 「………………?」 「……あいつは臆病で短気で、ほんのちょっと頑固だから。自分からじゃ梃子でも折れないんだ。 だけど馬鹿じゃないから、過ちを顧みることくらいはできるさ」 「え…………?」 「覚えてないかな。青海ちゃんと会ったのは……あ、そっか。さすがに二歳頃じゃわからないよね」 「……叔父、さん?」 「不肖の弟ではあるけれど、どうかよろしくね」 ―――― それはずっと昔、母が青海に話してくれた数少ない父親のこと。 兄と初めて海岸に来て、まるで冗談みたいな、空よりも青い、青い海を目にした二人は、涙を流したという。 ……僕は海が見える場所で暮らしたいな。 ……いつか子供が生まれたら、俺は青海って名付けたい。 そう誓って、その言葉は叶ったんだって、と母は笑っていた。 幼いあの頃はまだよくわからなかったけれど、今ならわかる。 父が私に与えてくれた、とてもとても大切なものなのだと。 「…………ありがとうございます。また、来てもいいですよね」 「勿論。いつでも歓迎するよ」 叔父の静かな微笑みに。 青海は同じくらいの笑顔で返した。 分かれの道が近づいて。 夜深く、今日の終わりを前にして、青海は足を止めた。 つられて蓮華も立ち止まり、どうしたの、というような顔で彼女を見る。 「……蓮華くん。ひとつ、いい?」 「なに?」 「私達、これからしばらく会わないでいよう」 そう言う青海の顔は真剣で。 蓮華はその意図を掴みかねる。 やっとの思いで口にできたのは、単純な問いのひとこと。 「…………どうして?」 「……私ね。もっと強くなりたいって思った。強くなろうって思った。だから、」 だから、 「このままじゃ嫌。嫌なままでいたくない。私は、お父さんとお母さんと、三人で暮らしたい」 「………………はやかわさん」 「蓮華くん、約束して。頑張るって。頑張って、なくしたものを取り戻すって。…………駄目?」 「…………ううん。ぼくも、そうしたい。このままじゃ、いや」 「じゃあ指切りしよう。ちゃんと、できるように」 小指。結ぶ。ここに誓う。 一度こぼれてしまったものを、再び手にするために。 繋いだ指が離れても、約束は消えはしない。 「次に会う時は、思う存分一緒にいようね。私、それを楽しみにしてるから」 「うん」 「それじゃ、健闘を祈るっ」 「がんばろう」 明日会えなくても、明後日会えなくても、その次の日も会えなくても。 ずっと会えないわけじゃ、ないから。 また二人になれるなら、どこまでだって行ける気がした。 決して楽に終わるとは思っていなかったが、もう、手詰まりだった。 蓮華は両親の行方を知らない。 生活に必要なお金は銀行に振り込まれているし、今までにも、送られてきたものに住所は書かれていなかった。 ここ数年は全く連絡の類もなく、隔離されている印象すら受ける。 家の中も丹念に探し、ついでにしっかり掃除も済ませてはみたが手掛かりは何ひとつ見つからない。 そしてそれは、手繰り寄せる糸すら存在していないことを意味する。 会いたいのに会えなくて。 会う手段もわからなくて。 どうすればいいのかなんて、誰も教えてくれない。 「………………」 自分の手を見つめる。小さくて、悲しいほどにか弱い手。 これじゃ何も掴めない。何にも届かない。 「……う、」 瞼の裏が熱くなる。 視界が滲みそうになる。 こんなところで諦めたくないのに、もう道はないのか。 「………………っ!」 ……涙を、どうにか堪えた。 まだ。まだ諦めちゃいけない。諦められない。 手の甲で目を擦り、拭い、気を入れ直す。 考えろ。きっとあるはず。両親の居場所を知るための方法が。 「………………あ」 ふと、思い浮かんだ顔。 蓮華の脳裏には、つい先日この家を訪問した親戚の老夫婦。 もしかしたら。 自分にはわからないことを、できないことを、あの二人なら。 受話器を取る。迷う暇はない。 葉書を見て、電話番号が書いてあるのを確認して。 コール音を数度聞いた後、少ししわがれた声を耳にした。 「もしもし?」 「……ろくさと、です」 「ああ、その声は蓮華くんか。どうした?」 「ぼくに………………」 それは、微かな可能性。 けれど、信じるに足る可能性。 「ぼくに、ちからをかしてください」 蓮華は初めて、青海と深紗子以外の人間に心を預けた。 いつかその日が来ると思ってはいた。 なのに僅かな覚悟もできていなかったのは、自分を騙していた証拠だろうか。 「お母さん。……お父さんの居場所、知ってるよね?」 海から帰ってきてすぐ。 青海の問いは、あまりにも唐突だった。 その声に、冗談に近い色は欠片も含まれていなかった。 「………………ええ、知っているわ」 ようやく搾り出せた言葉には震えが混じっていて。 間違いなく、深紗子は次に続く言葉を恐れていた。 ……だって、ここでそんな決意をされたら。 自分が選ぼうとしている道が、無意味になってしまう。 「なら……教えて。私、お父さんに会いに行く」 「…………青海」 娘の瞳に、迷いはない。 ならば提示しなければいけないのだ。彼女の両親がした決断の形を。 取り出した一枚の紙。 それは、未だに夫側の部分だけ記された、離婚届。 青海の前に置くと、彼女は戸惑い、呆然とし、そして深紗子に掴みかかった。 「どうして! どうして!? お母さん、お父さんと別れるの!?」 「…………そうしようと、思っているわ」 「わかんないよ! 好きなんでしょ!? 好きじゃないの!?」 「………………好きだから、愛してるから別れるのよ」 ―――― 当人たる青海は知らなかったが、両親二人はずっと連絡を取り合っていた。 時には実際に会い、言葉を交わしてきたのだ。 深紗子の言い分はひとつ。また一緒に暮らせないか、と夫を説得しようと試みた。 しかし、一年、二年、三年……五年が経っても彼の意思は変わらず。 その瞬間、共にいられる未来はなくなってしまった。 互いを苦しめ続ける日々。 夫婦という繋がりが、本来は幸せになるための繋がりが、自分を、相手を不幸にしていく。 そしてきっと、そんな現実は青海にも重荷を背負わせることになる。 他に選択肢がないのなら、たったひとつの方法を取るしかない。 皮肉にも、互いが互いを想い合う気持ちがあったからこそ、二人の意見は一致した。 「―――― わかって、青海」 それは大人の選択だ。 我が儘とかを一切抜きにした、どうしようもなく間違っていない、強さ故の結論。 子供には出せない、力のある答え。 でも、 「……お父さんのこと、まだ好き?」 「ええ」 数日前と同じ問い。 けれど今は、ここで終わらない。 「ならどうして、どうして諦めようとするの? 駄目だって思うの? 私は好きだよ。好きだから会いに行きたい!」 「青海…………」 ……どんなに正しくても、許せない。許したくない。 諦められるようになるのが大人になるということなら、私は大人になりたくない。 「そして、会って言うの。ごめんなさい、って。あの日、傷つけたのは私だから、ごめんなさい、って」 もう涙で前がまともに見えなくて、ひっく、ひっくと喉が詰まって言葉も続かない。 それでも青海は、無様でも青海は、自分の気持ちを、偽りない感情を、声にする。 「それから―――― お父さんに、謝ってもらう。間違いを認めてもらう。だって、だって私達、……家族だもん」 好きな気持ちが嘘じゃないなら、今も変わらないなら、また取り戻せる。幸せになれる。 「だから、お母さん」 「…………青海。あなた、本当に強くなったのね」 「約束したから」 「約束?」 「ひみつー」 そう。強くなったのは、蓮華がいるから。深紗子がいるから。お父さんがいるから。大切な人達が、いるから。 実感はない。 思っていたよりも呆気なく、他愛なく、全てが進んでいった。 電話越しに話し。包み隠さずに伝え。 助力を得ることを約束してからの展開は本当に早くて。 蓮華には見えない場所で何が動いているかも知らぬままに、老夫妻は彼の両親を捕捉した。 父方と母方、両者の祖父母を交えての大騒動だったらしいというのを後に聞くのだがまたそれは別の話。 そうして今日。 仲介役として頼った二人を横に、息子の存在を拒絶した親と、一人きりで生きてきた子が再び顔を合わせる。 蓮華達が指定したのは、緑里家だ。あるいは来ない可能性も無きにしも非ずだったが、果たして訪問者は戸を開けた。 ……十数年ぶりに見る顔は、どことなくやつれていた。 肩身狭く、怯えるように縮こまるその姿は裁きの時を前にする罪人にも似ていて。 少なくとも、息子と再会したことを喜ぶ様子は微塵もなかった。 変わらないものはない。離れていたのは、一日やそこらではないのだ。 あの頃幼かった五歳児が、今は立派な高校生になったのだから。 そうやって蓮華を成長させてきた多くの時間が、彼の両親だけに訪れぬはずもなく。 記憶の中にぼんやりと残る若々しい二人の様相にも、流れた年月相応の衰えが混じっていた。 「………………おとうさん、おかあさん」 静かに、蓮華は口にする。 口にして、その呼び方は思いの外胸に響いた。 生まれてこない方がよかったのか、そんな自問をしたことはある。 両親なんて存在しない方がよかったのか、そんな仮想をしたこともある。 でも、確かに緑里蓮華はここにいて、生きていて。こうして目の前には父親と母親も存在して。 がた、と音を立てて椅子から腰を上げる。 向かいに座る二人はびくっと身体を震わせ、そんな情けない大人の様子を少し離れたところから仲介者が見ている。 恐れか、怯えか。耐え切れなくなった母親が喚いた。 「なによ! あんたが悪いんだからね! 私達の思い出を、大切な写真を、台無しにしたからっ!」 「…………………………」 「な、何とか言いなさいよ」 蓮華はしばし、沈黙を守った。 無表情で佇む息子の、次に続くだろう断罪の言葉が怖くて、こんなにも小さくか弱い蓮華が怖くて。 それ以上声を出さなくなった両親を見て、蓮華は、思った。思って、その上で選んだひとことは、 「ごめんなさい」 ……結局、どちらも子供だったのだ。 過ちを過ちとわからなかった蓮華も、傷つけることで他者が得る痛みを理解できなかった両親も。 青海と出会うまで全てを諦めてしまった蓮華も、自分が間違ってしまったという事実を認めたがらなかった両親も。 両者の違いは、ただひとつ。 進歩したかしていないか、強くなれたかそうでないか、それだけ。 「ぼくは、わるいことをしたから。だから、ごめんなさい」 謝って、それで何もかもが解決するわけではない。 だけど、謝れば、きっとそこからが始まりなのだ。 「だから…………つぎは、おとうさんと、おかあさんのばん」 今まで強くなれなかったなら、これから強くなればいい。 後悔したなら、次は後悔しないように頑張ればいい。 蓮華は待った。信じていた。 自分の気持ちに、続く言葉を―――― 「………………ごめんなさい」 まずは、一歩。 アパートの一室。小さな部屋。 早川の家から一時間弱ほど電車に揺られて着いた町に、父の現在住む場所はあった。 時刻は陽が沈み切り夜更けた頃。この時間なら帰ってきているはず、と母は言う。 ここに来るまでの行程で、青海は家から離れた後に父がどうしていたかをある程度聞いた。 新しい仕事に就いたこと。深紗子の申し出を頑なに断り続けていたこと。 離婚というひとつの結論に至るまでの、二人の経緯を隠さずに。 「間違ってたとは思ってないけど、最善の選択肢ってものがあるのだとしたら……賢くはなかったわね」 そう言って笑う母の姿は、いつも通り、親たる強さと優しさを備えていて。 青海は顔には出さず安心する。それでこそお母さんだ、と。 階段を上ると、金属音が響く。 かん、かん、かん。静かな夜だから余計に。 気づきはしないだろうか、なんて心配してしまうが、まさか足音だけでわかるわけもない。 すぐに、辿り着いてしまった。古びた茶色のドアの前。 「………………あー」 インターホンですらない呼び鈴のボタンを押してしまえば、その時点で戻れなくなる。 決意をしてやってきたものの、やっぱり緊張はしてしまう。 指を近づけては引っ込め、近づけては引っ込めを繰り返して。 「いざ、ってなると、……うん。怖いもんだね」 「……そうね。でも青海、私を唆したのはあなたよ?」 「わかってる。ちょっと尻込みしちゃってるだけ」 一度俯き、よし、と呟いて。 面を上げた彼女に、もう迷いはなかった。 気の抜けるぴんぽーん、という音。ドア越しに聞こえる呼応の声。 家族を隔てる扉が、開かれる。 「…………………………青、海?」 懐かしい父の顔は、悲しいほどに歪んでいた。 思わずドアを閉めかけ、すぐ後ろに立つ深紗子に気づく。 それでどうにか門前払いは免れたらしく、ゆっくりと、どこか弱々しい背中が部屋の奥へと消えていった。 入ってこい、ということらしい。 家具はほとんどなかった。 男の一人暮らしはこういうものなのかもなぁ、と場に似合わないことを思いつつ、卓袱台を囲んで座る。 全員が話の切り出し方に悩んだが、気まずい沈黙を破ったのは深紗子だった。 鞄から、折り畳んだ紙を取り出す。 言うまでもなく、離婚届だ。 もともと協議離婚の予定だったので離婚届以外のものは必要ない。 お互いの両親も一応は納得済みで、その証拠に、保証人の欄には青海の祖父二人の名が書かれている。 空欄なのは、妻側の届出人の欄ただ一箇所。 「あなた」 「深紗子…………」 深紗子は紙を持ち、広げる。 父が少し慌てた様子でペンを取り出し卓袱台の上に置いたのも気にせず、 ―――― 鮮やかな音と共に、離婚届は真っ二つに破かれた。 そのまま縦、横、縦、横と何度も裂き、紙吹雪にしてからばら撒く。 呆然とした父の表情が印象的だった。 「……この歳になっても、教えられることはあるの。私は、あなたを今でも愛しているから。だから、別れたくない」 「な…………………………」 「お父さん」 そして、次は青海の番。 二の句が告げない父の前まで行き、目を閉じて深呼吸。 心の準備はできた。右手を上げ、軽く握っていた手を開き、 ぱぁん! 思いっきり、頬に平手を入れた。 突然の、あまりの痛みに叩かれた場所を押さえた父を正面から見つめて。 「ごめんなさい」 頭を、下げた。 あの日、辛い思いをしてたのに、酷いことを言ってごめんなさい、と。 それで過去がなくなるわけではないけれど、未来の可能性が消えるわけでもない。 「青海、お前、」 「まだ。お父さん、まだだよ。私にはまだ言うことがあるんだから」 もう一度息を吸う。俯き、ぱん、と両の頬を叩いた。 さっきよりも身構える父の姿に心中で苦笑しながら、今度こそ本当に大切なことを伝えるために。 「―――― ありがとう、お父さん」 今度こそ、彼は完全に絶句した。 青海の言葉を理解できずに、何かを口にしようとして、ようやく訊けた問いは、泣きそうな声をしていた。 「……どうしてだ? どうして、謝れるんだ? どうして、感謝できるんだ?」 「だって―――― 」 続く答えは決まっている。 それは、当たり前のことだ。訊ねられるまでもないこと。 ―――― だって、好きだから。家族だから。また一緒に、暮らしたいから。 きっと最初は、誰だって何もできないけど。 少しずつ、強くなっていくんだろう。 それは、拙くても、苦しくても、難しくても、蓮華が気持ちを言葉にできたように。 迷いながらも、戸惑いながらも、青海が答えを見つけられたように。 交わした約束は、また二人を結びつける。 そして再び出会った彼らは、笑顔でいられる。何よりも、確かなこと。 back|index |